世界はまだ僕達の名前を知らない
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決意の章
04th
迷宮
詰まる所、記憶喪失なのであった。
「……………………」
名前も何も思い出せない。自分の顔だって判らないし、性別だって知れない。知り合いだって居たかどうか定かではないし、何なら自分が人間であるという確証すら無い。
男(ズボンの中を確認して、辛うじて性別だけは得た)は小脇にトイレを抱え、広い往来のど真ん中に立っている。
「……………………」
一体全体これはどういう状況なのだ。
男は取り敢えず通行の邪魔になっている事を察して道路の端に移動する。
「……………………」
頭の中は真っ白だ。トイレの色である。頭の中がトイレで埋め尽くされている⸺流石に嘘だ。何も思い浮かばないだけである。これからの行動、身の振り方、将来の野望と何から何まで思い付かない。記憶が無いのだから当たり前であろう。記憶があればあったのだろうか。記憶が無い今となっては判らない。
取り敢えず男は道の端で往来を眺めている事にした。小脇に持っているのも疲れるのでトイレは前に抱える。トイレを抱えて人の流れを眺める男が出来上がった。トイレ男である。「…………」、人々は彼を避ける様に通行した。自然、彼の前にはそこそこ広い無人空間が出来た。
「……………………」
トイレ男は何だか悲しくなった。悲しくなって、それでより一層トイレを強く抱き締めるから、その度に無人空間は広くなって、トイレ男は更に悲しくなった。
「……………………」
悲しく人の流れを見ていると、殆どの人が一定の方向に流れていっている事が判った。
トイレ男から見て、右から左。その向きに人々は流れている。稀に逆走する者も居るが、本当に稀で、川が流れているかの様である。
人が行くのはそこに目的が有るからだ。
多くの人が向かう場所がそうなのは、そこに多くの人が行く目的を持つからだ。
ならば、これだけの人が行く左側には何が有るのだろうか。
それが気になったトイレ男は人間観察を止め、人の流れに飛び込んだ。
わっ、と広々とした空間が出来た。
◊◊◊
「……………………」
路地裏に居た。
何故そんな事になったのかと言うと、蹴られたのである。
具体的に説明すると、小さいガキ共がトイレを持ったトイレ男の元にわらわらと集まり、
「わー! コイツ、トイレなんか持ってるー!!」
「うっわー! きったねぇー!!」
「ぎゃーっ! おぇええぇー!!」
等と騒がしく騒ぎ立て、唖然とするトイレ男が抵抗しないのを好い事に、
「おいこら何か言えよぉー!」
「そうだそーだー!!」
「おぇええぇー!!」
「お前馬鹿なのか? 馬鹿だから喋れないんだー!!」
「お前阿呆なのか? 阿呆だからトイレなんか持ってるんだー!!」
「お前間抜けなのか? 間抜けだからおぇええぇー!!」
等と通り掛かりの人々が眉を顰める様な事を言い散らし、果てには、
「汚い奴は路地裏にでも居ろよ!」
「そーだそーだ!!」
「おぇええぇー!!」
と路地裏に蹴り込まれてしまった。
「ぎゃー! 靴の上から汚ぇの触っちまったー!」「うわ! きったね近寄ってくんな!!」「嫌だね! とりゃあーーーー!!!!」「うぎゃぁぁぁぁああああ」「おぇええぇー!!」と騒がしく走り去ってゆくクソガキ共の背中を見ながら、トイレ男は思った。
あんな奴らにはもう会いたくないから、人の少ない路地裏に居よう、と。
という訳でトイレ男は路地裏を歩き回る事にした。じっとしてるのも暇だし。
路地裏は冷たかった。日が沈んできているのもあるのだろう、全体が建物の影の中に有る。詰まり暗かった。端の方にはゴミが散乱しており、成程これは汚いなと思いつつ奥へ奥へと進んでゆく。
「……………………」
三〇〇歩程歩いた所で人の気配を感じた。
「…………ひうぃっく」
その人は壁に凭れ掛かり座り込んでいた。手には酒瓶。頬を紅潮させ、ニヤニヤと虚空を見詰めている。酔っ払いのおっさんだった。「…………」、とてもお近付きになろうとなんて思えなかったのでススッと離れた。
何となぁーく、ここがそういう|場所なんだろうなと当たりが付いた。
この侭ではあのクソガキ共よりも酷い奴らに会い兼ねない。そう思ったトイレ男は路地裏から脱出し表通りに戻る事を望んだ。
が、悲しいかな。トイレ男はここまでどうやって来たか、どの角をどの方向に曲がり或いはスルーしたのかなんて殆ど憶えていないのであった。
「……………………」
空を見る。まだ青い。が、影は高い⸺建物の影が、その向かいの同じぐらいの高さの建物の三分の二ぐらいまである。既に日は沈み掛けだ。早い事ここを出ないと真っ暗になってしまう。真っ暗になれば道が見えない。脱出により手間取る事になり、その分嫌な奴に出会う確率も上がる。
トイレ男は朧気な記憶を頼りに来た道を戻った。だが、案の定行き止まりに打つかる。「…………」、どこで間違えたかなんて判りやしない。
トイレ男は少し前の自分の決断を後悔し、あの時の自分を恨みつつ手当たり次第に角を曲がっていった。
似た様な景色がずっと続いている所為で、どの方向に曲がっても既視感が有る。どの方向に進んでも違いは無い様に思えた。なので、勘で曲がる方向を決めた。記憶は頼りにならないのだ、ならば頼る物は信憑性の薄い勘しか有るまい。
「……………………」
或る時、トイレ男は人を見付けた。嫌な人である可能性を恐れ咄嗟に身を物陰に隠す⸺が、よくよく見ればその人は見憶えの有る人だった。そう、例の酔っ払いおっさんである。トイレ男はぐるぐると回って先程と同じ場所まで戻ってきたのであった。「…………」、時間を無駄にした、そういう気持ちから思わず天を仰いだ。空はまだ青いが、影は更に高くなっていた。
トイレ男は走る事にした。さっきこの男を見掛けた時とは逆方向に走る。トイレを落とさない様に抱え込みつつ、それが三つの罅を持っている事に今更気付き、それに気を取られ躓きながらも何とか転けはせずに走る。「…………」、焦りは疾うの昔から有った。
「おう、兄ちゃん。何してんだそんな急いで?」
途中、そう声を掛けられた。顔を向ける。筋骨隆々、顔に大きな傷跡が有り右目の閉じている禿げ男がそこに居た。手には何やらずっしりと重そうな物が入った袋。トイレ男は逃げた。
「あっクソっ待ちやがれ!」
待つもんか! そうトイレ男は奮起して走る速度を上げた。しかし一方で疲労が激しくなってきていた。ゼェハァと大きく息をしながら走るので大変肺が苦しい。禿げ男を撒く為に出鱈目に角を何個か曲がり、そろそろいいかなと思った所で足を止めた。壁に凭れて休憩する。
「……………………」
一向に脱出できる気配がしない。どうやら路地裏はトイレ男が想定していたよりも広かった様である。まるで迷宮の様だ。
「……………………」
トイレ男は火照った額をトイレに当てて涼を取りつつ、『どうここを抜け出すか』より『どうここで安全に過ごすか』を考え始めていた。空はとうとう赤掛かり始めており、直に暗くなる事が予想された。
段々と体温が下がり、今度は寒く感じてきた。トイレ男は薄い服を掻き集める。余り効果は感じられなかったが、まぁやらないよりはマシな気がした為そうしていた。「…………」、もう今夜はここで過ごそうか、そんな考えさえ頭を過ぎった。どうせ走り回っても出られないのだから、そうしていた方が体力を温存できる⸺そういう考えだった。
「…………ッ!」
トイレ男は頬を叩いてそんな怠惰な考えを追い出す。そして立ち上がった。こんな所に居ればいつ禿げ男みたいな奴に出会すか判ったモンじゃないし、何なら禿げ男に見付かる可能性だって有る。彼に見付かれば碌な目には遭わないだろうと記憶喪失でも判った。という訳で、今からでも危険な奴がうじゃうじゃ居る危険地帯からそこよりは安全な表通りへの脱出を目指す。寒いので走って行こう。
そんな時だった。
背中をゾクゾクさせる声が聞こえてきたのは。
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