ヴァレンタインから一週間
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第29話 黒の破壊神
前書き
第29話を更新します。
次の更新は、
9月16日、『私は何処から来て、何処に向かうのでしょうか?』第11話。
タイトルは、『耳元で甘く囁くのは魔物だそうですよ?』です。
9月21日、『蒼き夢の果てに』第72話。
タイトルは、『廃墟の聖堂』です。
煌々と照らし続ける蒼き月が支配する静寂の世界。
正面に見える校舎は夜の闇に沈み、
周囲からは生命体が存在する気配すら感じられる事もない。
そう。世界にあまねく存在し、異界化した空間で有ろうとも確実に存在しているはずの精霊たちですら、じっとその気配を消し、この出会いの結末を見守ろうとしているかのようで有った。
異界化した世界の中心。東中学のグラウンドの更に中心に存在する長身の黒い影。
まるで闇と同化したような自然な雰囲気で立つその黒い漢の前、大体二十メートルほどの距離を置いて立ち止まった俺と有希。
その瞬間、
「いい夜だな」
彼の見た目に相応しいややぞんざいな。そして、男性の魅力に溢れた低い声音でそう問い掛けて来る。
何故だか、思わず微笑みを返しそうになる、野生的な漢の笑みと共に……。
いや、黒い漢、……と表現はしましたが、現在の時間帯から考えると、彼の肌の色は赤銅色と表現すべきですか。そして髪はぼざぼざで手入れが一切されていない長い黒髪。
黒い……最早、服とは呼べないような襤褸切れを纏う長身痩躯の影。しかし、間違ってもみすぼらしいとは表現出来ない雰囲気。
そう。つい最近まで、何処かの前近代的な牢獄に閉じ込められていたとするならば、この目の前の漢のように成るのではないかと想像出来る姿。
「久しぶり、でええんかいな」
何となく、誘惑に勝てなかった俺が、その黒い男に敢えて再会の挨拶を行って見る。
その俺の口元を吐息が白くけぶらせた。
その瞬間、目の前の黒い男が話し掛けて来た時には、ヤツの吐息が凍る事が無かった事が、今更ながらに確認出来たのでした。
この目の前の男が人ならざる存在で有る、と言う事実を……。
「なんだ、キサマ。覚えていないのか?」
爛々と輝く青い瞳を少し驚いた雰囲気で見開き、そう俺に問い返して来る黒き漢。
暗闇に有って尚、その顔が西洋風の面差しの野性的な、……と表現すべき造作で有る事は見て取れる。
そして、全体的にやや細見と言うべき身体付きながらも、良く鍛えられた高密度の筋肉に因って守られている引き締まった身体。
「そうか、それはすまなんだな」
まるで、本当に昔の仲の良かった友人に対して謝るような軽い調子で答えを返す俺。
それに、どうやら以前の封印。西宮に残された伝承に関わったのも、俺の過去世か、それとも異世界同位体の仕事だったらしいと言う事が、今のヤツの答えで判りましたから。
そしてその部分が、俺がこの世界に呼び戻された理由だと言う事なのでしょう。
但し、転生前の俺が納得して為された事だったとしても、少し恨み言のひとつも言いたくなるのは事実なのですが。
他の誰でもない、転生前の俺自身にね。
「一応、俺の方にも色々と有ってな。残念ながら、オマエさんの事は綺麗さっぱり忘れて仕舞って居るんや。悪く思わんといてくれたら嬉しいな」
更に続く、軽い雰囲気の俺の答え。
まして、前回の羅睺星を封印した際の記憶も、もしかすると、このヤツとの戦いの内に思い出す可能性も有ると思いますから。
もっとも、今更、そんな事はどうでも良い事なのですが。
見た目からは東洋人とは違う、彫りの深い少しアクの強い顔立ち。野性的な、少し危険な臭いのする黒き漢を正面から見つめる俺。
そして、その時に自然と口角に笑みが浮かんで来るのを感じた。
その俺の笑みに気付いたのか、黒き漢の方もごく自然な雰囲気で笑みを返して来る。
悔しいけど、少年に過ぎない俺には絶対に真似の出来ない類の笑みを……。
「このまま、素直に捕まってくれる、と言う訳には行かへんかいな。
戦うとお互いに疲れるし、面倒臭い事はゴメンやろう?」
一応、そう聞いては見る俺……なのですが。多分、この羅睺星の神性や職能から考えると、それは無理な相談。
「キサマの役割……。この世界に与えられた役割がこの世界を護る事なら、オレの方が与えられた役割は、判っているだろう?」
意外と穏やかな口調で、羅睺星はそう言った。いや、この呼び名は、伝説に語られる破壊神に対しては失礼ですか。
彼の出自から考えるのならば。
コイツが神として天から与えられた職能。顕われると破壊しかもたらせない神では有るけど、それでも、それまでの停滞した状況を覆すだけの強力な力を持つ邪神。
そして、この世界にコイツが顕われたのは、一度は回避された黙示録の世が、クトゥルフの邪神に因って再び起きる危険性が発生した事に対する揺り戻し。
故に、ここでこの伝承の再現が行われなければ、黙示録の再現。クトゥルフの邪神の顕現が行われ、世界自体が崩壊する。
しかし、この伝承の再現に失敗すれば、この目の前の邪神の現実界の姿。最近、発見された彗星が地球に衝突する事に因り、世界が滅亡する未来が確定して仕舞う。
この未来は、どんな方法で有っても回避不能と成る。
但し、
「残念ながら、世界を護るだけが理由なら、俺は動きたくないんやけどね。何せ、横になったモンを立てにしようとせん程の横着モンやからな」
先ほどのラーフの台詞の中の誤りを、あっさりと口にする俺。俺は残念ながら、そんな英雄的な使命感の元に、この目の前の黒き破壊神と相対する訳では有りませんから。
そんなクダラナイ事の為ならば、素直に亮たち後進にすべてを任せて、年寄りはコタツでミカンでも食べて居ます。
それが出来ないから、真冬の夜中にこんな場所にまでやって来たのですから。
もっとも、この黒の破壊神殿に関しては、流石に口先八寸だけでお引き取り願えるような相手では無い、と言う事だけは確認出来ましたけどね。
今の短いやり取りだけで……。
「そろそろ、始めようか」
黒い漢……伝説の破壊神ラーフが戦いの始まりを、彼に相応しく。しかし、破壊神と呼ばれるには相応しくないおだやかな口調で告げて来る。
大気すらも固唾を呑んで見守るこの静寂の世界の中心から。
そうして、
「もう、時間も残っていないからな」
そう俺に告げてから、ニヤリと嗤ったその容貌は……伝説の邪神に相応しいモノに、俺には感じられたのでした。
☆★☆★☆
俺と有希の機先を制するかのように右腕を振るうラーフ。双方の距離は約二十メートル。
ほぼ同時に、俺がアガレスを起動。
そして、俺がラーフとの距離を詰め始めるのとほぼ同時に、有希がフォルトゥーナを起動させた事を確認。
良し。これで戦闘速度と言う部分でも双方五分と五分。
状況から考えるなら、どう考えてもこちらの方が勝る可能性の方が高い。
俺と有希を、ラーフが放った黒い何かが襲う……。おそらく、ヤツの髪の毛を黒い針へと変化させた無数の飛行物体が俺と有希を襲うのと、有希が何か紙切れらしき物を空中に放つのが、ほぼ同時であった。
しかし、次の瞬間。
俺達を襲った黒い奔流は、俺と有希を護る様に空中に浮かび上がる防御用の魔術回路……物理反射の不可視の壁に阻まれ、そのすべてがラーフの元に弾き返される!
同時に、有希の手より放たれていた紙切れ。万結作成の火界呪符から数多の炎が召喚された。
そう。呪符とは作製時に霊力が籠められて居る為に、起動用の口訣と導引を結ぶだけで、ほぼ誰にでも魔法が使用出来るように成ると言う魔法のアイテム。
まして、有希に関しては現水晶宮長史によってその仙術の才は保障され、現在、俺から霊気の補充を受けて居る以上、彼女の霊気は龍の気を帯びている。
活性化した炎の精霊たちが有希の周囲を舞い、霊力に明確な方向性が付けられ――――
刹那。俺は右腕を一閃。老君より授けられた神珍鉄製の針を、ラーフの放った黒い針と、有希の放った炎の嵐の中に紛れ込ませた!
ややバックステップを行いながら、前進を開始した俺との距離を一定に保とうとしたラーフに次々と命中して行く炎の塊と、そして、ヤツ自身が放った黒き奔流!
蒼き月の光りに支配された世界を紅蓮に染め上げ、一瞬の交錯の後に、すべての勝敗は決した。
……かに見えた。
しかし――
そう、しかし!
世界その物を完全に焼き尽くすかと思われた炎が、急速にその霊力を失って行き、次の瞬間には完全に鎮火して仕舞う。
そして、その紅蓮の炎が上がった場所には、月下に佇む黒き影の如き破壊神の姿が存在して居るだけで有った。
いや、校庭の土に無残に焼け焦げた痕が残る以上、其処で炎の精霊たちが歓喜の舞いを舞った事だけは間違いない。
「ほう」
しかし、何故かラーフは、少し驚いた顔で俺達の方を見つめる。
そして、
「さっきの攻撃は、すこしヤバかったな」
……と、かなり感心したような口調で話しかけて来たのだった。
……少しヤバい?
戦闘時で有る事も忘れ、立ち止まり黒き破壊神の姿を見つめる俺。そう。本来ならば、ヤツが完全に無傷で有る事は有り得ない。何故ならば、俺の放った針は、ラーフの右の琵琶骨を完全に捉えた事が確認出来ましたから。
そして、太上老君作製の宝貝が欠陥品で有る可能性は非常に低い。
それでも尚、ヤツが無傷で立ち続けられると言う事は……。
「そんなに驚く必要はないだろう。オマエ達が準備をしているように、オレだって準備をして来ているんだからな」
何かを指先で摘まむようにしながら、俺と有希に指し示すラーフ。
その指先に存在していたモノは……。
「名前も名乗らない怪しいヤツだったけどな。そいつが教えてくれたんだよ。兜卒宮の爺さんがヤバい代物を準備しているってな」
神珍鉄製の針が二本……おそらくは、俺が放ったモノと有希が火炎弾攻撃開始と同時に放って有ったモノだろう。その二本の針が、ラーフの指先に摘ままれていたのだった。
「もっとも、オマエとは古い知り合いだと言う話だったぜ!」
そう叫ぶと同時に、黒き右腕を一閃するラーフ。
その一瞬後、俺と有希を中心とした地点に、複数の雷が襲う!
但し! その雷さえもまた、不可視の壁……魔法反射によって、あっさりと、ラーフに対して全て弾き返して仕舞う。
空中に浮かび上がった魔術回路が消える一瞬前に、再び動き出す俺。
しかし、名前も名乗らないような怪しいヤツの言葉をあっさり信じたって言うのですか、この黒い破壊神さまは。
もっとも、コイツの能力を知っていたら、戦おうと思うヤツは殆んどいないだろうし、知らなければ、勝負を挑んだ後に瞬殺される。故に、少々怪しい相手でも別に警戒する必要はない、……と言う事なのでしょうが。
ほぼ戦闘に直接関係のない思考に埋め尽くされながらも、俺から少し距離を取ろうとしつつ有ったラーフに肉薄。
刹那、無造作に突き出して来る破壊神の右の拳を紙一重で躱し――――
ヤツが起こす風圧のみで僅かにぶれた態勢を利用して、左手を大地に付き、身体を沈めてからの足払い!
しかし!
僅かに身体を宙に浮かべ、足払いを躱すと同時に大地に片手を付いたままの俺の頭部に向かい足を繰り出して来るラーフ!
但し、そんな攻撃など、元々、想定の内!
大地に手を付いたのは何も足払いを行う為だけの物ではない。左腕を軸に足払いの遠心力を利用して片手で逆立ちを行う要領で大地から跳ね上がり、同時に更に身体を捻る事に因って、上空から迫り来るラーフの蹴りを躱しながら、こちらの逆立ち状態から放たれた回し蹴りがヤツの頭部を完全に捉えた。
今、俺の姿を傍から見ると、逆立ちをして両足を開いた状態で回転する独楽状態。
そう。この攻撃の方がむしろ本命。完全に勢いを付け、更に、防御に回すべき精霊力もすべて攻撃に回した渾身の一撃がラーフを完全に捉えたのだ!
普通の人間なら頭部が簡単に血煙に変わる威力の蹴りを側頭部に真面に食らったラーフが吹っ飛ばされ、そのまま校庭の隅に有る野球用のバックネットを完全に破壊。土煙の向こう側に姿を消す。
完全に視界が土煙に閉ざされ、一瞬の空白。
しかし……。
「……やれやれ。せっかくの太上老君製の霊験あらたかな有り難い宝貝やのに、そないに簡単に無効化されると、かなりへこむんやけどね」
完全に破壊され、未だ土煙に覆われたバックネット裏に向け、そう言葉を投げ掛ける俺。
但し、余裕のある口振りに反して、その頬からは深く切り裂かれた傷痕から生命の源が流れ出し、安物のトレーナーに紅い彩を付けて行く。
この傷痕は、完全にヤツの攻撃を躱した心算でしたが、風圧だけで簡単に頬を切り裂かれて居たと言う事。
それも、俺自身が従えて居る精霊の護りを貫いた上で。
これは、早い内に勝負を決めなければ、コチラの方がじり貧に成って行く一方で、勝機など訪れる事はない、と言う事なのでしょうね。
まして、治癒魔法を施す余裕は有りませんし。
何故ならば、未だヤツの神力は衰える事を知らず、そちらの方向からビンビンと伝わって来て居ましたから。
そして、
【有希。火界呪符で援護しつつ、罠……疾風呪符、石弾呪符、火界呪符の順番に重ねた呪符の束を五つ以上。出来るだけ作って、ヤツを追い込む先に仕込んで置いてくれ】
最悪の想定の為に用意して置いたシナリオを進める依頼を、【指向性の念話】で有希に対して行う俺。
そう。既に事態は最悪。老君作製の宝貝が真面な方法では機能しない。有希の放った火界呪符も効果なし。物理反射で反射されたヤツ自身の黒い針も、そして自ら放って来た雷撃を反射されても無傷。
そうして……。
ゆっくりと晴れて行く土煙。
その向こう側に立つ黒い――――
「相変わらず、小細工だけは得意なようだな」
自らの放った雷光をマトモに返され、更に、俺の渾身の蹴りをその頭部に受けてもまったくダメージを受けた様子も見せずに、伝説の破壊神は俺に対してそう話し掛けて来た。
ぞっとする嗤いを、その口の端に浮かべながら……。
「取り敢えず、誉めてくれてありがとさん、と答えたら良いのかな?」
【罠の形は、晴明桔梗。おそらく、それがヤツに一番効果を発揮する】
ラーフの言葉には、俺的には爽やかなアイドル系の笑顔プラス実際の言葉で応じ、有希に対しては【指向性の念話】で次の依頼を行った。
そう。この戦いの主は、最初のこちらからの攻撃が無効にされた段階で、有希に移って居ますから。
そして、俺に出来るのは……。
俺の事を炯々と輝く青の瞳で見つめながら、まるで血に飢えた猛獣の如き仕草でベロリと自らのくちびるを湿らせる破壊神の意識を、俺の方に向けさせる事だけ。
【口訣、導引共に火界呪と同じ。重要なのはその呪符の配置。
この順番を間違ったら、そもそも術が発動しない】
俺は、更に【念話】にて有希に対する依頼を行いながら、同時に右腕を軽く一閃。
次の刹那。何も無かったはずの空間から顕われ出でる蒼白き光輝。
その光輝が俺の右腕の動きに合わせて光の軌跡を空中に描き出し――
俺の右手に鎮護国家、破邪顕正を示す黒き鞘に納まった七星の宝刀が顕われていた。
その一部始終を見終えたラーフが、先ほどと同じような無造作な仕草で、こちらも右腕を一閃。
次の瞬間、ラーフの右手には、ヤツに相応しい黒を基調とした一振りの偃月刀が握られていた。
「やれやれ。少しぐらい手を抜いてくれたとしても、おそらく罰は当たらんと思うんやけどな」
黒曜石の輝きを放つ偃月刀……伝説上の破壊神ラーフが手にすると言う裏旋刃を見つめながら、そう軽い調子で台詞を口にする俺。
但し、伝説に残るあの偃月刀の一撃を真面に貰えば、俺は間違いなくこの世から消滅する。それぐらい剣呑な武器だったと思います。
伝説に名を残す裏旋刃と言う武器は。
「刀使いのキサマが愛刀を出した以上、オレの方も出さなければ、勝機は掴めないだろう?」
しかし、どうやら前回の戦いの結果、前世の俺に敗れ封印されていた破壊神が、俺自身も知らないような情報の暴露を行った。
成るほど。
伝承に有った一目連は片目の龍神の事だと思って居たのです、今のヤツの台詞から天目一個神の可能性も有り、と言う事ですか。
そんな、今考える必要のない、クダラナイ考えが頭を過ぎった刹那。
一瞬の隙を見逃す事もなく、再びラーフから黒い針が放たれた。
黒き奔流と化した無数の針。そのひとつひとつに必殺の力が籠められ、すべてが何処かしら俺の弱点。経絡を封じる点を目指して飛来する!
有希は――
問題なし。この黒き死の流れとは違う角度の先に存在し、更に、既に回避行動に移っている。
それならば!
しかし、今度は空中に逃れる事により、難なくコレ……黒い針の奔流を躱す俺。
見た目には華麗に。しかし、内心では冷や汗もののタイミングで。
そして……。
そして、空中からラーフを睥睨する俺の姿を、やや驚いた表情で見つめる有希。
「そうか。キサマは確か龍神。それも青龍だったな。ならば、オレのように光雲を呼びだす事なく、飛べる!」
そう叫ぶように言ったラーフが、裏旋刃を一閃。
そこに生じた黒い旋風と共に地を蹴った黒い破壊神が、空中の一点に留まる俺に肉薄する!
半歩、左足を引き、空中にて迎撃の構えを見せる俺。
そして、刹那。黒拵えの鞘から抜き放たれた蒼白き光輝を二閃!
最初の斬り上げた一閃で、裏旋刃の起こした黒い旋風を相殺。ニ閃目の斬り下げた一閃が、ラーフの左肩……つまり、左琵琶骨を襲った!
しかし、世にも妙なる音色を残して、俺の二閃による致命的な傷は防がれて仕舞う。
あっけない程、単純に。
ふわり、……と言う擬音と共に、自らの呼び出した光雲を踏んで、俺と同じように宙空に留まるラーフ。しかし、その左半身は己の流した赤い液体によって、しとどに濡らしてはいたのは間違い有りません。
但し同時に、その液体を吹き出していた傷自体が、既に塞がりつつ有ったのも確かな事実では有りましたが。
「不死身、言うのは誇大広告や無かったんやな」
ラーフよりやや高い位置から見下ろすようにして、そう問い掛ける俺。
その俺自身の身体にも、ラーフの完全に振り切られる事の無かった一閃が巻き起こした風圧により、袈裟懸けに斬り裂かれた表皮から血が溢れ出して居る。
一回、何らかの形でヤツと交錯する度に、同じような手傷を負って居たら、俺の方が確実に負ける。
その事実を、この傷が改めて教えてくれましたが……。
口調は平静そのもの。しかし、現実には、戦闘では有利と言われている高所に位置取りをしながらも、ヤツの発する神力に、そして能力の差に気圧されつつあるのは事実。
平静を装っては居るけど、本当はギリギリの状態で戦っているのは間違いない。
そう。この戦いは、俺に取っては異常に分の悪い戦いを強いられて居ますから。
相手は一撃でも良いから俺に入れたら勝ち。精霊の護りが有るから判らないけど、もしかすると、かすっただけでも終わりの可能性も有る。
対して俺の方は、決まった攻撃を、相手の決まった個所に打ち込まなければ、致命傷を与える事は不可能。
「そう言う割には、かなり反則気味の武器を手にしているようだけどな」
こちらの方は久しぶりの戦いが楽しくて仕方がない、と言う雰囲気でそう答えるラーフ。
これだから、バトルジャンキーの相手は苦労すると言う事。その上、コイツの能力。不死身と言う能力から考えると、今までの戦いは最終的に何時も勝利し続けて来たはずですから。
このラーフと言う破壊神は。
但し――
但し、本当に完全に捉えていたのなら、ラーフの左琵琶骨は、一時的で有ろうとも完全に両断していたはず。
しかし、実際は、有利なはずの上空を取った形、更に相手の攻撃を待ち構えていた状態で尚、表皮一枚のみに被害を与えるに止まり、致命傷を与える事が出来ない相手。
そして同時に、ヤツは不死では有るが、無敵ではない事も確認出来たのは大きい。
基本的には、ヤツの精霊の護りを越えた金属以外による攻撃は効果が有る。
「ホンマに、晴明桔梗印結界は機能しているんやろうか」
俺が再び独り言のように悪態を吐く。もっとも、これも所詮は時間稼ぎ。有希の準備が整うまで、俺にこの破壊神の注意を引き付けて置く為の小細工。
その言葉を聞いたラーフが、ニヤリと嗤う。
そして、
「世界を破壊する職能を持つ俺と、前世の能力を完全に取り戻せていないキサマとが互角に戦えている段階で、答えは見えて居るだろう?」
かなり余裕を感じさせる、しかし、内容に関しては余裕を感じさせない答えを返して来た。
その瞬間!
再び、紅蓮の炎の塊が雲の上に存在するラーフへと次々と命中。
そう。有希から罠の準備が完了した報せが【指向性の念話】で届くのと、ラーフが火炎弾で襲われるのは、ほぼ同時で有った。
【俺は、一気に三か所までなら、同時に攻撃出来る。せやから、ラーフが罠に掛かった瞬間、左右の琵琶骨と、アイツのノドを傷付ける。その瞬間に、有希は其処に針を転移させてくれ】
有希に作戦の最後の部分を【念話】にて告げる俺。これは所謂、三段突きと言われる技。
今回は手首の捻りを入れない予定ですから、普段よりは幾分殺傷能力には欠けるとは思いますが、その分、攻撃の精確さとスピードは十分な物が得られるはずです。
しかし、と言うべきなのか、それとも、矢張りと表現すべきか。
次々と線を引くように命中し続けた火界呪も、ヤツが纏う精霊の護りを破る事すら出来なかった。
そう。相変わらず雲の上に立ち続け、地上を凄まじい。一睨みされただけで、並みの人間――いや、下級の道士でさえも気死しかねない魔力が籠められている瞳で見つめる。
そして、
「チッ。そう言えば、女も一緒に居たな」
ラーフがそう言いながら、今度は左腕の方を小五月蠅げに振るった。
これは、明らかに不機嫌な雰囲気。おそらく、俺との戦いの邪魔をした蠅を手で追い払うと言う程度の気分なのでしょう。
そうして、
「女、そいつの相手でもしていろ!」
吐き捨てるように、そう叫ぶラーフ。
その瞬間、ヤツの左腕に装備されていた腕輪が、円盤状の光と成って、不規則の動きを繰り返しつつ有希に接近する。
しかし!
しかし、流石は長門有希。俺と暮らした一週間の間に、彼女が示した能力は伊達ではない。
自動追尾能力の有る円月輪と雖も、ギリギリまで招き寄せてから難なく躱して仕舞う。
そう。現在の彼女には女神フォルトゥーナの加護が有ります。更に、フォルトゥーナの能力を行使すれば、円月輪の動きを予測する事も可能ですから。
その刹那、ギリギリの場面で有希に躱される事により、彼女から大きく行き過ぎ、再び体勢を立て直そうとした円月輪を、俺の放った雷撃が空中で捉え、そのまま撃墜して仕舞った。
しかし――――
しかし、その様子を見ていた黒い破壊神が嗤った。まるで、ラーフの口から、瞳から、そして彼の身体そのものから、彼の存在に相応しい瘴気があふれ出したような、そんな気がする嗤いで有った。
「なるほど。英雄には、英雄に相応しい弱点が有る、と言う事か」
その瞬間に発せられた邪気と悪意に染まった嗤いが、俺の全身に怖気を走らせた。
「俺は、英雄なんて言う名前やないで!」
俺がそう叫びながら、ラーフに斬り掛かった。そう。この時が、俺の方からラーフに向けて、初めて先手で攻撃を仕掛けた瞬間であった。
そもそも、俺の剣は後の先。自分の方から動く時は、よほどの能力差がない限り勝機は少ない。
「遅いわ!」
ラーフは光雲から飛び降り、その光雲自体を俺に向かって動かす事に因り盾として使用。
ラーフの呼び出した光雲を両断した俺の口から、その瞬間に、絶望に彩られた叫びが漏れ出た。
そう。そのラーフの口より紡がれた呪文の正体に気付いた俺の口から、絶望の叫びが自然と漏れ出したのだ。
刹那、ラーフを示す漆黒の炎が、有希の全身を包み込んだ。
絶命の叫びさえ上げる事なく、漆黒の炎に沈み込む有希。
一瞬の静寂。
地上。有希の存在した場所には未だ黒き炎に包まれ、俺の方は呆然自失の状態でその様子を見つめるのみ。
戦場は、完全にその戦意を失い、世界の滅びの運命はその瞬間に決した。
そうして……。
「俺の黒炎に焼かれたら、どんな仙人かは知らないが、無事で――――」
ゆっくりと地上に降り立ったラーフが、まるで勝ち誇ったかのように、何かを言い掛けようとした。
――が、しかし!
すべての台詞を口にする前に、ヤツの周囲から爆発的に沸き起こった紅蓮の焔に、ラーフの黒い身体が包まれた。
【有希!】
当初、予定通り、有希に思考の一部領域を明け渡す俺。
俺の能力を有希が扱えるように成って居たが故に、可能と成った同期。
その刹那!
目も眩むような閃光と同時に、ラーフのノドと左右の鎖骨……つまり、ラゴウ星の仙骨と、左右の琵琶骨辺りに傷を付ける。
そう。完全に光輝と化した七星の宝刀は彼我の距離を無にし、
その紅い血風を吹き上げる傷口に、俺とシンクロ状態と成った有希が放った――――
そして……。
そして、世界すら焼き尽くすかと思われたその紅蓮の焔が完全に消え去った後、その場に存在して居たのは、
全身に酷い火傷を負い、神珍鉄製の鎖に覆われた黒い破壊神が、転がっているだけで有った。
後書き
それでは次回……最終回のタイトルは、『夜景』です。
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