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トワノクウ

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トワノクウ
  第二十九夜 巡らせ文(三)

 
前書き
 巡って来た 知らせ 

 
 朧車に乗せてもらったくうは、さして時をかけず、()(くろ)町の沙門の寺の裏まで帰り着いた。

 御車を降りたくうは、朧車に頭を下げてから、寺の中に入った。
 境内を歩く。ほんの少し前まで住んでいた場所なのに、足を進めるのにひどく勇気がいった。

「くう!? くうなのか!?」

 懐かしい声のほうを向く。
 朽葉が歩廊の手すりから身を乗り出していた。

 朽葉は歩廊を飛び降りると、足袋のままくうの下へ走ってきた。心配に染まった顔で、くうの顔や腕を確かめるように触る。

「天座に拐かされたと聞いていた。奴らなら妙な手出しはすまいと思っていたが。平気か? どこも何ともないか?」

 堪らなかった。
 くうは朽葉に抱きついて肩に顔をうずめた。

「プチ失恋しました」

 朽葉は間を置き、くうの頭を撫でて背中を軽く叩いた。ちょっとだけ泣いた。

「髪も肌もぼろぼろで。一体どんな生活をしてきたんだ。おいで。風呂を入れるから」

 天座に居候してからはいつも水浴びだったくうは、話したかった山ほどのことを心の隅に避けて、こっくと肯いた。






 幕末明けて間もない時代に、湯屋ではなく自宅で入浴できる自分は贅沢だ。
 くうは湯船につかって、とりとめなく考えた。

 手の平に湯をすくっては落とし、たまに肩にかける。あったかい。

 ――禅寺の開浴は四九日にしか行われないものだが、沙門はくうが帰ったと知るや快く浴室を解放してくれた。もっとも沙門は、

「『身心を澡浴して香油をぬり、塵穢をのぞくは、第一の仏法』と道元禅師も仰っとる。風呂は入りたい時に入るに限る!」

 と、磊落に笑い飛ばした。

 だが、この環境は、少なくとも朽葉にとってはよいものだ。朽葉の上半身には犬神憑きのしるしがある。公衆浴場に行けない愛娘の事情を沙門はよく理解している。

 くうは自身の裸体を眺めやる。どこにもどんな傷もない。まっさらな肌。今日までたくさん傷ついてきた気がするのに。痕跡がないのではあれらが夢かと錯覚する。

(夢じゃない。現に潤君はどこにもいないわ)

 フラッシュバック。焼け落ちる境内。逃げ惑う人々。人面疽。銀朱の死。赤い、海。

 ひゅっと息を止め、湯煙が立ち込める天井を仰ぐ。一、二、三……

 くうは大きな水音を立てて湯船から上がり、脱衣所に出た。




 朽葉が用意してくれた、黒い単衣と桜色の帯をもたもたと着付けてゆく。
 朽葉はどこだろうか。着替え終わったくうは当てもなく寺の中を歩く。

 ふと空腹を誘う香りが流れてきた。

 辿り着いたのは月明かりの差し込む縁側だった。奇しくもこの寺にくうが来た初日と同じ場所だ。

 縁側には、最初の日と同じに、朽葉が座っていて。彼女は湯気の立つ土瓶を持ち上げて笑った。

「腹、減ってるだろう? 用意しておいた」

 くうはにじむ目尻を下げる。

「はい……ぺこぺこです」

 朽葉が用意してくれたのは、味噌焼きおにぎりの茶漬けと湯豆腐。レンゲでだし汁の中に崩した米を無心に食べた。

 ぽろ。
 途中で涙が落ちた。

 朽葉は何も言わなかった。くうも何も言わなかった。しゃくり上げながらお茶漬けを食べきった。

「ごちそうさま、でした」
「美味かったか?」
「はい」
「よかった。実はこれは、お前の父親が昔、私に作ってくれたものなんだ」
「お父さんが――」
「私が犬神のことを鴇に打ち明けた後でな。私の空腹を察して、有り物で別山焼を用意したんだ。器用な奴だった」
「さすがお父さんです」

 器用な父を想像し、くうはちょっとだけ微笑めた。

 篠ノ女家の冷蔵庫にはいつも食材が常備されているから、ありあわせの料理は食卓にほとんど出ない。だから、父の今までにない一面を知れて、心がほっこりした。

「沙門様にはお許しを頂いている。明日からまたこの寺にいてくれるか?」


(くれるか、なんて。むしろ、勝手に帰って来たくうが頭を下げて置いてくださいって頼むべきなのに)


 くうは涙目になりながら肯いた。

「その上で、訊いてもいいか。お前が天狗に攫われてから何があったのか。話せるとこまででいいから」

 心配をかけてしまったと今なら分かる。
 坂守神社の妖討伐に付いて行ってから、それっきりだった。落ち着いてから便りは出せたはずなのに、くうと来たら自分のことにかまけてばかりで。

 くうは素直に、梵天に坂守神社から救われて、今日まで天座にいたことを語った。
 露草の眠りや菖蒲と会ったこと、薫とぶつかったこと――

 その中で、菖蒲の妻がすでに故人だと話した時、朽葉の表情は凍りついた。

「鶴梅、が、死んだ――?」
「朽葉さん、菖蒲先生の奥様をご存じなんですか」

 朽葉は沈痛な面持ちを片手で覆った。

「私にあの符をくれた、友人、だ」
「あっ」

 犬神を実体化させるには符を影に貼らねばならないと言っていた。それをくれたのは巫女だとも。――こんなところに繋がっていた。

「そうか……死んだのか、あいつ」

 苦笑になりきらないいびつな唇。

 くうは膝立ちになり、朽葉を抱きしめた。頭を撫でた。いつも朽葉はくうが悩む時にこうしてくれたから。

「悲しいことだと思います。朽葉さんにとってのお友達が死んだこと。悲しいと思って正しいです」

 そして、今のくうには言葉がある。朽葉のもとにいた頃は何を言っていいか分からないことだらけだったけれど、たくさんのものを見聞きした今なら。

「人と妖は争うものです。憎み合うものです。その構造は変えられません。でも、だからって、構造の中で、その奥様が犠牲になったのを、朽葉さんが悲しんじゃいけないなんて、ないです」

 朽葉の手が、弱く、くうの腕を握った。

「そう、か。悲しいんだな、私は」

 くうは朽葉をより強く抱き締めた。

「別れてから六年だ。――涙も出ない私は、薄情だ」

 それでもあなたの心は泣くのでしょう?
 流す涙をぬぐえないなら、せめて悲しむ心に寄り添いたかった。

「ありがとう。もういいぞ」

 そっと離れる。朽葉は弱々しくだが微笑んでいた。

「横道に逸れてしまったな。続きを話してくれるか」

 続き――薫との和解はともかく、潤の死については。何度も言葉を詰まらせた。

「今なら朽葉さんの気持ち、分かります」

 ずっとひとりでいきていく――と、決意させるほど、己の中で愛するひとの存在が大きくなっていたと知る、その、深い哀しみ。

「好きだったんだな、潤朱が」

 言葉にならなくて、肯く。

 中原潤。潤は……
 名を思い浮かべるだけしかできなくなっている。くうにとって潤がどんな存在だったかさえ、言葉にするには息が止まる。

 出ない声の代わりに、くうは懐に入れていた物を取り出した。

「それは?」
「くう達の世界のカラクリ仕掛けです。遠くにいる人と、離れたままで、話したり、手紙のやりとりを一瞬でしたりする道具。潤君がずっと持ってた、彼岸の物」

 現代人にとっては、中身を見れば人格さえ垣間見られる、個人情報の塊。今はまだ開けられないでいる。

 赤いスマートホンを持つ両手を、上から、朽葉の肉刺だらけの手が優しく包んだ。

「――大事な物なら、きちんと仕舞っておかないといけないな。いい大きさの巾着があったはずだから、出しておこう」
「ありがとう、ございます」

 こんな時まで穏やかに気遣ってくれるのが、心に染みて。
 くうは朽葉の肩におでこを押しつけ、こっそり泣いた。

 ――その態勢になってどれくらい経ったか。
 朽葉が身じろいだ。くうは急いで袖で目尻を拭いつつ顔を上げた。

「朽葉さん、何ですか、それ」

 朽葉の手には、いつのまにかペーパークラフト――折鶴が載っていた。

「陰陽寮からの早文みたいな物だ。寮で何かあったのか……?」

 朽葉が折鶴から文を外して広げた。

「『先日、蛇の大妖の呪いを受けて死んだと思われていた先代銀朱の生存を確認』……先代、28代目!?」
「な、何ですか?」
「言葉の通りだ。28代目は、前天座の頭領と相討ちで死んだということになっている」

 くうの脳裏に閃くものがある。元〈銀朱〉、蛇の大妖。

「『呪いによって長く生き長らえる肉体にされた模様だが、神通力は失われていない。坂守神社はこれを――』」

 キーワードは全て先日会った一人の男に収束する。
 蛇の妖の体を己の肉体と変え、銀朱の名を捨てて、寒村の山奥で一介の教師をしているあの人に。

「『これを30代目銀朱として迎える所存である』――!?」

 それは何て残酷な流転。



 Continue… 
 

 
後書き
 皆さん、菖蒲は〈銀朱〉ではないとお思いだったことではないですか?
 残念! こんなにも皮肉な形で菖蒲復職です!

 朽葉と鶴梅が友人だったというのは本作独自の設定ですので皆様本気にされませんよう<(_ _)>

 別山焼きは小冊子のレシピを参考に書きました。 
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