冥王来訪
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第三部 1979年
新元素争奪戦
極東特別軍事演習 その2
前書き
今年も天長節に特別投稿いたします。
ソ連では、指導者の健康問題が政治を左右することがままあった。
建国期のレーニン、世界大戦時のスターリンもその例外ではない。
彼等は、夜明けまで起きて、昼過ぎに寝るという秘密結社時代の習慣が抜けなかった為、健康を損ねていた。
専属の医師が付いていたが、最高権力者の生活習慣病を悪化させる行為を止めることは無理だった。
その為、ゴルバチョフ以外のソ連の指導者は、心臓疾患や糖尿病、脳の病気が原因で亡くなっている。
(ゴルバチョフが卒寿を超えられたのは、彼が政権の座を5年ほどで追われたことが原因だという話もある)
特に顕著だったのが、1970年代から1980年代前半のブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコの時代である。
ブレジネフはしばしば心臓発作を起こし、最晩年はほとんどなにが起きているかわからない状態であったとされる。
アンドロポフは重度の糖尿病の為、視力の殆どを失い、歩行もままならない状態だった。
死の1年前からベッドで横たわりながら、執務するほどであった。
チェルネンコは元々病弱で、書記長に選任されたときには持病が悪化した状態だった。
アンドロポフの葬儀に参加した英国人医師によって、重度の肺気腫であると推定されるほどだった。
では一旦史実の世界から離れて、BETAの侵略を受ける異界のソ連に、再び目を転じてみよう。
ソ連指導部の間では、書記長の健康問題は最大の秘密だった。
国民の多くは知らなかったが、指導部の誰の目から見てもあと1年は持たないほどに健康を損ねていた。
実務派官僚の多くは集団指導体制を模索しており、またKGBはアンドロポフが目をかけた人物を擁立しようと動いていた。
そんな時、問題になったのが、赤軍参謀総長である。
将兵と国民に絶大な人気を誇り、友邦諸国の信任の厚い人物がいずれの派閥にも属さないことは、危険極まりない事であった。
いずれの派閥も最終的に軍事力の裏付けを欲していたので、彼を味方につけることを画策するほどだった。
だが、そうした状況を嫌った政治局のごく一部から彼の引退が検討されたが、彼ほどに軍をまとめられる人物がいなかったので、取りやめになった経緯がある。
今回の糧食事件は、参謀総長がクーデター予備軍があることをKGBに再認識させる出来事だった。
KGB内部では、騒擾事件を起こした第20親衛ロケット旅団の肩を持ったとみなし、対応策を練ることにした。
ウラジオストックに置かれた、KGB臨時本部にある会議室。
巨大な円卓が設けられ、その周囲には12ほどの各総局長が座ってた。
「拘留している第20親衛ロケット旅団の旅団長と副官を調べた結果、すでに反革命的陰謀がかなり進んでいることが判明した。
同志長官も、この事態を憂慮されている」
第三総局長を兼務する特別部部長が、古い四角い眼鏡を持ち上げた。
「現時点で、軍部にブルジョア勢力の思想的影響が及んでいるとは、由々しき事態ですな」
思想犯や組織犯罪を専門にする第五総局長が、冷たい声で答えた。
「して、長官は何と?」
国内防諜を担当する第二総局長が、尋ねてきた。
彼はこの話に関しては、中立的ともいえる立場だった。
「計画実現のためには、万難を排さねばならない!
残る参謀総長とGRUの責任者5名の処置を完璧に……ということを条件に、我らに一任された」
特別部部長は、全くの無表情で答えた。
「その6名に関しては、逮捕も拘留も必要ない。
自然かつ速やかに排除すべきだろう」
すべての発言者が言い終えた後、第一総局長は静かに資料を広げる。
そこには、本事件で逮捕すべき60名の将校の名前が記されてた。
参謀総長は、この数日来、見慣れぬ男に尾行されていることに気が付いていた。
彼の周りには、既に10年来の運転手として、働いている下士官――特別部のスパイ――が居たが気には留めなかった。
海外に出るときにもぴったりくっついて来たが、KGBからのある種の信頼として放っておかれたのだ。
参謀総長は、尾行の事に関してはさして気にはしなかったが、明らかな異変を感じることはあった。
サハリンでの演習で、双眼鏡が必要になったので外貨ショップに行き、買い物をしようと考えて、外国貿易銀行のウラジオストック支店に寄った時の事である。
手持ちのルーブルを米ドル札に両替しようとした際、行員に止められたのだ。
仕方がないので、その足で外貨ショップの白樺に行き、商品引換券を出して購入しようとした。
だがその時も、店員から商品券の引換期限が切れていると言われ、にべなく店を後にするしかなかった。
貰ったばかりの商品引換券が使えないのはおかしい。
不審に思った彼は、労働貯蓄金庫に出向き、試しに800ルーブルを引き出してみることにした。
1987年の銀行改革が始まるまで、ソ連には銀行の数は決まっていた。
国立銀行、全連邦投融資銀行、外国貿易銀行、労働貯蓄金庫の4行のみである。
労働貯蓄金庫は、一般国民の国内唯一の貯蓄機関として、各村落に存在し、日本で言うところの郵便貯金に相当する。
この銀行は、今日、ズベルバンクとして知られるロシア連邦貯蓄銀行である。
労働貯蓄金庫の窓口でも対応は一緒だった。
預金がすべて前日に引き出されており、すでに残金がない状態だった。
ソ連財務省の管轄下にある金庫から、突如として金が消えるはずがない。
男には思い当たる節があった。
これはKGBの一支局の話ではない、国家がらみの陰謀だと……
受付嬢に謝意を述べた後、男は急いで市内にある将官向けの住宅に向かった。
「イワノフです。
奴は労働貯金、外国貿易銀行、外貨ショップ、全てを確認した模様です」
ハンチングにアディダスの運動着に革靴という成金風の服装をした男が、公衆電話から電話をしていた。
通話先はKGB本部で、軍を監視する特別部の通称で知られる第三総局であった。
「これで奴の動きは止まるはずだ。
まだあがくようなら、警察(一般的には民警とも)を呼べ」
第三総局の男は、カズベックを吹かしながら続けた。
「奴はシュトラハヴィッツと懇意だった。
東ドイツのスパイという事で、即座に逮捕できる」
「奴は拳銃を持っているはずです。
即座に取り上げましょうか」
「それは民警にやらせろ。
奴は普段、拳銃を持ち歩いていないはずだ」
「これで奴は牙を抜かれた虎です」
「いずれGRUと落ち合うはずだろう。
何としても阻止をしろ!」
「了解しました!同志大佐」
参謀総長は日没後、ウラジオストク市内にある軍高官向けの住宅に向かった。
そこには、彼が唯一所有する、黒塗りの新型車、ジル-4104が置いてあるからだ。
彼が車を取りに帰ったのは、ウラジオストク市内から脱出する為だった。
だがすでに車の周囲には、懐中電灯を持った制服姿の警官が待ち構えている。
将官用の灰色の夏季勤務服姿なので、武器は携帯していない。
精々武器として使えそうなのは、手元にあるズボン用の細いバンドだけだ。
男は万事休すかと、あきらめかけていた。
突然、前方からヘッドライトが煌めく。
道路の幅は住宅街だから、一車線半ほどしかない。
小型の四駆車だった。
一昨年に出たばかりのラーダ・ニーバVAZ-2121に思われた。
この3ドア小型四駆車は、コスイギンの肝いりで作られたソ連の農業用自動車であった。
1970年に計画案が作られ、完成までに7年の歳月をかけた四駆車は、フィアット124の技術を応用し、手堅い設計で作られた。
悪路走破性が非常に優れており、西欧市場で今でも人気であり、発売から48年を経た現在でも同じモデルが作り続けられている希少な車種である。
男があっけにとらわれていると、間もなく閃光が認められた。
少し離れたところをマカロフ弾が通り抜ける。
隠れていたKGBの二人組の密偵が、マカロフ拳銃で撃ってきたのだ。
ジルを運転している人物が左の運転席の窓を開け、PSM拳銃で応射する。
ポン、ポンと調子を付けて撃つと、胴体に当たり、崩れ落ちる。
「乗って」
参謀総長を迎えに来た人物は、彼の個人秘書を務めるGRU工作員だった。
助手席に乗り込んだ参謀総長は、運転手の女の肩を叩く。
「発進だ」
もう警察どころか、KGBまで敵に回し、収拾のつかない状態だ。
後は迷わず、チュグエフカ空軍基地に向かうだけであった。
チュグエフカはウラジオストックより300キロ先にある、人口12000人程度の寒村である。
ここには原野を切り開いたような露天の駅舎があるだけで、ウラジオストックからの夜行列車が通るだけの場所だった。
だが極東防衛用の空軍基地がおかれており、対日、対米用の重要な防衛拠点だった。
2500メートル級の滑走路があり、少し無理をすれば大型機が止まれるほどの長さだった。
参謀総長が基地を訪問した日、偶然にもミグ設計局の方で新型の戦術機を運んできた所だった。
超大型のアントノフ124が着陸したばかりで、航空要員が荷下ろしの準備を始める準備をしていた。
参謀総長の一行は、300キロの道のりを一晩で移動し、早朝にチュグエフカ基地についた。
そして抜き打ちの視察を装って、基地の正面から堂々と入ってきたのだ。
突如として来た参謀総長に、基地は蜂の巣をつついた騒ぎになった。
こういう場合は、事前に将校間で、どのタイミングで、どんな人数で来るか、内々に連絡があるからだ。
本当の抜き打ちに、基地司令は恐縮し、丁重にもてなすほどだった。
焚き火に似た独特なきつい香りのするロシア茶と、干しブドウ入りのフルーツケーキであるストリーチヌィ、バトンチキと呼ばれるクルミを砕いたウエハースの菓子が用意するほどだった。
KGBの魔の手が来るのは、時間の問題だ。
この時、参謀総長はある恐ろしい考えが頭に浮かんだ。
木原のいる日本に、新型機を土産にして亡命するという案である。
幸い、ここから近い南樺太や北海道には、大型機を止める空港がある。
参謀総長は、そう考えてから、内ポケットから白海運河を取り出す。
「同志ペトロフスカヤ」
言葉を切ると、口つきタバコに火をつけた。
「私の逃避行に、付き合ってもらって済まない。
誰も泣く人もなく、こんな戻るべき場所のない男の為に……」
男は、BETA戦争で愛息二人を失っていた。
長男はカザフのステップで、次男はヴォルゴグラードの市街地で。
遺骸はおろか、軍服の一つすら手元に帰って来ず、代わりに送られたのは肖像画だけであった。
男の妻はそのことが原因で精神を病み、真冬のバイカル湖に身を投げた。
「私には既に帰る家はここを除いてありません」
ペトロフスカヤは、参謀総長に敬礼の姿勢を取ったまま、小さな声で囁いた。
参謀総長は、改まった口調で返す。
「では行こう、同志ペトロフスカヤ」
後書き
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