世界はまだ僕達の名前を知らない
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決意の章
03rd
大口依頼
「ふぅ……」
広い部屋だった。
トイレ男が間借りしている部屋の優に二倍の広さが有りそうな部屋に置かれたデスクに前衛兵は座っていた。
デスクには様々な書類が積まれている。他の衛兵からの報告書、お上からの命令、経費に関する書類、果ては街の子供からの幼い感謝の手紙。前衛兵はこれらの書類全てに目を通し、必要であれば判子を押したり返事を書いたりする作業に従事していた。今は丁度、溜まっていた書類の半分を処理し終え休憩に入ろうという所である。
「……………………」
背凭れに体重を全面的に預けて上を向く。酷使された目を目尻を強めに指で押して労った。何度かそれを繰り返した後、前衛兵はそろそろ夕食にするかと席を立った。夕食は少し前に部下がテーブルに置いてあった。
冷めたミートボールを頬張る。料理人は前衛兵がいつも食事が冷めるまで仕事をしている事を知ってか知らずか、冷めても不味くはならない様に作っている事が感じられた。前衛兵は部下の気遣いに感謝しながら黙々と食べ進め、完食するとデスクに戻り書類仕事を再開する。
また少し疲れてきて、トイレにでも行こうかなと思った頃だった。
ドガドガドガッ!
そう、下の階から音が響いてきたのは。
「!!」
前衛兵は驚いで立ち上がる。その間にもドガッ! ダガガッ!! ドンガガガッ!!!! と音は断続して響く。
前衛兵は状況を確認する為に下へ行こうと部屋のドアへ向かった。
しかし彼がノブに手を掛ける前に、扉は開いてしまった。
「……………………」
独りでに、ではない。その開放はちゃんと来訪者を招いていた。
「……………………」
スルスルと、無音で入ってきたのは黒い服を着た男だった。
「……………………」
「何者だッ」
「"新月"」
「ッ……」
反応が無いか、適当に調弄されるだろうという考えの下、しかし駄目元で放たれた誰何の声に帰ってきた言葉を聴いて前衛兵はたじろいだ。
"新月"。それは衛兵を始めとする街を守る事を生業とする者達が嫌悪する存在だ。新月の晩に、稀に人を静かに殺す事からこう呼ばれている。構成人数、指示役等の情報全てが不明で、そもそも本当に一つの組織かどうかの確証すら無い連中である。
この男が本当に"新月"であるかどうかの確証は無い。少なくとも、前衛兵の目には黒男の技能は前衛兵に一歩届かず、前衛兵が本気を出せば少しの余裕を持って勝てる程度の能力でしかなかった。だが何と無く前衛兵は彼が嘘を言っていない様に思えた。
「……俺を殺しに来たのか」
「そう」
前衛兵の質問に黒男は頷いて見せた。
「……何故殺す」
「そう言われたから」
「誰に?」
「親に」
黒男は、前衛兵を殺しに来たという割には意外と会話に応じる積もりが有る様だった。前衛兵はこの機会に謎に包まれた"新月"に就いて探る事にする。
「親とは何だ」
「うーん、何て言うの? 僕達の親で、命令者?」
(指示役の事か)
前衛兵はそう推量した。『僕達の親』という部分も気になるが、それは後だ。
「親は何故俺を殺す様に言った?」
「何か大口の依頼って言ってたけど、それ以上は知らない。金の量も、依頼主も」
(依頼? "新月"は金で人を殺すのか)
勿論、これまでの全ての殺人がそうであるとは限らないだろう。
だが、"新月"に就いて捜査しようとすると、決まってそうとは判らない様に邪魔が入っていたのを思い出すに、国の上層に"新月"の殺人サービスを利用している存在が居るのかも知れない。
そこまで考えて、前衛兵は状況の奇妙さに気が付いた。前衛兵は衛兵の中でも要職に就いている人物である。多少ではあるが権力も持っているし、極々僅かではあるが政界にも影響力を持っている。しかし彼が死んだ所で何かが大きく変わるという訳では決して無い。死で以て権力界に影響を与えるには前衛兵の立場は弱過ぎる。強いて言えば彼の治めるこの詰所の環境は後任によるとはいえが大きく変わるだろうが、それで得をする人物というと衛兵かその他の従業員以外に思い付かない。そして彼は彼らが暗殺組織など利用する訳が無いと確信している。
「…………衛兵達は?」
思考の中に『衛兵』のワードが出てきて漸く思い出した。"新月"という言葉の威力に思わず忘れていたが、ここに来るまでに必ず通る一階エントランスや二階廊下には多数の衛兵が詰めていた筈だ。
「寝かせた。安心して、殺しはしてない。今回殺すのは君だけだから」
「先程の大きな音は?」
「ディグリーの奴がそれはそれはもう怒りに怒り狂っててね、派手にやっちまったのさ。死んではないから安心して」
「ディグリー?」
訊き返すも、答えは黒男の口からは述べられなかった。
バッ! と激しく扉が開き、その前に居た黒男の後頭部を強かに打ったからだ。
「だっ!」
「おいハミー、何でまだやってねぇんだ?」
扉を開け放った主は黒男と同じく黒い服を着ていて、小柄な黒男に比べ大きな体を持っていた。痛そうに頭を摩る黒男の事など気にする様子も無く仕事が未完である理由を問う。
「コイツ、思ったより強い。僕一人じゃ手に負えないから、手伝って」
「何だそんな事か」
その会話を聴いて、前衛兵は後悔した。情報を抜き取る前に黒男を処理しておくべきだった、と。大黒男の戦闘能力は黒男と同程度。二人纏めて掛かってこられれば、連携の熟練度にもよるが前衛兵では勝つのは難しい。
「時間稼ぎに幾らか情報を喋ったからもう逃がせない。確殺する」
「あいよー。ったく、何でいつもみたいに毒を使えないんだろうな?」
「なるべく派手にやる様に、てのが依頼って言ってたろ」
なるべく派手に、衛兵の要人を殺す。
それを聴いて、前衛兵の頭の奥で一つの憶測が立った。
それは誰でもよかったのではないかという事。今回殺すのは前衛兵である必要は無く、前衛兵と同階級に有る者ややや上の階級に有る者、或いは低い序列の者でもよかったのだ。何故なら、今回の目的は衛兵に喧嘩を売る事だから。表の住民には感謝される衛兵も、裏の住民からは強い恨みを買っている。その恨みが遂に一線を越え、彼らが衛兵討滅に動きだしたのだとすれば今回の件に納得が行く。これが本当だとすれば、事実上一国を敵に回した事になってしまう相手は実に愚かで、余りにも愚か過ぎるという点を除けば。
「じゃあ行くぞ」
大黒男はいつの間にか手に握っていたナイフで前衛兵に斬り掛かった。
前衛兵は抜剣してそれを払う。軽い。陽動。隙を見て突撃してきた黒男のナイフを身の熟しで避ける。そこに襲い掛かる大黒男の一閃を剣で弾いた。軽い。陽動。
身構えた前衛兵だったが、肝心の本命は来なかった。拍子抜けである。取り敢えずバックステップで二人から距離を取った。
⸺後ろから、首を突かれた。
「ぁ”っ……」
吐血。
眼球を下に向けると、そこには喉から生える銀色の細い棒が有った。
ぐじゅぐじゅぐじゅ。
「ぁ”ぁ”っ……」
棒が回される。断面が円形では無く菱形である棒が回ると、当然ながら前衛兵の喉の肉が抉られる。再び吐血、吐血、吐血。何度か血を吐いた後、突然として棒を抜かれた。栓を失った事で止められていた血流が動き出し、首の風穴からドクドクと血が流れ出した。前衛兵は首を抑えながら倒れる。
その無防備な背中を狙って棒が突き刺された。
棒は心臓を正確に射抜いていた。首と同じ様に蹂躙された心臓は瞬く間にその役割を放棄し、停止。前衛兵は死んだ。
「あーあ、死んじゃった。苦しみながら。全くペテルは惨い事するなぁ」
その結果を見て、黒男はやれやれとばかりに首を竦めた。その手の中にナイフは既に無い。
「今の、後ろから心臓を一突きしてればそれでよかっただろ? 何故に首を刺したし」
やや引き気味の大黒男が問う。
問われた男⸺背後の窓から侵入した、これまた黒い服を着た小さい背丈の男は、
「何が起きたのか判らぬ侭に死ぬのは可哀想だろ? だから一撃で殺すのは避けてるんだ」
「今のコイツ、絶対何が起きたのか解ってなかったぞ」
「理解はできなくても認識はできていた筈だ。首をレイピアが貫いた、とね」
「どうだか……」
三人の男達は今も血溜まりを広げる前衛兵の死体を挟んでそう和やかに会話していた。そこには一定の友好が見て取れた。
「さてと、仕事も終わったし帰るか。白姉とアーニはどうする?」
「白姉は勝手に俺達が帰ったって勘付くだろ。アーニは……まぁ勝手に帰るんじゃね?」
他の仲間を放置する事を決定し、三人は小黒男が入ってきた窓から建物を後にした。
残された前衛兵の死体の目は、開いていた。
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