ラ=トスカ
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第五幕その三
第五幕その三
「解かりました。ではどうぞ」
スポレッタは溜息をつきその願いを認めた。カヴァラドゥッシの後をスポレッタに導かれ処刑場へ向かって行く。
処刑場は城の屋上であった。この城では死刑囚の処刑も多かったが屋上でもそれが行われていたのである。
屋上には一つの穴がある。それはティベレ川へ向けられている。それは何故か。
斬首する。その首を穴へ落とす。すると首は穴を転がってゆきティベレ川へ落ちていくのである。
ユーモラスであるが残酷な話である。これも現世で人が為す事の一部分なのだ。
空は次第に明るくなろうとしている。東から暁を告げる仄かな光が差し込み始めている。だが空には星がまだ煌いている。雲一つ無い晴れ渡った空である。ローマ市中が一望出来るその中にはサン=ピエトロ寺院もファルネーゼ宮もある。サン=アントレア=ヴァッレ教会もだ。
その屋上の最も高い場所にまるでローマ全土を守護する様に立つ像がある。この城の名の由来ともなっている大天使ミカエルの像である。
今将に聖剣を鞘に納めんとするその像は十八世紀にピエター=フェルシャッフェルトによって作られた。黒死病をもたらした悪霊を降した姿をそのまま青銅の像としたのである。
この天使は悪を討ち滅ぼす天使であると同時に人の罪を裁く天使でもある。最後の審判の日に魂を計る天秤を持って人々の前に現われ、その善悪を計るのである。そしてそれを下にして人々は最後に神の下により裁かれるのである。
その天使が見守るこの城において今一人の男が処刑の場に現われた。ミカエルの眼にその男が映った。
カヴァラドゥッシはトスカに別れの挨拶を済ませ処刑場にいる士官の一人の後につき処刑の場に立った。それを見届け看守はこの場を去った。トスカはスポレッタに勧められ警備室に向かうがそこには入ろうとせずカヴァラドゥッシをしかと見詰めている。
トスカから見て正面の壁のところにカヴァラドゥッシは立っていた。銃を持ち立ち並ぶ兵士達の横から彼の姿がはっきりと見えている。
下士官がカヴァラドゥッシに歩み寄り目隠しをしようとするが彼は微笑んでそれを拒んだ。下士官は去った。そして兵士達の方へ行き何やら命令を与えている。
その一連の動作を見ながらトスカは考えていた。これからの事である。
(馬を替えながら行けば四時間でチヴェタヴェッキアまで行けるわね。そこからヴェネツィア行きの船に乗ればもう安心。私達の邪魔をするのは誰もいないわ)
カヴァラドゥッシを見る。毅然として立っている。
(マリオ、何て凛々しいの・・・・・・。本当に格好良いわ)
ちらりと階段を見た。一抹の不安が脳裏をよぎった。
(誰かがあの男を起こしに行かなければ良いのだけど。もし私が殺したとわかれば・・・・・・)
兵士達が銃に弾を込め終えた。下士官が退き士官が軍刀を抜いた。
(いよいよね・・・・・・。マリオ、上手くやってね)
士官が軍刀を振り上げた。兵士達が一斉に銃を構える。トスカは銃声が聞こえないように手で耳を隠した。そしてカヴァラドゥッシに対し上手く倒れるよう頭で合図した。
カヴァラドゥッシは頷いた。そして声には出さず口だけで彼女に言った。
サ・ヨ・ウ・ナ・ラ
と。
(まあ、本当に役者ね)
それを見てトスカは笑った。同時に軍刀が振り下ろされた。
銃声が刑場に轟いた。カヴァラドゥッシは後ろへのけぞった。そして前に倒れ横に転がりうつ伏せになり止まった。
下士官が彼に近寄り注意深く見る。スポレッタも来た。
下士官が腰から拳銃を取り出した。倒れ込むカヴァラドゥッシの頭にそれを近付け最後の一撃を与えようとする。だがそれをスポレッタが止めた。
スポレッタは下士官を遠ざけた。そして自分の着ていた外套を脱ぎそれをカヴァラドゥッシにかけた。そして十字を切り彼から離れた。
士官が兵士達を整列させる。下士官は置くにいる番兵を呼び戻す。士官とスポレッタは互いに敬礼し合い士官は兵士達を連れ階段を降りて行く。スポレッタも下士官と番兵を連れ場を後にする。トスカと擦れ違う。彼女に一礼するがどういうわけか目を合わせようとはしなかった。
スポレッタ達も去った。銃の硝煙も消え静まり返った処刑場にトスカとカヴァラドゥッシだけがいた。
「マリオ!」
トスカは二人の他に誰もいなくなるのをもどかしく待っていたのだ。どれだけ長かっただろう。だがもう誰もいない。場には二人しかいない。カヴァラドゥッシの下へ駆け寄った。
「さあ行きましょう、早く!」
外套を取りカヴァラドゥッシを揺り動かす。だがカヴァラドゥッシから返事は無い。
「どうしたの!?ねえマリオ、マリオ!」
次第に怖くなってくる。揺り動かしが強く激しいものになっていく。
手がカヴァラドゥッシの腕に触れた。その時腕に着いたものを見てトスカの顔から血の気が引いた。
「血・・・・・・そんな・・・・・・・・・マリオ!」
その時だった。カヴァラドゥッシの身体がピクリ、と動いた。
「・・・・・・フローリア・・・・・・・・・かい?」
顔をトスカの方へ向けてきた。その顔には生気があり死者のものではなかった。
「マリオ・・・・・・良かった・・・・・・・・・」
起き上がるカヴァラドゥッシに抱き付いた。黒い瞳から歓喜と安堵の涙が溢れ出てくる。
「フローリア・・・・・・」
カヴァラドゥッシもトスカを抱き締める。二人は強く抱擁し合った。
「もし・・・・・・もしもの事があったらって・・・・・・・・・私、怖かった・・・・・・・・・」
トスカは泣きながら言った。涙がカヴァラドゥッシの青い上着を濡らし藍色にしていく。
「フローリア、スカルピアは僕を殺すつもりだったんだ」
「え・・・・・・」
トスカは顔を上げた。その黒い翡翠の様な瞳を見つつカヴァラドゥッシは続けた。
「あの警部を見て解かったんだ。妙に態度が後ろめたかっただろう」
「そういえば・・・・・・」
スカルピアとのやりとり、礼拝堂やこの処刑場での行動、どれを取っても面妖な点ばかりであった。
「だから僕はあの十字架を受け取り君に別れを告げたんだ。もうこれで最後だと思ったからね」
「それで・・・・・・」
今まで教会で祈り一つしなかったカヴァラドゥッシが何故十字架を受け取ったかトスカはようやく解かった。恋人からの最後の贈り物を受け取ったのだ。
「けれど君の贈り物が僕を救ってくれたんだ。見てくれ」
そう言うと懐からその贈り物を取り出した。
十字架は所々が砕けていた。それが弾丸によるものである事は明らかだった。
「ああ・・・・・・・・・」
トスカはそれを手に取った。そして両手で強く握り締めた。
「腕に一発当たって貫通したけれどね。他は全てこの十字架が守ってくれた。君のおかげだよ」
「いえ、神のお力よ」
トスカは感極まった顔で言った。熱い涙が頬から銀の十字架へ落ちていく。
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