探し求めてエデンの檻
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1-1話
前書き
明日の今頃、俺は何してる?
いつもどおり何も変わらないなんて思っているんだろうけど…本当にそうだといいねぇ。
人生は変わる/変わりたい―――平凡かもしれない毎日に、水面に石を投げ込むような大きな事が起こるかもしれない。
自分という人間が変わって、視界に映る世界が全く別のものになるかもしれない。
そんな期待を抱いて、仙石アキラは明日に希望を賭ける。
「仙石ぅ…この馬鹿が!」
「すみません!!」
航空機の入口でオレは響くような怒号を叩きつけられた。
エンジンの駆動音すらかき消しそうな怒鳴り声に対して、同じボリュームで返事を返す。
両手に一杯の荷物を吊り下げながら、オレは土下座しそうな勢いで謝罪した。
怒り心頭で眉を顰める男性教師は今にも拳を振り下ろしそうなほど青筋が立っている。
普段の行いが行いなだけに、そうされてもおかしくない。
思えば、グアムでは日常を離れたという実感を得るためにあんな事やこんな事をしたもんだ。
若さゆえの誤ちというか…ちょっとやりすぎたと思う。
片方何キロにもなる荷物のせいで、腕が震えてきたが、怒髪天《どはつてん》を衝いている教師の目の前で迂闊《うかつ》な動きは出来なかった。
「全く貴様は…」
「あ、あのぉ……そろそろヒコーキ出ちゃうんですけど」
近くで控えていたスチュワーデスさんが、おずおずと話しかけてきた。
教師の怒りに怯えているのかどこか頼りなさそうな感じだ、スチュワーデスとしてどうかと思うけど…。
現在、怒られてる理由は単純にして明快だ。
“色々”と買い物をしていたから既に離陸時間は超過《ちょうか》しているのだ。
この航空機には半分以上が学生で占められてはいるけど、一般客も結構な数が乗っている。
迷惑なんてこの時点でかけてしまっているけど、これ以上の時間の遅れも流石にまずいので教師も仕方なく怒りをおさめる。
「…そうですね、すみませんね。 もう出発していいと伝えてください」
「は、はいっ」
ようやく開放されたとオレは安堵して、教師の横を通り過ぎる…が。
「仙石…覚えておけよ。 この件に関しては近いうちにタップリと、な?」
…やっぱりそんなムシの良い話はないですよね、はい。
―――10月4日 快晴 太平洋上空。
≪出発が遅れましたことを、皆様に重ねてお詫び申し上げます。 当機はただ今、高度一万メートルで安定飛行に入りました。 約二時間半ほどで日本へ到着の予定です≫
何百人ものの人を乗せられた航空機のアナウンスは慣れた感じで伝えてくる。
学生二百人弱と教師十人ちょいに白い視線を浴びながらもオレは帰路に着いた。
あっという間のグアム旅行だった。
時速で何百キロものの速度を出す航空機は二時間半で元の日常に戻る。
喧しくも談話をはばからない生徒達もまた、日本という故郷に帰ってそれぞれの生活に戻るだろう。
それがオレ自身…仙石《せんごく》アキラを含めての日常だ。
まぁ…そんな事はどうでもよかった。
今だけはそんな事は忘れたい。
「せ、仙石…よせ……マジかよお前」
呆れるように学友達が宥めてくるが無視した。
「はまっ…へもっ! ひあのふぉれは、ふうっ…のひいふぉふぁひぃんだ!」
黙ってろ!今のオレは食うのに忙しいんだ!
そんな言葉さえも勿体なく思えるほど、オレの口の中は忙《せわ》しなかった。 物理的に。
「いや、でも…よぅ」
「いくらなんでも多すぎだろ! というか買いすぎだ! フードファイターにでもなるつもりか!?」
「うぇっぷ…アホだ、アホがいる…」
「昼メシ食ったよな、こいつ…? み、見てるだけで胸焼けしそう…」
「あー…大盛りで…しかもおかわりしてたぜ…。 その上でどんだけ買ってきたんだよ…胃がパンパンになって破裂するだろ…」
だから五月蝿いっての。
もうほぼ自棄になって、ひたすら限界まで食う。
自分でもアホかと思えるような衝動買いで買い込んだ弁当の山だが、食わなきゃ勿体無かった。
貧乏性じみた性分と食い意地が言う…『それを捨てるなどとんでもない』、と。
ドカ食いして忙しなく食い物を口に運びながらも、それを誤魔化すように言い訳を言う。
「ごちゃごちゃうっせぇなー…デッカくなるんだよオレァ」
そう言い訳するも、これは嘘じゃない。
オレは人より少し背が小さい方だ。
身長《タッパ》のある親友がいるから、対象的に背丈が物足りなく思っている。
おまけに人に宿題や勉強を手伝ってもらっているようなバカだから、イイ所なしだ。
ならばせめて背だけでも、と無茶食いして背丈を伸ばそうと今更なあがきを思いつく。
「アホだろお前。 そんだけ食えばデッカくなるだろうよ、横にな」
「…こんなの買ってて飛行機遅らせるとかバカとしか言えないだろ」
うっ…それは言うな。
飛行機を遅らせた原因は確かにオレだから、かなり迷惑かけているのはわかる。
けど、“色々”と買うために時間が掛かったのだから仕方なかったんだ…“色々”とな。
だが、それを言い訳に口にするのは“恥ずかしい”。
もくもく…もくもく…むぐむぐ……げふぅ…―――。
終盤、もはや苦行となってきた食事もつらくなってきた。
勢いでしゃにむに食いまくって弁当を胃袋に叩き込むが…何とか完食した。
あの量は流石に自分も無茶だとは思ったけど…人間、意外とやれば出来るものである。
やはり、無理なものでも人間やれば出来るものだ。
「う~……よ~し! メシも食ったし…」
締めのドリンクを飲み干して空になったコップをシートの台に置いて、オレは口端を緩ませた。
「そろそろ見っか。 例のアレ…」
グラム旅行が帰路に付いても、まだ楽しみは残っている。
周りには既に数人の男子が集まっていた。
こういう事に限っては鼻が効くのが、待ちわびたと言わんばかりに期待を膨らませている顔が揃っていた。
思春期真っ盛りの同類なだけあって、言葉はなくとも勝手に集まってくる。
全く、お前らって奴らはとことん好きものだな。 オレもだけど。
「エイケン、例のものを!」
「う、うん。 はい」
手渡されたのはビデオカメラ。
この修学旅行のようなイベントでは、積極的に趣味に走るやつがいる。
オレ…いや、オレ達はそれに乗っかるのも、修学旅行の醍醐味の一つだった。
エイケンと呼ばれるクラスメイトが渡したそのビデオカメラは、彼の自慢の一品らしい。
旅行中ほとんど手放さず、ずっと修学旅行の光景を撮影し続けていて、そのメモリアルが詰まっている。
これは所謂《いわゆる》男子にとってお宝も同然の代物だ。
グアムと言えばリゾート、つまり…そこには海辺があって、学生達は海を見たら泳がずにはいられない。
ならば、男女入り乱れて水辺で戯れるしかない……あとは、言わなくてもわかるよな?
『おぉぉぉ…!』
映像が再生されて一分も経たずに息を飲む声が重なる。
貴重な体験をそのままの形で記録された映像は…素晴らしいものだった。
「ス…スゲェェ。 胸でけぇ! 何年生だよこれ!?」
「おお……輝かしき修学旅行のメモリー…!」
「水着がエロい! 生きててよかった…俺、男でよかった!」
ビデオカメラの中には、水着姿の美少女達が戯れていた。
オレ達の母校にはスタイルも容姿がイイ子が多い。
カメラマンであるエイケンが厳選した選りすぐりの被写体を、一瞬たりとも見逃す事なく映像の中に収まっている。
モニターに映し出されている映像に、男子達は食いつくように視線を集中させて鼻の下を伸ばしていた。 勿論オレも含めて、だ。
修学旅行中に、覗きとかもやったけど…こうして映像に残っているものは、直に見るのとはまた別格の魅力がある。
「流石はエイケン、お前はプロ級のカメラマンだよ!」
オレはこのカメラの持ち主であるオレと同じ三年四組のクラスメイト、森田真《もりたまこと》を褒め称える。
趣味の範疇を超えて本職に迫るほどに撮影が得意なため、通称エイケンと呼んでいる。
「ラ、ライフワーク」
彼はそのたどたどしい口調とオレよりも小柄な背丈、そして目が隠れるような髪型のせいで地味なやつだと思われがちだ。
しかし、独力でカメラの性能をフルに使いこなす腕前は、間違いなく本物だ。
かなりこだわりがあるらしく、高スペックカメラの機能を持て余す事なく手足の一部のように使いこなしている。
趣味を兼ねたライフワークが将来の本業となるのはきっと数年後だろう。
いやしかし、これは本当にけしからん…どれもこれもハイレベルな女子が多く、粒揃いである。
それを狙ってしっかりカメラに収めてるエイケンには本当に感謝だ。
「たまんねぇ…こいつとか、いーい体してんなぁ…」
「バカ、声でけーよ」
「俺はこの腰のラインが犯罪レベルだと思うぞ」
「マジに犯罪に走るなよ、俺は走りたい」
考えることは皆同じで、頭の中でどんな事を描いているのか想像に難くない。
全員とも鼻息が荒く、煩悩まみれの男臭い空間になってきた。
「うおっ!?」
その時、それは現れた。
ビキニ水着に包まれた魅惑的な肢体だ。
これまでとはまた一段とスタイルが良い…だがそれ以上に全員の心を惹きつけるブツがそれは備わっていた。
「で…でけぇ…」
それは胸だった。
カメラフレームに映っているのは首から下だけだったが、これだけでも迫力満点だ!
露出の高いビキニ水着を一層刺激的に魅せる透き通るような白い肌、きゅっと括れた腰に肉付きよく引き締まったヒップライン!
引き締まった腰のくびれもそうだが、その上にある水風船かと思えるような揺れるこの胸!
丸々と育ったメロンのようで形は決して悪くなく、その美しいその双丘は自己主張が激しく、バルンッて効果音が付きそうなほど柔らかい弾力は水着からこぼれてしまいそうなほどに弾むわ弾む!
ヤバイ、これは反則だ…このバストはもはや中学生の胸じゃない。
興奮も最高潮になり、見るだけじゃ満足できなくなる。
モニターの中にいるこのおっぱいに手が伸ばせるものなら既に伸ばしている! 誰だってそうする! オレだってそうする!!
ここにいる皆がそう心の中でそうシンクロさせたはずだ。
頭の中が噴火しそうな刺激されたオレは食い入るようにモニターを覗き込む。
「このおっぱい…いやこの女子は誰だ!?」
「だ、誰よ一体!! このおっぱいの持ち主は!」
「おおおおおお落ち着け仙石、顔、出るぞ!」
狭苦しいモニターを覗き込もうと殺到する。
どうやらビーチバレーをしていたのか、ボスンとボールが弾む音がして被写体がよろめく。
いかがわしいアングルで捉えるソレは、砂場に尻餅を付いて低い体勢になる、その瞬間に晒された素顔に、オレは息を呑んで固まった。
「おおおっ!!」
「赤神りおんだあぁ!!」
「我が世の春がキターーーッ!」
―――それはよく見知った顔だった。
「我が校のナンバーワンアイドルにして体操部のエース!」
「彼女にしたいランキングNO1! むしろ俺の彼女にしてぇ!」
幼さを残したあどけさがあるのに、その容姿は蕾《つぼみ》どころか開花した華のような魅力的な顔立ちだ。
明るい表情がとてもよく似合い、パッチリとした目も真っ赤な唇も綺麗なラインの鼻筋も、全部が全部可愛いとしか言えない。
頭には両サイドにリボンで結んだテールが特徴で、日本人らしい絹のような黒髪が太陽に反射して輝いて見えた。
―――オレの幼馴染だった。
「―――!」
「――、――!」
男子達は、被写体がりおんだと知るとテンションが上がる。
だがオレはそれが耳に入らなかった。 映像の中にいるのがりおんなのだと知って、少なからずショックを受けた。
それに引き換え男子達はエロで頭が一杯で、各々が勝手な事を言っている様子だ。
このケダモノどもが…っ!
幼馴染の好奇の目に晒されるのが…何となく嫌で、苛立ちながら無意識に立ち上がった。
「…何のマネだ仙石?」
「…何って…別に?」
男子達の目が冷めたものになる。
いやこれも当然だろう。 いきなりこんな事すれば皆の視線も尖る。
シートの上に乗り上がり、カメラを高く掲げているオレは明後日の方向を向いた。
しかしやったしまった後で、その場をうまく丸め込ませられるほどオレは要領が良くなかった。
「お…お前、やっぱり赤神を!」
「ふざけんな、汚ねーぞー仙石!! てめぇだけ独り占めかよ!」
「りおんちゃんはてめぇのモンじゃねえ、皆のものだ! 俺のものだ!」
騒がしく喚く男子たちはブーイングを飛ばす。
野次に混じって、妙な疑惑をかけようとする言葉に思いっきり反応してしまった。
「うるせーーー!! あ、あいつはただの幼馴染だっつーの!! そして誰がてめぇのだ!」
その時だった。
「へへっ、もーらいっ♪」
誰かが、オレの手からカメラを奪い取った。
『あ』
高く掲げていたはずのカメラを強奪したそいつの方へと振り返って、オレは血の気が引いた。
「り……りおん!?」
「さっきからずいぶんと賑やかだけど、何を見てたのかな?」
そこにいたのは、件の幼馴染…赤神りおんその人だった。
ある意味、先生よりも、親よりも、そのカメラの内容を最も見られてはいけない相手だ。
「い、一抜けた。 あとは任せた」
「お、俺も…じゃーな仙石!」
「は、はぁっ!? あ、お、おいっ、お前ら!」
こ…こいつら、同じ穴のムジナのくせに…。
普段ならりおんが現れただけで、喜ぶような奴らなのに都合が悪い時だけは逃げ足は速いな、おいっ。
しかも、隣の席の奴まで逃げ出していった。
その間にも、りおんはカメラの映像を覗き込もうとしていた。
逃げるタイミングを失ったオレは地獄の一丁目に差し掛かる。
こ、これはまずい…。
「んー、どれどれ…何かな、これは~♪」
興味津々そうにカメラを覗くりおん。
断っておくが内容は一応健全だ。
だが、エイケンが撮影したシーンはどれもりおんの羞恥心と怒りを煽るには十分すぎるのだ。
幼馴染だからこそ、付き合いが長いオレにはわかる。
りおんにエロい事してると知られた時は、それが例えエロ本程度でも顔を真っ赤にさせながら怒る。 それも物理的にだ。
昔からよく知っているだけに、オレに対してかなり遠慮がない。
数々のあられもないアングルの記録映像を知られたら、顔を真っ赤にしながら「ヘンタイ!!」とか言って、往復ビンタされる事が目に見えていた。
エ、エイケェェェェン、助けてくれー!
「(許せ、アキラ…)」
は、薄情者ぉぉぉっ。
この映像を撮ったのも、このカメラの持ち主なのもお前だろうがあぁぁぁー!
既に避難圏まで距離にまで離れている友人を呪った!
謝ってるポーズはいらねえぇー!
オレ、終わった……。
「うわっ、何この人! 髪キレー!」
「…え?」
身構えていたら、りおんから予想外の反応が返ってきた。
カメラの中に一体何が映ってるのか気になり、一緒になって覗き込んでみた。
そこにいたのは、オレの日常に衝撃を与えるようなものだった。
それは“蒼い人”だった。
何よりも眼を引いたのは、髪だった。
空の色を表したかのような蒼い細糸を靡かせるポニーテール。
金の髪や赤の髪などはあるけど、蒼い髪というのはかなり珍しかった…。
コスプレか染色…というには髪の色が紛い物みたいな安物の印象が感じられない。
まるで地毛のように、しなやかでキューティクルに包まれた髪がそのまま蒼色に染め上げたかのように不自然に映らない。
それほどまでに似合っていた。
髪色と同じようにその瞳もまた青く、体付きからしてオレ達より年上なのがわかる。
顔はちょっと童顔っぽいけど、どことなく“大人”と違った落ち着いた佇まい。
軽装に使い古したショルダーバッグを肩に掛けているようだが、泳ぎに来ている様子には見えない。
だけど…この人からはどこか、引き寄せられるような雰囲気を帯びていた。
学生だとか社会人だとか…そんなしがらみなど全く感じさせない…髪が蒼いから青空を連想させる。
旅人ではなく、風来坊でもなく…ただ行きたい所に赴く風のような感じをしていた。
掴み所がなさそうで、されど芯といったものを持ちながら流れていきそうな……。
この女の人はそれくらい…自由そうな印象を覚えた。
「……」
「……」
りおんと一緒になってオレは、モニターの中にいるその人が踵を返すまで見惚れていた。
「あぁその人、昨日海辺の近くにいたんだよ。 蒼い髪をしていたからすごく目立っていたからすぐ気付いたよ。 しばらくして立ち去っていったけどね」
「へぇ……地元の人、なのかな?」
「さぁ…撮っていただけだから、それ以上はわからないけど」
それは残念だ。
出来れば、もうちょっとどういう人か知りたかったんだけど…通りすがりみたいだし、仕方ないか。
「あ、そういえばアキラくん!」
「な、なんだよ?」
「ここ、散らかしすぎ!」
りおんが下を指差す。
そこにはプラスチックパックやら弁当の包みが散乱していて、通路にまではみ出るほどの有様だった。
食い散らかしたまま水着鑑賞に食いついていたのだから、当然片付けてなどいない。
「まったくもう…ほら、片付けるの手伝ってあげるから、通路に落ちてるのもちゃんと拾って」
「へいへい…」
渋々ながらもりおんの言うとおりに片付け始める。
口うるさい委員長みたいに品行方正というわけじゃないけど、それくらいの良識と常識はある。
しかし、当たり前のようにりおんが手伝い始めると、補佐とメインが入れ替わる。
オレが一つや二つを片付けてる間に、りおんにかかれば十も片付くほど要領がイイ。
片付けはあっと言う間に終わった。
片付け終わったのにりおんは立ち去るどころか、なぜか隣の席に居座った。
その席にいたはずの男子達は恐れをなして、いまだに戻ってこない。
「ったく…何しに来たんだよりおん。 まさか片付けるためだけに来たのか?」
「なによー、用がないと来ちゃいけないわけ? いいじゃない幼馴染なんだから」
ああ、こいつは本当におせっかいだ。
同じ三年だけど、もうクラスは違うのにこいつは何かとこっちに干渉してくる。
昔ながらの幼馴染でベタベタしてくるのが決して嫌だというわけじゃないが・・・ただ好意を素直に受け止めるには恥ずかしい。
こいつが向けてくる感情に対して直視する事ができず、捻くれてた性根は感情とは全く別の事を口走る。
「いいって、ほっとけよ。 子供じゃないんだから、毎度毎度構う事はないだろ」
「…ほっとけるわけないよ」
彼女は微笑みながらそんな事を言った。
そのセリフにオレは思わずドキッとする。
彼女のセリフに、もしかしたら…と期待が頭を過ぎる。
「だって頼まれちゃったんだもん、おばさまに」
「あんのクソババァァ~~~!!」
おせっかいなのはりおんだけでなく、おふくろも含めてだった。
期待したオレがバカだったよ!
親がりおんに何かと頼む事が多いのは前からずっと知っていた。
元からおせっかいな性格によるものだという事もあり、これはこれで嬉しくもある。
期待していた分、ひどい肩透かしを食らった気分だ。
「お前もそんなこと真に受けてんじゃねーよ! あんなの律儀に聞く必要ないんだから」
「まーたそんな憎まれ口を。 そんな事言って…これは何かな~っと」
するとこいつはいきなり、隣の席からオレの膝の上を乗り上げて、通路側の肘掛けに吊り下げていた荷物を漁り始めた。
「ちょ、な、何だよおいっ!?」
反射的に後ずさる。
だが背にはシートがあるからそれ以上距離を離せないため、こうも無防備に接触してくるりおんに嫌でも釘付けになった。
こういう所は遠慮がない距離感に、オレの気持ちなどお構いなしだ。
至近距離で視界に飛び込んできた柔らかそうな背中やうなじと、わすかに膝に乗る弾力と重みにドギマギした。
「おばさまへのお土産でしょ、コレ」
肘掛けにかけていた手提げ袋を手にりおんはそう指摘した。
その時、オレは火がついたのように赤く染まった。
「うっ…な、何を根拠に…」
「アキラくんの事なんか何でもお見通しなのよ。 カタコトしか英語しゃべれないから、コレ選ぶのずいぶん苦労してたじゃない?」
手提げ袋の中身をそう推理してくる。
口では知らばっくれたが、全部当たりだった。
適当に選んでガッカリさせたくなかったから、どんな土産を選べば喜ぶか、弁当などを買いながらいくつもの土産店を回ったおかげで、航空機の時間を大幅に遅らせてしまったのが本当の理由だった。
「(ぐぅ…まるで、ずっと見てきたかのように鋭い事を言うな……)」
そこで疑問に思った。
「(ずっと? もしかしてこいつは、最初から傍にいたのか?)」
自分はたしかにカタコトの英語で質問してたが、全部がそういうわけじゃない。
最初から最後まで見てなければそんな事わからない事だ。
りおんはオレの事を見ていたのだとしたら…。
「(んな事あるわけーか……たまたまだ。 たまたま…)」
かぶりを振って、期待と共についさっきの考えを払拭する。
自分の気持ちが報われるとか、そんな都合のいい事あるわけがない。
また肩透かしを味わうつもりはなかったから、モヤモヤする気持ちのままりおんから視線を外した。
「よっ、アキラ」
するとその先には新たな来訪者がいた。
りおんに続いて舞い込んできたのは、オレを覆うほどの大きな人影だった。
見上げると、そこにはまたオレにとって見知った顔があった。
こーちゃん…親友の有田幸平《ありたこうへい》だ。
これまたりおんとは別のベクトルで中学生を逸脱した容姿だった。
シャツは学生ズボンに入れず、学ランのボタンを中途半端に止めている。
見ようによってはだらしない格好だが、この親友のタッパとガタイとルックスの三拍子が揃うとその限りではない。
ルックスも当然だが、ここ数年で急激に見上げるほど成長した高い身長が非常によく似合うのだ。
最初出会った時は自分と変わらない程度だったのに追い抜かれるのはあっという間だった。
同じ三年でありながら、チビな自分から見れば見上げてしまうほどの長身は高校生…いや大学生とも見違うほどにキマっていて、同じ男のオレから見てもカッコいいと思う。
「…出たよ、スーパーマンが」
嫌味ったらしく言う。
だがそれもそうだろう、カッコいい同級生がいれば当然モテる。
カッコよければカッコいいほど、やっかみでお邪魔虫扱いされる事も少なくない。
現在進行系で多くの女生徒の人気を掻っ攫うものだから、彼の後ろで写メ撮らせてとせがむ声がうるさかった。
「相変わらず人気あるわねー有田くん、流石バレーボール部のスーパーエース。 アキラくんとは大違い」
「悪かったなホケツでよ!」
…羨ましくもあれば妬ましくもある。
りおんの言われるまでもない。
こーちゃんは背丈だけではなく、ダメ人間なオレとじゃその違いは明確なのだ。
「ワリーな、ちょっと詰めてくれ」
こーちゃん、お前もか。
りおんと同じく、こいつまでここに座るつもりらしい。
まぁ、本来ここにいるはずの席の主がいまだに戻ってこないから別にいいけど…。
後ろの女子達を宥めつつ、こーちゃんは遠慮なく隣の席に腰を下ろしてきた。
「何の用だよこーちゃん」
「うははっ。 冷たいじゃねーの、親友によー」
重ねて言うが、こーちゃんとは親友だ。
オレみたいな取り柄のないやつが親友だから、凸凹コンビとか噂されたりするけど、彼は何かと構ってくれている。
だから、こーちゃんが何の意味もなくオレの席にまで来てくれるとはオレは思わなかった。
ただ……ニタリと浮かべる笑みが気味悪かった。
「…で、ヤったか?」
「っ……な、何をだよ?」
「うはははははっ!」
いきなりの事でつい口篭って返事を返したが、大笑いされた。
「おいおい水臭いだろ、誤魔化すなよ」
するとこーちゃんは部で鍛えた太い腕でオレの首を締めてきた。
別段苦しくはないけど、オレの動きを拘束するには十分な力が込められていた。
そして、その体勢のままオレに耳打ちをしてきた。
「“ヤった”かなんて、お前でも意味はわかってんだろ。 オレが訊きたいのはだな~…赤神との仲の事だよ。 旅行中に進展あったんだろ?ん~? 親友のオレに押してくれよぉ?」
「……っ!」
ボッ、と火が付いたかのように顔が熱くなる。
エロトーク・エロ鑑賞・エロの所業、とエロ三昧なオレでもこーちゃんのとんでもない言は聞き捨てならなかった。
りおんには聞こえない程度に声を荒げて、胴体にパンチを食らわせてやった。
…全然効かないけど。
「あ、あほかっ、そんなのあるわけねーだろっ! オレとりおんはそんなんじゃあ…!」
すると、すごい顔をされた。
うわ、なにこいつ心底見損なった…と言わんばかりに顔全体で語っていた。
「何やってんだこのタコォッ! グアムが勝負だってあれほど言ったじゃねぇーか! オレはお前のためを思って忠告をだな…!」
「だからカンケーねーっつってんだろが!」
反撃を加えつつもムキになって否定する。
口では頑なにそう繕うも、本当の所は心の奥底ではりおんの事で想う所があるのは事実だった。
最初こそグアム旅行という日常にない空間で何かが変わるかもしれないと、そう考えもした…。
だがが、その考えはすぐに消えた。
視界は確かに変わった。
だが“見方”まで変わるほどではなかった。
グアムは日常にはなかった風景をさせていたけど、そこで自分が変われるほどの事があるはずもなかった。
何も変わらないままオレはただバカをやって、迷惑かけてまで騒いでグアムの空気に浸っていた。
こーちゃんは本当にオレの事を気にかけてくれて、それが嬉しくもあるけど…これ以上背中を押さないで欲しかった。
オレはただの“仙石アキラ”のままでしかないから…変われない自分がつらい。
オレは自覚しながらも、自分勝手で否定的だ…。
「ねえ、さっきから何の話してるの?」
「別に、くだんねー話だよ」
「おいおい、くだらないってのはねーだろー」
オレなんかがりおんと? そんなの無理だよ。
こーちゃんは応援してくれてるけど、そんなのありえない。
りおんは学校一の美少女で、頭も良い上に体操部のエースなんだぞ…いくら幼馴染だからって、どう考えても不釣合いだ。
オレは……こーちゃんみたいにカッコ良くない。
それと比べて、オレはただの補欠の劣等生。 チビでバカで…それにちょっとエロいし、声と態度がデカいだけのお調子モンだ。
180センチ超えのイケメンで、バレーボール部期待のエースのこーちゃんと比べれば何もかもが劣っていて、親友どころか幼馴染にすら誇れる所がない。
そんなオレがりおんとどうこうなるなんて事があるはずがない。
考えたってムダだ。 無駄無駄無駄ッ。
前途がない自分に気分が滅入ってしまう。
世の中というのは不公平だ。
こんな不公平な人生なんてつまらない。
“仙石アキラ”の眼に映る全てのものが曇って映る…眩しく映らないものだからつまらない。
考えれば考えるほど、劣等感に気分が腐る。
そんなオレが変われるなんてありえない。
どう転んだってオレはダメ人間で、どんどん腐っていくに違いないだろう。
“仙石アキラ”が変わる事ができないのなら……いっその事自分以外のものが変わるしかないだろう。
それこそ―――。
「この世界が変わりでもしねー限り…な」
つい、そんな事を呟いた。
「ぷ…くくく…」
「ちょ、ちょっと急に何を…ふふ…あはは…」
「ポエム! ポエムか、アキラが!? うはははっ!!」
「なっ…ち、違…」
思わず考えていた事を口に出してしまった。
何か言い訳しようとするが、その前に二人が笑いを堪えずに爆笑する…主にこーちゃんが。
「あーははははぁ!」
「わ、笑っちゃ悪いわよ有田く…くくくっ…」
「だから、違うっつってんだろぉぉ!」
オレの悩みなど知らない二人だから、オレはムキになって一緒になって騒ぎ出す。
二人に悪気はないとはわかってはいるけど、自分でもらしくない事を言ったものだ。
そんなバカ騒ぎをしていると…咎める言葉が投げかけられた。
「おい…うるさいぞ」
「う…」
声は前の席からした。
オレは謝るついでにどんなやつか顔を見ようとシートに乗り上げて覗き込んでみた。
…この時、オレは覗いた事を少し後悔した。
「わりーわりー……げっ、真理谷か」
「げっ、とは失礼だな君は」
生意気な事を言うこの少年は、真理谷四郎《まりやしろう》。
グアムにまで持ってきたノートパソコンを神経質そうにキーボードを叩きながら、不機嫌な雰囲気を醸し出している。
その背はとても小さく、かなり小さめの学生服を身に包んでいるが…これでもこいつはオレと同じ学年なのである。
オレよりも更に小柄な奴であるが、その頭脳は学年最高のものである。
「ん…スゲーじゃん、それプログラムってやつか?」
その時、真理谷の持っているノートパソコンの画面に視線がいった。
ネットの画面とは違う、複雑そうな文字羅列を並ばせている。
それが次々とキーボードを叩く音に合わせて行数を増やしていく様を見て、話題になると思った。
「よくわかんねぇけど、流石は3年連続学年トップの…」
「9年連続だが?」
しかし、真理谷は遮るように言葉を被せてきた。
「記録に価値などない。 頂点などにも興味などない……が、物事は正確に言え、不愉快だ」
ああそうだ。 こいつはこういうヤツだ。 オレはこいつが苦手だ。
9年…小学を入学した時から学年の頂点を欲しいがままにしてきただけあって、拘りがあるというか…結構プライドが高い。
何度か会話した記憶はあるけど…そのプライドと神経質な性格のせいで辛辣《しんらつ》なセリフを返されるから絶句するしかなかった。
間違った事にはきついセリフで指摘して訂正せずにはいられないその気性は、頭が悪いオレとはあまり相性がよくない。
もしこいつと口で喧嘩しても、上から目線で論破されそうだから勝てる気しない。
嫌いというわけじゃないけど、こいつと会話が付き合うのは敬遠する。
「そ、そっか…悪いな、間違えてよ」
「待ちたまえ」
頭を引っ込めようとした所で、真理谷に二の句を続けてきた。
オレと違って苦手意識など持たない彼は、まだ話があるようだった。
勘弁して欲しい…。
「ちょうどいい所だから、この際言わせてもらおう。 先ほどからずっと黙っていたが…男が集まって水着鑑賞などであまり下品な事を言うのを控えた方がいいぞ。 場所を選んでくれないと、傍で聞かされる側にとっては不愉快でしかないのだから」
んなっ…! な、なぜその事を…!?
いや、前の席にいてあれほど騒いでいればいくらでも耳に入るのも当然だ。
男子が揃いも揃って鼻の下を伸ばしながら、散々エロい事を口々にしてたんだから迷惑はかけただろう。
だけど、なぜそれを今言う…それもりおんの前で!
さっきはたまたま問題のシーンを見られる事はなかったから危うい所を回避したが、それ知った今では……。
「えぇ! ちょっとなにそれ!? アキラくん、それってどういう事!?」
「あ、いやそれはだなぁ…」
当然りおんは怒る。
たまたまあの蒼い女性の場面だったから勘違いしていたが、カメラの中身を知らないりおんは顔を赤くさせて眉を顰めて問いただしてくる。
これがカメラの本当の内容が知られたらこれの数倍は羞恥心一杯にして怒っていたところだ。
こーちゃんはこーちゃんでニヤニヤしてるだけで、切り口となった真理谷も興味がないとばかりに背を向けていた。
誰に助けられる事はなく、りおんの追求が激しくなってくる。
「ねぇ、アキラくんってば!!」
赤くなった顔で詰め寄ってきたりおんが、手を伸ばして掴み掛ろうとした。
―――その瞬間。
“違和感”がオレの中をよぎり、視界がブレた。
「うわああぁーーーッ!」
何が起きたかわからない。
ほんの一瞬の出来事。
世界が…航空機が揺れ、りおんの手が急速に離れていき、オレの体が投げ出された。
足元は床から浮かび、平衡感覚が崩れて無重力感を覚えた。
悲鳴はオレだけではなく、何人の人がオレと同じ異変が起こっているのか叫び声が轟いて聞こえる。
「ア、アキラくんッ!」
多くの悲鳴に混じってりおんがオレを呼んだ。
だが世界がグルリと廻《まわ》る感覚に眼が追いつかず、りおんの姿を見失ったまま、オレは頭をしこたま打ち付けた。
「あ、ぐっ…!!」
衝撃で痛みが頭の中を突き抜け、目の前が真っ白になる。
それからも体は打ち付けながらめちゃくちゃに転がっていく。
全体が…揺れていた。
触れるもの全てが上下左右に揺さぶり、オレの体を拒絶するように跳ね飛ばしてシェイクする。
もがくように手を伸ばして、なんとか姿勢を整えようとしたら…そこで揺れは止まった。
「うぅ……」
時間にして数秒にしか満たない出来事だった。
しかし全身がズキズキと疼く。
体を痛めつけるには十分なほど揉まれていた…特に強く打ち付けた頭のせいで、眼が開けられなかった。
「ぅ……痛ってェ…」
ようやく揺れが止まった床に手を付いて何とか起き上がり、眼を開けると…それは散々たる光景が広がっていた。
衝撃でシートの上のトランクが開いたのか、そこから飛び出した荷物が散乱している。
ほとんどの者が姿勢を崩し、床に沈み、痛みに訴えて呻いていて、衝撃の威力を物語っていた。
「な……何だ? 今の揺れ……」
突然の事で理解が追いつかなかった。
ただ航空機が揺れた、というのはわかっていてもその度合いが大きすぎた。
まるで何かに衝突したものじゃないか、とオレはそんなイメージを持つほどだった。
オレは周りを見渡して、こーちゃんは傍にいた女子を庇っていて、りおんもシートにしがみついていて何とか無事だった事に安堵する。
死人が出るほどじゃなかったようだけど、各々が動揺の声を上げてざわめく。
誰もが事態を把握出来ずにいて周囲は混乱する。
「エアポケットってヤツかぁ…?」
誰かがそんな事を言う。
荒れ狂う空気で航空機がそれに呑まれた…そんなイメージをこの事態に直結させた。
フッ、と光が消えた。
「なっ…停電……?」
まだ昼間だから機内灯はまだ点いていない。
光源となるはずの外光が消えたかのように、機内が闇に包まれた。
周りに色がなくなり、黒に塗りつぶされて代わりに音だけが鮮明に聞こえてくる。
突然の暗がりに女性達の悲鳴が上がり、男性達が動揺に喚き始める。
「………!? お…おい…そ、外…!?」
近くにいた窓際の生徒の言葉にオレはそれに目線を引き寄せられた。
その生徒は窓の外に視線が向けられていた、それに釣られてオレは覗いたその先もまた黒い闇だった。
まるで夜のような空だった。
「な…何で…? 今、昼…だろ……?」
オレと同じように、傍にいる生徒にも動揺が走る。
窓に近づいて注意深く見渡して、空も海も何も色も映さない世界がそこに広がっていた。
こんな事ありえない事だった。
この航空機に乗り込んだのは昼の前後だったはず、そこから離陸して三十分ぐらいしか経っていないのに時間の流れを突き破ったかのように世界は暗転していた。
昼が一瞬で夜になる。
そんなの天地がひっくり返るような非常識は全ての人間を惑わせた。
「―――」
誰もが混乱を深める中、全く別種の色と動きがオレの横を通り過ぎていった。
オレは周りの空気にそぐわないその存在を眼で追った。
錯乱する周りの事など意にも介さず、淀みない動きで通路を進んでいく女性の姿があった。
キャップ帽を被っているが、蒼い髪が尾を引くその後ろ姿を見間違えるわけがない。
エイケンのカメラの中にいたあの不思議な人そのものだった。
こんなわけのわからない状況に動じてるようには見えなかった。
それどころか周りを置き去りにして、ブーツの踵で床を叩き進むその様子は、まるで別世界の者であるかのように感じさせる。
オレはその振る舞いに興味以上のものを惹かれて、声をかけずにはいられなかった。
それほどまでに―――彼女は異質に映ったから。
「な、なぁあんた!」
つい日本語で呼びかけた。
相手が外国人かどうかもわからないのに、何も考えずにそう叫んでいた。
この騒ぎだ。 オレの声なんか、ましてや通じないかもしれない言葉など届かないと思っていた。
だが…悲鳴とどよめきが混じり合う雑音の中、打てば響くようにその人は反応した。
淀みなく進む足を止め、円を描くように髪をなびかせながらオレの方を振り向いた。
「―――…っ!」
キャップ帽の下から覗く視線に射抜かれた。
透き通る海のような青い瞳がオレに向かって鋭く見詰めてきた。
誰もが平静を失うようなこの状況なのに、強い意思を宿しているような深い瞳。
映像とはどこか実感が違う…心の奥底まで覗き込んできそうなその目線に、心臓が縮みそうになり言葉を失った。
この人はなんて…青くて、強い瞳をしているのだろうか。
「あ…―――」
何かを訊こうとした。
問い掛ける言葉など何も決めていないのに、オレは口が開いていた。
だが…その次の言葉は繋げられる事がないまま―――。
「!!!」
足元から体が落ちた。
「っ、あ…!!」
バランスを崩した足から上が重力に引っ張られそうになり、オレは傍にあったシートにしがみついた。
先ほどとは違って、今度は視界が“上下《たて》”に激しく揺れる。
浮遊感が胸に込み上がってくる。
航空機が飛ぶ力を失い、垂直に落下していくかのようなこの堕ちる感覚。
オレ達の乗るこの機体が…落ち始めていた。
「ギャアアァァーッ!!」
「イ、ヤアァァァァ!」
「落ちてるッ! 落ちてるよっー!!」
「助けて! 誰か、助けてぇっ!!」
周りは再び悲鳴の渦に呑み込まれた。
さっきよりも不安が何倍にも感じられる危機感が乗客たちを襲う。
この薄暗がりと立て続けに降りかかる異常事態のせいで、皆の心が恐怖に染まるのは一瞬だった。
「ヤ…ヤベーぞアキラ! まさかこのまま……!」
誰かに声をかけられてオレは眼を開けた。
落下の感覚に思わず視界を塞いでいたようだった。
周りに視線を流す。
そこには堕ちる感覚に身動きが出来ず、悲鳴を上げて顔を引き攣らせている者だけしかいなかった。
あの蒼い女性の姿はどこにもなく、幻のように影も残さず消え失せていた。
「(消えた………どこに…? …っ……りおん!!)」
オレはそこで、心の中で最も近しい人の姿をフラッシュバックさせた。
夢から覚めるように気持ちで現実に引き戻したりおんの安否に頭が一杯になる。
この混乱の中で離れ離れになってしまった幼馴染が気掛かりになり、弾かれるように踵を返した。
「(りおん…!)」
視界の効かない機内に眼をこらして彼女の姿を探す。
誰もこちらには目もくれず、各々が戦々恐々《せんせんきょうきょう》の思いで蹲っている。
オレだけが、他よりも何倍の動きで機内を探し回る。
どこだ…どこだ…どこだ……!
早く見つけたい…だが、足元がおぼつかない。
走っているのに、足が床を掴んでいる感覚が鈍い。
重力に追いつく速度で落ちていく航空機の中、シートに手をかけながら薄暗がりの中で人影を探す。
「りおん…りおん! りおん! りおん! りおぉん!!」
周りの悲鳴に負けないように喉が張り裂けそうになるほどに、彼女の名前を呼びかけた。
何度でも…。
「りおっ……あっ!」
―――そこにいた。
暗がりの中、彼女を見つけた。
同時に向こうもオレの事を見つけた。
通路の真ん中で小さくなり、パニックの渦に飲み込まれないよう蹲っていた彼女は、まるで洞窟の中で光を見つけたかのように手を伸ばしてきた。
そして彼女はこちらを意識してオレの名を叫んだ。
「アキラくん!」
差し出されたりおんの手を掴みとろうと、オレは伸ばした腕は―――。
「りお……!」
ついぞ繋がれる事はなかった。
「り・お・お・おおぉぉん!!」
――――――。
動物の鳴き声が聞こえた。
目覚まし時計のようにけたたましく、そして不快だった。
聞き覚えのない何種ものの鳴き声が入り雑じり、雑音となって眠りを妨げる。
海底に沈む砂のように、沈黙する闇の中にあったはず意識が覚醒へと引きずり出される。
一度浮上し始めればあとは速かった。
明確になっていく意識により耳が捉える雑音はボリュームを増し、五感《かんかく》が復活するのに時間は掛からなかった。
そして、触覚が感じられるようになった所で…なぜか鼻が痛かった。
「―――…う…ん……」
寝心地の悪さと鼻を痛みに呻きながら瞼を開けた。
するとそこには顔面があった。
「サ、る……!?」
見たこともない顔が獣であった奇妙さに跳ね起きた。
眠気など吹っ飛んだ。 混乱する頭は理解しようと必死に回転させようとする。
オレが反応すると、チンパンジーのような体格をさせた猿らしき獣は一目散に逃げていく。
その俊敏な後ろ姿を目で追う。
どんな種類かわからない未知の獣はオレという存在を恐れて、鬱蒼《うっそう》とした緑の中へと消えていく。
緑…?
森……?
鬱蒼《うっそう》とした森林?
自分でもおかしなものを見たことに気付いて、猿が消えていった場所から視界を周りへと広げた。
左右を振り向くと、そこには緑があった。
上をむいても木々があった。
どこを見渡しても自然があった。
土の匂いがした、動物の気配がした、森の生暖かい空気を感じた。
人工的な文明とは掛け離れた空気が辺りを支配している。
それは自分にとって慣れ親しんでないもの。
「ジャン…グル?」
見渡す限り生い茂る密林。
全く未知の世界の中にただ一人、オレは放り出されていた。
明日の今頃、それはいつもどおり何も変わらない人生になるはずだった。
変わる/変わりたいと願った自分は、いつか目に映る世界が別のものになるのを望んでいた。
だがそれは期待を裏切る。 平凡な毎日に石が投げ込まれる。
日常の中にいる自分ではなく、ましてや理想の自分でもなく、想像を超えた全く違う明日/世界がオレを迎えた。
それは…希望とは掛け離れた遠い世界だった。
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