真・恋姫†無双 劉ヨウ伝
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第133話 桃香の再就職 前編
正宗一行は潁陰県まで七十里位の地点を行軍していた。彼らの陣容は歩兵の割合が多かったため歩みが騎馬兵に比べ遅く、正宗と冥琳を苛立たせる結果となった。その苛立ちを二人は表におくびにも出すことはなかったが、しきりに兵達が進んできた方向に目線を送っていた。
「正宗様。それに冥琳さん。さっきから後ろばかり気になっているようですけど、何かありますの?」
麗羽以下、他の部将が気になっているであろうことを麗羽が二人に聞いた。二人は彼女に声をかけられると一瞬肩を堅くして間を置き彼女の方を向いた。
「麗羽、何もない」
「麗羽殿、何もありません」
二人は揃えたように同じことを喋った。麗羽は二人を訝しむように凝視する。その視線を受け平静を装う二人。
「もしかして。昨日、賊に襲撃された村を守備していた部将に関係ありますの?」
正宗と冥琳は表情を変えず平静を装うとしたが、正宗は若干表情に動揺の色が浮かんでいた。それを麗羽は見逃していなかった。
「図星の様ですわね。何か変と思ってましたの。昨夜の村までの道程では定期的に休止を取っていましたのに。今日は未だ一度も休止無しの行軍。流石に兵士も疲労を隠せませんわ。こんなところを賊に急襲されては不味いのでなくて」
麗羽は憮然とした表情で正宗を見た。彼女は正宗と冥琳だけで秘密を共有して、自分だけ仲間はずれにされたに立腹した様子だ。冥琳はばつの悪そうな表情で正宗の方を見た。
「隠そうと思ったわけでない。潁陰県の県境に入れば麗羽にも説明するつもりでいた」
「そうなんですの?」
麗羽はジト目で正宗を見ていた。正宗は麗羽の視線に気まずくなるのを紛らわすように喋り出した。
「兵達には悪いと思っている。潁陰県の県境に入れば兵達に十分な休みを取らせる。賊の急襲があれば、この私が蹴散らす。麗羽、ここは黙って私に従ってくれないか」
麗羽は必死に弁解する正宗を見て嘆息した。
「わかりましたわ。休みを取る時には今回のことのあらましを教えてください」
彼女は穏やかな表情で正宗に言った。麗羽とのわだかまりを解消したのも束の間、来た道程の後方から声が聞こえた。遠方から叫んでいるのか声の内容が聞き取り難い。
「あの声は何かしら?」
麗羽は遠くを見るが、正宗と冥琳は素早く行動に移った。冥琳は表情を険しくして軍の後方に向った。彼女は兵士達に行軍速度を上げるように檄を飛ばしていた。
「麗羽、話はこれで終いだ。詳しい話は潁陰県に入ってからだ!」
「わかりましたわ」
麗羽は戸惑いつつも正宗の剣幕に押され言われるがままに返事をした。正宗は後方から聞こえる声を無視して進軍速度を下げることはない。次第に後方から聞こえる声は段々大きくなってきた。それに伴い冥琳や麗羽も背後を気にしだした。
「正宗様、強行軍の件はわかりましたわ。でも、後ろの方で叫んでいる人は誰ですの? 私達に用が有って追いかけているのではなくて」
麗羽は正宗に声をかけつつ、声の聞こえる後方を目視しようと目を細めて凝視していた。
「こちらに馬に乗って二人の方が向って来ていますわ。正宗様、あの人達は誰なんですの?」
麗羽は馬の足を止め、向ってくる人物を見ていた。正宗は一瞬逡巡するが口を開く。
「多分、桃香だ。昨夜、村を守備していた部将は桃香の配下だ」
正宗は後方を気にしながら麗羽に答えた。
「桃香……さん。ええと。確か幽州でお会いしたことがありましたわね」
麗羽は眉根を寄せ記憶を思い出しているようだった。
「正宗様。麗羽様。悠長に話をしている時ではありませんよ。このままだと追いつかれます。正宗様、追いかけてくる二人の内一人は劉備で間違いございません」
冥琳は正宗に追いかけてくる者達のことを告げた。彼女は正宗と麗羽の会話を盗み聞いたのか既に桃香のことを隠す気配はない。
「日の出前の早朝に出立したはずだが、こうも早く桃香に追いつかれるとはな。あの桃香がこれだけ迅速に動くとは面倒事の臭いがする。麗羽、急ぐぞ」
麗羽は正宗と冥琳の剣幕に困惑気味な様子だったが、二人の様子に何かあると考えたのか二人に促されるまま馬を走らせはじめた。
「あ——————! やっぱり、正宗さんだ! どうして無視するんです!」
正宗にとって聞き覚えのある女の声が彼の背後からはっきりと聞こえた。正宗も声の主の正体に気づいていたようで柳眉をしかめた。冥琳も同じような表情をした。麗羽は騎乗し、こちらに向ってくる二人の内の一人を凝視して思案顔だった。
「正宗様は桃香さんと浅からぬ因縁があるのかもしれませんが、ここまできたら会うしかないのではなくて」
麗羽は正宗の表情を窺うように見つめた。彼女は桃香から実害を被っていないため、桃香に悪意を抱いていないのだかた当然の反応といえた。正宗と冥琳は渋面を麗羽に返す。
「桃香と関わるべきでない。私と冥琳が強行軍を行なった理由の原因は『桃香』にある」
「わかっていますわ。でも、追いかけてくる彼女をどうしますの? このまま走っていてもいずれ追いつきますわ」
麗羽は正宗に対し現実的な意見を返し後方に視線を流した。麗羽の言う通り、このままでは正宗達はいずれ桃香達に追いつかれる。歩兵を引き連れる正宗達では馬で追いかけてくる劉備達を撒くことはできない。正宗は悩む表情になった。
「私がここに残ります。正宗達と騎兵のみ潁陰県へお急ぎください。私は歩兵を引き連れ正宗様達に遅れ潁陰県に向います」
冥琳が正宗と麗羽の会話に入ってきた。
「桃香を追い払えるのか? 多分、今の桃香はしつこいぞ。私達を追いかけてきたのは旧交を温めるためではあるまい。打算によるものだろう」
正宗は冥琳の献策に難色を示した。冥琳は表情を変えず口を開いた。
「劉備の目的は正宗様のご推察通りでしょう。ですが、この軍の長であられる正宗様が不在では劉備の要件など無視できます」
「冥琳、お前は桃香を甘く見ている。要求を通すために自ら壁となり道を塞ぐのは目に見えている。桃香を殺しでもしない限り無理だぞ」
「斬ってしまえば面倒が無くていいですね」
冥琳は表情を変えず言った。
「流石に名分もなく県令を斬るのは不味いだろ。あれでも民からは人気があるようだからな」
正宗は冥琳の態度に引き気味の表情で言った。冥琳は正宗の言葉に溜息を吐いた。
「わかっております。この方法は最良とはいえませんが最悪でもありません。最悪、正宗様達だけで荊州へ向ってください。私は荀家にて正宗様が来られるのを待ちます。麗羽殿には申し訳ありませんが桂花も私と一緒に残っていただきます」
「散々な言われ様ですわね。お二人にそこまで言われるということは桃香さんはさぞ面倒な方なのでしょうね」
麗羽は正宗と冥琳の会話を側で聞き、苦笑いで二人に言った。麗羽の態度に正宗は深い溜息をつく。
「どうされます。劉備はもうそこです。今直ぐご決断を!」
冥琳は正宗を真剣な顔で見つめ返答を求めた。
正宗は一瞬黙考し何か思いついた様に薄い笑みを浮かべた。その表情から、この状況を上手く打開する悪知恵を思いついたように見えた。正宗の表情の変化を冥琳は彼の横顔を見て気づいた。
「逃げるのは終わりだ。桃香会う」
「よろしいので? よろしければお考えをお聞かせ願えませんか」
冥琳は確認するように正宗の表情を窺った。彼女は正宗が何か策を思いついたと考え、内容次第では正宗の策に乗ることしたのだろう。
「桃香の目的は検討がついている。なら、奴等の要求は聞いてやる。ただし条件つきでだ。それに桃香に部将を貸すつもりはない。臨穎県の主だった賊を討伐してしまえばいい。一県に巣食う賊程度なら私の兵が分担して討伐にあたれば半月程度で終わるだろう。残りは劉備の部下でも相手がつとまるだろう」
「劉備の部下というと士君義ですか?」
冥琳が指摘すると正宗は頷いた。
「劉備の部下が士君義だけとは限らないが、あの女なら小勢の賊相手なら遅れることはないだろう」
正宗の言葉に冥琳は頷いた。麗羽も士仁の戦いぶりを見ていたので正宗の意見に納得している様子だった。
「正宗様、それで条件とはなんですの?」
麗羽は正宗に質問してきた。
「桃香と一緒に旅をしていた愛紗が彼女の元を出奔したらしい。桃香に愛紗を私の部将として寄越せと言うのだ。正確には私が愛紗と士官の交渉することに納得しろと言うつもりだ」
正宗の話を聞き冥琳は悪人面の暗い笑みを浮かべた。麗羽はよくわからないという表情を返す。
「その方の名前は『真名』ですわよね。名前は何といいますの?」
「愛紗は関雲長のことだ。愛紗は文武に秀でた一騎当千の部将だ。愛紗を家臣に引き込めるなら賊討伐など安いものだ」
正宗は笑みを浮かべて話す。麗羽は愛紗の人物像を正宗から説明され、桃香の置かれている状況を察したのか複雑な表情に変化した。
「関雲長さんは桃香さんの所を出奔したんですのよね? そんな方をどうやって士官させますの」
「麗羽、その通りだ。だが桃香にこれを認めさせることは大きな意味がある。今までは、愛紗は桃香の陪臣のような状態で、彼女自身生真面目な気性も相まって、私の士官の話を飲ませるのは難しかっただろう」
「関羽は自ら劉備の元を出奔し、劉備に正宗様の条件を飲ませれば、後は彼女を見つけ次第士官の交渉ができ上手くいけば家臣にできる」
冥琳は正宗の言葉を継ぐ様に言った。正宗は冥琳の言葉に頷く。
「交渉が上手くいくとは限らないが愛紗も私の士官の話をぞんざいにはしないと思うぞ。以前会った時の愛紗は私に少なからず憧れているようだったからな。念のために言っておくが、これはうぬぼれではないぞ」
正宗の言葉に冥琳と麗羽は冷たい視線を一瞬送った。正宗は二人の視線に自らの視線を逸らした。
「劉備と関羽は正宗様に大恩があります。本来なら彼女達は死罪もあり得ました。それを正宗様が無罪放免にしたのです。関羽の生真面目な気性からして、劉備と違い正宗様への大恩に報いたい気持ちはあるはずです。彼女なら交渉次第で最終的に士官させることは可能だと思います」
冥琳は自信ありげに正宗を見た。麗羽は冥琳の言葉に要領を得ない様子だった。
「正宗様の言い分は置いといて。冥琳さんは関雲長さんが生真面目とどうしていいきれますの? 懇意にしていた訳ではないのでしょう」
「麗羽殿、関羽との交流は仰る通り少ないです。劉備に中山国安熹県の県尉の官職を斡旋した折り、彼女と配下の者達は私の配下に命じて定期的に様子を見させていました。その報告によれば関羽は勤勉実直な性格で融通の効かない性格ではありますが、侠気に厚い人物であるとありました。この手の人物は恩義を無碍にできないものです」
冥琳は麗羽に真剣な表情で答えた。
「でも、関雲長さんは桃香さんへの情があるんじゃありませんの? 長い間苦楽を共にしたんでしょ。冥琳さんの仰る通りの人物像なら余計に桃香さんに情があるように思うのだけど」
麗羽は自分の考えを整理するように中空を眺めながらゆっくり喋った。
「その可能性はありますね。しかし、関羽が劉備の元を自ら去ったことは大きいことだと思います。余程のことがあったことは確かです」
「人の弱みにつけ込むなんて気が進みませんね」
麗羽は困った表情を冥琳に返すと彼女は正宗の方を向いた。
「気が進まないだろうが辛抱してもらうぞ。頼んでくるのは桃香なのだからな。桃香は仮にも県令であり、自らの裁量で賊討伐を行い県の治安を維持しなければならない立場だ。自らの失態で家臣を出奔させ、その支援を私に求めるなど筋違いだ。役人が全くの部外者である私に支援を求める以上、相手に対価を差し出すのは当然のことだろう。それに愛紗を有無を言わさず攫うわけではない。賊討伐の対価が『愛紗への士官の交渉権』のみとは安過ぎるだろ」
正宗は前方を向き憮然な表情をする。
「正宗様、対価には金銭も追加すべきと思います。あまりに安過ぎては足下を見られかねません」
冥琳は正宗の策を補足する考えを提案した。すると正宗は冥琳を見て肯定の頷きを返した。
「冥琳、対価については一任する。頼まれてくれるか?」
「正宗様、おまかせください」
冥琳は拱手をして正宗の命令を受けた。麗羽は二人の様子を黙って見ていたが、二人の会話が終わると口を開く。
「正宗様、桃香さんと会う時は先程の様な憮然な表情はしないようにしてくださいね。仮にも白蓮さんのお知り合いでしょう」
「白蓮は桃香に散々煮え湯を飲まされたと思うぞ」
正宗は麗羽に嘆くように言った。
「正宗様、そう構えることはないのでなくて。まだ桃香さんが頼み事をしにくると決まった訳ではありませんのよ」
「確かにそうかもな。しかし、こうも必死に追いかけてくると普通何かあると思わないか?」
「それは」
麗羽は正宗の言葉に口を噤んだ。
「麗羽、お前を責めているのではない。ここは私と冥琳に任せてくれ。桃香との付き合いは私達の方が長い。あれから長く会っていないが、少しは成長していることを願うよ」
「私は幽州で桃香さんとは一度お会いした限りですけど、そんなに酷い方には見えませんでしたわ。少々、夢想家の気があるような感じはしましたわね。でも、正宗様と冥琳さんは桃香さんのことをよく見知っていますのよね。困りましたわね」
麗羽は顔を傾け可愛らしい仕草を正宗に返した。正宗は麗羽の態度に少し困った表情をするが馬足を止めることはなかった。
「麗羽様、細かい話は置いといて、劉備なる者の話を聞いてから考えてもよろしいのでないでしょうか?」
桂花は正宗と冥琳をフォローするように麗羽に言った。間髪を入れず、桃香が正宗達に追いついた。桃香は正宗の側に来るなり、頬を膨らませ不満げな表情で正宗を睨んでいた。その睨みはまるっきり迫力が掛けいたので正宗が動じることはなかった。
「正宗さん、酷いじゃないですか!」
桃香は開口一番に正宗を非難した。彼女に少し遅れ太めで体の大きい女が追いついてきた。正宗はとりあえず、その女のことを無視し桃香に視線を戻した。
「桃香、久しぶりだな。悪いが私は先を急いでいる。失礼するぞ」
「ちょっと、待って!」
正宗が馬足を早めようとすると桃香は慌てて正宗を止めた。
「酷いじゃないですか!」
桃香は正宗に対して抗議の視線を送った。彼女の様子は若干焦っている様子に見えた。
「何がだ? 桃香、私は荊州に行かねばならないんだ。お前とのんびり話をしている暇はない」
正宗は麗羽に注意されたことを少し気にしてか、言葉と裏腹に表情は桃香への悪感情を現すことなく平静を保っていた。
「普通は『久しぶりだから、ご飯でも食べながら話でもしようか』とか言いませんか?」
「言うわけないだろ。お前と私の仲は良くないだろ」
正宗は桃香の押しに引いた表情になった。
「酷いな〜。私は親友だと思っていたのに〜!」
桃香は頬を膨らませ正宗を睨む。その睨みは相変わらず迫力は無かった。この人畜無害の雰囲気に人は騙されるのだなと思う正宗だった。
「要件は何だ? 私と飯を食うためにここまで追いかけてはこないだろ」
正宗は桃香に本題を切り出した。彼はここで延々と無駄な言葉遊びをしても時間の無駄と考えたのだろう。
「ええと」
桃香は正宗の言葉に視線を泳がせ挙動不審な態度を取った。正宗、冥琳、そして麗羽も桃香の雰囲気から彼女が正宗達と旧交を温めるために追いかけてきたのでないと確信に変わった。
麗羽は困った様な表情で桃香を見ていた。彼女は正宗と冥琳が桃香にこれから彼女に要求する内容を理解しているだけに彼女へ少しばかり同情したのだろう。二人の話では桃香の配下である愛紗は有能な部下という話だ。幾ら出奔したとはいえ愛紗が桃香の元に帰参する芽を摘むことは桃香にとって大きな損失になることは目に見えて分かる。
「『ええと』ではわからないだろう」
「はは。あの〜。え〜と」
桃香は罰が悪そうに頬をかきながら正宗から視線を逸らし周囲に視線を泳がせ麗羽で視線を止めた。桃香は瞳を潤ませ救いを求めるように麗羽を凝視した。麗羽は桃香の態度にほだされたのか桃香を援護射撃するように口を開く。
「正宗様、話を聞いてあげてはどうですの? 聞くだけなら、そう時間は取りませんわ」
麗羽は正宗が最初から桃香の頼みを聞く腹づもりを知っていた。これ以上桃香をいじめるような真似をさせたくなかったのだろう。しかし、正宗と冥琳は麗羽のこの行為に渋面になる。二人は桃香の頼みを聞くつもりであったが、できれば桃香と関わり合いたくなかったのだろう。三者の温度差がここに現れた。
「そうだ! そうだ! 正宗さん、ひどいじゃないですか」
桃香は涙を拭きつつ麗羽の側に周り、虎の威を借る狐のように正宗を非難した。正宗は憎たらしい者を見る様な表情で桃香を睨みつけた。桃香は正宗の表情を見て、麗羽の背中に隠れるように移動した。
「麗羽、わかった。調度いい。ここで休憩をとろう。冥琳、差配を頼めるか」
「畏まりました」
正宗は冥琳に言った。冥琳は渋い表情を桃香に向けるが黙って休憩の準備をはじめだした。
「ところでお前は誰だ?」
正宗は桃香と共に現れた女に視線を移し声をかけた。
「劉将軍、お初にお目にかかります。私は糜子仲、真名は環菜と申します」
環菜は正宗を前にして緊張しているのか挙動不信だった。
「環菜、私は劉正礼だ」
正宗は環菜の名が糜子仲だと聞き驚いた表情を返す。糜子仲は史実では劉備とともに放浪の旅を続け最後まで蜀に仕えた忠臣だ。
冥琳が休憩の準備を整えると正宗達と桃香と環菜は正宗の天幕に入っていった。天幕の奥に正宗用の立派な椅子があり、その両隣にそれより少し小さい椅子が配置されていた。その椅子三脚を中心に放射状に椅子が配置され、正宗の正面方向に二つの椅子が位置をずらして置かれていた。
正宗が中央の椅子に腰掛け、正宗の両隣の左右の椅子に麗羽と冥琳が順に座っていた。残りの者達は思い思いに腰掛けた。正宗は立ったままの桃香と環菜を見て座るように促す。二人は促されると思い思いに椅子に腰を掛けた。
「私に何の用だ」
正宗は桃香と環菜が腰掛けることを確認すると、開口一番に桃香に言った。
「正宗様」
麗羽が正宗を困った人を見るような表情で見ていた。彼女の表情からは「大人の態度」で接してくださいと言っているように読み取れた。正宗は一瞬考えた後、気を取り直し桃香に視線を戻した。
「桃香、久方ぶりだな。月華(盧植)先生はご健勝か?」
「月華先生は幽州に帰ったはずだと思うんだけど」
桃香は正宗のことを不思議そうに見ていた。
「どういうことだ?」
「正宗さん、知らないの? 先生は病気になったんだけど、洛陽より故郷である幽州で療養したいからって帰郷したの。正宗さんのことだからてっきり知っていると思っていた」
「初耳だぞ。冥琳知っていたか?」
「いいえ。私も初めて知りました」
「一度、お見舞いしたいですわね」
月華の現状に正宗と冥琳は困惑し、麗羽は月華の身を案じていた。
「それはいつのことだ」
「んぅ〜。半年位前かな」
桃香は唸りながら記憶を手繰って答えた。
「随分前だな。桃香、教え子のお前が月華先生を一人で幽州に送ったのか。なんて薄情な奴なんだ」
正宗は憮然とした表情を桃香に向けた。
「仕方ないじゃない! 先生がどうしても幽州には一人で帰りたいって言うし。私だって出来れば先生に付いて行きたかったんだから」
桃香は正宗の言葉に怒るが次第に不貞腐れたように話だした。
「月華先生が幽州に帰った後、県令の任官を受けたのか? 誰に推挙してもらった」
「先生だよ。『あなたは世のために頑張りなさい』って言われちゃって」
桃香は嬉しそうな笑みを浮かべ答えた。
「県令になるまで、お前は何をしていたんだ」
「先生のお手伝いだよ。正宗さん。私ね。お料理が得意になったんだよ。先生も愛紗ちゃんもいつも美味しいって言ってくれたんだ」
桃香は満面の笑みを正宗に返した。
「私の元を去ってから月華先生の元でずっと居候をしていたわけか?」
「あはははは。そうなっちゃうかな。でも、あの時に私についてきた兵隊さん達は今でも頑張ってくれてるんだよ」
桃香は苦笑いをしつつ、正宗に対して弁解した。正宗は桃香を冀州追放した折りに同行した兵達が未だ彼女の元にいることに驚いていた。
「私のことはどうして知ったんだ?」
「ああ。翠寧ちゃんが教えてくれたんだ。危ないところを正宗さんに助けてもらって凄く感謝してた。せっかくだから正宗さんに会いたいなと思って追いかけてきたの。あっ! お礼がまだだったね。正宗さん、ありがとうございました」
桃香は無邪気な笑みを浮かべ話していたが、士仁を正宗が救ったことを思い出し急に立ち上がると頭をペコっと下げ正宗に礼を言った。正宗と冥琳は無表情で桃香の様子を見ていた。
「正宗さん、そんな顔で見ないでよ。怖いな」
桃香は正宗と冥琳の反応に少し動揺した表情をするが、場の雰囲気を和ませようと明るい表情で正宗に言った。
「正宗様。桃香さんが怖がっているじゃありませんの。お二人の間に何があったか存じませんが、そんなに突き放したような態度をとることないじゃありませんの。桃香さん、ごめんなさいね。正宗様、昨日から虫の居所が悪いみたいなの」
「そうなんですか?」
桃香は麗羽の割り込みに笑顔を返す。対して、麗羽は正宗の態度に呆れたような表情を向けた。
「桃香、旧交を交わすことができて嬉しかった。私達は荊州に急いで向わなければならない。これで失礼させてもらう。冥琳、休憩は終わりだ。片付けが済み次第、予定通り潁陰県に向うぞ」
正宗は桃香に作り笑いをして話を終わらせた。その表情は何かに解放されたような晴れ晴れとしたものだった。
「正宗様、畏まりました。劉県令、この度は会えて嬉しかったです。進軍の準備がありますので失礼ながら先に退席させていただきます」
冥琳はそそくさと席を退席すると天幕を出て行った。正宗は椅子から腰を上げようとすると。
「正宗さん! ちょっと待った——————!」
桃香はいきなり天幕内に響く声を張り上げる。その声に天幕内の者達は皆驚く。
「いきなりなんだ?」
正宗も桃香の突然の行動に驚いている様子だ。
「正宗さんにお願いがあってきました」
桃香の言葉を聞き、正宗は黙って椅子に腰をかけ直す。
「衛兵!」
正宗が天幕の近くに立つ衛兵に声をかけると、天幕内に衛兵が入ってきた。
「劉将軍、ご用でしょうか?」
「周大守に伝言を頼めるか? 進軍の準備は一旦取り止め、天幕に戻るように伝えて欲しい」
「畏まりました」
衛兵は拱手して天幕を去って行った。
「冥琳が戻るまで時間があるが、先に話を進めよう。桃香、とりあえず願いを言ってみろ。話だけは聞いてやる」
「翠寧ちゃんから聞いたと思うんだけど、この臨穎県は山賊や盗賊が多いの」
「賊等皆殺しにすればいいだけだろ。真逆、未だに青臭いことを言っていないだろうな」
正宗は言葉の最後で桃香に厳しい視線を送った。
「生まれながらの悪人なんていない。話し合えばきっと分かってくれると思うの」
「じゃあ、私に相談せず、賊共と話あえばいいだろう。お前の持論なら話し合えば賊は悪さをしないはずだ」
桃香は正宗の言葉に沈黙した。その様子から正宗は、桃香が理想と現実の矛盾に気づきはじめたこと、そして未だに青臭い理想論を捨てきれずにいることを察することができた。
「少しは現実を見たようだな。話あっても言葉が通じない相手は必ずいる。その時、自らの正義を示すには相手を力で屈服させるしかない。賊ならば殺す以外にない。暴力を振るう者に言葉等通じるわけはないだろ」
正宗は桃香の顔を見ながら淡々と言った。
「それって悲しい」
桃香は悲しそうな表情を浮かべ正宗を見つめた。正宗は桃香の言葉に一瞬表情が曇るが直ぐに元通りになった。
「悲しかろうと賊を斬らねば自らの正義を貫けない。なら、私は迷わず斬る。お前も掲げる正義があるからこそ、賊と話し合いで解決しようとするのだろう。それが実現できないなら、お前の正義は正義であって正義ではない」
「そうかもしれない。でも、そう思いたいの」
「実現できない正義など正義ではない。只の妄想だ。それに巻き込まれ死ぬ者達の身になれ。お前が自分の正義を貫けなければ、お前のために死んだ奴等は犬死にだ」
桃香は正宗の言葉に胸を抉られたような表情をした。
「話が逸れたな。賊が増えてどうしたのだ」
桃香は正宗の言葉に押し黙ってしまった。
「劉将軍、不肖私めが変わってお話いたします」
環菜が手を上げ正宗に言った。彼女は桃香を補佐するのが板についている様に正宗の目に移った。愛紗が出奔しても県令としての政務に支障がないのは彼女に寄るところが多いのかもしれない。
「頼む」
正宗は視線を環菜に向けた。環菜は正宗の許可を得て桃香の話を継ぎ話し始めた。
「桃香様に変わりましてご説明させていただきます。最近、臨穎県の治所がある街も盗賊の襲撃を受けるようになり、周辺の村の防備が手薄になっています」
「周辺の村を私達に防備しろというのか? それは無理な話だな。お前は私を冀州牧であると承知しているのか? この地に延々と在地できるわけがないであろう」
「劉将軍、滅相もございません。臨穎県の賊の規模が大きくなりほとほと手を焼いているのです。劉将軍には主だった規模の大きい賊の討伐をお頼みしたいのです」
環菜の正宗への返答は正宗の読み通りだった。賊が増えた理由は時勢に寄るものもあるが、愛紗の出奔が大きいと考えていた。仮に賊討伐のできる部将が士仁のみである場合、彼女は無能ではないが凡将の域といえる。愛紗の空いた穴を埋め賊を討伐することは無理がある。その結果、臨穎県の領内に巣食う賊が勢いを盛り返したのだろう。
「潁川の大守もしくは郡尉には賊の件を陳情したのか?」
正宗は環菜の話を黙って聞いていた。
「郡尉に陳情はしております。しかし、郡尉は一向に聞き届けてくれる気配がありません」
環菜は困った表情で正宗に答えた。正宗は目を瞑り黙考した。
「郡尉に陳情書を届けた時の郡尉の様子はどうだったのだ?」
正宗は目を瞑ったまま環菜に質問した。
「陳情書は県令である桃香様が郡尉に直接お届けしています。しかし、郡尉は『検討する』の一点張りでして」
環菜は元気無く尻窄みに言った。正宗は目を見開き環菜の顔を見て口を開く。
「それが事実であれば郡尉の職務怠慢となるが、郡尉が『検討する』と言うには事情があるのでないか? 主にお前達に問題があるとか。この潁川は潁川荀氏縁の地のため治政はなかなか行き届いていると思うのだが」
正宗は椅子の手すりに手をやり、深く腰掛け憮然とした表情で桃香と環菜を見た。
「正宗様、いくら桂花さんのご実家のある郡とはいえ、治政が行き届いている理由にはならなくてよ。ここまで来るまでにも賊と遭遇しているじゃありませんの」
「麗羽、確かにそうだが。元々、桃香達が賊の討伐に苦境に陥っている理由は賊が多いことだけが理由ではあるまい」
正宗は環菜の心の中を見抜くような鋭い視線を彼女に向けた。彼女はその視線に動揺を示した。
「桃香、愛紗はどうしたのだ?」
正宗の言葉に桃香は肩をすくめ、桃香と環菜は微妙に正宗から視線を逸らせた。
「愛紗ちゃん? あ、ああのぅ」
「隠しても無駄だ。士君義から仔細は聞き出している。書き置きを置いて行方を眩ませたのだろう」
「知っていたんだ」
桃香はバツが悪そうに指遊びをはじめた。正宗は桃香が話はじめるまで彼女を凝視していた。
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