無欠の刃
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アカデミー編
女の子
肉弾戦は苦手だ。
別に体術が不得意というわけではない。
けれど、女である自分の腕は男に比べればとても細くて、筋肉がなかなかつかない体質なのも悪影響なのか。一つ一つの打撃が軽いと、イタチ兄さんにも指摘されたことがある。
大太刀を使えば男相手でも対等に戦えるようになるけれど、素手での戦いだったら全然対抗できない。
女じゃなかったら、もっと強くなれていたのに。
…女じゃなかったら。
そこまで考えて、慌てて首を振った。
今更そんなことを考えたって、カトナは自分の性別を変えられない。
どんなに望んだって、カトナは女でしかない。
けれどもふとした時、たとえばこういう時に、いつだって自覚してしまうのだ。
「カトナ…立てるか?」
模擬戦だって、苦手だ。
手加減しなければならないし、大太刀も使えない。……体調が悪いと、輪をかけて最悪だ。
何よりも、周りの視線がうっとうしくて仕方がない。
教師の嫌悪じみた目も、生徒の馬鹿にするような目も、それ以上に、ネジがこちらを心配するような目も、全部全部気に入らない。
俯かせた顔を上げないまま、地面を睨み付ける。
今のはちゃんとした戦いだったんだ。確かに私は本調子ではなかったけれど、敵であるネジに心配なんてされたくない――気遣われたくもない。
そんなの、ただの情けだ。
イタチ兄さんが言っていた。
敵に情けをかけることは、つまりはそれだけ、自分の味方に危険を晒すという事でしかない。
だから、敵に情けをかけてはいけない。当たり前の事なのに、ネジはそんなことを簡単に犯す。何故かなんてのは簡単で、敵である前に友達同士であるからで。
でもそれ以上に自分のことを、カトナのことを、女と思っているからで。
なんとなくわかる。見れば、分かる。
こっちを気遣うような瞳に込められてるのは、怪我させたかもしれないという心配だけれど、その理由だってきっと、女だからというもので。
ほかの男にはきっと、そんな目は向けない。
ぎりっと、歯を噛みしめた。
どろりと、内またに何かが伝う感触がして、嫌悪感が体を這いずっていく。
女だって気遣われたくないのに。女だからって思ってほしくないのに。女だなんて、見てほしくないのに。
叫びだしたい衝動を呑み込み、カトナはネジの手を掴まず、黙って立ちあがった。
そのカトナの態度に、ひそひそと周りが悪態をささやき合ったのがわかったけれど、カトナは教師に一礼してから、傷ついた体を手当てしようと保健室へと急ぐ。
急ぎ足のカトナの背中を、ネジだけが心配そうに見ていた。
だが、はいはい、次は僕ですと挙手した少年に引っ張られ、見送る。
太い眉をした、体術以外は何もできないと評される少年と向かい合ったネジは、柔拳の構えを取った。
・・
保健室には、誰もいなかった。
いたら面倒くさかったから丁度いいと思いつつ、棚から勝手に包帯と消毒液を拝借し、水道で傷口を軽くすすぐ。
体術だから、どちらかというと青あざの方が多くあったが、そのあたりの手当ては無視する。
こういう時は打撲痕よりも、傷口から菌が入り込んで破傷風が起きるほうが怖いのだと、カトナは知っていた。
消毒液がしみて、つんとした匂いが香る。
この独特の匂いは好きだ。優しくない、甘くない。けれど、ああ、これだと感じてしまう匂い。
そして、それ以上に感じてしまう、血の、匂い。
……自分の嗅覚がこれほど敏感であることを後悔する日が来るなんて、思いもしなかった。
気に入らない、気に入らない。女である自分が気に入らない。苛々する。
手当てをし終えて石鹸の匂いがする指をかみながら、廊下を歩く。
誰ともすれ違いたくなかった。気分は最悪で誰かに出会ったその瞬間、無関係の相手を怒鳴りつけてしまうような気がした。
分かっている。誰も悪くない。強いて悪い人間をあげるとするならば、それは自分だ。
誰も何も悪くない。なのに、苛々するこの気持ちはどうも抑えきれなくて。
「カトナ」
誰かに、無償に、ぶつけたくなってしまうのだ。
最悪のタイミングだと、内心で言葉を吐き捨てた。
今、声を出せば、思ってもいないようなことを出してしまいそうな気がして、口をつぐむ。
いつもの数倍の眼力で睨み付けてくる彼女に動揺しながらも、ネジは尋ねる。
「調子悪かったようだが、大丈夫か?」
「…平気。男に比べたら、治り遅いけど、平気」
苛々、苛々。
勝手に飛び出た、男に比べたらという、自分自身の皮肉にさえ苛立った。
ああ、こんな言葉出てほしいわけじゃないのに。
ネジがいつもとは違うカトナに戸惑って。そして、皮肉がわかっていながらも答えを返す。
「なんでそこまで、お前は自分を卑下するんだ。くのいちでも、十分強くなれ…」
一瞬、目の前が真っ白になって、次の瞬間、真っ赤になった。
あの時みたいに。
「女だったから!!」
思わず怒鳴りつけたカトナに、ネジは目を見開いた。
いつも無表情で、何事にも穏やかで冷静沈着な彼女が声を荒げたという事に、不覚にもネジは動揺して黙り込む。
カトナはそんなネジの様子に気が付かないまま、怒鳴り付ける。感情を一気に垂れ流させる。
「私が、女だったから、四代目火影は、私の中に、九尾を、封じなかった!!」
カトナは生まれて初めて、そのままの気持ちを出した。
普通の彼女だったら、絶対に言わなかったかもしれないけれど、今の彼女は普通ではなかった。
女であるというどうしようもない事実を突きつけられ、彼女は一種のパニック状態に陥っていた。いつもだったら忘れられる事実も、目を背けることが出来る現実も、何もかも直視されてしまう今の彼女は、いつもよりも危うい精神性を孕んでいた。
だから彼女は、激情のままに言葉を出した。
「私が男、だったら、兄である私に、九尾を封じた! 私が女だから!! 女だから!!」
女だったから、九尾を封じなかった?
今まで知らされていなかったことを知って、困惑したネジを見ながらも、カトナは止まらない。
感情を暴走させて、いつもなら触れなかったはずの気持ちを暴走させ、そして秘めていた秘密を投げ出す。
「ナルトの腕がなくなったのも、ぜんぶ、ぜんぶ、わたしが…、わたしが…」
がくがくと震えだした彼女が頭を抱える。
わたしが、おんなだったから。
決して声には出さず、それでも震える唇が紡いだ言葉を読んだネジが、思わず手を伸ばす。
あまりにも弱弱しい姿をした彼女を支えようとした彼の手は、しかし届かない。
触れるはずだった白い肌は瞬く間に遠のいて、代わりのように、視界の端に黒髪が映り込む。
「カトナ、それ以上は駄目だ」
無造作に、誰に当てるでもなく振り回されていたカトナの手が掴まれる。
びくりと怯えたカトナが、くしゃりと顔を歪めた後、その場にへたり込む。
あまりにも脆く弱い、見慣れないその姿に、ネジがもう一度何らかの言葉を告げようとした時、黒髪の少年――うちはサスケがネジを睨み付けた。
その目は髪の毛と同じ黒ではなく、血のような真っ赤に染まっていた。
写輪眼と驚愕するネジの前で、サスケはカトナの髪の毛を撫でる。
カトナが甘えるようにサスケの手に頭を預けた。
サスケの写輪眼の中で勾玉が躍る。
「さっきのは全部忘れろ」
「貴様に命令される筋合いはないが」
はっ、とあざ笑うように声を漏らしたサスケが、更に何らかの言葉を紡ごうとしたが、それを制するようにカトナに服を掴まれた。
黙り込むサスケの前で、カトナはもう片方の手で自分の口を抑え込んでいたが、うぇっ、という小さな嗚咽と共にその場で嘔吐する。
気持ち悪い、気持ち悪い。吐き気がこみ上げて、堪らないのだ。
また、何かがどろりとこぼれた感触がした。
男なら感じる筈のないその感触が、もうたえきれないのだ。
ぼろりと、涙がこぼれた。
サスケが慌ててカトナの手を掴み、目に目を合わせる。
「カトナ!!」
「…ごめ」
「謝んな。それより大丈夫か?」
無言でうなずいたカトナに安心しながら、サスケは吐瀉物に全く気にすることなくカトナに触れると、近くの教室にあったらしい雑巾を勝手に拝借してくる。
カトナはそのサスケの様子を黙って見つつ、視界の端に映るネジの視線から逃れるように体を丸めた。
恥ずかしい、消えたい。
そんな思いと共にこみ上げる衝動と、それ以上にナルトを危険にさらすような真似をしてしまったという自責の念が彼女を苦しめる。
ううと唸る彼女の頭の中で、フラッシュバックがおこる。
赤と黒。失ってしまったもの、帰ってこないもの。泣きそうに顔を歪めたサスケに、それでもと縋った自分。あの日、あの惨劇を起こしたのは、ほかでもない、自分自身。
カトナの顔が蒼白になった。
「カトナ、平気か?」
ネジが戸惑ったような声で言葉をかけてくる。
けれど、その瞳に浮かぶ心配が気持ち悪い。
女だから心配されているようだ。気持ち悪い心配。
女、女、女。
女になんか、生まれたくなんてなかったのに―!!
胃の中でまたぐるぐると吐き気が回りだし、必死に口をおさえるが、努力虚しく、もう一度吐瀉物が撒き散らされる。
「ごほっ、うえっ、げほっ、あっ」
つんと鼻を刺す酸っぱい匂い。また吐いてしまった羞恥。それを上まわる、サスケに迷惑をかけたという罪悪感。そして、自分が女であるという、紛れもない証拠。
ネジがまた何か言葉をかけようとしたが、それよりも先にサスケがカトナの口に布を当てた。
ふわりとした洗剤の匂いが、吐瀉物の匂いを無くす。
新しい匂い。きっと洗い立て。サスケのタオルなのかな。
駄目だ、良く頭が回らない。ぼーっとしてしまっている。混乱しているのか。それとも……貧血なのかもしれない。
また、涙が溢れそうになって、吐瀉物だらけの手でも構わずに涙をぬぐおうとすれば、やんわりと手を掴まれて、ハンカチで涙をぬぐわれる。
「大丈夫だ、カトナ。平気だ。誰も気が付かねぇよ」
何も言わなくても察したらしいサスケは、全く厭うことなく、カトナの口を布でふいた。
汚物も吐しゃ物も意にも介さず、床を雑巾で軽くふいてから、カトナを背負う。
「…日向ネジ。教師に伝えておいてくれ。俺はカトナを家に帰らせる」
年上に対しての礼儀一つ知らないかのように、敬語など全く使わないサスケに、ネジが苛立ったような顔を見せた。だがサスケは、それをすべて封殺し、カトナを家に連れて帰る。
サスケの背中で小さくなったカトナは、もう何も見たくないと目を瞑った。
・・・
カトナに触れてくる、何も知らない奴らがうっとうしい。
サスケは舌打ちをした。
カトナが女として見てほしくないことを分かっているくせに、それでも、女として見てくる日向ネジが嫌いだ。
……俺がどんなに見たくても、もう見ることが出来ないものを、簡単に見てしまえるあいつらが嫌いだ。
カトナは自分が女だと指摘されるのを嫌がる。
それはカトナが九尾をナルトに押しつけたという、そんな勝手な罪悪感を感じているからだろうし、それ以上に弱い自分を嫌っているからだろう。
ナルトを守ることができない、弱い自分を、ナルトを守るために不必要なものを持っている自分を、心底嫌っているのだろう。
今日だって無理矢理出席していたが、一カ月に一回は必ず訪れるこの日には、絶対に無条件で体調が悪くなる。
チャクラコントロールがうまくいかなくなって、そのせいでカトナは普段は見過ごせるものが見過ごせなくなってしまう。見逃せるものも見逃せなくなって、不用意に傷口に触れて、痛がってしまう。
だから、今日は行くなと言ったのに。
逆にそれが引き金となって、カトナは余計にむきになってみすみす行かせてしまった。
己の判断ミスを腹立たしく思いながら、サスケはカトナの頭を撫でた。
すーすーと、一定のリズムで刻まれる呼吸は安心している証拠。
もしも、ここに日向ネジがいたらならば、そんな風に寝息は立てなかったはずだ。
そのことに少しの優越感を覚える。カトナは自分以外を信用しないのだと安堵して。そしてだからこそ絶望する。
カトナにとってサスケは警戒するべき男ではないのだ。どこまでいってもカトナはサスケを共犯者としかみなさない。
何もかもむなしくなって、サスケはカトナの額に自らの額を合わせた。
こつんと音が鳴る。
間近に迫った顔に、少女は気づかない。気づけない。
あの日に大切なものはもういらないと、たくさん抱えていたら取り落としてしまうからと、何もかも捨ててしまった少女は、すべてに鈍くなってしまった。
けれど、それでも。
心にぽっかりと空いた穴に手を当てる。そこはもう二度と埋まらないけれど、それでいい。
「…俺が、守る……」
ずっと、ずっと。
あの日、君の手が真っ赤に染まったあの瞬間から、そう、決めた。
たとえどれだけ、この思いが踏みにじられても。
たとえどれだけ、この思いがお前には届かなくとも。
その手が、その指が、自分を拒むのだとしても。
それでもあの日、守ると決めた。そばにいると、決してその手を離さないと、この心に刻みつけた。
サスケの瞳が夕焼け色のように赤く染まっていく。
目の前の少女の瞳をそのまま映しこんだかのように赤く、紅く、美しいほど澄んだ朱に染まって。
やがて、三つの勾玉が赤い海に浮かぶ。
「どんな手を使っても、どんなにこの手を汚そうと……」
他の誰にも触れさせない。ほかの誰にも知らせない。
この思いは、この心は、すべて目の前の少女のもの。
あの日に彼女が壊れてから、彼もまた、同じように壊れてしまった。
その思いは底なし沼のように深く、どこまでも限りなく、奥が見えず。そして、どこまでも、暗い。
うちはサスケはあの日から、ずっとずっと夢を見ている。
時に目が覚めることがある。正気に戻って、こんな夢はいらないと拒むことがある。
悪夢だったとうなされて、飛び起きて、己の思考を疑うことだってある。
それでもふとした時に彼は夢を見る。おぞましいほどに暗く、悲しいほどに美しく、狂おしいほどに愛おしい夢を。
こうやってカトナがあの日の片鱗を見せるたびに、サスケはあの日に痛切に願った夢を見る。
なぁと、彼は微笑んだ。
共に生きることはもう願わない。だからこそ、代わりに。せめて。
「……一緒に死のうな、カトナ」
血で真っ赤に染まった白百合が、花瓶の中でさらさらと揺れた。
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