リリカルってなんですか?
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
空白期(無印~A's)
第二十四話 (蔵元家、幼馴染、男友人、担任)
蔵元翔太の父親である蔵元宗太の朝は、おそらく大多数の父親の起床平均時間と比べると普通より若干遅い程度のものだろう。いつものように昔ながらのジリジリと鳴る目覚まし時計によって起こされ、ポンと目覚まし時計の頭を叩いて、主が目覚めるまで延々とベルを鳴らす働き者を停める。
このまま横になっていれば、もう一度、夢の世界へと旅立つであろうことは容易に想像でき、一家を支えるものとして、それはできぬといつものように上体を起こし、キョロキョロと周囲を見渡した。残念ながら、この部屋で寝ているのは自分ひとりだけだ。おはようと挨拶しても返してくれる妻も子どももこの部屋にはいなかった。
数年ほど前までは、宗太は、妻と子どもの翔太と、翔太が一人部屋を欲しがるようになってからは、妻と一緒に寝ていたのだが、一ヶ月ほど前から、宗太は自分ひとりで寝ることになっていた。
その原因は、息子の翔太が拾ってきた(?)子ども―――宗太にとっては娘になるアリシアである。彼女が妻と翔太と寝ることを望んだため、宗太は一人で侘しく寝る羽目になってしまった。いや、正確にはアリシアが直接の原因であるとはいえない。直接の原因は、むしろ、アリシアと一緒に寝ることを望んだ彼女のペット―――これまた疑問系なのだが―――のアルフという女性だ。
もしも、アルフがアリシアのような子どものような容姿をしていたならおそらく彼は、妻や息子と一緒の部屋で寝起きしていただろう。だが、彼女の容姿は、どうみても二十歳前後の女性にしか見えず、しかも、女性的な魅力に溢れているといってもいい。さらに、宗太を困惑させるのが、彼女の普段着―――タンクトップと短いジーパン―――だ。まるで、彼女の魅力を見せ付けるかのような服装。そして、何より見過ごせないのが、彼女の頭に生えている犬耳とお尻から生えている尻尾だろう。
まあ、なんというか、彼がまだ学生だった頃、そういう類の十八歳未満お断りの漫画を集めたこともあるし、こっそりとヘアバンドを隠し持っているなんてこともある。
つまるところ、アルフの豊かな胸やショートパンツから見せ付けるようなムチムチの太ももと彼の隠している趣味を刺激するような犬耳と尻尾という大学院を卒業し、就職してから結婚、子どもと順調な人生を歩み、三十台半ばという男性にとって、いつ理性が切れるか分からない状況において、野獣の前に餌をおくことはできない、という理由から宗太は一人寝ることを余儀なくされた。
「……起きるか」
一人で寝ていることについて考えることの虚しさを悟って宗太は、布団から起き上がって、着替えるためにパジャマの第一ボタンに手をかけた。
会社勤めとはいえ、しょせん男である。化粧も何も必要ない宗太は、顔を洗って、髪をセットして、ひげをそって、リビングへと顔を出した。リビングのテーブルには既にいいにおいをさせているトーストがちょうど焼き終わっているようで、妻と翔太がテーブルに座って朝食を先に食べていた。
「おはよう」
宗太が、朝の挨拶をしながらリビングに入ると翔太と妻は、ほぼ同時におはようと挨拶を返してくれる。自分が起きる時間は小学生と同じか、と思うと思うところがあるが、彼が学校に出る時間と自分が仕事に出る時間が同じなのだから仕方ない。
ふと、パジャマ姿のまま、トーストをかじりながら、おそらくは牛乳のほうが多く比率があるであろうカフェオレを飲む息子について考える。
こうやって見てみると、どこにでもいる普通の息子だ。しかしながら、その中身は、近所の私立小学校で首席になるほどの頭脳を持っているというのだからにわかには信じがたい。
いやいや、よくよく考えてみると、自分の息子は幼稚園の頃から、どこか普通とは異なっていた。いや、容姿や体格で言えば、平均、平凡という言葉がよく似合うのだが、こと人間関係については奇妙な事が多かった。頼りにされるガキ大将気取りというよりも、どこか兄的立場を装っているような気がした。自分がゴミを捨てるときに一緒になった近所の住人から、それなりに評判だったのだ。彼の息子の翔太は。主に子守の名人としてだが。
もっとも、それだけなら、多少、人を率いる才能のようなものがあるのだろうか? と考えるだけでよかったのだが、自分の息子の異常さを感じざるを得なかったのは、聖祥大学付属小学校の試験を受けたときだろうか。宗太としては、どこでもよかったのだが、ご近所の勧めもあり、翔太に聖祥大付属小学校を受けさせることにしたのだが、まさか、入学試験で特待生になろうとは、夢にも思っていなかった。しかも、最高クラスだ。受験の翌々日に呼び出されたときはなんだろうか? とビクビク怯えながら妻と小学校にいったものだ。
さらに言えば、三年間、誰にも主席を譲らないというのだから大したものだ。確かに塾には、翔太の希望で行かせているが、塾に行くだけで主席が取れるようであれば、誰もが一番になっているだろう。
これらの異常性に対して、宗太が翔太に思うところは―――特になかった。
彼が自分の息子であることには間違いないし、せいぜい鳶が鷹を生んだと考えるか、妻の遺伝子が相当に優秀だった、ということだろう、ということぐらいだろうか。ちなみに、彼自身は自分自身をあまり信用していないため、自分の遺伝子による影響とはまったく思っていない。
それに宗太は、頭がいいだけで、どうにかなるほど社会は甘いものではないことをよく知っている。確かに翔太は何にでもなれる可能性を秘めているだろう。難関といわれる国家公務員第一種とて、医者とて、弁護士とて、翔太の頭脳がそのままで、彼が真面目に勉強すれば、なれないものは何もないだろう。
だが、それだけだ。彼がノーベル賞を取れるか? と聞かれれば取れると自信を持って言うことはできない。なぜなら、天才は既存の概念を壊すことができるが、秀才は学び取ることしかできないからだ。今の翔太は、学校の問題やテストに関して答えられるというだけである。自分の息子が本当に天才か、どうか分かるとすれば、それは十年以上先の大学で自分の研究を始めたときや社会に出てからだろう。
もしかしたら、翔太はその前に自分に向けられる重圧に潰れてしまうかもしれない。十年後、昔、僕は天才だったんだ、と過去の栄光に縋るかもしれない。そんなときに支えたり、現実を見ろ、と殴り飛ばすのが父親としての自分の役目だと宗太は思っている。
「ん? どうかした?」
どうやらぼんやりとしすぎてしまったらしい。息子に怪訝な顔で見られてしまった。確かに朝のリビングで、朝食を食べる姿を父親からじっと見られるのは気分がいいものではないだろう。もしも、自分が父親から見られたら、有無を言わず殴り飛ばしてしまいそうなぐらいだ。
「いや、なんでもないさ」
誤魔化すようにそういうと、自分の指定席になっているリビングのテーブルの位置に座る。少し考え事をしていた時間はトーストが焼きあがるのに十分な時間だったのだろうか、座ると同時に横から皿の上に差し出されたのは、焼きあがったばかりのトーストだ。
「ありがとう」
「いえいえ、毎朝のことだから」
自分も食べている途中だろうに、と思いながら中座して自分のトーストを焼いてくれた妻に感謝しながら宗太は手を合わせて、いただきます、といった後に焼きたてのトーストに手を伸ばした。妻と子ども三人を養う大黒柱として、今日も一日しっかりと働くために。
◇ ◇ ◇
蔵元翔太の母親である蔵元翔子が朝、目覚めて最初に目にするのは、二人の息子と最近できた新しい二人の娘の寝顔だ。一番下の息子である秋人はまだ柵がついているベッドですやすやと寝ている。次女であるアリシアは長男の翔太がよほど好きなのだろうか。抱き枕のように彼に抱きついている。五月のゴールデンウィークが終わったばかりのまだ春を匂わせる季節とはいえ、さすがに体温の高い子どもに抱きつかれるのは、暑いのか、少しだけ翔太は寝苦しそうな表情をしていた。そして、一番最後に長女(?)とも言うべきアルフは、まるで自分は関係ない、といわんばかりに少し離れた場所で手足を投げ出して寝入っていた。
ここ数日、毎朝の日常となっている光景に少しばかり苦笑すると、彼らの朝食を作るために翔子は、ゆっくりと起き上がった。
朝は戦争だ、といったのは誰だっただろうか。朝食を作り―――とは言ってもトーストだが―――自身も朝食を食べる。言葉にすれば簡単なのにやるのは非常に忙しい。起きる時間が大体固まっているとはいえ、若干のずれがある。そのずれの間に一度に二枚までしか焼けないトースターと焼き加減を考えながらトーストを焼くのだから、朝は翔子にとっても大変なのだ。
しかも、話によると小学生の子どもを持つ一般的な家庭では、これに加えて子どもの準備も加わり、体が二つあっても足りないというほどに多忙になるのだから翔子からしてみれば、信じられないことこの上ない。もっとも、蔵元家の長男である翔太は、まったくと言っていいほどに翔子の手を煩わせることはなかったが。
この話をすると翔子は近所の同じ年頃の子どもを持つ奥様方からは羨ましがられるものだが、翔子としては、もう少し手がかかるほうがよかったかもしれないと思う。
傍から見れば、翔子の息子である翔太は、できすぎだ。
近所では有名な私立の小学校である聖祥大付属小学校に通いながら、成績は一位を維持し、さらには人をまとめる能力さえあり、我侭を言って自分達を困らせることもない、手伝いも率先してやってくれる。まさしく完璧に近いいい子だといっても過言ではないだろう。
しかしながら、翔子からしてみれば、翔太は、もちろんいい子に育ってくれたのは嬉しいが、少し手がかからなすぎて物足りないというのが本音だった。近所の井戸端会議でも、自分の息子や娘に対して、不平や不満を言う人がいるが、それが少しだけ翔子には羨ましかった。もっとも、それは隣の芝生は青いというヤツかもしれないが。
「母さ~ん」
庭で少し考え事をしていた翔子は、新しくできた娘が自分を呼ぶ声で正気に戻った。声の方向を見てみると、アリシアの身長の半分ほどはあるほぼ一杯になった洗濯籠を抱えたアリシアがこちらに向かって歩いてきていた。その足取りは、洗濯籠が重いのか少しふらついており、アリシアの背後を心配そうにアルフが見守っている。
本当にアルフの耳と尻尾がなければ、年の離れた姉妹と言ってもいいぐらいの構図だった。
正確には、魔法使いと使い魔だっただろうか。彼女達はそんな関係だ。もっとも、やはりココに来てからの様子を鑑みるにやはり主従というよりも姉妹と言ったほうが適切なような気がする、と翔子は考えていた。
殆ど我侭という我侭を聞いたことがない翔太からの初めての我侭は彼女達を蔵元家で引き取ることだった。アリシアとは最初に出会ったときからなぜか母親と勘違いされ、その関係から保護はしていたが、まさか引き取るとは思っていなかった。
もちろん、アリシアから本当の娘のように母さん、母さんと呼ばれるのは嬉しかった―――息子が二人もいると娘も欲しくなる―――し、彼女の境遇を考えれば、同情する余地がないわけではない。しかしながら、それでも、と躊躇しなかったか? といわれれば、嘘になる。
子ども一人とはいえ、育てるのは大変なのだ。それなりの責任も生まれてくる。養い、育てることがどれだけ大変なことか、翔子は、分かっているつもりだった。むろん、翔太の性格や態度から考えれば、まだ分かっていない事のほうが大変だし、育て上げた経験もないが、大人であり、それなりのことを経験している以上、安請け合いはできない。
しかしながら、夫である宗太と一晩話し合った結果、アリシアが見せる笑顔や、楽しそうな声を聞いて、家族として過ごした以上、彼女を手放すことはできないという結論に落ち着き、育てていこう、ということで解決した。
現在は、彼女を記憶喪失の女の子として戸籍を作る手続きを行っている最中であり、彼女の戸籍が出来次第、養子縁組を組むことになるだろう。ちなみに、アルフは、人としての手続きを取っておらず、大型犬として登録されている。
「母さん、もって来たよっ!」
アリシアが翔子に声をかけて一分ぐらい経っただろうか、ようやくアリシアは翔子の足元に洗濯籠の山を持ってくることができていた。アリシアは、自分の成果を主張すると共に少しだけ期待したような笑みを浮かべていた。
「うん、頑張ったわね」
翔子はその期待にこたえるように屈んで、アリシアと視線を合わせるとガシガシと少しだけ乱暴に頭をなで、自分の胸元に抱き寄せる。彼女の体温は子どもだからだろうか、胸元から感じる体温は、大人よりも温かかった。アリシアは翔子から抱きしめられたのが嬉しかったのか、あるいは褒められたのが嬉しかったのか、へへへ、と笑っていた。
数秒ほど抱きしめた後、これでおしまい、と言って、立ち上がる。まだまだ、仕事はあるのだから。
「ねえ、アリシアちゃん。晩御飯は何がいい?」
「え? う~ん、と」
洗濯籠から洗濯物を渡す手を止めずにアリシアは、色々な料理を思い浮かべているのか考え始めた。これが、この子の可愛いところだ。翔太ならきっと、なんでもいいよ、で終わらせているはずだから。
「う~ん……ハンバーグかなぁ?」
実に定番だった。だが、それがいい。ちょうど、昨日はメインが魚だったことを思い出し、しばらく肉系統を出していないこともあってか、今日はアリシアのリクエストどおりにしよう、と思った。
「そうね、じゃあ、今日はハンバーグにしましょうか」
「やた~!」
バンザーイと両手を挙げて喜ぶアリシア。一つ一つの動作が、子どもらしくて実に可愛らしい、と翔子は思った。やはり、彼女を引き取って正解だった、と。もちろん、子どもが一人から急に四人に増えるのだから大変だが、彼女にはその苦労をいとわないほどの価値がある、と心の底からそう思った。
「え? 今日は肉なのかい?」
縁側においた秋人を膝の上に乗せてあやしながら、アリシアとの会話を聞いていたアルフが、ピクンと耳を動かして肉という単語に反応したのか、声を上げた。さすが、本性がオオカミなだけはあると思う。
まあ、何はともあれ、今日はハンバーグなのだ。確か、翔太も嫌いではなかったはずだ。基本的に好き嫌いがない翔太だが、よくよく見れば、好みだってきちんと把握できる。
さてさて、我が家の食欲旺盛な子ども達のためにも、今日も料理を頑張りましょうか、と晴れた空の下、翔子は思うのだった。
◇ ◇ ◇
雨宮桃香にとって、蔵元翔太とは、ヒーローだった。
彼女と彼の出会いは、彼が懇意にしている仲間の中で一番古株と言っていいだろう。なぜなら、桃香は翔太の近所に住む子供の一人で保育園時代からの仲間なのだから。あの頃の仲間は半分ぐらいが聖祥大付属小学校に来ていたが、翔太が所属する第一学級に残っているのは、一握りの四人になってしまった。
桃香が、翔太にテレビに出てくるようなヒーローのような感情を抱いたのは、彼女が保育園時代の頃だ。あれは、とある休日のことだった。桃香と彼女の友人である瀧澤夏希と一緒に公園の砂場で遊んでいるときだ。一生懸命積み上げた砂の山の下にトンネルを通そうとしていた彼女達は、夢中になっていたためか、彼女達にこっそりと近づいてくる影に気づくことはなかった。
だから、彼女達がその影に気づいたときは既に逃げることが不可能な状態だった。
ハッハッハッと舌をたらしながら、尻尾を引きちぎりかねないほどに振る中型の犬がいつの間にか、桃香たちの近くにいた。さて、保育園の五歳児にとって中型の犬というのは、意外と大きく感じる。身長との相対的なもので見れば、大人が大型犬に相対するようなものだろうか。
そんなものが近くに来れば、今まで一生懸命に作っていた砂の山が壊れることになろうとも一直線に逃げ出すのは無理もない話だ。現に振り向いてその犬がいることに気づいた桃香と夏希は逃げ出した。砂の山も何もかもを蹴飛ばして。それほど怖かったのだ。
しかし、偶然、近くにいた犬というのは人懐っこい犬だったのだろうか。桃香たちは気づかなかったかもしれないが、首輪をしていることからも簡単に推測できた。人懐っこい犬の前で、いくら怖かろうが逃げるのは逆効果である。悪気がない犬は、遊んでもらえるものと思ってしまい、喜んで逃げ出す彼女達を追い掛け回す。
しかし、それは犬側の都合であり、子どもの桃香たちからしてみれば、どうして追ってくるのっ!? という悲鳴を上げたいに違いない。現に、彼女達は涙で頬を濡らしながら必死に公園の中を逃げていた。
逃げる桃香たち、追いかける犬。
この構図が壊れるためには、犬が疲れるか、あるいは、桃香たちが疲れて逃げられなくなるか、あるいは―――
「こっちっ!」
第三者の介入である。
逃げ惑う桃香と夏希からしてみれば、それは地獄に垂らされた蜘蛛の糸のようなもので、藁にも縋る思いで、彼女達は介入してきた第三者に手を伸ばした。もっとも、それは今まで公園をグルグル逃げ回っていたのを進路を変えて、第三者の背中に隠れただけだが。
背中に隠れた桃香と夏希を庇うように前に立ったのは、救いの手を伸ばした第三者。その背中を見ながら、桃香は、物語の中でしか見られないヒーローを思い出していた。
そんなヒーローこと蔵元翔太との出会いから五年余り。公園で、犬から救われてから、何かあるたびに彼女は彼女のヒーローである翔太に頼る事が多くなっていた。それを友人の夏希はいい顔をしなかったが。近所に住んでいて、気が弱く、すこしとろいところがある桃香を守ってきた自覚が彼女にあったからなのだが、鈍感な桃香はそれに気づくことはなかった。
そんな彼女達も小学三年生になっていた。
「しかし、桃も料理上手になったよね」
「そう……かな?」
桃と呼ぶ親友の夏希に応えながら、桃香は首をかしげる。確かに最初に比べれば、上手になっているだろう。最初に作ったときは、形も上手に作る事ができず、砂糖の量も多すぎる、焼き加減は無茶苦茶で、お世辞にも上手とはいえなかった。それを翔太に食べさせ、あまつさえ、褒めてくれるものだと思っていたのだから度し難い。もっとも、彼はわからないように婉曲的に言ってくれたが。
しかしながら、残念ながら、もう一人の幼馴染は、遠慮することなく「まずい」と口にしたため、桃香の心を抉り、思わず半泣きになってしまい、夏希に懲罰的な意味で鉄拳を喰らっていた。あの時は、申し訳ないことをしてしまったと思っている。
「まったく、ショウもバニングスや月村さんなんかじゃなくて、あたしたちと一緒に食べれば、桃のおいしいお弁当がもらえるのに」
納得いかない、というような表情で、夏希が言う。おそらく、夏希はもう数少ない同じクラスの保育園時代からの友人として一緒に食べに来ないのが不満で仕方ないのだろう。しかも、今、一緒に食べているのが夏希とあまり仲のよくないアリサ・バニングスなのだから仕方ない。
気性で言えば、夏希もアリサも烈火と言っていいだろう。火と火がぶつかれば、炎になる。つまり、激しくなるのだ。よって、夏希とアリサの仲はよろしくない。その切っ掛けは、翔太が持っていたのだから因果なものだ。
あれは小学校一年生の頃、アリサと仲良くして欲しいと頼まれた夏希が翔太の言うことだから、と仕方なく話しかけたところ、アリサに袖にされたときからその因果は始まっているのだから。もっとも、桃香が考えるにそれだけではなく、翔太が、クラスメイトの誰よりもアリサを気にしたところが、気に食わないんじゃないだろうか、と思う。
―――バニングスさん綺麗だもんね。
別にその感情に含んだところはないだろう。女友達としても、自分よりも綺麗な、可愛い女の子を気にされては立つ瀬がない、やるせないという感情だ。しかし、桃香が思うに夏希はアリサと並び立っても良いんじゃないか、と思う。顔立ちは整っているし、ストレートの長い黒髪はポニーテイルにされており、活発な性格の彼女には似合っている。
それに対して、自分は普通だ。可愛いとはよく言われるが、それは桃香が平均身長よりも低く、小柄であるためだろう。これで髪でも長ければ、話は別だろうが、若干垂れ目ぎみな目とショートカットの髪型がそう感じさせるのだろう。身長が欲しいな、というな彼女の切実な願いだった。
「ショウくんだったら、近いうちに私達と一緒に食べるよ」
不満そうに言う夏希をなだめるように桃香が言う。今日は確かにアリサたちと一緒に食べているが、彼は一つのグループで一緒に食べることは、ないといっていい。渡り鳥のように日によって食べる相手を変えるのだから。もっとも、一年生の頃は、隔てなく誰かと食べていたような気がするが、三年生になって、少しだけ変わったのか、特定のグループとは一緒に食べないことも多くなってきていた。彼女からしてみれば、幼馴染と一緒に昼食が食べれる機会が増えていいことだが。最近は、もう一人の男の子の幼馴染も一緒に食べる事がなくなっているし。
―――あ、今日の卵焼きは会心のできだ。
そうね、と納得したように頷いた夏希を余所に桃香は、今日の卵焼きのできに満足しながら、夏希と同じように頷くのだった。
◇ ◇ ◇
玖珂隼人は、机の上に置かれた将棋版を見ながら唸っていた。少し顔を上げると、隼人と同じぐらいの年齢である少年が、うっすらと笑みを浮かべてこちらを見ていた。それだけで、彼―――蔵元翔太が、こちらの手を読んでいることを知らせるには十分だった。
「俺の負けだ」
「ありがとうございました」
負けを認めてペコリと頭を下げると、相手の翔太もペコリと頭を下げた。
じゃらじゃら、と磁石でくっつくタイプの将棋版をもう一勝負とばかりに並べながら、隼人は、一年生の頃から友人とも言える立場であり、最近急激に将棋が強くなってきた蔵元翔太について考えた。
友人と呼んでいいのか分からないが、目の前の同級生は隼人にとって不思議な人だった。頭がいいのは分かっている。しかし、それを鼻にかけることはなく、むしろ、お前、天才だな、といわれると微妙な顔をする。もしかしたら、そういう風に言われるのがあまり好きではないのかもしれない。
さらに、翔太は、クラス内の厄介ごとに顔を突っ込む事が多い。何か問題があれば、西に東に。隼人であれば、しょせん他人事だし、面倒だから放っておくのだが、翔太はいちいち、首を突っ込み、何とか円満に解決しようとする。殆どの場合は、翔太が仲介することで問題が解決している。そんな光景を担任も見ているのか、翔太への信頼が高い。
そんな風に面倒を見て、担任にも信頼が高いせいか、クラス内の翔太の評価は高い。ただし、そんな風に仲介することや、担任に気に入られることに反感を持つものもおり、前者を親翔太派とすると反翔太派も見られる。
男子においては、親翔太派と反翔太派の割合は、七対三ぐらいだ。ゴールデンウィーク前は、サッカーなどが好きな外で遊ぶ組のなかで、翔太があまりサッカーにでなくなったのをいいことに反翔太派が、扇動することで、割合を六対四ぐらいにしていたが、それも三日天下に近い。結局は元の鞘に戻るように割合も戻っていた。
ちなみに、反翔太派になる理由としては、真面目な態度が気に食わない、というヤツと翔太が比較的まだ女子と仲が言いことを揶揄して、それが気に入らない連中とが大半だ。
隼人自身は、親翔太派よりではあるが、何かあれば、味方をしてもいいか、ぐらいである。もっとも、隼人の幼馴染の三人は、親翔太派と呼んでもいい。
駒を並べながら、少し視線を避けてみると机の上でカードゲームを広げている隼人の幼馴染たち。本来なら、カードゲームなどの遊び道具は、もって来てはいけないはずで、見つかれば没収となるのが学校の規則だったが、一度、見つかったときに翔太が庇い、さらに、カードゲームの利点―――戦略などを考えて、柔軟な発想が……などと言っていたような―――などを訴え、さらには将棋やオセロが許可されていることと絡めて、いくつかのルールを整備することで認めさせたことがある。
それ以来、彼らは翔太に全幅の信頼を置いているといっても良いだろう。
一方、女子のほうは、というと隼人にはよく分からない。傍から見ただけではよく分からないからだ。翔太が昼休みに女子のグループを渡り歩くと彼を邪険にするところはない。しかしながら、それでも、翔太に陰口を叩いている女子もいるものだから、おそろしいものだ。昼休みには、笑顔で一緒にお弁当を食べていたというのに。放課後、偶然忘れ物を取りに返ってきたとき、残っていた女子が話していたのを聞いて、もしかして、自分と話しているときも内心は、と思うと女子が怖くなった隼人だった。
「それじゃ、もう一局、打とうか」
すっかり将棋版の上に並び終えた駒の中で、先ほどの勝ちに気をよくしているのか、笑いながらパチンと『歩』を動かす。それに隼人は無言で相対する。翔太の『歩』に対して『飛車』を動かす。次は、翔太がパチン、隼人がパチンと時間を置くことなく次々と駒を動かしていく。序盤は早いものだ。お互いに手が分かっているから。
だから、注意深く思いながらも、隼人は、不意に考える。
将棋において、確かに隼人を相手にできる同級生は翔太しかいなかった。しかしながら、それでも勉強してきた隼人にそう簡単に適うはずもなく、翔太との戦歴は、大体十局打ったのなら、七勝三敗ぐらいで推移していたはずだ。それが、四月の中旬ぐらいから、段々と翔太の勝率が上がり、今では、翔太のほうが勝ち越すということのほうが多くなってきているように思える。
ゴールデンウィークの間に勉強でもしたのだろうか? しかしながら、翔太は隼人ほど将棋に興味があるというわけではなさそうだし、自分に勝つためだけに将棋の勉強をするとは到底思えなかった。だが、それでも戦歴には確かに翔太が強くなった証拠が残っている。どんな勉強をしたのか分からないが、とにかく強くなっているのだ。
―――次こそは勝つ。
それは、勉学で後塵を拝している隼人が持っている最後のプライドとでも言うべきものだった。
◇ ◇ ◇
お先に失礼します、と言葉を残して三年生第一学級の担任である橘京子は、自らの職場である職員室を後にした。島とも言うべき同じ学年の担任が殆ど残っている中をだ。京子は、担任を持っている先生達よりも早く帰っているため睨まれていることは知っているが、仕事が終わってしまったのだから仕方ないだろう。何もしないのに残業代をつけるのも申し訳ないし。
そんなことを考えながら、京子は仕事場である聖祥学園の職員出口から出て、グランド沿いに設置された駐車場へと歩いていた。授業中であれば、どこかの学年が使っているであろうグラウンドも最終下校時間を過ぎた今は、誰もいない。規則で言えば当たり前の光景だが、少し前は、まだ遊んでいる児童がちらほらと見かけられたものだ。そのたびに、自分か警備員の人が注意して回っていたものだが。だが、今日は誰もいない。
原因は、分かっている。おそらく、彼が帰ってきたからだろう。
そんなことを考えながら、京子は自分の車に乗り込み、キーを回す。アクセルを踏むと中古で買った軽―――しかも、後部座席が狭い貨物車がゆっくりと走り出す。
聖祥大付属小学校を出て、車の流れに乗りながら、京子は彼について考えた。
蔵元翔太。京子が担任をしているクラスの学級委員長をしており、三年生の中でトップの成績を誇るいわゆる天才に属する人間だ。
他の担任たちは、翔太を見ると天才だともてはやすが、担任として他の先生よりも身近に接してきた京子から言わせて貰えば、翔太は、どこか異質だった。
彼と出会ったのは、教師として赴任して三年目の春。それまでの態度が認められたのか、第一学級の担任に選ばれたときだ。
小学校一年生。昨日までは、自由に幼稚園や保育園で遊んでいた子どもが一つの小さな教室に押し込められ、机を並べて、勉強するという突然の環境の変化に襲われる学年だ。普通の一年生なら、これからのことにワクワクしていたり、突然の環境の変化に不安げになっていたりする。そんな中、一人、落ち着いた様子を見せていたのが、蔵元翔太だった。
彼の異質さは、京子がクラス内を観察するたびに強くなっていった。
さて、小学校一年生の先ほども述べたように子どもだ。しかも、学校という立場に慣れていない。まず最初に覚えさせるのは机に長時間座って大人しくすることだ、というほどに。そして、もう一つ大切なことは、子どもに舐められないこと、そして、信頼させることだ。
子どもというのは、半ば本能で生きているようなもので、まだ成長途中だ。だから、大人の言うことを誰でも聞くとは限らない。むしろ、舐められて、格下に思われればクラスが立ち行かなくなる。彼らに舐められないための一番簡単な方法は、腕力的に勝っていることを教えることだが、これをやると放課後に彼らの両親から呼び出されたり、減給、最悪は懲戒になるため、決してできない。
つまり、雰囲気と態度でなんとかするしかないのだ。京子の女子高、女子大時代の姉御と呼ばれて送った青春時代が幸いしたのか、彼女がクラスの子どもから舐められることはなかった。
次は、彼らの信頼を得ることだ。この方法は、ある種簡単だ。休み時間や昼休みに彼らの傍にいるだけでいい。一緒に食事するのもいい。だが、それを全員にするのは無理だ。だからこそ、狙い撃ちにしなければならない。そう、子どもとはいえ、彼らとて人間だ。つまり、グループができている。近所だったり、同じ保育園、幼稚園だったり。
そして、グループである限りリーダーが必ず存在する。彼らを狙い打ちにすればいいのだ。
だから、京子は、彼らを観察することにした。誰が、どんなグループがあって、誰がリーダーかを見極めるために。それを見極めるには一週間ぐらいか、と考えていた京子だったが、予想外の事態に驚くことになる。
京子が確認したのは、大小さまざまなものだったのだが、それが整理されていくのだ。例えば、聖祥大付属小学校は公立ではないため、当然他の校区からやってきて、一人になっている例もある。何人か確認していた京子だったが、それがなくなっていくのだ。どこかのグループに属するようになっていた。
自然と? だが、それにしては二、三日でそういう風になるものだろうか? 若干謎だった。もしも、班作りなどやって、何かしら作業をやらせれば話は別かもしれないが、まだそんな段階ではない。ゆっくりと慣れていく段階なのだ。グループに属するほどのつながりは考えにくかった。
その原因を探っている最中で、名前が挙がってきたのが、特待生として入学した天才と称される蔵元翔太だ。
彼の手引きでグループに属するようになっている子が多かった。しかも、適当に突っ込んだわけではなく、趣味や性格を考慮されていた。確かに、子どものほうが警戒心は薄く、一緒にいる時間が長いかもしれないが、小学校一年生の男の子にそれが可能だろうか。いくら、天才といわれる子でもだ。
興味を持った京子は、蔵元翔太と話してみたが、そこでも彼の異質さは拭いきれないものになっていた。彼と話しているとまるで、同年代の後輩と話している気分になる。敬語を使っているとしても、頭の回転や気の利きかたは、小学一年生の子どもとはとてもいえなかった。
結局、どうしてだろう? と原因を探っているうちにクラスの殆どのグループは翔太によって掌握されたに近かった。特にグループに斡旋して、仲間に入れたというのが利いたようで、それから京子が考えたように各グループのリーダーと交流を持ったことが決定的だった。
前者は、グループを斡旋したことによる恩があり、後者は頭を抑え、グループ全体に翔太への影響力を持たせることができる。大人であれば、ここに利害関係やら関係してくるが、翔太に関して言えば、勉強に関して右に出るものはいないのだ。その点でも利害は一致するだろう。
さて、クラスのグループを殆ど掌握したに等しい翔太を学級委員長にしない手はない、とばかりに翔太を学級委員に任命したのはいいのだが、彼は使い勝手がよすぎた。
宿題の回収を頼めば、名簿つきで誰が提出していて、提出していないのか分かるし、提出していない人に関してもいつまでに出すという期限が書いてある。彼は気遣いができる人間だった。他の担任たちは、宿題の提出に関しても四苦八苦しているというのに。
しかしながら、そうなるとやはり違和感は強くなる。頭がいい奴がいてラッキーで終わるほど能天気な頭を京子はしていない。だが、疑問を感じようとも蔵元翔太は、明らかに小学生で、そこに疑問の余地はない。だからこそ、ここまでできる翔太に違和感を感じるのだが。
それに気になるのは彼の性格だ。子どもといえば、どこか自分の我が出る部分が必ずあるはずなのだ。だが、彼にはそれがない。ルールの上に自分を置いているというべきだろうか。やるべきことを淡々とやっているという感じだ。だからこそ、サッカー少年との諍いに繋がるのだ。あれは、あれで翔太にとってはいい経験だろう、と京子は思っているが。
それに、三年生になって、彼らも心が成長してきたのか反骨精神も生まれてきたようで、翔太が掌握していたグループのいくつかに反翔太派も生まれているようだ。それに拍車をかけたのは四月の一ヶ月間、彼が隣のクラスの高町なのはと一緒に行動したためだろう。
グループのいくつかは隣のクラスと仲良くする翔太が気に食わないという連中もいるようだし。やはりクラスという枠組みの中で隣のクラスと仲良くすることは、裏切りに感じるのだろうか。これが、普通の奴ならまだ納得がいったのだろうが、やはり翔太ということで、リーダーが靡いた、というのは納得がいかないらしい。
この歪みはまだ微々たるものだ。男子のほうもサッカー少年との諍い以来、段々と修復されているし、ゴールデンウィークが終わって以来、また彼も関係の修復しているようだから。
―――あいつはこれをどう捌くのかな?
あの小学生しからぬ態度を取る少年がどうやって、この状況を切り抜けるのか、京子からしてみれば、楽しみでしかなかった。上手くやって、雨降って地固まるもよし、修復不可能になって、対立するもよし。何事も経験である。平穏な日常は楽だろうが、成長しない。大きく成長するのは困難を乗り越えたときなのだ。
今でも小学生とは思えない態度を取る少年が、どういう風に成長するのだろうか? と考えると自然とこみ上げてくる笑みをとめられず、京子は車を運転しながら、クククッと小さく笑うのだった。
後書き
ある者たちのモノローグ
ページ上へ戻る