レンズ越しのセイレーン
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Mission
Mission10 ヘカトンベ
(8) ????~マンションフレール302号室 ②
前書き
あなただけは死なせない
「……ただいま」
「あ、ルドガーだ。お帰りなさい。ミラは?」
「ニ・アケリア。村創建時の記録漁るそうだから今夜は帰らないとさ」
ニ・アケリアはエレンピオスから渡り来たクルスニク直系の子孫が興した村だという。始祖クルスニクの記録に審判、ひいては「魂の橋」の情報がないか調べるつもりだとミラは言った。
「今日はヘリオボーグだったんでしょう。収穫はなかったの」
「別に。バランが去年まで立ち入り禁止区域だったエリア見せてくれたけど、ただの枯れた温室だった。『純血エレンピオス人なのに霊力野がある人間を監禁して実験してる』って都市伝説が眉唾だって証明されただけ」
「ごはん……」
「いい。今日はこのまま寝る」
「胃が空っぽのまま寝ても疲れるだけで回復しない」
「要らない」
「食べて」
「要らないって言ってんだろ!!」
伸べられた手を、気づけばルドガーは手加減なく叩き返していた。
「あ……」
ユティは軽く目を瞠り、叩かれた手を見下ろした。
ちがう、そんなつもりじゃ――言い訳が出かかって、されど口にするのはプライドが許さなかった。
「お前が最初に言い出したんだろ。『橋』にされる危険が一番大きいのは俺だって。なのに何平然としてんだよ。ユティは俺が」
死んでもいいのか。喉元まで出て、自分が言うのが恐ろしくなったルドガーは、口を噤んだ。
「エージェントは30人近くいる。社長さんが誰を使うかなんて分からない」
「っ分史対策室のエージェントは全員がクオーター止まり! 今捕まる『橋』候補は俺しかいないんだぞ!? 『鍵』じゃないって分かって! ユリウスはずっと行方知れず! ほとんど俺に決まってるも同然じゃないか!」
ルドガーがありったけの激情を吐露しても、ユティは小さく目を瞠るだけ。ちっとも伝わらない。意志疎通の齟齬に憎しみさえ込み上げてくる。
荒い息が治まってきた頃合いになって、ようやくユティは口を開いた。いつもの能面で、無機質な声で。
「死ぬの、こわい?」
――真っ白に、なった。
絡んで縺れた感情を、ユティはたった一つの問いかけでざっくりと明らかにしたのだ。
ジュードたちの誰も気づかなかった心を、彼女だけが掘り当てたのだ。
ふらりと体が傾く。支えようと両手を伸べたユティに縋り、ルドガーはずるずると座り込んだ。
「死にたく、ない……死にたくない、イヤだ、死ぬなんてイヤだ…っ!」
こんな末路のために必死に走ってきたわけではない。エルとの約束のために。大切な人たちが健やかに生きられる世界のために。精霊に人間の未来を約束させるために。ルドガーは戦い続けたのに。
ルドガー・ウィル・クルスニクは生贄に捧げられるために生かされてきたのか?
20年の人生に起きた喜びも悲しみも全てが踏みにじられるためにあったのか?
もしそうであったなら、ルドガーは耐えられない。
(だって、あんまりだ。俺、こんなことのために今日まで生きてたわけじゃない)
ふわ。柔らかいものがルドガーの後頭部に回った。次いでルドガーの視界は枯葉色のワイシャツでいっぱいになった。
「ダイジョウブ。アナタは死なない」
ユティの両手がルドガーの頭を包み、彼女の胸に抱き込んでいた。服越しにじわじわと他人の体温が染みてくる。
じゃれ合い以外でユティに直接触ったのは初めてだった。こんなに、なよやかだったのか。
「ユースティアはユリウス・ウィル・クルスニクの娘。誰が敵でも、ユリウスがしてきたように、今度はワタシがルドガーを守るよ」
顔を上げる。目の前には、慈愛深い微笑み。
「……信じて、いいのか?」
「いいの、信じて。約束する。安心して。ワタシはエルみたいに約束を破らない」
エルの叫びが蘇り、胸を苛む。
今日まで身を削って「カナンの地」へ行くためだけに戦ってきたのに。確かに「魂の橋」システムは恐ろしいが、なら他の方法を探そう、と言ってほしかった。あんなに簡単に「約束」を捨てないでほしかった。ルドガーにとって、エルとのあの約束はたったひとつきりの絆だったのに。
でも、今ならエルが正しかったと分かる。他の方法などない。エルの言った通り、「カナンの地」に行くのをやめない限りルドガーは助からない。
あの時、エル・メル・マータはまぎれもなくルドガーの命を救ったのだ。
「ルドガーは死なない」
武器を持つ者らしい硬い手の平が、あやすようにルドガーの頭を撫でる。
「ルドガーも、エルも、一人も欠けずに。ユティがカナンの地に行かせてあげる」
ルドガーはただ手の届く場所にある言葉と体温に、縋った。
後書き
これもまたルドガーの一つの選択。
死ぬのが怖いというのは常識的な人間の感性です。ルドガーは数ヶ月前やっと社会に出たばかりの新社会人1年生で、初めての仕事で、生死を懸けた世界は初めて。作者だったら絶対に正気を保てません。
我が家のルドガーはて、読者の皆様が「自分の分身」だと感じてくれるようなキャラにしたいとという思いが連載最初からあって書いてきたのですが、いかがだったでしょうか? 少しでも「誰でも死ぬのはイヤだよな」とルドガーに共感してくださると幸いです。もちろん原作ルドガーについては、そういう庶民的な部分もあったからこそ、あの結末を掴めたんだという思いもちゃんとあります。
オリ主のほうは……すでにオリ主の狙いが何か分かった方も多くおられるのではないでしょうか?
カナンの地突入を前に彼女の最後の暗躍が始まります。オリ主の望んだ日、そしてクルスニク兄弟が望まなかった日がついにやって来ました。ルドガーとオリ主と他にも大勢、積み上げてきた日々はどこへ決着するか? 見守ってください。
【ヘカトンベ】
古代ギリシャの伝承における、神々に捧げられる特に規模の大きい生贄。元の意味は「百人(頭)殺すこと」。
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