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探し求めてエデンの檻

作者:オイラム
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1-2話

 
前書き
 それは全くの偶然だった。
 示し合わせたわけでもなく、謀られたものでもなく、ただ運命のように同じ飛行機を乗り合わせただけ。
 これはもしくは、堕ちる鳥に巻き込まれた仙石アキラにとってはわずかな幸運かも知れない。

 だが乗り合わせた彼女にとって…天信睦月にとっては、運が悪い巡り合せだっただろう。

 

 
 浅い眠りからアタシは目覚めた。
 夢も何も見ない、意識を切るためだけの休息は短いものだった。

 眠いながらもリクライニングシートから上半身を起こした。

 安眠にはほど遠いが、そこから自然でない意識の覚醒に不快になる。
 耳朶に響く耳鳴りと、同時に開く感覚の窮屈さに迎えられ、尚更不快になった。
 隔絶された閉鎖感に息苦しくなる……意識が狭い。

 何も映らない黒い沈黙から目覚めると、喧騒が聞こえた。
 眼を開くと視界が上半分だけ切り取られて、その下では学生服を身に包んだ足がウロウロしているのが目につく。
 喧しくてこれ以上眠りにつけないと諦めて、頭を隠すために被っていたキャップ帽子のツバを持ち上げた。

 周りは狭苦しい乗り物の閉鎖空間で、それが旅客機の中だという事を思い出す。
 そしてこんなにも騒がしいのも、昨日見た修学旅行だと思わしき学生達の帰宅日と重なっていたようだ。

「これも奇縁かしらね…」

 貨物船の環境よりは遥かにマシだが喧しいものだ。

 人が多く、閉鎖されてる空間はあまり好きではない。 人混みが嫌いなタイプもいるが、アタシのそれとは感覚が違う。
 普段から慣れた“感覚”が機内の範囲までしか届かないから、どうしても狭く感じてしまう。
 それを誤魔化すために、旅客機が空に上がる前から眠りに着いていたが、発進時の重圧にも頓着しなかったものの、流石に百人を超えるような学生の喧騒は堪える。

「…うるさくて迷惑でしかないけど…眠れないのも困りものね」

 気分は悪いが仕方なし、と座り直して隣のシートに置いてあるショルダーバッグに手を伸ばした。

 眠りから覚めたあとの習慣として、身の回りのチェックをする。
 悪意や殺気があれば即座に飛び起きれるが、何の悪意もなくスリをするやつなどもいるからあまり楽観する事は出来ない。
 まぁ日本行きの便だから、日和見主義な日本人が多く乗っているためそんなスリ紛いの事をするやつはなかなかいないだろうが。

 ショルダーバッグを開けた形跡はなし。
 これの中身を漁ったら、色々と面倒になってしまう所だ。 それはもう一般人は勿論、軍人でも物騒とも思えるほどの代物が詰まってるからだ。
 あとは…お財布様(懐が寒いため機嫌が悪い御様子)に、刀剣の柄に、あとは細々としたものばかりだけど、とりあえず取られたものはない。

 嫌な習慣が付いたものだ。
 平和な暮らしの中にいれば身に付く事がない警戒心。
 今ではすっかり慣れた戦う世界の生き方がアタシの中で根付いている。

「ふ……」

 チェックし終えて、キャップ帽を被り直す。

 眠れない以上暇を持て余してしまう。

 アタシの横を学生が喧しく通り過ぎていくのに辟易して頬杖を突く。 
 学生と言えば……昨日の遭遇した“アレ”も学生だった事を思い出す。

「(―――…あの獅子も、学生だったわね)」

 それは、グアムの広場で起きた小さな波乱だった。

 そこで一人の獅子を見つけた。

 グアムの近くにいる軍人らしき男達が、十代半ばの学生を相手に乱闘するというものだった。
 普通ならそれは多勢無勢のリンチになるはずの光景だ。
 現役軍人でなくても、男達は屈強な肉体を持っていて血の気が多い輩だった。

 だが、結果はその逆。

 その学生は何人もの男を返り討ちにし、地に沈めるという所業を起こした。
 男達は血を流し、骨が折れたのも何人かいて、気絶に至っていない者は戦意が喪失していた。
 それとは対照的に、攻撃者は全く傷を負う事はなかったという結末。

 その子は強かった…だがそれ以上に、他の普通とは違うものがあった。
 片手で大人の体を掴み上げるほどの剛力を持ち、光るような戦闘のセンスがある。 おまけに遠慮が微塵ともない。
 黒の色をしておらず金に映る髪、大人顔負けの長身を持ち、アタシの友人とはまた違ったタイプの鋭い眼をさせた学生。
 まるでライオンを思わせる男の子。


 ―――まさに獅子だ。


 なんとなく興味を惹かれた。
 獅子には…“獅子のような存在”には浅からぬ過去が自分にはあった。
 だから、無視する事ができなかった。

 暴力など関係なしに、有象無象とは違う引力を秘める彼に近づいた。
 “渦中の中に踏み込んで”観察してみたが…彼は、ずいぶんと退屈そうな眼をさせていた。

 野生の獣に近い獰猛な性質を秘め、苛立ちと退屈が入り交じった眼をさせた少年。
 類い稀な力と才能あるのに、社会の中では活かされない素質が彼を燻らせている。

 力に精神が追従し、周りに融け込める事ができず、能力に寄りかかる生き方になってしまう社会不適合者…。

 あの時、互いに視線を交わしたが…一言も言葉を交わす事もなかった。
 結局、教師らしき人達がやってきて彼からその場を立ち去る事で終わった。

 それがつい昨日の事―――。

 縁も所縁もないから、当然彼とはそれっきりだ。
 グアムの地でたまたま出会っただけの巡り合せ。

 だがしかし…彼がこの学生達この中に混じっているとしたら…。

「(奇縁があったら…もしかしたら顔を合わすかも知れないわね)」 

 そう思うと、ちょっと楽しみになった。
 見上げるほどの体格はあっても、彼はアタシにとっては“男の子”なのだ。
 もしかしたら、一回り近く年下だと思われる男の子に出会えるかもしれない、というそんな運任せ…いや、示し合わせが訪れる事をちょっと期待を寄せた。

「ん」

 ふと、視線を感じた。

 頭を隠すために帽子を被っている上に、顔を伏せているのに意図的に向けてくる意識に体を起こす。
 咄嗟に頬杖を止めた手をジャケットの裏側に忍ばせながら目線を上げた。

 するとそこには、制服を身に包んだ女性がカートを押しながら佇んでいた。

「あ、あの…コーヒーはいかがですか?」

 視線を上げたアタシに、辿たどしい口調でその人は勧めてくる。
 そんな気はなかったのだが、返した意識が鋭かったため、スチュワーデス――今ではCA(キャビンアテンダント)と呼ぶか――は睨まれたと感じたようだ。

 温和そうだが気弱そうな面をしていて、女性の象徴が少々…いや、かなりボリュームがある双丘がやたらと目を引くが、新米なのか作業じみたサービスといったものを感じない初々しさがある。
 そんな女性に、反射的とはいえ可哀想なことをした。

「…」
「あ、えと……How about some coffee?」

 沈黙していたら、CAに外人と思われたようだ。
 母譲りの蒼い目と黒かったはずの髪もまた蒼く()まり切っているため、その容姿は日本人離れしている。
 それなりに勉強したとも思われるネイティブさがない英語に対して、アタシは普通に日本語で返した。

「お願いするわ、ミルクでぬるめてね」
「え、ぁ…は、はい!」

 外国人だと思ったら口に出た日本語に混乱して、CAは咄嗟に強い返事を返す。

 そこからの動作は何とも落ち着かないものだった。
 カートからコップを出すのに両手で取り出すなどや、湯気を立たせるコーヒーとミルクを注ぐ手が揺れていたりなど、簡単な作業のはずなのに見ていて危なっかしい。
 いや、本当に危ない。 冷まして、と言ったはずなのにミルクの量が足りないから舌を腫らすには十分なほど熱量が残っていると湯気が自己主張している。
 しかもそれをまた両手に持って、コップを凝視しながら持ち上げた。

 本人は注意深くしているのだろう。
 しかし彼女は、一点以外の周りが見えてない。

 逆に危うい。
 そのままだと、どこかに体をぶつけてしまう。

「あ、あぁ!?」

 そら見ろ。

 CAはカートに体をぶつけて体勢を崩した。

 手を伸ばせば済むのに、コップを持ち上げたままの状態で肘を折っていた腕は硬直したように固まっていた。
 緊張でガチガチになっていて、まるで熱湯を持つかのような慎重な姿勢だ。
 固まってる体で無理やり腰を捻らせて、視界の外にあったカートに気を配らなかった。

 結果、衝撃でコップは容易くも両手から離れた。


 ―――コップと黒い液体を目で追う。


「(…“同調”して動きを読むまでもない)」

 瞬時に手を伸ばす。
 こちらに向かって飛来してくるコップを掴み取り、宙を飛ぶコーヒーを掬い上げるように持ち上げた。
 コップを持った手は、扇状に広がる液体の動きに沿って翻す。
 一瞬の内に、一滴たりとも溢れ落とす事なく全てコップの中に収まり、チャプ…とコーヒーが軽く跳ねるに終わった。

 CAの顔を窺うと、あ…ぁぅ…と狼狽していた。
 緊張に続くハプニングから、目の前で起きた妙技を見せられたら言葉を無くすものだろう。

「……気を付けてね」

 それだけ言ってやった。
 本音を言えば、ミルクを注いでもう少し冷ましてほしかったが、狼狽したままだとどんなドジをするかわかったものじゃない。

「す、す、すみません!」

 やはり新米だ。
 慌ててギクシャクした謝り方をする辺り、どうも慣れていないのだろう。
 アタシとしてはこの程度の事で怒るつもりはないので、適当に返事してコーヒーを口に含んだ。

「(…熱い)」

 やっぱり熱くて、舌がヒリヒリした。

「…では、ごゆっく…―――」

 そんなお決まりのセリフを聞く時だった。


 違和感を“感じた”。

「―――」

 それはまるで体が分裂するかのような、物理的にピントが歪む。
 天地がひっくり返るように、グラリ、と上下が入れ混じって目が回る。
 彼岸の境界線を超えたかのように、何かが乖離してしまいそうな気持ち悪さが襲う。

 そんな違和感。

 だが…そんな現象がアタシの肉体に起きるわけがない。
 変わったのは……密閉された空間の、鉄の壁向こうに広がる『世界』。


 そこに繋がるアタシの“感覚”がズレたのだ―――。


 次の刹那、旅客機が激しく揺れた。


「きゃああぁぁぁぁあっ!!」

 強烈な浮遊感。

 地に足が付かなくなり、天井に叩きつけられるほどの重力への反逆が襲い掛かり、一瞬にして辺りは阿鼻叫喚に包まれる。
 突然の出来事に誰もが状況についていけず、人々はわけもわからず叫び出す。
 宙に浮かぶ感覚を覚える中、アタシの視界でシートベルトしていなかった者等が紙屑のように荒れ乱れる。

 アタシだけは冷静に、その重力に沿わない運動の流れの中にいた。
 天井にぶつかろうとすれば逆さまに着地し、横へと流されそうなら適当な所に捕まり、飛来してくる物体があれば人間以外なら遠慮なく蹴り飛ばした。
 事程度の“些事”は慣れたものだ。 オフロードを走る輸送車に迫撃砲を撃ち込まれるのと比べれば大差ない。

 波紋は続く。
 何らかの“一線”を超えた旅客機はまさに、水面に落とした一滴の水だ。
 一滴がもたらした波紋は押しては引いていくかの如く、旅客機はその波に揉まれている。

 しかし、波紋はやがてさざ波一つない静かな水面へと静まる。

 時間にして数秒の事。

「ふむ……収まったみたいね」

 旅客機は静まり返った。
 峠ならぬ、波は越えたようだ。

 辺りはトランクから飛び出た荷物が散乱して、台風一過の惨状と化していた。
 耳には風を切る鈍い轟音が入ってくるようになり、悲鳴の代わりに今度は動揺の声が広がる。
 周りで…エアポケットか?や、乱気流か?などと動転する声がざわめく。

「み、皆さん! お、落ち着いてくださいっ、どうかご着席ください!」

 傍で混乱とは違う声がしてそちらに視線を向けると、先ほど私にコーヒーを渡してくれたACがそこにいた。
 あの揺れでもそれほど離れていなかったのかだいぶ近くにいた。 怪我してない所を見ると運がイイ。
 ACとしての客らを宥めようとしているが、その姿勢は立派だった、中々肝が据わっている…こんな突然の事態にこうも早く立ち直れるのはベテランでなければ難しい所だ。
 新米だからか腰砕けになっていて立てないようであるけど、それでも上出来といった所だ。
 心構えが出来ているか、先人の教えがよかったからなのかもしれない。

「大丈夫?」

 立てるかしら?と言って、ご立派ながらも情けない体勢でいたCAに手を差し伸べた。
 誰も耳を傾けなどしない動揺と恐れが千々乱れるこの状況で、まともに意思疎通ができる者がいた事に顔を明るくさせた。

「あ…はい! あ、りがとう…ございます」

 心細かったのだろうか、嬉しそうに声を弾ませながら立ち上がった。

 軽く頭を垂れて礼をしてから間を置かずに切り替わって周りを宥める行動へと戻った。
 す…すぐにアナウンスしますからどうか皆様落ち着いてください、と周りに向けて気丈に振舞おうとしてそう言う。
 新米だけど、やはりこのCAは行動の速さと肝がある…しかし、彼女の言葉は届く事はない。


 フッ…と、突如の闇の(とばり)が降りた。


 灯りを必要としない昼の光が消え失せた。
 窓の外には地平線の果てまで陽の光が届かない闇が広がっていた。
 これは日が落ちたとか…そんなレベルじゃない、日食でもありえないような怪奇現象だ。

 強烈な揺れを体験から間もなく、闇という身近な恐怖に襲いかかられば、混乱の声が一層激しくなる。
 困惑の色が濃くなり、激しい喧騒がCAの声をかき消す。
 誰も理解できない。 現代の知識ではとても追いつかない状況の変化に理解が及ばない者らは狭い機内で迷走する。

 通常では理解できないだろう。
 ましてやこの状況を説明出来る者などいない。

 正直、アタシですらよくわからない…こんな密閉空間なのだから伝わる情報が極端に希薄で全く“同調”出来ないのが歯痒かった。
 だが、これだけはわかる…これは有り触れた自然現象ではないのだと。

 頭の中で警鐘(けいしょう)が鳴る。
 何もわからない、事態を把握できないという状況において、何か行動しないといけないという焦燥(しょうそう)感がアタシを急き立てる。
 いつ命を落としてもおかしくないような世界の中で培ったこの直感は、時として女のカンのように強烈な説得力を持つ。

 そう判断して行動に移すのはすぐだった。

 こんな鉄の棺桶の中に燻っていられない。
 少なくとも外に“繋がらがない”限り、何かあっても対処できなければ、棺桶という比喩(ひゆ)が冗談でなくなってしまう可能性がある。

 アタシはショルダーバッグを取り、慌てふためく乗客らに目もくれず、避難用出入口へと向かった。

 ブーツが通路を叩くような早歩きで真っ直ぐ通路を突き進む。
 途中で何人かが廊下で右往左往していた。 アタシは立ち止まらずに避けたりはするが、邪魔なようなら乱暴に突き飛ばした。
 だがそれに怒りを覚える者はいない。
 このような混乱は人に平常心を失わせる。
 場に呑まれて個の理性が失う異常な空間の中、誰もアタシという存在に気に留める事はない。
 自分の身に何が起こっているのかわからず興奮状態に陥っていて、突き飛ばされた事に対して怒りを覚える間がないのだ。

 ここは異常だから、自分のようにこういう事に慣れてしまっている人間か、あるいは恐怖というモノに対して己を保てるような強い心を持った者でないと、奮い立つ事はできない。


「な、なぁあんた!」

 そんなまさかだった。

 この状況の中で、理性を残した声がアタシを呼びかける者がいた。
 雑音のように声が混じり合っている環境なのにやけに耳に通る若い声。

 危機感をよそに、アタシはその声の方に振り向いた。

「……―――」

 そこにいたのは一人の男の子だった。

 呼び止めるために手を伸ばした姿勢のまま固まり、アタシと視線を交差させる。

 まっすぐな目だ。
 緩い顔だけど、未熟ながらも芯を持っているイイ瞳を中心に(たた)えていた。

 初めて見る男の子。
 学生らしき風貌(ふうぼう)をさせた。
 かつての“あいつ”に似てる子…。

 胸の奥から懐かしさと痛みとやるせなさが込み上げる。
 それと同時に…アタシの中で、目の前の彼に対する強い意識と印象が産まれる。

 睨みつけるように男の子を見る。

 視線は目に…その中心にある瞳に焦点を絞る。
 奥に仕舞い込んだ記憶を重ね合わせるように、“あいつ”と近しいものが宿らせたその目を覗き込む。

 顔も髪型も年齢も空気も…当たり前だが“あいつ”とは違う。 だけど…それでも似通った印象が彼の中にある。
 アタシにとっては過去のもので…愛しいもので…憎いもので…切ないもので…忘がたいもの……。
 男の子のそれは、無意識の表面上に現れる程度のものだけど…あれと似た『(輝き)』をずっと探し求めているからわかる。

 過去にその目をしていた者は歪みだった。
 ならば、アタシの前にいるこの子は―――?

「あ…―――」

 男の子は何か言いかけようとした。

 だが…それが紡がれる前に―――。

「っ―――」

 足元が浮いた。

「っ、あ…!!」

 アタシ達の、視線の邂逅(かいこう)を遮るように浮遊感が不意を衝いてきた。
 それと同時に、旅客機を“上下”に揺らすような激しい振動が襲う。

 これは…先ほどのモノとは違う境界の一線を越えた瞬間だった。

「ギャアアァァーッ!!」
「イ、ヤアァァァァ!」
「落ちてるッ! 落ちてるよっー!!」
「助けて! 誰か、助けてぇっ!!」

 誰もがこの現象を直感的に悟っただろう。
 視覚に寄らずにも、体が感じる異常が否応なく連想させる。
 自重が不安定なほど軽くなり、重力に引っ張られながらも下へと流され落ちるようなこの体感は…墜落。

 それはつまり―――。

 巨大な鉄の塊が空を飛翔するほどの力が…重力に逆らって宙に留まらせるはずのその均衡(きんこう)が―――崩れたのだ。

 落ちていく。

 遥か上空から地上へと叩きつけられる…あまりにも単純な死の形。
 突き付けられるイメージに、人々は恐れ戦く感情一色に染まった。
 耳が痛くなるような数と音量の悲鳴が多重奏となって響く。


 もはや、一刻に猶予もなかった。

「―――!」

 少年の事は頭から追い出し、翻して弾けるように駆け出した。
 体は可能な限り低く這い、足だけでなく、手をも使って四肢を操って俊敏な獣のように動く。

 入り組んだ茨のように乗客の間を縫えば、そこには非常口があった。
 通常ならこの状況で開くべきない扉。
 たしか、これが開くと一緒になって滑り台のバルーンが展張するというものだったが…構う事はなかった。

 操作すると、重厚な開閉音はしなかった。
 耳がつんざくような風音によってかき消されたからだ。

「くっ…」

 機内の空気が吐き出されるような気流に、不安定な足元から吹き飛ばされてしまいそうになる。
 思いの外、浮遊感を相手にしながらだと姿勢制御もままならない。
 前髪も暴れるようにはためいて目を開けるのを妨げる。

「―――、――」

 心を落ち着かせ、繋がった外気にアタシは身を任せた。
 そして、意識を伸ばす。

 意識を宙に…いや、隙間なく満たす外界へと浸透させる。

 意識は空気へ、大気へ、空へと…天空へと、その領域を広大なほどに展開する。
 溢れるほどの万能感と、開放感が心身を満たして…アタシの感覚が接続された。
 体の中で五感に似た感覚器官が開花するような、知覚する世界が大幅に拡大される体感。

 アタシと世界は“繋がった”。

「―――」

 “繋がる”と同時に、体は不協和から開放された。

 落ちるという動きに惑わされず、世界の感覚によって姿勢が安定した。
 激流も身を委ねれば清流となるように、落下する流れに合わせる。
 重力も、慣性も、運動も…世界の物理法則による“動き”を読めるアタシは、暴れる空間の中、根を張ったかのように足元が安定する。

「(―――視える)」

 感覚を通してハッキリと視える。
 旅客機の形を指でなぞるように手応えが明確になり、手を水に浸けるように大気の流れが流線を描いているのがわかる。

 辺り一帯はアタシの意識によって掌握された。
 この巨大な旅客機全体を包み込んでもなお余りあるアタシの領域。


 ―――それゆえに、判ってしまう。



 “何か”に捕まっていた。

 世界を広く感じるアタシの感覚は視た。
 辺り丸ごと包み込むような大きな存在が旅客機を捉えた。

 まるで巨人の手に握られたかのように、重力や風力を無視して急激な速度で墜落していく。
 エンジンがあろうとも、巨大な翼があろうとも、風に頼る事でしか飛ぶ事ができない旅客機は、圧倒的な力によって天空から引きずりおろされるだけだった。
 それはありえない現象だ。

 だが実際にそれは起こっている。
 どんな理由があって世界がそれを認めているのかわからないが…神羅万象という名のシステム内で、それは現象という形をして、旅客機をどこかへと引きずり込もうとしている“流れ”をたしかに感じている。
 世の中にはそういうものが存在する。
 電磁の荒れる場に呑み込まれたり、重力の境目に踏み込んでしまった事で堕ちたりなど…世の中には謎めいていながらもこういった現象の魔手が有り得るのだ。

 既に高度は地上からわずか数百メートルにまで下がっていた。
 まさか、これほど低くなっているとは思わなかった。
 旅客機の中にいる間に一体どれだけ時間がかかっていたのか…それとも、落ちる速度がそれほどまでなのか。

 これはもはや…制御機動に戻す事は不可能だ…!

 しかし…この時点でも、不時着は可能だ。

「(…って、なにこれ!?)」

 不時着は出来る…だがそれは衝撃を殺すための海があるからだ。

 だがしかし、下は……海の代わりに大地が広がっていた。
 なぜだ…と自問せずにはいられなかった。
 グアムから日本の間のルートで、この辺りには小島はおろか陸地がほとんどない海域のはずなのだ。

 おかしい…だけど、考える間はない。

 今すぐに何とかしないと、この旅客機は地面に叩きつけられて確実に四散する。
 海と違って、陸地だとその危険度に大きな開きがあって、生存率はほぼ絶望的になる。
 多くの命が失う。

「やるしかない…!」

 決断して、アタシは非常口から外へと躍り出た。
 暴風の中に投げ出されたアタシの体は当然、紙のように吹き飛ばされる。
 だが、そんな暴風の中でも、アタシは泳ぐようにその姿勢を整えると…懐から刀身のない柄を取り出した。

 逆手にそれを持って、アタシは念じる。
 するとその柄は、虚空を塗りつぶすように刃が具現化した。
 それは神秘によって編まれていて、アタシの意思によってその姿を現す武装。

 後ろに旅客機の大きな翼が広げられているのを確認する。
 アタシは姿勢を制御し、その翼の上を掠めるように集中する。

 自身と翼が交差する。
 その刹那に、アタシは翼の縁に鉤爪の如く刃を突き立てた。

「っ…!」

 わずか一秒足らずの出来事だった。
 この行動から息をつく間もなく、次の圧力がアタシに襲いかかる。

 流れに逆らうように翼に捕まるアタシの体に、圧倒的な圧力で風が叩きつけてきた。
 今すぐでにも吹き飛ばされようとしている体に、腕の筋が容赦なく引っ張られる。
 顔の造形が変形してしまいそうな風圧に、息をする事すらつらい。

 長くは持たない。
 旅客機が落ちる方が早いか、アタシが耐えれなくなる方が早いか、どちらも時間はない。

 アタシはすぐに意識を、世界へと更に深く浸透させた。

 意識の糸は、溶け込むだけなく、もっと奥にある世界の明確な領域…すなわち惑星という個へと接続する。
 一つの生命体と考えるガイア理論のように、惑星は意思を持つ。
 深く、深く…万能感で満ちるほどにアタシと惑星を同調させれば、その果てにあるのは等しく世界と同じ力を得る。

 アタシは、それと繋ぐ能力を持っている。
 それは大きな可能性を秘める力。
 世界が司るのは神羅万象。
 表すのは現象という名の意思。

 アタシの意思は、世界の意思。
 アタシが望めば、世界もそれと同じ意思になる。
 空想のようなありえない現象を、世界はそれを具現化させる。

 世界がそれを可能にする。
 アタシは、それを可能にさせる。

 それは…この旅客機に乗る数百人の命を無駄にさせない事も、不可能じゃない。

「―――、――、―」

 思い浮かべる。


 この万能感が導くままに、旅客機を墜落から防ぐためのイメージを造り上げる。
 イメージが、アタシの意思が世界に伝わる。
 世界はノータイムでそれを形にする。


 ―――それが、アタシの力だ。


 思い浮かべるのは…鉄の塊を支える網、其を成す大気の壁。
 それは、巨大な受け皿。

 現象が紡がれ、現実のものになった。
 大気の受け皿が、落ちていく旅客機の下に現れる。
 透明だが、角度を変えればその歪みが見える高圧縮の空気だ。

 旅客機の形を保ち、尚且つ落下速度を殺すために作り上げた分厚い膜。


 巨大な受け皿は、旅客機を受けとめる。
 機内で衝撃を受けた乗客の悲鳴が一層けたたましく響く。
 失速に等しい旅客機は、その腹を滑らせて失った揚力をその翼に吹き込んで一瞬だけ持ち直した…かのように見えた。

 大気の膜が押し潰されていた。
 固形ではなく気体でしかないその受け皿は、その圧倒的な重さに削られた。
 圧縮して固めた空気は拡散し、重力に引っ張られる鉄の塊は壁を破った。

「(…重すぎる!!)」

 単純にそう叫びたくなった。

 落下の速度は若干削いだ。 だがそれだけだ。
 旅客機は鉄の塊だ。 そしてその中には何百人ものの人と大量の荷物を含んでいる。
 その重さを計算したら頭が痛くなる。 金魚掬いのポイみたいなものだ。
 支えられる強度はあれど、暴れれば当然破れるのと一緒だ。

 しかし、それ以上強度を高めれば、その重みと落下運動のエネルギーに機体もろとも乗客が耐えられないのだ。
 いくら墜落を防ぐためとはいえ…ヘタに圧力を高めれば、墜落した瞬間と変わりないものになってしまう。

 …一度では諦めない。 何度でもやろう。
 自分のやっている事が無駄だと諦めるのなら…アタシは最初からこうしてはいない!


「―――、――、―」

 イメージを紡ぎ、受け皿を重ねる。

 旅客機は何度も緩和する動きに胴体を揺らしながらも、凶悪な重さで救命するはずの受け皿を砕く。
 そして受け皿の成れの果ては何層ものの大気の輪を作り上げる。

 翼に張り付いているアタシは振り落とされないよう手に力を込める。
 地上に辿り着くまでのチキンレースの限界点は近づく。
 もし、これで止められなかったら…自分を優先しないといけない。

 既に二桁に至るほど層が破られた。
 地面もだいぶ近い。
 あと数枚は張れるが…そこからはもう限界だ。

 ここまで来たら…といっそアタシは少し無茶を敢行しようとした。

「―――、――、―」

 もっと厚く、そして硬く、大気を固めるイメージを創り出す。
 今度は、視界が大きく歪んだ。
 光が歪みそうな厚い空気の層が接触すると…旅客機に衝撃が走った。

 速度は殺しても、落下し続ける旅客機は壁に衝突する。
 圧縮された空気を散らしながらも、鉄の胴体が崩壊してしまいそうな怪音を轟かせる。
 持たせてっ…と心の中で強く訴えて、胸が締まりそうな思いを詰まらせる。

 その時だった―――この行為が裏目に出たのは。

「……!?」

 人が、宙に放り出されていた。

 アタシが開けた非常口から人が飛び出したのだ。
 衝突にも近い衝撃は、機内を大きく揺らしただろう。
 その中で、その衝撃に振り回されずにいた者がどれだけいただろうか?

 そんな、わずかな焦りで出た軽挙によってこぼれ落ちた数は…三人!
 何もない中空に投げ出された三つの人影に、アタシは思考を走らせる。

「(シィット! なんて…迂闊(うかつ)!!)」

 戸惑う間はなかった。
 既に限界点も近く、これ以上ここには居られなかった。

 手に握る刀剣の刀身を消し去る。
 支えを失ったアタシの体は吹き荒れる風に連れ去られた。

 瞬く間に、旅客機が離れていく。
 視界を巡らせ、放り出された三人を探した。

「(いた…!)」

 落ちていくのに暴れる様子もなければ、叫ぶといった素振りを見せない辺り、どうやら三人とも気を失っているようだった。
 三人の位置を確認し、アタシは再び…大気の壁を造り上げる。

「―――、――、―」

 今度は受け皿ではなく、この身動きの取れない空間に置ける足場をイメージする。
 人が足を付けるには十分なほどの質量を伴うソレはアタシにしか知覚できない。
 夜闇の虚空の中、アタシはそれを蹴りつけた。

 一歩で軌道を変える。
 二歩で最寄りの人を捕まえた。
 三歩で次の人に寄り付ける。
 四歩、五歩と落下速度を殺してその人を受け止めた。
 六歩で今度は逆に加速した。

 二人を抱えてのアクロバティック。
 もはや三百メートルもあるかどうかという高さまで来ている危険なノーロープバンジーで、地面に向かって加速する。
 足りない、と思ったアタシは更に追加で足場を作り二度目の加速を付ける。

 そして見つける。
 水の中に沈んでいくような体勢でグッタリと脱力させる女性の姿。
 アタシはそれに追いつき手繰り寄せる。

 三人も抱き抱えるのはかなり厳しいが、それでも取りこぼさないようしっかり抱き寄せる。
 あとは下に落ちるだけだった。

 だがその前に……。

「……」

 既に遠くなっていった旅客機に視線を向ける。 

 視線の先には鉄の(とり)が堕ちていくのが見えた。
 アタシ達を置き去りにしていったソレは闇に溶けてしまいそうになりながら、その翼もろとも大地へと引き摺りおろされようとしていた。

 下は地面。 視ればそこには…多くの緑と、歪な土塊(つちくれ)の大地。
 速度は出来る限りは削いだ…が、叩きつけられば五体満足でいられるかどうかはわからない。

 悔やむわけじゃないが、やり切れたと思えない自分がいる。
 人命を尊ぶほど徳はない自分ではあるが、ただ…この望まぬ展開には納得しかねる所があった。

「理想的な結末、とは言い難いわね…」

 冷めたような自嘲を漏らす。

 それを最後に視線を外し、内に燻るものを抱えたまま世界に次のイメージを伝える。

 静かな宵闇(よいやみ)の中、イメージは如実に現象となって表れるよう世界は応える。
 ゼリー状の水の塊がアタシ達をくるんで、一滴の雫のように地面へと吸い込まれていった。 
 

 
後書き
◆ゼリー状の水の塊。
 映画「FINAL FANTASY」に登場する描写。
 全身を水の塊で覆って、落下の衝撃を緩和したのと同じもの。
 睦月達はこれを使ってノーロープバンジーノーパラシュート落下による危機は免れた。 
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