乱世の確率事象改変
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雛が見つけた境界線
返して!
頭の中で繰り返される言葉は脳髄を昏く侵食していく。
正義と信じて疑わなかった。
自分達は正しい行いをしているのだと誇りにさえ思っていた。
民から向けられた笑顔に、達成感と幸福感を感じていた。
そんなものは……まやかしだった。
自分達が奪った。
自分達が攻めなければ皆は笑顔でいたのだ。
私達が人の笑顔を奪っている事は虎牢関の時に理解したし覚悟も決めた。
しかしそれとこれは話が違う。
私達が洛陽を燃やしたも同然だ。何故止められなかった。
これでは私達は賊と同じではないか。
なんという事をしてしまったのだ。
秋斗殿は……どうして平然としていられるのだ。
最初から疑っていたならば、どうして私達を止めてくれなかったのだ。
あの方は……私達を……
耳が痛くなるほどの静寂が天幕内を包んでいた。
机を囲んで座る人物達の表情は皆、一人を除いてだが暗く、その一人はというとどこか呆れたようにも、怒っているようにも見えた。
ただ雛里ちゃんの表情が暗いのは他の人とは理由が違い、彼を気遣っての事。その証拠にわざわざ彼の隣に座り、服の袖を握っている。少し……羨ましい。
先ほどまで私の心は罪悪感に押しつぶされそうになりながらも頭の中は冷えていた。
盗み聞きするよりも先に聞いていたから取り乱す事も無く、ただ事実として受け入れていた。
雛里ちゃんのあの言葉が大きかった。
私達はたくさん人を死なせているのに、どうして正義なんて甘い事を考えていたんだろう。
最初に一番衝撃を受けたのは愛紗さんだった。
盗み聞きの途中で倒れそうになり、桃香様に支えられていた。涙を零す事こそ無かったが今も唇が慄き、身体が震え、いつ倒れてもおかしくないように見える。
桃香様はというと愛紗さんが倒れかけた事で逆に冷静になっていたかに見えたが、今もその冷静さは変わらない。ただ覚悟を携えた瞳を持っていた。
鈴々ちゃんはここに戻るまでは我慢していたがさっきまで大泣きしていた。自分を責めて。今は少し落ち着いているがそれでも辛そうだった。
「お前らが盗み聞きしていることくらい分かってたよ。面と向かって話させたかったが賈駆が起きているのにも気付いたし、放置したんだ。憎しみを直接聞くのは堪えるから」
沈黙を破ったのはやはり彼だった。その表情からは感情が読み取る事が出来ない。
私達を気遣っての事。あの状況でそこまで考える余裕があったなんて。雛里ちゃんがどうして、というように秋斗さんを見上げる。それを見て彼はゆっくりと答えた。
「俺はな。華雄を殺す時に呪われたんだ。乱世のハザマでのたれ死ね、と。それがあったから賈駆からの怨嗟の声に耐えられた。シ水関での自分を思い出したら……お前達に直接聞かせたくなかったんだ」
死の間際の憎しみの感情など想像すらできない。そこにはどれほどの強い想いがあったのか。……彼はそれを一人で耐えたというのか。
賈駆さんからの悲痛な叫びでさえ私にはあれだけの痛みがあったのに。
ただこの人は私達みたいに正義に溺れていなかった。それが大きいのかもしれない。
「それよりも……全ては董卓との会話でわかっただろう? 俺はお前達と違い……最初からお前達の言うような正義なんざ掲げちゃいない。人を救うため、世界を変えるためにこの軍にいる」
その言葉に愛紗さんがぴくりと反応した。
「……あなたは最初から我らを騙していたのですか?」
虚ろな目をして秋斗さんを見つめる愛紗さんに少し寒気がした。武器があったなら斬りかかるのではないかと思えるほど。
「愛紗! 訂正するのだ! お兄ちゃんは騙したりする悪い奴じゃないのだ!」
突然、何故か鈴々ちゃんが弾けるように食って掛かった。
「お兄ちゃんはバカで、すけべで、でも優しくて、あったかいのだ! 無茶もするけどいっつも皆の事を考えてるのだ! 人を助けたくて仕方ない……いい奴なのだ!」
目に涙を溜めて愛紗さんに詰め寄る。素直な鈴々ちゃんだからこその反応か。愛紗さんはそれを見て瞳に光が戻り、だが苦い表情に変わり、すっと頭を下げた。
「……申し訳ない、秋斗殿」
「謝らなくていいよ、愛紗。お前は正しい。鈴々、俺は……悪い奴だ」
秋斗さんの言葉に鈴々ちゃんが絶望した顔で俯く。
「……お兄ちゃんはいつも心で泣いてたのだ。剣を振る度に、人が死ぬ度に。そんなお兄ちゃんが……悪い奴なわけ……無いのだ」
零れた涙を見て桃香様が鈴々ちゃんを抱きしめる。秋斗さんは目を瞑って無表情、その顔からはやはり感情が読み取れなかった。
「秋斗さん……あなたが目指す世界は私の目指すモノと同じ。だからこそ私達に力を貸してくれてるんでしょ?」
桃香様は凛とした表情で言葉を放つ。
「……その通りだ」
少しの間をおいて彼は返答を口にした。
「なら……愛紗ちゃん。それは騙していたんじゃないよ。私達を思っての事だから」
「どういう事でしょうか、桃香様。」
怪訝な顔をして愛紗さんが尋ねる。
「私達はね。覚悟も無しに自分勝手な正義を振りかざしてこの戦に参加を決めた。どんな事が起こっても対処できるなんて甘い考えを持ってしまった。責任を取る覚悟も無くて、何にも自分達の現状も先の事も考えずにただ単に理想に流されたの」
そこで桃香様は一旦言葉を区切って深く息を吸う。
「私達の目標と、私達が手に入れた家を守るためには参加は避けきれなかった。でも私がまだ未熟で、理想を確固たるものに出来ていなかったから参加を踏みとどまらせるような事を言うのも出来なかった。戦の最中に気付いたとしても、途中で抜けたり、私達が立ち止まってしまったら責任を取る事も出来なくなる。だから秋斗さんはずっと一人で黙って抱え込んでくれてたんだよ」
秋斗さんは桃香様の話の最中も何も言わずにただ沈黙を貫いていた。
「しかし! この方は進んで悪を為す事を認めたという事なのですよ!? そんなこと――――」
その言葉は正しい。正義感と責任感の強い愛紗さんらしい。でも――――
「愛紗さん、私達は何を背負っていますか?」
雛里ちゃんの急な発言に秋斗さん以外の皆がそちらを向く。
「私達には自分の治める地を守る義務があります。簒奪されることから守り抜かなければなりません。公孫賛様の裏の参加理由はそれなんです。今後、幽州の地を戦火に巻き込まないために参加を決めた。乱世を見据えて自分が悪を為すかもしれない事を是としたんです。秋斗さんは公孫賛様と同じ事をしたんです」
公孫賛様は家を守るという意識の強い方で常識がある。正義や悪に拘ることも無くどうすれば自国を守れるか、自国の為になるかを常に考えている人だ。
「他の地の民を助けるため、それは尊くて綺麗な事だ。だがな愛紗、俺達が守るべきなのは……真っ先に自国の民であるべきだ。それが目に入らないなら世に平穏なんざ作れやしない。自国の民を守れない者がどうして他国を助ける事ができるんだ」
厳しく言い放つその言葉は皆の胸を打った。
私達は自国の民である兵を犠牲にしてまで他の国の民の今を助けようとした。
秋斗さんは自国の兵を犠牲にして自分達の国と未来を守ろうとした。
そこが違う。どちらも参加には変わりない。けどこの人と私達の考え方は全く違った。乱世を治める事を考えて一番の方法を取ったんだ。
そして――――
「秋斗さんは未熟な私の代わりに決断をしてくれたんだよ。私達は自分達の国を守るために参加するべきだった。呑みこまれないために、この先に生き残る事ができるように」
彼は桃香様の代わりに全てを背負って決断を下していた。
ああ……ずるい。本当にずるい。雛里ちゃんはきっとこの人を今まで支えてきた。だからあんなに一緒にいたんだ。いつのまにか自分で気付いて、抜け出して、この人と一緒に私達を待っていたんだ。
理想に妄信していた私達は盲目すぎたから。信じてくれなかったわけじゃない。信じているからこそ。自分で答えを見つけないと、壁を乗り越えないと本当の強さなんか手に入らないのだから。
私は今から追いついてみせるよ、雛里ちゃん。
「私達が何を喚いても連合は止まらなかったと思う。そして余計に目をつけられて自分達が第二の董卓ちゃん達になったかもしれない。話し合いで解決するには力が足りない。理想を語るには、今の私達は凄く弱いから」
苦悶の表情をしているが愛紗さんはこれ以上言葉を紡ぐ事はなかった。
「乱世とはこういうモノだ。他を喰らってでも生き残る覚悟を持たなければならない。力が無ければ話し合いも何もないんだよ。もう皆、虎牢関で気付いてただろう?」
秋斗さんの発言に皆が一様に頷いた。
「納得できないよ、こんなモノは。乱世なんて矛盾の塊で、正義の押し付け合いで、理不尽しか無い。それでも誰かを救いたいから、何かを犠牲にしながらも進むしかない」
私達にそれができるか?
きっとそういう事。後はそれぞれで納得のいく答えを見つけるしかない。
「お姉ちゃん、お兄ちゃんは……悪い奴じゃないのか?」
まだぐずっている鈴々ちゃんが桃香様の腕の中で見上げながら言う。
「そうだよ。鈴々ちゃんの知ってる秋斗さんだから悪くなんかないよ」
その言葉を聞くと鈴々ちゃんの表情がぱあっと明るくなり、秋斗さんの元に走っていき抱きついた。
「えへへ、なら問題ないのだ」
笑顔で言う鈴々ちゃんの頭を優しく撫でる秋斗さんはありがとうと微笑んで答えたが、自分の椅子に座るように促して、鈴々ちゃんが戻ると真剣な表情になった。
「現実を知った。憎しみを受けた。理不尽も行った。間違った選択もした。その上でお前に聞こう。お前は何を目指す、桃香?」
見つめる両者の瞳には覚悟が燃えている。
それを見て私は気付いた。
この二人はそれぞれが王なんだ。どちらも同じ世界を描いて、どちらも民のために乱世で戦う覚悟を決めている。乱世を生き抜いて大陸に平和をもたらす事を目指している。
ただ、秋斗さんは桃香様よりも先を行っている。この方はどうして代わりに立とうと……そうか、途中で成長したんだ。桃香様を追い抜くほどに。理想の矛盾に気付いていたからこそ。
同じ世界を願うからこの軍にいる。そして一番効率的だから代わりに立とうなんて考えない。桃香様が成長するのを見守り、促し、導いている。それを強いてしまったのは……私だ。
その考えに行き着いて後悔が心を襲う。同時に嬉しさが込み上げる。私は二人も王を掲げられる、と。
「私は争いの無い優しい世界を目指します。そして誰もが笑って暮らせる世を作るために戦います。虎牢関の言の通りです。必要ならば力を使う事もためらいません。守る為に。
力をもって対等の立場の人たちに話し合いの机に座って貰い、最小限の戦で手を繋いでみせます。同じように平和を願う人たちとも手を繋いで。そうすれば今を生きる人に余計な犠牲を出さなくて済みますから。
そのために……秋斗さんに力を貸してほしいです」
すっと頭を下げて助力を願う。桃香様も秋斗さんがどういう存在なのか気付いてるんじゃないだろうか。
桃香様が作りたい世界。優しい世界。私達が手を繋げる事を示せば世界は平和になるから、ということ。私はそのために自分の全てを使って見せる。
秋斗さんは目を瞑り、やれやれというように首を振った後、ゆっくりと話し出した。
「桃香らしいな。和をもって大陸を呑みこんで見せる、そう言うのか」
桃香様は迷わなかったけど結局変わらない。甘いままだ。もう間違えないと言いたいだけだ。ここでは誰も気付かない。この人の心は悲鳴を上げている。今まで殺してしまった人たちの想いがその心にのしかかり、その重圧に砕けそうになっている。感情を殺した声はそれを見せないための嘘の声。
私は堪らなくなって皆に気付かれないように机の陰で彼の指を一つ握る。私も共に居ますと伝えるために。
「うん」
顔を上げた桃香様は強い瞳を携え返事をした後、秋斗さんを真っ直ぐに見た。ゆるぎない覚悟を携えた瞳は、その意思が固い事を示していた。
しかし、
「世界を想って、大陸の平穏の為に、犠牲も厭わないで動くんだな?」
射殺すような冷たい視線、重く突きつけられる彼からの問いかけに桃香様が圧倒され、周りの皆も固まってしまった。
大きな覇気をもって放たれた言葉は天幕内の空気を一変した。話す事が出来るのはただ一人。
ゴクリと喉を一つ鳴らして桃香様が震えながらも口を開いた。
「はい。大陸の平和のために全てを賭けて動きます」
それは曖昧な返答。秋斗さんは具体的なモノを求めてるのに。
善人でも従わせる事が出来るのか。
断られたらどうするんだ。
仲間を、友を切り捨てる事ができるのか。
暗にそれを示している事に気付かなかった。
本当は直接そう言いたいけど多分言わない。この人は平行線の水掛け論なんかしない。
桃香様と対立する事が目に見えてるからここまでしか言わない。ギリギリの綱渡りのようなやり取りをして桃香様と皆に楔を打ち込んだ。
曖昧な返答はある意味で正解だった。この軍が瓦解する事は無いのだから。桃香様が気付いて論争になればこの軍は確実に二つに割れただろう。
「ならいい。大陸に平穏を与えられるなら、俺は変わらず力を貸そう。桃香、この先も、何があっても絶対に迷うなよ」
「うん。皆もこれからもよろしくね」
ふっと微笑んだ秋斗さんの目を私はちらと伺う。一瞬、その眼は落胆に染まったように見えたが、彼が瞬きするとその色は霧散してしまっていた。
ここまでしても変わらないならまた袋小路に直面した時に自分で決断してみせろ。秋斗さんならそう思っているだろうと予想できた。
今回は彼が代わりに全てを決断し、実行した。桃香様にもそれができるのか試す気だ。
この人の背負うモノは確かに減ったかもしれない。しかし同時に自身の抑圧という名の枷が強く大きなモノになってしまった。
どうしてそこまで桃香様に拘るんですか。確かに人を惹きつける稀有な才能を持っている。確実に王として成長してもいる。
でも……それでも私は……
いや、ダメだ。この人の望みの方が私にとっては大事。私はこの人と一緒に世界を変えたい。そして平穏な世の中で……許されるのなら一緒に幸せを探したい。
それに秋斗さんは桃香様が決断できると信じているのだから大丈夫。
そこでふと思考に違和感を感じた。
桃香様が決断できなかったらどうなる? 秋斗さんはその場合を考えないほど盲目だろうか。
気付けば早かった。明確な答えに行き着いた。
多分この人は今回最後の線を引いた。
桃香様が決断できない時、その時が来たら全てが終わる。王としての決断ができなければ代わりに行い……ぬるま湯のようなこの場所を壊すんだろう。その後皆を引き込み進むのか、自分で立つのか、他の軍に行くのかは分からない。
でもその時この人は耐えられるんだろうか。また同じだけ背負う事になって、罪深さがさらに深まって。
そこで思考の端に自分の予測の影を見つけた。
……ダメだ。この人は、桃香様を信じる事で自分が壊れないように維持している。ならその時は……。
事が起こった後を想像して胸が締め付けられたが度々言ってくれた言葉が胸に響き、頼ってくれたという事実が自分を後押しした。
その時は私が支えよう。それが私に出来る事だ。この人が壊れてしまわないように私はなんでもしよう。
覚悟を胸に決めたと同時に天幕内に兵が一人入ってきた。
「会議中失礼致します。公孫賛様がお見えになっております」
†
桃香の陣に着き、兵に案内され天幕に向かうとそこには懐かしい面子が揃っていた。
「急な訪問すまない。今回の戦、お疲れ様。桃香の軍は素晴らしい働きだったな」
言うと彼女らの表情は、一人を除いて少し翳った。
「……どうした? 無事に生き残れたんだぞ? お前達らしくないじゃないか」
疑問を口にするが帰ってくるのは無言の返答。本当にどうしたんだろうか。
「いろいろありまして。公孫賛様もお疲れ様です。すぐに気が利かず申し訳ありません、こちらにお座り下さい。すぐに茶の準備を致しますので」
公式の場と取ったのか秋斗はむず痒い口調で話してから立ち上がりお茶を淹れはじめた。
「……はぁ。秋斗、その言葉づかいやめていいぞ。今回は個人的に、桃香の友人として話をしに来たんだ」
秋斗は何か考えるように、手は動かしながらも首を少しだけ傾げた。
「わかった。しかし白蓮がわざわざ俺達の陣まで脚を運んでくれたんだ。何かあったのかと思ってな」
背中越しに喉を鳴らし苦笑しているのが分かる。
「ふふ、まあそう取られてもおかしくないか。……おっと、ありがとう」
普段通りの秋斗の口調に少し安心を感じてこちらもつい苦笑が漏れた。
淹れ終わり、こちらに差し出されたお茶を受け取り一口飲む。
懐かしい。これは店長の店のお茶じゃないか。持ってきてたのか。
私にしてやったりというようににやつく秋斗の顔を見ると戦場で見たモノが嘘だったかのよう。
もしかしたら私が心配していた事は解決したのか?
喧嘩になっても本心でぶつかり合い、間違いを指摘し、分かり合う事。こいつらは皆優しいから強く言う事なんかできないだろうし。
まあ誰にでも気を使う秋斗の事だ。戦が終わるのを待っていたって所か。
「やられたよ、秋斗。まさかここでこのお茶を飲むと思わなかった。……さて、桃香と二人で話がしたいんだけどいいかな?」
軽口を返しながら見ると嬉しそうに頷いた。それを見てから桃香に話を振る。
「へ? 私と二人で? どうしたの白蓮ちゃん」
ほわーとした顔で聞き返す桃香に少し呆れてため息が漏れる。
「ちょっとした話だよ」
「話もある程度終わったしいいんじゃないか?そろそろ俺の天幕にも用事があるし。何よりまだ洛陽に兵を残してあるだろう?」
秋斗の言葉に桃香はハッとした顔をして慌て始めた。
「そ、そうだった! 皆、申し訳ないけど動いてくれる!?」
桃香のお願いに皆が慌てて動き始めた。秋斗は何やら鳳統に指示している。
「秋斗、お前は少し陣の外に行ってくれないか? 星がいるから」
それだけで何が言いたいのか分かったのかばつが悪そうに了解、と返事をしてすごすごと天幕を出て行った。
静かになった天幕の空気はお茶のせいか穏やかなモノに感じた。
「それで……話って何かな、白蓮ちゃん?」
不安そうに聞く桃香はあの頃と何も変わっていないように見えた。でも纏う空気が違う。一本芯が通っている。
「……秋斗に無理をさせたのと今回の戦の参加理由を叱りに来た。まず確認したい。誰が無理をさせる事を献策したんだ?」
「それは……秋斗さん自身が献策してくれたの」
その言葉に自分の思考が固まる。
あいつが自分で申し出た? バカな、ならどうしてあんな痛々しい顔をする。疑問だらけの思考を抑え付け、私は次の質問をぶつけた。
「……止めなかった理由は?」
「私達が……未熟だったから。参加した責任を果たして、民を救うのにはそれしか無くて――――」
「バカかお前は! そういう時は殴ってでも止めろ! お前が参加を決めた理由のためだけで有能な将を一人失う所だったんだぞ!? あいつがいればこれから先、どれだけの人を救えると思っているんだ! 責任を果たすよりも大切なことだろう!?」
桃香の返答にもはや自分を抑える事は出来ず、声を荒げて言葉を並べ立てた。
しかし、自分で献策したなら秋斗はどうしてあんな顔で戦場に向かったんだ。
どうして今はいつも通りに戻っているんだ。あいつは何を抱えているんだ。
「お前の目指してるモノは分かってる! だけどもっと長い目で見ろ!」
「……ごめん……なさい……」
こいつは何にもわかっちゃいない。自分がどれだけの存在になったかを、なろうとしているかを。
いきり立った気分を抑え付けて、低く、静かに声を出して桃香に話す。
「言っておくぞ。もし私が、私の国がこれから先窮地に陥っても、お前達の国が安定してないなら助けにくるな」
桃香は俯いた顔を勢いよく上げて悲痛な顔で私を見た。
「お前はもう、一人の王だ。自分の民の事を考えなくちゃいけない。秋斗の事もそれと同じだ。分かったな?」
強く言うと桃香は泣きそうな顔をしていたがゆっくりと頷いた。
「……うん、わかったよ。自分の国をしっかりと、速く安定させてその時はすぐに助けに行くからね」
ああ、こいつはそういう奴だった。でもそれは同盟の話と同じなんだぞ。いや、純粋に友としての言葉だから今は堅苦しく取らないでいいか。
「ふふ、桃香は相変わらずだな。分かったならいいさ。私も逆の時はできるだけ力になるよ。これから先、本当に必要な時以外は絶対に止めろよ?」
例えば自分達が全滅しそうでそれしか手が無い時とか。
諸葛亮と鳳統が居ればそんな事態には陥らないと思うけどな。ああ、私も一人でいいから優秀な軍師が欲しいなぁ。
「うん、ありがとう白蓮ちゃん。怒ってくれて」
「いいよ、友達だからな。話はそれだけだ。私は秋斗を叱ってくる。まあ、星が先にやってるかもしれないけどな」
「あはは、趙雲さんが怒る所とか想像できないよー」
いや、きっと今頃怒っている事だろう。
……そういえば星は鳳統に話を聞けと言ってたな。でも鳳統も星と同じ気持ちだったなら戦の後にでも怒ったんじゃないかな。
ああ、だから秋斗はいつも通りだったのか。さすがに過保護にしている鳳統から怒られたら秋斗も顔無しだったろう。
その時の顔を拝めなかったのは悔しいな。せめて今から見に行くか。からかってやろう。
それからあいつが何を抱えているか聞いてみよう。
いろいろと想像を膨らませながら桃香に別れを告げ、私は天幕を後にした。
「で? そんな理由で命を投げ捨てるように戦場に向かったと、そういうのですかな?」
本当にこの方はバカだ。
「お前は本当にバカですね。劉備の理想のためとか言って、自分が抑えられなかったのもあるんじゃないですか? 帽子幼女が先に叱ってなかったら私達二人で殴り飛ばしてましたよ。いや今からでも遅くはないですすぐにその両頬を差し出せばいいんです力いっぱいぶん殴ってやりますから私からは今までの憎しみを星からはお前への想い「牡丹?」……じゃなかったお前に抱く好意「ほう?」……友としての心配を受けてください」
いつになく私をからかうじゃないか。後で覚えておけよ。
「面目ない」
しゅんとする秋斗殿など終ぞ見たことがなかったので何故か可愛く見えて少し笑いそうになる。
「分かってくれたのならいいのですよ。そういえば牡丹は秋斗殿の為に劉備殿の脳髄を洗い流しましょうとか」
「星! なんてこと言うんですか! 私はこのバカの為ではなく、ただ浅はかで欲深くて傲慢な劉備が気に入らなくてですね――――」
まだ言い続けようとする牡丹を手で制しておく。一応陣から離れてはいるがあまり余所の主を貶めるものではない。
それにお前が先にしたんだ。仕返しをするに決まっているだろうに。
「クク、このように雛里の他にも心配するものがいるのですからあまり無茶はしなさるな」
聞けば劉備殿の代わりに此度の事を自分で献策し行ったとか。
確かに戦の状況を見て判断し、軍師と主の了承を得て行ったようだがそれでも看過できない事だ。
「まあ、お前の気持ちは分からなくもないです。私も白蓮様の為になるなら多少無理してでも行動したでしょうから。ただ私達なら、白蓮様なら止めてましたよ?」
白蓮殿なら止めたというのは間違いない。きっと曹操殿でも、孫策殿でも、他の誰でも同じであっただろう。
「もしあなたが劉備の立場なら止めたでしょう?それほど今回のは異常な事なんです。いい加減……私達の家に戻ってきたらどうなんですか」
そう言う牡丹の顔は心底秋斗殿を心配した顔だった。ここまで素直になるなんて珍しい。
私もそれには同意する。この方はあそこに居るべきではない。しかし……
「人にはそれぞれ事情があるのだ牡丹。秋斗殿の願いの為にも無理を言ってはダメだ」
「牡丹、ごめんな。俺にはしなくちゃいけない事がある。でもありがとう。星もありがとうな」
「っ! ……私には白蓮様がいる私は白蓮様だけが好きこれは嘘これは違う絶対にそんなんじゃない……」
秋斗殿が顔を上げて言うと顔を真っ赤にして牡丹は何やらぶつぶつと呟きだした。
お前も少し惹かれかけているのは知っていたが……完全に堕とされたか。この時機で牡丹の真名を初めて直接呼ぶとはいささか卑怯だと思うが、どうせ無意識なのだろう。
何故か悔しい気持ちが湧いて来て、少し勇気を出して目の前の鈍感男を抱きしめた。
「星……?」
「殴るよりもこの方があなたには応えるのでは?」
跳ねる心の臓に気付かれていないだろうか。二つの鼓動を感じる。どうしてだろうか、恥ずかしいのと同時に安心する。
「……そうだな。心配かけてごめん」
低く、静かな優しい声が耳を打ち、少し身体を離して顔を見ると胸の奥が締め付けられた。私を見つめる黒い瞳に引き込まれそうな感覚に陥る。脈打つ鼓動はうるさいほど頭に響き、高揚した熱が身体を包む。
自然と、意識せずともお互いの顔が近づき、目を閉じると……すっと身体が離れた。目を開けても目の前には誰もおらず、牡丹の飛び蹴りが地を穿った。
「なっ、いない!?」
「残像だ」
まだ高鳴る胸を大きく呼吸して抑える。牡丹よ、怨むぞ。
二人が言い合いをしているのを恨めしい気持ちを封じて冷やかに眺めているとすぐに落ち着き、彼がこちらを見て一つ呟く。
「……星」
「なんですかな? 戦も終わったことですし酒の席でもとお誘いくださるのか」
先ほどの続きを、などとは言ってくれるわけも、言えるわけもない。だが久方ぶりに酒の席も楽しみたいと思い軽口ついでに言葉を乗せる。
「いいな、それ。ちょっと俺もお前達三人に話があるんだ。少ししてからそっちの陣に行ってもいいか?」
片手で牡丹の額をぐりぐりと抑え付け、反撃を避けながら秋斗殿は楽しそうに言う。
本当に酒に付き合って下さるとは。積もる話もあるし白蓮殿が戻って来次第……
「おーい、秋斗~。頬の腫れは大丈夫か~?」
声に振り向くと遠くからにやつきながら手を振って近づいてくる白蓮殿が見えた。
もう戻ってこられたのか。しかし我らが殴った前提とは失礼な事だ。後でとっくりと話を聞こうか。
そう考えながら白蓮殿を迎えて後で合流することを決め、私達は酒の席の準備の為に笑いあいながら自陣の天幕に向かった。
後ろで見送る男の哀しい瞳には気付かずに。
後書き
読んで頂きありがとうございます。
桃香さんが助力を頼んだのは今回で三回目なので三顧の礼となります。
対して、主人公は最終線を引いて耐えることにしました。
愛紗さんは基準線を超えてしまった為、感情的になりました。
自分の矜持を破ってしまったのならこれくらい取り乱すかなと思いました。
桃香さんに従う愛紗さんの心境って予測しづらいです。
鈴々ちゃんは純粋なのでどちらにも染まりやすいです。
桃香さんは一つ成長したかな、くらいです。
朱里ちゃんが一番成長しましたが、未だに恋は盲目状態で桃香さんに心酔しているので難しい所です。
ちなみに、この場で分岐ルートが存在します。
主人公が耐えるという決断をせずに自身の思考をぶつけると、劉備軍が内部で二つに割れます。
内部分裂とは言っても桃香さんと主人公の明確な対立です。
その事象はここでは描きません。別事象関連は外伝的な扱いなので。
前にアップしたことのある別事象『袁家ルート』『公孫軍ルート』の二つも同様です。
ではまた
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