世界はまだ僕達の名前を知らない
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決意の章
06th
怪しい宗教家
詰まる所、記憶喪失なのであった。
「……………………」
名前も何も思い出せない。自分の顔だって判らないし、性別だって知れない。知り合いだって居たかどうか定かではないし、何なら自分が人間であるという確証すら無い。
男(ズボンの中を確認して、辛うじて性別だけは得た)は小脇にトイレを抱え、広い往来のど真ん中に立っている。
「……………………」
一体全体どういう状況なのだ。
トイレ男は人々から遠巻きにされながら、暫し考え込んだ。
「……………………」
答えは出なかったので、まぁいいやとなった。
「……………………」
何もする事が無いトイレ男は手の中のトイレを眺めてみる。
それはそれはもう本当に綺麗なト(以下略)。特に便座部分に走る五筋の罅が美しい。しかし、それはよくよく見ないとそうとは思えず、傍目に見れば唯割れてるだけにしか見えないのであった。
「……………………」
というか今にも欠け落ちそうな部分が幾つか有った。
それは戴けない。罅が美しいのは勿論だが、欠け落ちてしまえば最早その限りではないのだ。全体のバランスが崩れ、これは最早只の壊れ掛けのトイレとなってしまうだろう。嫌だった。許せなかった。ここは、美しさを少し犠牲にしてでも、残りの美しさを守るべきだ。
そう結論付けたトイレ男の行動は決まった。『トイレの修復』、その為に彼は動こう。
しかし、陶器の修復なんてどうすればいいのだろうか? 彼の中に残った微かな常識の中に、そんな事は載っていないのであった。
「……………………」
その辺の人なら知っているだろうか?
という訳でその辺の人に質問してみよう。
「……………………」
という訳でトイレを見せながら、近くを歩いていた青年に近付く。
「……ヒッ!?」
青年はトイレ男に気付くと、失礼にもおぞましい物でも見てしまったかの様な声を漏らし、
「けけ結構です!!!!」
と走り去った。
「……………………」
質問の内容的に『結構です』という返答は可怪しいのだが……。
トイレ男は気を取り直して次は中年ぐらいのおじさんに近寄る。
「……………………」
「……んっ? 何だお前」
どうやら彼は先程の青年よりかは話を聴いてくれる様だった。
手に持ったトイレを主張する様に上下に揺らす。
「…………? 口で言ってくれ」
「……………………」
「…………あー、解った、トイレの売り込みだな? お宅のトイレそろそろ買い替え時じゃないですかって。残念ながらウチのトイレはつい最近買い替えたばっかなんだ。他を当たれ」
「……………………」
中年も去ってしまった。
「……………………」
もしや、誰も知らないのだろうか? そしてその事を知られたくがないが為に、バレる前に去っているのだろうか? まだ二人からにしか振られていないのにもうそんな事を考えたくなってきた。
「……………………」
しかし諦める訳にはいかない。次々と見境無く人々に押し掛けてゆく。
そして⸺
「貴様かッ、トイレを信仰する怪しい宗教に人々を誘っているというのはッ」
衛兵を呼ばれた。
◊◊◊
トイレ男は無実を主張した。
しかし甲斐無く連行されてしまうのであった。
「名前、年齢、住所、職業は?」
「……………………(首を横に振る)」
「ハッキリ言え!」
「……………………(首を横に振る)」
「喋れんのか?」
「……………………?(首を傾げる)」
「あぁもうッ!」
道中、一番前に居た衛兵にあれこれ質問されたトイレ男であったが、どれも上手く答える事ができなかった。
「これだから宗教家はッ」
どうやら宗教が嫌いらしい。トイレ男には関係の無い事だった。
トイレを抱えた一人の青年を複数の衛兵が周りを固めて行進する様はなかなかに異様であった。
「喋らんのも貴様の怪しい宗教の怪しい教義か?」
「……………………(首を横に振る)」
「なら何故喋らん。喋れんのか?」
「……………………?(首を傾げる)」
「……………………、ふぅー……」
前衛兵は一瞬悪鬼の如き形相を浮かべたが、爆ぜる前に冷静になる事を思い出せたのか、そう深く息を吐いた。
「……もういい、話は詰所で聴こう…………」
そしてややげんなりした様子でそう言うのであった。
一行は道を進む。丁度人の流れに逆走する様な向きなので、道の中央を歩く彼らを人々は左右に避けていった。
「……………………」
前衛兵からの言葉が無くなり、トイレ男が暇を感じ始めた頃。
「おっ、マエンダ氏じゃないか!」
「むっ、リーフィア氏か」
そう彼ら……正確には前衛兵に話し掛ける者が現れた。
「今は何をしているんだ?」
「怪しい宗教家を見付けたので詰所まで連行する所だ」
「むっ、宗教家か。それは……」
話し掛けてきたのは大柄な女だった。
とても巨大で、筋肉の大きく盛り上がった女だった。特に肩や腕の筋量は凄まじい。服で見えてはいないが、腹筋も割れているのだろう。六つか、或いは八つか一〇か有るかも知れない、そう思わせる女だった。
声が低めで、口調も前衛兵と似ているので、偶にどちらが話しているのか判らなくなるトイレ男であった。
「……若しかしたら、こないだの壷売りと関係が有るかも知れないな?」
「壷売りか……そう言えば、アレも確かに宗教絡みだったな。売り手達は宗教になんて興味は無かったが。だが、トイレだぞ? 壷じゃない」
「同じ陶器だろ? 若しかしたらアイツらの残党が活動を再開したのかも知れない。アジトに寄るぐらいはしてもいいんじゃないか?」
「そうだな……」
前衛兵は空を見て、
「……暗くなる前に行くか。よし、お前ら。話は聴いてたな? これから壷売りの元アジトに寄る」
「「「「了解」」」」
「……………………?」
話を聴いていても今一よく判らなかったトイレ男は困惑した。壷売り? ホワット?
「私も着いて行こう」
「宜しく頼む」
という訳で衛兵五人+トイレ男という元々濃ゆかったメンツに更に巨女を投入した劇濃メンバーで壷売りの元アジトとやらに行く事になった。
巨女が手近な路地に入り、前衛兵達が続いたので、トイレ男も追い掛けた。
そこから数回角を曲がり、トイレ男が表通りへの出方が判らなくなった頃、巨女と衛兵達は立ち止まった。
「…………?」
そこは或る建物の前であった。
「あぁ、貴様には説明していなかったな」
前衛兵が思い出した様に言う。
「最近『壷売り』という悪党が居たんだが、それは知っているな? 衛兵からも警戒をする様に大々的に呼び掛けていたが」
「……………………(首を横に振る)」
「……知らんのか…………。まぁ、宗教に勧誘して、そうして得た信者の信仰を利用して高い商品を売り付ける悪い奴らだ。売り物は専ら壷だったので『壷売り』と呼ばれている」
「……………………」
安直過ぎないだろうか? そう思った。
「その事件は先日解決したのだが、ソイツらのアジトがここだったという訳だ」
「……………………」
漸く、先程の話が解ってきた。
詰まり、彼らはその壷売りとやらの残党が、トイレ男を騙してトイレを買わせたとでも思っているのだろう。全く勘違いも甚だしい。トイレ男は決して誰かに誘われたのではなく、自らの意思でこのトイレの使徒と(以下略)。
取り敢えず理解を示す様に頷くと、前衛兵は頷き返して、
「ここを見て何か思う事は無いか? 見憶えとか」
「……………………」
トイレ男は建物を見た。
結論のみを言うが、全く記憶に無い建物だった。
「……………………(首を横に振る)」
「むっ…………」
前衛兵は眉を顰めた。
「まぁまぁ、アジトは変えたんだろう。奴らが同じ教えを流用しているのだとしたら、内装を見て思う事が有るかも知れない」
「そうだな」
しかし巨女の言葉に納得すると、眉を戻した。
「それじゃ、開けるぞ」
巨女が建物の扉に手を掛ける。
その先には⸺
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