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世界はまだ僕達の名前を知らない

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決意の章
04th
  恐怖の逃走






「白姉、私もう未熟者じゃないよ? 付いて来なくていいのに」

「仕事」

「ハミー達の方には行かないのに?」

「アーニを特別気に掛ける様言われてるの」

「もうっ」

 トイレ男が聴いた声の主達はそんな会話をしていた。不思議と動悸が速まった。

「私が一番強いのに……」

「一番強いからこそ、喪いたくないんだと思う。ちょっとの想定外で、アーニが居なくなる様な事をボスは危惧してるんじゃないかな」

「じゃあハミー達はいいの?」

「アーニが居なくなるよりマシなんじゃない?」

 むっ、と片方、黒い服を着た方が頬を膨らませた。

「それじゃ私以外はどうでもいいみたいじゃない!」

「そうじゃないよ。ボスは皆を同じぐらい大切に思ってる。同じぐらい大切だから、それ以外の部分で扱いの差が出るのは仕方無いよ」

「……………………」

 黒い服を着た女は黙った。反論できないのであろう。しかし反抗の意を示す様に頬は膨れた侭だ。

 トイレ男は二人の会話を物陰から聴いていた。盗み聴きである。お行儀が悪いが、彼的には今はお行儀なんて気にしている場合ではなかった。

「……………………」

 先程書いた通り心臓の動機が速い。寧ろさっきよりも速くなっている。その原因は白い方か黒い方か⸺多分、どっちもだ。どっちもだが、白い方の方が大きな割合を占めている気がする。

「じゃ、私は行くね。ハインツ、任せたよ」

「あー、わーってるよ」

 一人増えた。声質からして中年の男だろうか? 取り敢えず、酔っ払いおっさんや禿げ男ではない。声が違い過ぎる。

 カツカツと足音が遠ざかる様に聞こえた。二人分だ。会話からして、黒女と中年だろう。ふぅ、とトイレ男は息を吐いた。額に浮いていた脂汗を拭った。片方が去って少し気が楽になった。それでも白女が居る以上、完全に気を抜く気分にはなれなかった。

 一人になった白女がどこに行くか知れない。こっちに来るかも知れないし、来ないかも知れない。取り敢えず、黒女が行った方向ではないだろう。それしか判らない。だからトイレ男は移動する事にした。白女に会いたくなかっ

「⸺ぁ」

「ッ!!!!」

 逃げた。走って逃げた。

 白女はもう直ぐそこまで来ていた。トイレ男が汗を拭っている内に彼女は既に歩き始めていたのだ。何という事だ。最初、二人の声が聞こえた瞬間に逃げればよかったのに⸺否、あの時は体が動かなかった。それは仕方無い。だから、黒女が居なくなった後直ぐに去るべきだった⸺否、二人を見付けたら直ぐに動くべきだった。何だよ、体が動かないって。別に重荷でも括られた訳でもあるまいに、体が微動だにしなくなる事などあるまい。あんなの過去の自分の怠慢への都合の好い言い訳だ。否、都合の好い言い訳にすらなっていない。有り得ない事を言っているのだから。

 走っている時は大方そんな事を考えていた。過ぎ去った過去の事に対しあーだこーだ、今の事やこれからの事なんてこれっぽっちも考えていない。何故ならば、体は逃げながらも、心は既に捕まっていたからだ。

 彼女からは逃げられないと、心のどこかで諦めて⸺否、知っていた。

 心の中のそんな部分に急に気付き、左手で頬を殴った。意識を切り替えろ、そんなんじゃ逃げられない。彼女の目を欺き、撒く為に出鱈目に角を曲がった。しかしどれだけ曲がろうと、禿げ男の時の様にもう大丈夫だろうという安心感は湧かない。寧ろ、曲がる度にまだ足りないまだ足りないと焦燥を覚える程である。逃亡の連鎖。無限に続く逃走。トイレ男の現状は、大方そんな所であった。

 しかし幾ら心が逃避を望めども限界は有る。今回の場合は体の疲労であった。体は赤く火照り、息は大きい。壁に手を突きながら走っている状態である。速度は逃げ始めの頃と比べるべくもない。寧ろ、歩いている方が速いのではと思える具合である。トイレ男は後ろを振り返った。白女の影は見えない。トイレ男はそこにあった木箱に隠れ暫し休憩する事にした。

 木箱の有る方から白女が現れた。

「⸺ッ!!!!」

 衝撃と恐怖。恐怖の衝撃。(たちま)ちトイレ男は木箱が有る方とは逆向きに走った。角を見付け、曲がる、曲がる、曲がる。直進はしない。ランダムに右左左左右左右右右右左と曲がりながら白女から逃れる事のみを考える。

 曲がった先に白女が居た。

「ッ⸺!!!!」

 背中を向ける。最早どれ程曲がろうと意味が無い様に思われた。ならば曲がる必要は無い。只管(ひたすら)に直進した。冷静に考えれば、路地裏が無限に続いているのでない限り、真っ直ぐ進めばいつかは表通りに出る筈である。何故最初からそうしなかったのだろう。流石に行き止まりが見えれば曲がったが、概ね真っ直ぐに進んだ。

 後ろを振り返る。小さく白女の姿が見えた。()()。咄嗟にそう感じ、スピードを上げる。しかし体はもう限界だった。足が(もつ)れ、トイレ男は転倒する。

「ッッ!!」

 トイレが落ちた。

 そこでトイレ男は漸くトイレの事を思い出した。これまでずっと抱えていたのだが、それを忘れていた。ふと、これを置いていく事を考える。しかし直ぐに首を振った。これを置いていくなんてとても考えられない。トイレ男は立ち上がり、トイレを拾い上げた。不思議とこの存在を意識すると無限のパワーが湧いてくるかの様に思われた。

 しかし、幾らトイレと言えど無限のパワーなど無かった。

 振り返れば白女は先程よりもだいぶ大きい。転けた時のロスが大き過ぎた。早くしないと追い付かれる。トイレ男は速度を上げようとして⸺先程の失態を思い出すと同時に視界の先に行き止まりを見付けたのでそれをキャンセル、左折する。

 ⸺その先に、光が見えた。

 表通りだった。オレンジ色の日光が照らす道路を人々が歩いていた。あそこまで行けば、逃げられる。そう信じ、足を動かした。これまでのゴールが見えない逃走とは違う。ゴールは直ぐそこに有る。無限のパワーが湧いてくる気がした。

 しかし、間も無くして違和感に気付く。()()()()()。どれだけ走ろうと表通りに近付いた気がしない。可怪しな事だった。表通りに向かって走っているのだから、表通りまでの距離が縮むのは必然である筈である。しかしそうではなかった。表通りの方がトイレ男から逃げているかの様である。

 トイレ男は我武者羅に走った。しかし終わりは来ないし、

 ⸺カツン。

 終わりが来た。

「⸺ッ」

 後ろから手を伸ばされた気がした。捕まるまい、そう思い前に倒れた。ザッ、と頬を地面に擦った。痛い。襟を引っ張られた。白女は思っていたより力が強かった様だ。その侭トイレ男を引っ張り起こし、壁に打ち付ける。

「ッ」

「〈閉眼〉」

 突如、全ての感覚が消えた。

 見えないし聞こえなくなった。じんわりと痛みを持っていた頬からは何も伝わらないし、疲れ切った筋肉は存在すら感じられない。寒くもないし暑くもない、涼しくないし暖かくない。そんな不思議な感覚だった。感覚が無いのに変な感覚というのも可怪しな話だが。

 しかしそれも一瞬だった。

 ヌルッ、と何かが入ってきた。

「!!」

 何かは判らない、何かとしか言い様の無い何かが、トイレ男の中のどこか、どこかは判らない、どこかとしか言い様の無いどこかに入ってきた。大変気持ちが悪い。嫌悪感で吐きそうだ。しかもそれが何かは判らない、大事な何かとしか言い様の無い大事な何かに触れてきたのだから相当だ。

「ッー! ッーー!!」

 抵抗したかった。抵抗する為の何かを持っている気がした。持っている気がしたから、それを振るった。

 しかし悲しいかな、白女の方が上手だった。白女はトイレ男の抵抗をいとも容易く()なしトイレ男の中の大事な何かを蹂躙していく。焦っているのか、手付きが大変雑だった。痛かった。悲しかった。悔しかった口惜しかった嫌だった嬉しかった泣きたかった笑いたかった怖かった安心した死にたかった生きたかった愛しかった憎かった⸺。感情が可怪(おか)しい。何かが自分の中で狂っている。狂わされている。

「⸺ああああああぁっ!!!! ぅあああああああああああああああああぁっっっ!!!!!!!!」

 気が付けば叫んでいた。これまで無意識に避けていた『発声』という行為。無意識に避けていたのは怖かったから。今それを為した理由は唯一つ。⸺声を出さない事の恐怖が、声を出す事の恐怖を上回ったからだ。

「うあああああああああぁっ! あああぁあああああっ!!」

「ッ! 大人しく、してッ」

 いつしか感覚が戻っていた。

「おい! 誰か叫んでるぞ!!」

「こっちの方だ!!」

「衛兵だ!! 直ぐに出て来い!!!!」

 そんな声が聞こえてきた。

「ッ⸺!」

 白女が逡巡したのも判った。

 彼女はトイレ男を一旦壁から離し、直ぐにまた打ち付けた。トイレ男は額を打つけた。痛かった。そしてその侭崩れ落ちる。白女は既に去っていた。トイレ男に数人の男が群がり、また別の数人が白女が逃げた方向とは全く別の方向に「待てー!」と突撃して行った。

 トイレ男は意識を失っていた。それでもトイレだけは離していなかった。 
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