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リリカルってなんですか?

作者:SSA
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空白期(無印~A's)
  第二十四話 裏 (エイミィ、ユーノ、アリサ、すずか、なのは)




 エイミィ・リミエッタはアースラの管制塔にある自分の席で、カタカタと指自身に意思のあるような手つきでコンソールを叩いていた。

 現在、エイミィが乗船している次元航行艦アースラは、第九十七管理外世界―――通称、地球から離れられずにいた。確かに、アースラの目的であるジュエルシードの回収は完了した。ジュエルシードを悪用しようとしたプレシア・テスタロッサも逮捕する事ができた。アースラの任務自体は完了しているといってもいいだろう。

 それが、なぜ、アースラが地球の付近に停泊する必要があるのか。それは、プレシアが時の庭園で起こした小規模の次元震が関係していた。次元航行艦とは、文字通り次元航路を渡るための船だ。元来、次元航路というのは、非常に不安定なもので、次元航行艦そのものには、非常に高度な技術が使われている。しかしながら、その技術を持ってしても、次元震が起きた後の次元航路を航海するなんて自殺行為を行うことはできない。

 安全を考えるならば、次元航路が安定するまで待ったほうが無難だ。それに、次元航路は渡れなくても次元通信そのものは行う事ができるため―――回線速度は遅いが―――仕事には殆ど支障がなく、時空管理局にも連絡がいっている。その結果、小規模ではあるが、次元震がおきたことを鑑みて、経過報告と安全を考慮して、一ヶ月の停泊が命じられたのだ。

 もちろん、地球の外部に存在してるとはいえ、魔法によって地球側からは確認できないようになっている。見つかれば大変なことになるのは目に見えているからだ。

 そんなわけで、今のエイミィは降って湧いたような休みを謳歌―――できるはずもなかった。事件が解決して、そのまま一ヶ月の停泊が命じられたのだ。やることはないように思えるが、実際は、解決した事件の報告書やら、調書の確認、および証拠の管理と一ヶ月分の仕事は残っている。

 いつもなら、この忙しさは、事件の中で散って逝った戦友たちの悲しみを忘れるためのものだが、今回は、負傷者のみで死者がゼロというA級ロストロギア事件としては史上初といっていいほどの快挙のため、今は、この航海が終わった後のリフレッシュ休暇を目前にした最後の山というところだった。

 ―――まあ、それもこれも、あの子たちの協力のおかげかな?

 ちょうど事件の資料が今回の事件に関わった民間協力者のところに差し掛かったためか、エイミィの脳裏に二人の少年少女が映る。今回の事件の最功労者といってもいい二人のことを。

「何をしているんだ?」

「あ、クロノくん」

 不意に背後に現れた影を不審に思うこともなく、その声に聞き覚えのあったエイミィは、その正体を悟ると振り向きもせずに次々に文字が現れる画面に視線を合わせたままクロノの問いに答える。

「今は、事件の資料を作っているところだよ。ほら、あの子たちの」

 エイミィがそう言うと、軽くコンソールを叩いた後にクロノたちの目の前にあるモニターに今回の事件に協力した少年のプロフィールが映し出される。

 ―――蔵元翔太

 ―――魔力ランク:A

 ―――習得魔法:プロテクション、チェーンバインド

 ―――この事件のきっかけとなったユーノ・スクライアと最初に出会った現地住民。ユーノ・スクライアが所持していたインテリジェンスデバイスこそ起動はできなかったものの、ユーノ・スクライアによって魔法の基礎を習い、魔法を習得。さらに空戦適性もあり。後述される高町なのはと協力してジュエルシード収集に協力。我々と接触後は、武装隊の隊長デバイスを用いて、後衛隊員として活躍。後日、ミッドチルダにて初心者魔法講習を受講予定。

「管理外世界の子にしては、珍しいよね」

 翔太のプロフィールを見ながらエイミィが言う。

 管理外世界というのは魔法技術がない世界を指す。魔法技術がない世界というのは、基本的に魔力がない人間が大多数を占める世界であり、その中で魔力を持つものは稀有であり、また、魔力を有していたとしても滅多なこと―――たとえば、偶然、時空管理局に接触する―――などでなければ、自覚することない。

 しかし、エイミィのその言に対して、クロノは軽く首を横に振った。

「いや、第九十七管理外世界に関して言えば、そうでもないのかもしれない」

「どういうこと?」

「グレアム提督は、この世界の出身だし、ミッドチルダの中でも特別に第九十七管理外世界特有の名前を持っているものもちらほら見かけるからね。もしかしたら、第九十七管理外世界というのは、管理外世界の中でも特別なのかもしれない」

 さらにクロノが語るには、要するに分岐点なのだと。もしかしたら、第九十七管理外世界というのは、魔法文明をもってもおかしくない世界であるが、歴史の分岐点で彼らは魔法を選ばず、今の機械による文明を選んだのかもしれない、と。

 だが、クロノの説明にエイミィはあまり興味がなかったのだろう。ふ~ん、と軽く流すように相槌を言うと、さらにコンソールを叩いて、次の情報をだした。今回のジュエルシード流出事件は、彼女抜きに語ることはできないといえるほどに重要な人物である少女の情報を。

 ―――高町なのは

 ―――魔力ランク:S(SSS)

 ―――習得魔法:アクセルシューター、ディバインバスター、他

 ―――蔵元翔太と同じく第九十七管理外世界の住民。ユーノ・スクライアが所持していたレイジングハートを使ってジュエルシードの封印に協力。さらに、ジュエルシードを取り込んだレイジングハートにより、魔力ランクSSSまで引き上げる事が可能。この件に関しては、レイジングハートの独自の判断によるものとし、事故と認定。さらに、我々と接触後、協力的な態度により、魔法世界への召還等は必要ないものと考えられる。最後にジュエルシードの奪取を企んだプレシア・テスタロッサからジュエルシードを取り戻した件や厳重な封印魔法による補助など、この事件への貢献は多大なものになる。

「本当、なのはちゃんがいなかったら、危なかったよね」

「そうだな」

 もしも、なのはがいなかったら、と想像してしまったのか、エイミィは深刻そうに呟き、不機嫌そうな顔でクロノが同意する。

 クロノが不機嫌になるのももっともだ。彼は、プレシアとの戦いの最中、逃げるという選択肢しかとれなかったのだから。彼女に、わずか八歳のなのはに託すことしかできなかった。いくら、最年少で執務官試験に合格した天才と称されようとも、アースラの切り札といわれようとも、事件を解決できなければ意味がないのだ。

「なのはちゃんどうするのかな?」

「彼女が決めるさ。確かに彼女の魔力ランクを考えると、時空管理局に来て欲しいのは事実だが、強制はできない。翔太くんと一緒に初心者講習に来てもらって、彼女が魔法に興味をもって、その力を平和のために使いたいというのであれば、僕たちも協力できるが」

「あはは、その可能性はなさそうだね」

「そうだな」

 クロノが言った可能性を全否定するように一笑するエイミィとそれに同意するクロノ。

 ジュエルシード事件の最中、アースラでの映像を見ていたエイミィだからこそいえるのだ。蔵元翔太と高町なのはの友達になったシーンを見てしまえば、彼女が翔太と離れて、単身で魔法世界に来ることは殆どないといえるだろう。もっとも、翔太が来るといえば、話は別だろうが。

「まあ、どちらにしても、彼らは魔法を知って、学んでしまった。一度、ミッドチルダにくることは悪いことではないだろうさ」

 何事も経験だ。新しいことに触れることは悪いことではない。なにせ、彼らの住人であれば、誰も触れる事ができないはずの世界に触れられるのだから。特に彼らのような若い感性であれば、尚のこと経験による恩恵は大きなものになるだろう。そのクロノのいいように同意するようにエイミィもそうだね、と頷いた。

 少なくとも文明そのものの方向性が異なるのだから、彼らからしてみれば、遊園地に迷い込んだに近いものになるかもしれないが。

 さて、これらの続きをまとめようとコンソールの上を再び指が踊ろうか、というときに不意に今までエイミィと同じくモニターを見ていたクロノが時計を見た後にふっ、と踵を返した。

「あれ? クロノくん、どこか行くの?」

 エイミィの記憶が正しければ、彼は今のところ、休憩時間であり、別の部屋にいくことは不思議ではないのだが、彼に関して言えば、殆どを管制塔ですごすため不思議に思ったのだ。

「ああ、ちょっとね。翔太くんとなのはさんが、魔法を教えて欲しいってことだから、少し指導にね」

「へぇ~、そうなんだ」

 素直に感心するように言うエイミィ。執務官である彼が指導というのは、珍しい。時空管理局では、指導する立場にある職員だっているが、執務官はその類ではないからだ。もっとも、翔太やなのはは、管理外世界の人間で、しかも初心者なので、誰が教えても一緒なのかもしれないが。

「ああ、教えているのは基礎だけど、僕も復習になるからね」

 そういえば、彼はジュエルシードの事件が解決してから、自分の魔法の腕を磨くことに注力していたように思える。よほど、事件で自分が何もできなかった事が悔しいのだろう。

 確かに何事においても基礎は大事だという。しかも、教える―――自分が知っていることを伝えるというのは難しいものだ。そのためには理解している必要があるのだから。そして、魔法の知識の理解は、自分を理解するということで役立つ。つまり、彼らに教えることでクロノに損はないのだ。

 もっとも、それじゃ、と手を上げて管制塔を去るクロノの足取りが軽い理由はそれだけではなさそうだが。

「やっぱり、年下の子を教えるのは面白いのかな?」

 クロノは、彼の両親による魔力と彼の師匠によるもので、執務官という地位に十代の初めでたどり着いた天才だ。当然、周りの年齢は彼よりも年上が大多数を占める。後輩も同輩も先輩もみんな年上。そんな中で、今回の翔太やなのはのことは、年下の後輩ができたようで、彼にもはじめての経験であり、もしかしたら、それが楽しいのかもしれない。

「もしも、クロノくんに弟か妹がいて、『お兄ちゃん』って呼ばれたらどんな顔するのかな?」

 あのクールな顔をデレッと崩すことはないだろうが、少なくとも恥ずかしそうな顔をするのではないか、と思うと自然と苦笑が浮かんでくるエイミィだった。



  ◇  ◇  ◇



「分かりました。それでは、失礼します」

 プチンという音を残して真っ黒になったモニタを前にしてふぅ、とユーノ・スクライアは大きく息を吐いた。

 今まで、ユーノは、スクライア一族の長老と次元通信を使って会話していたのだ。なにせ、一応、長老には話をつけて出てきたとは、いえ、ここまで大事になるとは思っておらず、次元震の影響で今まで報告できなかったからだ。

 詳細な報告はスクライア一族に戻ってからになるだろうが、それでも、ジュエルシードが回収できたこと、無事であることを伝える事ができたユーノは、肩の荷を下ろしたような気分だった。

 まさか、こんな大事になるとは思っていなかったユーノとしては、とりあえず、一族に心配と迷惑をかけることがなくなって一安心といったところだ。

 もっとも、ユーノとしては、己の責務を果たしただけだろうが、スクライア一族は、ユーノを時空管理局と協力して、事前に被害拡大を食い止めた功労者として称えられているため、己の責任感から休暇―――遺跡発掘終了後は休暇が与えられる―――を返上してまでジュエルシードを追ったことで、リーダーとしての責任感を評価していた。

 さて、管理局から次元通信を借りていたユーノは、報告が終わった途端に暇になってしまった。なぜなら、時空管理局からしてみれば、ユーノは、ジュエルシードという時空管理局が管理するはずのロストロギアの事件に巻き込まれた被害者なのだから。アースラの中では時空管理局の局員ではなく、単なるお客さんなのだ。そんな彼がやることは殆どないといってもいい。

 もちろん、アースラの内部には、長期間の航行に耐えられるように娯楽施設もあるのだが、自分は働いていないのに、娯楽施設で遊ぶというのは気が引ける上に、その施設で一緒に遊ぶような相手もいない。よって、ユーノが娯楽施設に顔を出すことは、殆どなかった。時折、気を利かせたクロノが誘うぐらいだ。

 余った時間のほとんどをユーノは、自らの実益と趣味をかねた考古学的な書物を読む時間に当てている。現に、事件が解決してから彼が読んだ書物の数は、発掘の合間に読んだ本の冊数を軽く越えている。しかも、時空管理局の内部に保存されている書物が多数登録されているため、ユーノがスクライア一族にいる間には手に入らないような希少本もあるというのだから、ある意味では、ユーノにとっては幸せな空間ともいえた。

 ―――さて、今日はどの本を読もうかな?

 そんなことを考えていたユーノの耳を突然、通信が入った呼び出し音が打つ。

 はて? とユーノは首をかしげる。ユーノがいるのはアースラのゲストルームだ。通信自体は、誰でもできる。しかし、アースラの中でユーノに通信を入れてくる人物というのは限られてくるのだ。せいぜい、クロノかエイミィ、リンディぐらいのものだろう。しかし、彼らは、仕事中であるはずだ。自分に通信を入れてくるとすれば、事件の調書の類に関することであろうが、それは既に終わっている。

 考えたところで、答えが出ないと悟ったユーノは、とりあえず通信に出てみることにした。

「はい」

 通信の通話ボタンを押した後に出てきたのは、見慣れた顔。アースラのオペレータであるエイミィの笑顔だった。一体、彼女が何用だろうか、と考えたところで、ユーノの考えを読んだようにエイミィが口を開く。

『あ、ユーノくん、お友達から電話だよ』

 お友達? スクライアの友達だろうか? とも思ったが、よくよく考えれば、スクライアの内部で次元通信なんて通信料がバカ高い通話ができるはずがない。ならば、考えられる相手は一人だけだった。

 その人物を思いつくと同時にエイミィが勝手に通話を通したのだろう。『Sound Only』という文字と共にこの一ヶ月で聞きなれた声がそこから聞こえてきた。

『あ、ユーノくん? 今日って時間あるかな?』

 今日は、昨日読んでいた時代よりも新しい時代の本を読もうと思っていたのだが、それはどうやら後回しになりそうだった。

「うん、大丈夫だよ。ショウ」

 通話の相手は、この一ヶ月で新しくできた友人であり、彼の命の恩人であり、魔法の弟子であり、一ヶ月の同居人でもある蔵元翔太だった。

 ユーノにとって蔵元翔太とは、命の恩人である。最初の呼び声に応えてくれたという意味で。もしも、あの時、翔太が応えてくれなければ、ユーノはあのジュエルシードの暴走体によってミンチにされていた可能性が高い。もちろん、直接戦ってくれたという意味では高町なのはも命の恩人かもしれないが、彼女はどちらかというと、ユーノというよりも翔太の呼び声に応えたという意味合いのほうが強いだろう。故に翔太は、ユーノにとって命の恩人なのだ。

 もっとも、それだけではなく、時空管理局が来るまでの間、居候させてもらったり、魔法を教えていたりするので、単なる命の恩人とは一線を画しているとは思うのだが。

 さて、そんな翔太が一体何の用事なのだろうか? と。ジュエルシード事件が解決してから一週間、彼とは特に交流はなかったはずだ。彼に連絡先は教えていたが。そんなことを考えているユーノに答えるように笑顔のまま翔太が口を開いた。

『そっか。じゃあ、サッカーに行かない?』

「はい?」

 そして、そのまま翔太に連れられて、気づけば翔太が通うという聖祥大付属小学校のグラウンドに立っていた。

 グラウンドには総勢二十人ぐらいの男女が入り混じっていた。サッカーというスポーツの特性上、男の子のほうが多いが、ちらほらと女の子の姿も見える。その背丈もまちまちで、年齢層はかなりあるようだ。

 その中で、ユーノは翔太と一緒のチームに所属しながら、センターラインの近くに立っていた。

 ―――えっと、ボールをゴールに入れればいいんだっけ?

 事前に翔太に説明されたルールを反芻する。それ以外にも正式ではないルールがいくつかあり、例えば、転んだら、その場で一旦ゲームをとめる、とかスライディングはなし、などといったルールだ。スポーツが主体の遊びとはいえ、しょせん、遊びなのだ。細かいルールには縛られないということだろう。

 そんな風になれないサッカーという遊びに四苦八苦しながらも何とか慣れてきたユーノ。突然、翔太が連れてきた外国人風の容姿に驚いていた子ども達も、遊んでいる間にそのことはすっかりと忘れてしまっていたようだ。チームメイトは気軽にユーノと呼ぶようになったし、パスも回してくれるようになっていた。

 そもそも、ユーノは遺跡の発掘で、体力や腕力などは同世代の子どもと比べてはるかに発達しているほうだ。そのため、少し慣れれば、ユーノは長い間、サッカーで遊んでいる子どもよりも戦力になっていた。

 それになによりおも、ユーノの明晰な頭脳は、サッカーの本質を理解しつつあった。

 ―――なるほど、陣取りゲームに近いのかな?

 要するにサッカーとは、いかに誰にも邪魔されずにボールをゴールまで運ぶか、ということが命題だ。それに関していうなれば、ユーノはほぼ、天才的だった。数手先を読むということだ。流れが読めれば、何所に来るかが分かっていれば、ユーノがノーマークでボールを受け取ることは容易い。

 結局、三時間ほど走り回った結果、ユーノは三点を得点するというハットトリックを達成して、またね、と一緒に遊んだ子ども達に惜しまれるようにして聖祥大付属小学校のグラウンドを後にした。

「どうだった? 楽しかった?」

 海鳴の町の由来にもなっている海に沈む夕日が彼らを照らす中、海岸沿いをユーノと一緒に隣を歩いていた翔太が聞いてきた。

「うん、そうだね。楽しかったよ」

 よくよく考えれば、あんなふうに体を動かすことが久しぶりだったように思える。最近は、本を読む事が殆どだったから。少しだけ体力が落ちていることも今日のことで少しだけ分かった。スクライア一族に帰れば、おそらくまた発掘の日々が始まるというのに。このままでは、足手まといになってしまうかもしれない、と危惧したユーノは、明日からクロノたちが使っているトレーニングルームを使わせてもらおうと心に誓った。

「それに―――うん、あの子達の相手をするのも楽しかった」

 ―――スクライア一族に戻ったようで、という言葉はユーノの胸の中でこっそりと呟かれた。

 スクライア一族というのは、発掘の一族で、主な産業は遺跡から発掘された品物による売買だ。ロストロギアを時空管理局に売ることもある。その発掘の主な人員は当然、若い男ということになる。昼間、男は発掘へ、女は家事に追われるのがスクライア一族だ。ならば、子どもの世話は? というと、子どもがやるのが一般的だった。

 今日のサッカーにおいて、小さい子から大きい子まで入り混じって遊ぶ姿は否応なしにユーノにスクライア一族でのことを思い出させるのに十分だったということである。軽いホームシックのようなものである。

 少しだけ垣間見せたユーノの寂しそうな表情に気づいたのか気づいていないのか、翔太は、ユーノの楽しかった、という言葉を聞くと、ただ、よかった、と呟くのだった。



  ◇  ◇  ◇



 アリサ・バニングスは、とても機嫌が良さそうな様子で、母親である梓と一緒に夕食を食べていた。

 彼女の機嫌がいい理由は、明白だった。今日は、4月に入ってからは休止されていた翔太との英会話教室が開かれていたからだ。一ヶ月ぶりともなると翔太も、思い出すまでに少し時間が必要な様子ではあったが、慣れてくれば、休止する前と同じような光景が繰り広げられることとなっていた。

 久しぶりに二人だけの英会話教室にアリサが心躍らないわけがない。なぜなら、それはアリサにとって翔太との絆のようなものだから。もっとも、それはアリサにとって翔太から塾の宿題等を教えてもらっている御礼の意味もあったのだが。そして、英会話教室の中で聞いたのだが、来週から塾にも復帰するようだ。

 だんだんと一ヶ月前と同じような状況が戻ってきたため、アリサは内心かなり喜んでいた。

 それに最近は、もう一人の親友であるすずかも翔太ばかりを気にすることもなくなってきたようで、アリサとも前のように話をするようになっていた。すべてが歯車がかみ合ったように上手く回っているようで、それが、アリサの機嫌のよさにさらに拍車をかけていた。

「アリサ、ずいぶんご機嫌な様子だけど、何かあったの?」

「別に何もないよ」

 にこにこといつもの二割増しほどの笑顔で晩御飯を食べているのが気になったのか、梓が尋ねるが、なんでもないようにアリサは否定する。そう、アリサにとってこの状況は特別なことではないのだ。むしろ、一ヶ月前までの状況こそが特別だった。翔太がいて、すずかがいる一ヶ月以上前のことこそがアリサにとっての普通。今は、その普通に戻りかけているだけなのだ。だからこそ、アリサは、別に何もないと答える。

 しかしながら、当然、梓はアリサの言い分を信じていなかった。目は口ほどにものを言う、とでもいうのだろうか。アリサの笑顔は、隠しきれない喜びを示しており、何もなかったなどといわれても信じられる要素はどこにもなかった。しかし、子どもが親に対して隠し事をするなど当たり前のことだ。嬉しいことであれば、語りたがる子どももいるかもしれないが。

 だからこそ、梓の興味は、別のところへと移った。つまり、アリサの胸元で輝くアクセサリーに。

「あら? アリサ、それどうしたの?」

 少なくとも梓が買ってあげた記憶はない。アリサが買うアクセサリーは、梓と一緒に買い物へ行ったときに買うものがほとんどであり、梓が見たことがないアクセサリーはないはずだった。だが、目の前にその例外があった。今気づいたのだが、気づいてみれば、最近はそればかりつけているように思える。

 梓から指摘されたアリサは嬉しそうにへへへ、と笑う。その表情には、話したくてしかたながないという意図が簡単に見て取れる。

「あのね、温泉に行ったときにショウからプレゼントしてもらったんだ」

 アリサが、よくよく考えてみれば、翔太からプレゼントを貰ったのは初めてだ。いや、誕生日会などでプレゼントを貰ったこともあるが、それはケーキやクッキーといった食べ物などの形に残るものではなく、今回のアクセサリーのように形に残るようなものをプレゼントされたのは初めてだった。

 アリサが嬉しそうにプレゼントされたアクセサリーを掲げながら、梓は興味津々と言った様子でそのアクセサリーを見つめる。その表情は、ニヤニヤと何かをからかうように笑っている。

「ほぉ~、プレゼントされたのは、アリサだけ?」

「え? ううん、すずかも一緒だったけど」

 突然の質問に訳が分からず、素直にアリサがそのように答えると、なぁ~んだ、と言って、ふっ、と興味をまったく失ってしまったようにアクセサリーから視線を外していた。

「アリサだけじゃないのね」

 若干、残念という色を含んで梓が呟くように言う。それは、もしも翔太がアリサだけにプレゼントしたというのであれば、それは好意の表れで、アリサが最近悩んでいた『恋』というものに繋がると思っていたからだ。

 そんな梓の考えも分からず、アリサは、翔太がすずかとアリサにプレゼントするのが、どうして残念なのだろうか? と思ってしまった。アリサにとってアリサとすずかと翔太の仲がいいのは、喜ぶべきことで残念がることではないというのに。

 そんなことを考えていると不意に、梓があっ、と何かを思い出したような声を上げた。何事だろうか? とアリサが少し顔を上げると心配そうな表情をして梓が尋ねてきた。

「そういえば、アリサ、旅行の最終日の夜、翔太くんと一緒に散歩に行ったらしいけど、何かあったの?」

 それは梓が帰り道、すずかから聞いたことを覚えていたためだろう。もっとも、アリサは寝ていたためその事実を知らないが。不意に聞かれた質問にアリサは困った。梓としては、わざわざ外に出たのだから何かイベントがあったとか、星を見るスポットがあったとか、それを二人で見に行ったとか、そういう話を期待していたかもしれない。

 しかし、アリサの脳裏に浮かんだのは、あの場面だけだった。思い出す僅かなでこの痛み。元々、外国の文化を家庭にもっているアリサだ。年齢のことも、恋愛という成熟しきっていない心では理解できない感情を相まって、キスという行為に対して恥ずかしいという感情を抱かないアリサはことの重大さに気づかず、あっさりとその日のことを口にした。

「ショウにチュウしてみない? って言ったわよ」

「ふ~………ん? ぶっ!! げほっ、げほっ」

 最初は軽く流そうとしていた梓だったが、途中からことの重大さに気づいたのか、アリサがいつも見ている格好いい梓とは違っていた。飲んでいたものが、気管に入ってしまったのか咳き込む梓。せめての抵抗は、とっさに手を被せる事ができることだっただろう。

「もうっ! ママ、何やってるのよ」

 あんたが、何言ってるんだ!? と娘に向かって言いそうになるのに必死に堪えて、ナプキンで口元を拭くと、つい先ほどまでの母親の痴態を気にしないように夕飯の続きを口にしていたアリサに核心を問う。

「それで……チュウはできたの?」

「ううん、ショウが、ファーストキスは大切なものだから、本当に好きになった男の子としなさいって」

 アリサの中であの時のことは、キスを断わられたという風には思っていない。なにせ、もともとアリサは『好き』という感情を理解するという目的だったものであり、キスという行為の元来の目的を果たすようなものではなかったからだ。そもそも、アリサがその意味を理解していたかどうかも怪しい。だから、翔太が断わったことはアリサに何の傷も残していなかった。

 一方、母親である梓は、あっけらかんと答える娘に安心したような、不安を抱いたような複雑な気分だった。翔太に釘を刺されたようだったが、さらに刺しておく必要があるかもと母親としての責務を果たすために口を開いた。

「あのね、アリサ。翔太くんが言ったことは正しいわよ。いい女が簡単にキスとか許しちゃダメよ。簡単にそんなことばっかりしていたら安い女に見られちゃうからね。分かった?」

「うん」

 アリサが真面目に頷いたのを見てほっ、と安心する梓。娘が誰を好きになるか分からないが、不幸にはなってほしくないのだから。そう簡単に体の一部とはいえ、安い女にはなってほしくなった。もっとも、勿体つけて、けちな女にもなってほしくないのだが、そんな恋の駆け引きは、ある一定の年齢がくれば、誰でも体験することだ。娘も後、四、五年もすれば、体験するだろう。女は恋の数だけ綺麗になるというし、不幸にならない恋愛をして欲しいものだ、と親心ながら思うのだった。



  ◇  ◇  ◇



 月村すずかは、食後に入れてくれた紅茶を飲みながら、ふぅ、と小さくため息を吐いていた。その表情は浮かない。何か楽しい事があっても、すぐに沈んでしまう。それはあの旅行から帰ってきてからだ。原因は分かっている。あの夜の散歩を盗み見てしまったからだ。

 あの旅行から帰ってきてからすずかは、気分が浮かない日常を過ごしていた。

 楽しかったはずの翔太の昼食も、翔太の隣に座って、翔太の顔を見るとあの夜のことを思い出してしまう。どうしても、アリサと翔太のキスシーンが浮かんできてしまい、前のように仲良くなろうと積極的に翔太に話しかけることもできない。

 すずかの中で燻っているのは、アリサと翔太の関係だ。二人は恋人同士なのか。いや、そうでなければ、あの夜のことは理解できないのだが。しかし、すずかが翔太と仲良くしようとしたとき、アリサが妨害する様子は見えなかった。普通、恋人である翔太に他の女の子が近づこうとすれば、忌避するものではないのだろうか。少なくとも本にはそう書いてあった。あるいは、それはアリサの余裕だったのだろうか、翔太が絶対に自分と仲良くすることはないという。

 そのことが知りたくて、むしろ翔太よりもアリサに話しかける機会が多くなり、前と同じようにアリサに話しかけるようになったのは何とも皮肉な話だ。

 しかし、アリサと話せば話すほどに訳が分からない。翔太との関係を探ろうとしてもまったく分からない。傍から見ても友達同士のように思える。一体、どういうことなんだろうか?

「ふぅ……」

 翔太とアリサの関係がわからなくて、あのときの光景が頭から離れなくて、そして、何よりも自分の感情が分からなくて、それらの不安に押しつぶされそうになってすずかは一人、大きくため息を吐いてしまうのだった。

「あら、大きなため息はいてどうしたの?」

 そんな様子を見かねたのだろうか。晩御飯を食べた後、自室に戻っていたはずの姉の忍がリビングへとやってきた。ノエル~、私のも紅茶、というとすずかの対面に腰掛ける。彼女の表情は、すずかの表情とは対照的にこの世のすべてが楽しいと言わんばかりに満面の笑みを浮かべていた。

「お姉ちゃんは、楽しそうだね」

 すずかにしては、珍しい嫌味だった。いや、それは親類に対する甘えなのかもしれない。何もかも分からないというのは、不安なのだ。不安が長くなればなるほど蓄積される。心の中に黒いものが沸々とドロドロと溜まっている。だが、そんな嫌味が通じないほどに忍は、舞い上がっていたのだろう。あはは、と笑うと忍が上機嫌な理由を語りだした。

「実は、恭也と付き合うことになりましたっ!」

 一瞬、すずかは、忍が言っている意味が分からなかった。

 ―――付き合う? お姉ちゃんが? その前に、恭也さんって誰?

 忍はそんなすずかの混乱には気づかないように、そのときの様子を話していた。しかし、その話は、混乱中のすずかには右から左へと通り抜けるものであり、殆どが記憶に残ることはなかった。しかし、やがて、混乱も収まってきて、冷静に考えられるようになるとすずかは一つの答えにたどり着いた。

「―――お姉ちゃん」

「ん? 何かしら?」

「キスってもうしたことあるの?」

 そう、すずかのたどり着いた答えとは、そこだ。付き合うという表現が、恋仲になるということぐらいは、さすがにすずかも知っている。そして、恋仲であれば、キスをした事があるのではないだろうか、と考えたのだ。そう、あの夜の翔太とアリサのように。ならば、その忍から何か聞ければ、自分の不安に何か答えてくれるのではないだろうか、と思ったのだ。

 突然の質問。だが、忍は慌てる様子もなく、今まで楽しく笑っていた表情を潜めて、面白いものを見つけたような笑みを浮かべるとすずかの質問に答えた。

「そうね、あるわよ」

「―――っ! じゃ、じゃあ」

「あなたがそんなこと聞くなんて珍しいわね。何かあったの?」

 やっぱり、と思って、続きを問おうと思ったすずかだったが、先手を打ってきたのは忍だった。尋ねられてすずかは悩む。正直に言うべきかどうか。すずかとしては、できるだけ隠したかった。しかし、物事を正確に伝えなければ、すずかが知りたいことも知れないかもしれない。そう考えると悩む。

 しかし、結局、これ以上、悩むということに耐えることは考えられず、すずかは意を決して忍にすべてを話すことにした。忍の表情にからかうような表情を見出す事ができずに。

「―――なるほどね」

 すずかから話を聞いた忍はそういうと、残っていた紅茶をすべて飲み干すようにカップを傾けて、テーブルの上に空になったカップを置く。すずかも、ずっと話していたため乾いてしまった喉を潤すために紅茶を口にする。思ったよりも長時間話していたのか、暖かかった紅茶は、すでにぬるくなってしまっていた。

「それで、あなたはどうしたいの?」

「え?」

「だから、あなたは結局、アリサちゃんと翔太君の関係を知って、どうしたいの? 翔太くんと仲良くなりたいの? それとも」

 そこで言葉を切ると忍はすずかを試すようにまっすぐと見つめて、少し間をおいて続きを口にする。

「アリサちゃんと翔太くんが付き合っているから、あなたは距離を置くの?」

「それは……」

 すずかはただ、分からない事が不安だった。あの夜の事が不安だったのだ。なぜ、不安だったのか。その答えは、忍がすでに出していた。つまり、すずかは怖かったのだ。アリサと翔太が恋仲であることで、すずかが翔太から距離を置かなければならないという事が。

 今までの努力が水の泡になるから、というわけではない。彼は、翔太はすずかにとって初めての人だからだ。夜の一族であることを知りながらも受け入れてくれた。もしかしたら、もう一生、すずかの前には姿を現さないかもしれないほど稀有な人だ。だから、すずかはもっと仲良くなりたかった。たとえ、アリサという恋仲になるというほどに仲のいい女の子がいたとしても。

「私は―――」

「ああ、言わなくてもいいわ。大体分かったから」

 答えを口にしようとしたのだが、それを忍の手によって止められる。そんな分かりやすい顔をしていただろうか? と思うすずかだったが、思い悩んでいたのは事実だ。ならば、表情に出ていてもおかしくないか、と思うことにした。

「それにしても……まあ、意外でもなかったけど、すずかが翔太君に恋をするなんてね」

「え?」

 すずかにとって忍の言葉の一部が信じられなかった。そして、驚きの声を上げたすずかをくすっ、と仕方ないなぁ、というような苦笑を浮かべると半ばからかうような口調で口を開く。

「やっぱり気づいていなかったのね。他の女の子と男の子がいちゃついて不安になるなんて『恋』しかないでしょうに」

 ―――これが、恋?

 姉の言うことを疑うわけではないが、すずかには信じられなかった。なぜなら、すずかの感情は、すずかが知るような恋という感情とはかけ離れていたからだ。すずかが、知るような恋は、もっと素敵で、素晴らしいもので、ドキドキするようなものだったからだ。こんなに不安に押しつぶされそうで、泣きたくなるような感情とは思っていなかった。

「まあ、大変でしょうけど、頑張りなさい。恋は戦争よ」

「せ、せんそう?」

 また、物騒な単語が出てきたものだ、とすずかは思う。だが、忍は重々しく頷く。

 そういえば、恭也さんという人とお付き合いする、なんていっていたから、姉はきっと、戦争を勝ち抜いたのだろう、と思った。

「そうよ。まあ、翔太くんの場合、アリサちゃんが一番の障害かな? 応援してるから頑張りなさいね」

「う、うん」

 とりあえず、姉の迫力に押されるように頷くすずかだったが、どうやって頑張ればいいのか皆目見当もつかない。ついでに言うと、アリサと翔太はすでに恋仲なのだから、既に負けているのではないだろうか? とも思ったのだが、忍の前でそんなことはいえなかった。

 それになによりも―――今は、初めて自覚したこの『恋』という感情を今だけは、ただかみ締めたかった。



  ◇  ◇  ◇



 高町なのはは、今、自分の表情を鏡で見るとこれ以上ないぐらい崩れているんだろうな、という自覚を持っていた。

「なのはちゃん? 聞いてる?」

「あ、うん。もちろんだよっ!」

 事実だ。なのはが翔太の声を聞き逃すはずがない。

 少しだけ不審に思ったようだったが、翔太はそれ以上気にすることはなく、なのはの目の前に広げられているテキストの上に指を這わせて説明の続きを始めた。

 そう、今、翔太となのはは勉強をしているのだ。場所は、高町家のなのはの部屋。なのはと翔太はなのはの部屋で、なのはの机の上にテキストを広げて、二人っきりで勉強をやっていた。もっとも、元来、勉強机というのは、二人で勉強できるようにできてはない。それを二人で一つのテキストを見ているのだ。必然的に二人の距離は密着するほどに近くなっている。

 なのはの真横には、下手すれば翔太の吐息が聞こえてきそうなほどに近い距離に顔があり、肩は完全に触れ合っており、そこから翔太の温もりが伝わってくる。幼い頃からいい子でいなければ、と思いながら、人に深く踏み込むことに恐怖心を抱いていたなのはにとって人がこんなに近くにいるのは家族以外では、初めてであり、しかもその相手は、なのはの唯一の友人である翔太なのだ。否応なしにも彼女の心は歓喜で震えていた。

 こうなった経緯は実に簡単だ。ゴールデンウィークが終わった後の休日。約束どおりなのはが翔太に魔法を教えるという日になったことから起因する。魔法の訓練は長時間続けようにも翔太の魔力が長続きせず、午前中で終わってしまった。そこで、まだ翔太と別れたくないなのはが、勉強を教えてっ! と言ったところ、翔太がそれを快諾したのだ。

 場所は、なのはの部屋。翔太は高町家に行った経験はあるが、なのはの部屋に行くのははじめての経験だった。なのはは、自分の部屋に翔太が来ると分かって、心が弾むほどに踊った。部屋での一時を想像して、思わず呆けてしまうほどには。

 しかしながら、それで大騒ぎになったのはなのはだけではない。なぜなら、なのはは今まで友人がいなくて、家族会議が毎週のように開催されていたのだ。そんななのはが、友人を連れて家にやってくる。確かに翔太を連れてきたこともあったが、それは魔法関連のことだ。今回は、友人としてやってくるのだから、程度が異なる。

 よって、翠屋に出勤していない恭也と美由希は、なのはから連絡を受けてそわそわしていたのだが、翔太と部屋で二人っきり、という状況に舞い上がっていたなのはが気づくことはなかった。

 さて、なのはが机に座って、その横に椅子を持ってきて、横からテキストを覗き込むように座る翔太。少なくともなのはにとっては至福の時間だった。この時間が永遠に続けば良いのに、と思えるほどには。しかしながら、いつだって邪魔者は現れるものだ。

「なのは~、お菓子もってきたよ~」

 がちゃっ、とドアを開けてやってきたのは、なのはの姉である美由希だ。お盆の上には、翠屋のものであろうシュークリームとストローの刺さったオレンジジュースが入っていた。

「お姉ちゃん……」

 邪魔しやがって、というような意味をこめて睨みつけるが、美由希とて御神流の剣士である。なのは程度の小娘の嫉妬など柳に風という感じで軽く受け流し、仕方ないなぁ、という笑みを浮かべていた。

「はいはい、それじゃ、ここに置いていくから」

「ありがとうございます」

 ごゆっくり~、と言葉を残して出て行く美由希に対して翔太がわざわざ椅子から降りて、お礼を言う。そんな翔太に、いいよ、いいよ、といわんばかりにひらひらと手を振って美由希は、そそくさとなのはの部屋から出て行った。

「それじゃ、せっかくだし、食べようか?」

「……うん」

 ―――せっかく、ショウくんが近くにいたのに……。

 そんな風に残念がるなのはだが、しかしながら、食べ終われば、また同じ状況になるのだから、と自分に言い聞かせて渋々ながら椅子から降りて、カーペットの上に置かれたお盆の周りに座る。いただきます、という声と共にシュークリームに手を伸ばす翔太となのは。

 なのはからしてみれば、翠屋のシュークリームは食べ飽きたというほどに食べてきたシュークリームだったが、翔太からしてみれば、違ったらしい。おいしい、と言いながら顔を綻ばせていた。翔太が喜んでくれたなら、なのはに文句はない。なのはにとっての至福のときを邪魔したのは許せないが、翔太が喜んでくれたので、良しとすることにした。

 さて、たった一つのシュークリームとコップ一杯のオレンジジュースだ。話しながら食べたとしても三十分もあれば食べ終わってしまう。それからは、またテキストの前に座った。週末で宿題がたくさん出ていた事が幸いした。まだ終わる気配がなかったからだ。

 また、先ほどと同じように座る。横を向けば、少し動けば翔太の頬となのはの頬が近づきそうな距離の翔太の顔。そんな翔太の頬にクリームがついていることに気づいた。おそらく先ほどのシュークリームだろう。

「ショウくん、動かないでね」

「え?」

 なのはの声に反応して翔太が動きそうだったので、先手を取って手を動かす。頬のクリームを掠め取るように手を動かし、翔太の頬についていたクリームを拭い取ると、指についたクリームをそのまま自分の口へと放り込んだ。

「え? あ、え?」

「どうしたの?」

 翔太の味でもするかな? と思ったが、残念なことに味は変わらずクリームの味だった。それよりも、口をパクパクと金魚のように動かしている翔太のほうが気になる。彼の顔に浮かんでいるのは羞恥の表情。照れの表情は見た事があるが、なのはも見た事がない珍しいものだった。

「い、いや、なんでもないよ。ほ、ほら、次の問題をしよう」

 少しだけ翔太の態度が気になったが、それでも翔太の言うとおり、次の問題に目を落とした。最初のうちのは挙動不審だったが、すぐにもとの翔太の態度に戻っていた。肩と肩が触れ合うほどの距離にいる翔太。なのはの至福の時間が戻ってきた。

 そう思っていたのだが―――

「なのは、ジュースのお代わり持ってきたんだが」

 今度は、兄だった。ジュースが入っているのであろうパックを持っている。

 また、邪魔してっ! と姉よりもきつく睨みつけるが、やはり御神の剣士なだけあって、なのはの視線にピクリともしなかった。しかし、それでも邪魔に思われていることだけは分かったのか、はいはい、と言いながらお盆の上においてった空になったコップにジュースを入れるとそれだけで、恭也は去っていった。

 せっかく入れてくれたのだから、と机の上にジュースを持ってくる翔太。少し離れただけだが、それでもなのはとしては肩の温もりが消えるのは寂しかった。

 しかしながら、これ以上、邪魔は入ってこないだろう、と思いながら翔太の隣で勉強を続けるなのは。勉強のペースは、なのはからしてみればゆっくりなものだった。本当ならもっと早く解くことだってできただろう。しかしながら、それは至福の時間を短くする自殺行為でしかない。この時間を一秒でも長く感じたいなのはが早々と問題を解くはずがないのだ。

 なのはが、翔太の温もりや近くにいる気配やらを堪能し、邪魔もこれ以上入らないだろう、と思っていた。そう、そう思っていた矢先だった。二度あることは三度あるといわんばかりにガチャっ、となのはの部屋のドアノブが回ったのは。

「なのは、翔太くんが来てるって聞いたけど」

 入ってきたのは姉でも兄でもなく母親の桃子だった。

「あ、お邪魔してます」

「いらっしゃい、翔太くん」

 とても三人の子どもがいるような年齢に見えないような若さのまま笑う桃子。翔太からは背後になるためわからないが、なんで邪魔するの、といわんばかりになのはは桃子を見ていた。それが分かったのだろうか、桃子は早々に用件を切り出す。

「翔太くん、晩御飯、食べていかない?」

「え? でも」

 親戚でもない家の晩御飯を一緒にするというのは、確かにハードルが高いかもしれない。しかしながら、なのはにとっては、これは翔太と長くいるための絶好のチャンスだった。

「ショウくん、食べて行ってよ!」

「う~ん」

 しばらく考え込んでいたようだったが、なのはが押すこともあったのだろうか。それに桃子が再三誘ったのが、原因かもしれない。大人からこんなにお願いされては無闇に断われないだろうから。もっとも、なのはにとってはどっちでもいいことで、大事なことは翔太がなのはの家の晩御飯を一緒にすることだった。

 桃子が出て行って以降は、邪魔も入らず、なのはは翔太と一緒に宿題を片付ける事ができた。本来の宿題以上に週明けからの予習も含めてだ。本当は宿題ではないのだが、翔太の近くにいたいなのはが少しでも一緒にいる時間を長くするための苦肉の策だった。

 宿題が終わり、晩御飯もなのはの隣で食べた翔太。翔太が隣にいる時間はなのはにとってすべてが至福の時間だ。本当に、このままなのはの家で暮らしてくれないかな? と思うほどには。しかしながら、翔太の家は別にある。つまり、至福の時間にも終わりがあるということである。

 晩御飯を食べた翔太は、一時間程度、恭也や士郎、美由希、桃子を交えながら話した後、迎えに来た翔太の父親とアリシアという黒い敵と一緒に帰ってしまった。なのはは、それを翔太の姿が見えなくなるまで見送るしかなかった。

 翔太を見送ったなのはは、自分の部屋に戻ってきた。パタン、という音共にドアが閉まる。

 先ほどまでなのはに至福の時間を提供していたはずの部屋は、先ほどまでは打って変わって寒い部屋へと変貌していた。翔太というたった一人がいないだけでここまで寒くなるのか、というほどになのはにとっては寒い部屋だった。先ほどのことを思い返せば、尚のこと。

 次にあの至福の時間を味わえるのはいつだろうか? それを想像すると絶望したくなる。少なくとも明日、明後日というわけではないだろうから。つい最近までは毎日、翔太との時間があったというのに。やはり、ジュエルシード事件など解決するべきではなかっただろうか、とまで思ってしまう。

 はぁ、とため息をついたなのはの目に入ったものがあった。それは、机の上に放置されたままのコップ。そういえば、勉強していた途中で晩御飯に呼ばれたため、そのままだったのだ。手前にあるのが翔太のもので、奥にあるのがなのはのものだ。

 不意になのはの手が動く。コップを片付けるためではない。なのはの目的はコップに刺さったままのストローだった。

 ―――ショウくんがさっきまで使ってたもの……。

 まるで花の蜜に誘われる蝶のようにふらふらと翔太が使っていたストローへと向けて顔が動いていく。やがて、ストローの先に口が届きそうになったとき、口を開き―――そのまま、翔太が使っていたストローを銜える―――直前で正気に戻った。

 ―――な、なにやってたんだろう?

 確かに翔太が使っていたものを銜えるというのは魅力的なものに思えたが、それはやってはいけない一線を越えるようで、なのはの中に残っていた常識がそれを留めた。

 まるで、先ほどのことを忘れるように、誤魔化すようにぶんぶんと首を横に振ると、もうこんな変な気分になるのは、ごめんだといわんばかりに、この危険な代物を早く処分しなければ、といわんばかりに、さっ、とコップを二つ掴むと先ほど入ってきたドアからドタドタと慌てて下の階へと降りていった。

 机の上の桃色のハンカチの上に鎮座するレイジングハートだけが、その様子を見つめるのだった。







 
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