世界はまだ僕達の名前を知らない
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決意の章
03rd
黒い女
食後、再び右衛兵と読書に臨んだトイレ男だったが、矢張り上手く集中できなかった。
「……今日はもう止めにしようか?」
「……………………(首を横に振る)」
「とは言っても全然集中できてないだろ? これ以上は無駄だよ」
「……………………」
そう諭されればトイレ男も黙るしか無い。ここで止めれば右衛兵に無駄な時間を過ごさせた事になる、それが悔しかった。
「……じゃ、どうする? 寝るって言ってもそんな気持ちじゃ寝れないだろうし…………」
「……………………」
トイレ男は返答に困った。
する事が無いのである。というか、何をしても十分にできない気がする。この無益な焦燥の所為で。
「うーん……」
右衛兵もそれを察してくれたのだろう、顎に手を添えて考え始めた。今は一体何をするのが正解なのだろう?
二人で考える事暫し。その終わりは突然だった。
ドガドガドガッ!
下の方からそんな大きな音が聞こえたのだ。
「!!」
「いや、慌てないでいい。多分棚が倒れたか……」
ドガッ! ダガガッ!! ドンガガガッ!!!!
「……………………」
「……………………」
反射的に立ち上がったトイレ男を宥めようとする右衛兵だったが、続いた音に口を閉ざした。棚を倒してもこの様な断続的な音は鳴らない。
「……………………」
「…………誰か暴れてるな。僕は様子を見てくる。君はここで待ってて」
「!!」
立ち上がった右衛兵の言葉に、トイレ男は咄嗟に拒否反応を示した。首をブンブンと振り、彼の制服を握る。
「ごめんよ、トイレの使徒くん」
右衛兵はその手を引き剥がしながら、
「僕は衛兵なんだ。街の平和を守る事が仕事だし、それを脅かすモノが現れたら対処しなければならない。今回もそうだ、衛兵の詰所で騒ぎを起こすなんて正気の沙汰じゃない。衛兵として、今直ぐ対応に向かわないといけないんだ」
「……………………」
【■下■の■■階にも衛兵■は居ました◾︎◾︎よね◾︎?】
手が震えて上手く字が書けない。例の焦燥はこれ以上無い程に高まっていて、それがこの震えの原因だろうという事は簡単に予測が付いた。
「……どうやら足りてないらしいからね」
今も音は断続的に響いていた。
「君はここで大人しく待っていてくれ。絶対、戻ってくるから」
右衛兵はトイレ男に踵を返した。
トイレ男はそれを黙って見ている事しかできなかった。
⸺トイレ男が右衛兵を引き留める理由、それは偏《ひとえ》に先程から続く焦燥である。意味も判らない、丸で存在価値の無い焦燥で、キチンと意思と理由を持って行動する右衛兵を引き留める。それはとても悪い行いである気がした。自分の感情を盾に相手の行動を制限する⸺記憶の無いトイレ男でも解る重罪である。訳も解らぬ焦燥よりも、合理的な理由を元に行動する右衛兵の方が信じられる。そう何度も言い聞かせ、今にも右衛兵に駆け寄りその服を掴もうとする体を抑えた。右衛兵が扉を閉めて、漸くその必要が無くなり、トイレ男はその場に膝を突いた。疲れた。立ち上がった際に思わず手放してしまっていた(しかし優しくソファに置いてあった)トイレを抱き寄せ、その場に蹲る。
行き場の無い焦燥を抑え込みつつそうしている事暫し、いつしかあの音は聞こえなくなっていた。
「……………………?」
終わった……?
静かになったという事は煩さの原因、詰まり暴れていた人物が消えた或いは大人しくなった事を示している。それは衛兵としての仕事が終わったという事だから、直に右衛兵も戻ってくるだろう。
そう安堵したトイレ男だったが、待てども待てども右衛兵は戻って来る音は聞こえなかった。
「……………………」
トイレ男は起き上がって、右衛兵がこっそりと忍んで戻ってきた訳でもないという事実を確認する。
「……………………」
右衛兵は嘘を吐いた。戻って来ない。
しかしその事に対する怒りは湧いて来なかった。仕方無い、そう割り切れてしまったからだ。というか、失望感すらもそれ程無いので、そもそも約束が守られる事すら期待していなかったのかも知れない。
「……………………」
トイレ男は立ち上がった。
もう焦燥は無くなっていた。胸に有るのは諦念だ。右衛兵が戻って来ないという事は、何者かは彼をどうにかしてしまったという事。トイレ男の意識は何も憶えていないが、トイレ男の無意識は何かを憶えているのか。既に終わった、もう駄目だという意識がトイレ男の中に湧き上がって来ていた。
トイレ男は部屋を出た。一階に行って右衛兵の様子を見に行こうという気は起きなかった。彼がどうなっているのかは予想が付く気がした。全く付かないのだが、それでも既に知っている気がした。知らないのに。そしてそれ以上に、一階に行きたくなかった。行けと言われても絶対に拒否したくなる程度には嫌だった。理由は判らないが、それでも右衛兵の様子と同じ様に知っている気がした。
目的も無く諦めに支配されたトイレ男は、僅かな好奇心を自らの行動の指針とした。未だ見ぬ他の部屋の中を覗いていく。先程まで居た部屋の向かいの部屋を皮切りに、その隣、そのまた隣、その向かいとドアを開けては閉めてゆく。特に気を惹かれる様な物は無かった。
粗方覗き終えて、上の階でも捜してみるかと思った時だった。
「あっ」
「……………………」
その様な声が聞こえたので振り返った。
声色で予想は付いたが、声を発したのは女だった。黒いフリフリのワンピースを着た女が後ろに立っていた。どういう訳か、黒いブーツを履いた足には赤い物がこびり付いていた。「…………」、嫌な気がした。
黒女はトイレ男の後ろを付けて来たというより、トイレ男が居る通路と交わる通路を歩いているとトイレ男を見付けたという感じであった。
「一般人? あーもうアイツら、ちゃんと仕事しなさいよ残ってるじゃないの。はー、これだから手を抜きたがる怠惰民どもは。私や姉様の負担がどれだけ増えようと気にしちゃいないってね……ってアンタ手に持ってんのそれトイレ? キモっ」
「……………………」
黒女の言いたい事はよく解った。真っ黒な服という如何にも怪しげな格好のこの女は、右衛兵達をどうにかした奴らの仲間なのだろう。そしてその仲間がトイレ男をどうにかしなかったから、この女はそれに毒吐いている訳だ。
この女が右衛兵達をどうにかした相手なのならば、やる事は一つしか無かった。
「ッ……!!」
逃げる。クルリと背を向け、トイレ男は逃走を図る。
「あっ、我が論を聴け、世界!」
黒女は突如として踵を返したトイレ男に慌てた様に声を上げ、
「我止まれり。如何にあの男止まれらざるや?」
⸺足が、止まった。
逃げなきゃいけない。それは解る。逃げるには足を動かさなければならない。それも解る。後は足を動かすだけだ。だが、動かない。どれだけ走れと命じようとも、足は動かない。得体の知れない現象に恐怖を覚えた。
「我が論を聴け、世界」
黒女は立ち止まった侭、
「烏賊が腕長し。如何に我が腕は短からんや?」
背中を、押された。
「!?」
彼我の距離はそこそこに有った。腕を伸ばして届く程度の距離ではない筈だ。黒女の腕が伸びでもしたのだろうか? そんな非現実的な。
トイレ男はバランスを崩し、前のめりに倒れる。咄嗟に手を突こうとして、その手に持っていたトイレを取り落とした。それで手の動きが乱れ、真面に手を突く事すら厳しくなる。それでも何とか右腕を床に突き、そしてそれその時にはトイレが額に迫っていて、
⸺頭を、打つけた。
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