トワノクウ
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
トワノクウ
第二夜 翼の名前、花の名前(一)
前書き
小人 と 問い
ここはどこだろう?
自分はどこか花畑に横たわっているのがおぼろげながら分かる。むせ返る甘ったるい芳香。白いユリの花畑だ。そういえば薫が前に、外国では棺に菊ではなく白ユリを敷き詰めると言っていた。
(じゃあ、ここは棺の中?)
緩慢に目を動かすと、自分の上に小人が乗っているのが見えた。
〝人は頭に支配されておる〟
小人は語り始める。
〝見る、聞く、触る等々、人の感覚とはつまるところおぬしらの頭の中のか細い合図のやりとりでしかない〟
くうは訳が分からないなりに納得する。
人は脳がなければ事象を認識できない。視覚は光が結んだ像を脳内に投影する作業、聴覚は振動に意味を割り振る作業、触覚は物に対する反応を肉体に起こす作業。
〝ならば少女よ。実とはなんぞや。虚とはなんぞや〟
――それはきっと実体と虚像。実感と仮想。
〝死とはなんぞや。生とはなんぞや〟
――それはきっと……
目覚めたくうの状況は目まぐるしく動いた。
まず、起きたくうがいたのは昔ながらの和風の小さな家だった。布団の中だった。服は和服になっていた。
次に、会ったのはあの女ではなく老婦人だった。彼女もまた尼姿だった。
「気分が悪いことはないかい? 痛いとこは?」
くうは無言で首を振った。言語を上手く思い出せていないのと、舌が乾いて上手く回らないせいだ。
「沙門のとこの娘があんたを担ぎこんできてね。鵺に襲われたんだって? 災難だったねえ」
鵺。あのキマイラのような怪物。ショックオンリーでない現実の激痛をくうに教えた存在。
(あれが、痛み)
包丁で指を切ったり火傷したりとは異なる。仮想の疑似痛覚とは比べ物にならない。痛い、と、助けて、しか思い浮かばなかった。過ぎてみると感覚そのものは曖昧だが、二度と味わいたくないという印象は強く刻まれた。
「怪我はあんまり酷くなかったみたいだけど、鵺にやられた目だけ見せてもらっていいかい?」
くうはまた無言で肯いた。
老婦人がくうの右目の下を引っ張った。
「うーん。やっぱり持ってかれてるねえ」
「もって?」
やっと口が回り始める。
「ああ、鵺の奴に取られちまってるよ」
くうは慌てて目を瞼の上からペタペタと触って確かめる。よかった。眼球は健在だ。
「違う違う。『視力』がなくなるんだよ」
ああ、やたら狭い気がしたのはそのせいなのか。それでも意外と両目ともに視えていた頃と変わらない。
「ちと変な色になっちまったが、これなら充分異人で通るさ。何も心配するこたない。一応目薬は出しとくよ」
「あの、お代は」
ここはあのゲームではない。当然、せっせと敵を退治して溜めたコインは泡と消えた。今のくうは無一文だ。
「このあと沙門とこに行くんだろ。あいつにつけとくよ」
「ありがとうございます。診ていただいて、少し気持ちが楽になりました」
老婦人はくうの頭を撫でる。母のように髪が乱れないような繊細さではなく、わしゃわしゃといった感じにだ。
「いい子だね。こんなになっちまって大変だと思うけど、頑張るんだよ」
くうははにかんで肯いた。
しばらくすると、助けてくれた女が迎えにきた。彼女の育ての親である僧侶が、くうの相談に応じてくれるというので、くうは老婦人に礼をしてその家を出た。
何故か老婦人は彼女に対して怯えたふうだった。嫌な感じが、した。
「体はもういいのか?」
女は優しく聞いてきた。こうして見ると本当に美人だ。スタイル抜群で目がぱっちりしていて、ただのモデルとは違った魅力を感じる。
「もう平気です。怪我の治りも早かったみたいで」
「そうか。それはよかった」
女性の半歩後ろを歩きながら、街並みを観察する。
行き交う人の服装は基本的に着物。髪型は髷か結い上げ。二階以上の建物はなく、男子がジャンプすれば届きそうな高さの家並みが続いている。背が高いのは遥か遠くの城と鐘楼くらいだ。
(ゲームの中とちっとも変わらない。ここってもしかして――)
「あの、ここ、何ていう街ですか?」
「江戸……いや、元・江戸というべきだな。つい最近まではそう呼ばれていた」
「今は何て?」
「東の京と書いて、東京、というそうだ」
――明治維新。
(つまり、そういうこと)
くうが迷い込んだ世界は過去の日本。
「東京になったのはこの年ですか?」
「おととしだ。お上が行幸されて江戸は東京と名を改めた。お上が中心の世を作るのだとな。もう藩もなければ幕府もない。時代が変わったと人は口々に言うが、私に言わせれば迷惑この上ない。政府の勝手で、寺を運営するのがどれだけ難しくなったか……」
女はぶつくさと不満を垂れ流す。
(そっか、神仏分離令による廃仏毀釈)
民衆は菩提寺と定めた寺から教導を受ける。寺を通じて幕府の統治を受けていたのである。それが、トップが天皇に代わってからは神道を国策としたので、ここぞとばかりに民間の仏教排斥運動が起きた。明治四年までは混乱は続いたはずだ。
(日本史好きだったけどこんなふうに役立つとわ。びっくりです)
往来を行き交う数こそ少ないが、和洋折衷や洋装の日本人、金や銀の髪の人、黒い白い肌の人。だから、くうは目立たないのか。
「そういえば名前も聞いてなかったな」
女がくるりとふり返った。くうは居住まいを正す。
「くうです。篠ノ女空」
「しののめ――?」
「? 何か?」
「いや、何でもない。私は朽葉だ。よろしくな。しかし、空、か。変わった名前だな」
「空白って意味なんですよ。カラッポのスカスカ。いつか欲しいものができた時いくらでも詰め込めるようにって」
人でも物でも、想いでも命でも、何をもいっぱいに自分の中に包み込めるように。
「――いい名前だな」
「はいっ」
くうは笑った。母がつけてくれた誇らしい名前だ。
(朽葉さんの名前の意味も聞いていいのかな?)
――朽ち葉とは、襲の色目における花山吹。平安においては陽光の色。派生色が多く、その多さは「朽葉四十八色」とあだ名されるほどである。
(花咲かず実らず、それでも自ら照り輝く、葉)
くうはじっと朽葉の表情を見つめて。
(やっぱやめときましょう。難しすぎますもんね)
と結論を出した。
「それにしてもお前は肝が据わった娘だな。まったく動揺もしていないし。昔の知り合いを思い出すよ」
「これでも動揺しまくりですぅ。ほんとは気絶したいくらいですけど、また目が覚めて結局ここにいるまま、夢が覚めるなんてことにならなかったら、ショックで今度こそ大暴れです。そしたら朽葉さんにもご迷惑ですし。寝て起きて元いたカプセルに戻れるなら自分で頭でもなんでも打ってそうします。でも、そうはならないんです。せっかく美人の案内さんがいるんですから、考える材料を集めたほうが建設的かなー、なんて」
朽葉を見ると面食らっていたが、ふいに噴き出して苦笑した。
「現実的だな、その歳で。あいつらとは大違いだ」
女の子のようにきれいな笑顔だと、思った。
ページ上へ戻る