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リリカルってなんですか?

作者:SSA
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空白期(無印~A's)
  第二十三話 裏 後 (アリサ、すずか)




 アリサ・バニングスは鼻歌を歌いながら、明日からの温泉旅行に向けて準備をしていた。洗面用具、着替えなどなど、男の子から比べれば幾分多い荷物を手際よくバッグに詰めていく。ゴールデンウィークなどの長期休暇に彼女が旅行へ行くことは初めてではない。その経験が十分に生きているのだろう。どこか、思考が準備よりも明日のことに馳せているのにその手が止まることはない。

 明日は、あれをして、これをして、ああ、あれも忘れちゃいけないわよね、とパンフレットを見ながら考えた行動計画をもう一度、思い出していた。アリサが持っている温泉街と泊まる旅館のパンフレットには書き込みと丸印がいくつも書き込んであった。どれだけアリサがこの旅行を楽しみにしてるかが手に取るように分かろうというものだ。

 アリサがこの旅行を楽しみにしてるのもある意味当然だった。アリサは今まで、友達で泊りがけで旅行というようなイベントを体験したことはない。仲のいい女の子同士の小学生ならば、お泊り会なども考えられるが、アリサの親友は、月村すずかと蔵元翔太の二人だ。どう考えても、そんなイベントを企画する側ではない。一番可能性があるとしたら、それはやはりアリサ本人ということになるだろう。

 今までは運が悪かったのか、星のめぐりが悪かったのか、そんな機会が中々巡ってこず、結局明日の旅行が友達の中での初めてのイベントということになる。だからこそ、アリサのテンションはいつもりも上がっているのだから。なんにしても初めてというのは興奮を伴うものである。

 だが、そんなテンションもピークに達すれば、ある時点で急にストンと落ちてしまう一瞬がある。つまり、一気に冷めて冷静なる瞬間だ。それが、アリサには準備が終わり、バッグのファスナを閉めた時点で訪れた。一度、浮かれていた熱が冷め、冷静になるとアリサは、すっかり準備が完了したバッグの前でうむむ、と唸り始める。

 冷静になった瞬間、アリサは不意に自分の目的を思い出したからだ。

 ―――翔太に自分のことを好きになってもらう。

 それは、彼女の親友である月村すずかと蔵元翔太がお互いがお互いを好きにならずに三人一緒にいるための対策だったのだが、如何せん、その方法が分からない。そもそも、その前に前提条件として『好き』という感情が分からなければ、アリサに手を打つ手段がない。着地点が分からないのに道筋が描けるわけがないのだ。

 できることならすぐにでも『好き』という感情を理解したかったアリサだったが、担任からは、既に答えを貰っている。それはアリサはアリサだけの恋があるということ。つまり、翔太に好きになってもらうためには『翔太の好き』を理解しなければならないのだろうが、自分自身の好きさえ理解できないアリサが『翔太の好き』を理解できるとは到底思えなかった。

「はぁ、どうしようかしら?」

 そう悩んだところで、解決策など何もない。アリサが考えていることは暗闇の中を闇雲に歩いているようなものだ。突然、光明が見えるかもしれないが、暗闇の中を歩き続けるかもしれない曖昧なものである。ならば、アリサにできることなど数少なかった。

 精々、翔太がすずかを『好き』にならないこと、自分が早く『好き』を理解することぐらいである。後は考えても仕方ない。

 そう思ったアリサは、普段はまったく信じていない神様に都合よく祈ると、再び明日からの旅行にテンションのエンジンを上げ、枕元においてあったパンフレットに手を伸ばすのだった。



  ◇  ◇  ◇



 次の日の天気は、まるでアリサを祝福するように旅行日和の快晴だった。旅行もきっと上手くいくと思わせるような雲ひとつない青空が広がる天気だ。のんびり車に移動する母親の梓と父親のデビットを急かしてアリサは車に乗り込む。最初の目的地は二人の親友のうち、月村すずかのほうだ。温泉旅館への経路等を考えるとそれが最適らしい。もっとも、そこらへんはすべて執事の鮫島に任せているから、アリサもデビット、梓も詳しいことは分からなかったが。

 すずかの家に着くと月村家のメイドであるノエルが出迎えてくれた。すずかが出てきたのは、彼女達が出迎えてくれたすぐ後だ。おそらく準備は既に済んでいたのだろう。アリサと同じぐらいのバッグを肩にかけたすずかが姿を見せた。

 おはよう、と笑顔で、お互いに挨拶を交わし、すずかが乗り込んでくる。荷物は既にトランクの中である。さて、すずかが合流したところで、旅館へ行くために拾っていくのは翔太だけとなった。アリサを乗せたリムジンは、静かに月村邸から出発し、蔵元家へと進路を取る。

 翔太の家までの短い道のりで、アリサとすずかはお互いに情報を交換する。この短いゴールデンウィークに何をしていたか、を。アリサは、近くのショッピングモールに母親と出かけたことぐらいだろうか。普通なら外国へ旅行へ行ったりするのだが、今年は父親のデビットの都合がつかなかったので仕方ない。代わりにすずかと翔太を誘って温泉旅行にいけるのだからアリサとしては文句の言いようもなかった。

 すずかは? と尋ねてみると、彼女も似たようなものらしい。どうやら、今年はどこかに出かけることを姉の忍が嫌った様子で、今年のゴールデンウィークは珍しく、本を読むなどして静かに休日を満喫していたらしい。

 その話を聞いて、それなら、誘えばよかった、とアリサは後悔した。今年もすずかはどこかに出ているのだろう、と勝手に勘違いしてしまったのが原因だった。さらに言うと、旅行中は携帯の電源を切っておくことは当然なので、携帯で確認を取ることもなかったのだ。

 まあ、後悔しても仕方ないか、とアリサは気分を切り替える。どうせ、これから三日間はずっと一緒にいるのだ。ならば、前半に遊べなかった分まで取り戻すように遊べばいい。そう考えると、段々とこの旅行が楽しみになってきて、ワクワクがとまらない。まだまだ、旅館にすらついていないというのに。

 はやく、はやく、と急かすアリサの心に応えるように翔太の家に着いたのは、すずかの家を出発してから十五分程度のことだった。何度か来た事がある翔太の家の門が見えた。本来であれば、すずかと同様に翔太を拾うだけでいいはずなのだが、翔太の両親からの願いで、アリサの両親と挨拶することになっており、一度車を降りるようだった。

 それにアリサがついていく必要はなかったのだが、先ほどから感じているワクワクに後押しされるような形で、アリサもデビットと梓についていった。残念なことにアリサには無駄としか思えない井戸端会議のような会話が交わされ、一刻も早く出発したいアリサは、苛立ちを感じてしまったが、それが功を奏したのか、アリサの母である梓がいつも費やしている井戸端会議よりもかなり短い時間で、話を切り上げることができた。

 翔太を伴って車へと乗り込もうとしたとき、不意にアリサは足を止めて考える。

 このまま自分が先に乗れば、すずか、アリサ、翔太の順番に座ることになる。ある意味、いつもの座り方だ。もしも、何事もなければ、アリサもこの順番を好み、そのまま乗り込んだことだろう。だが、状況が少し前と異なる。その原因は、すずかだ。アリサが悩んでいる『恋』が彼女を変えたのか、すずかはアリサと翔太を比べた場合、翔太に話しかける傾向が強くなってしまう。もしも、このまま乗り込めば、すずかは、自分を挟んで翔太と話をしてしまうのではないだろうか。そんな懸念が生まれたのだ。

 真ん中に座っていれば、話に入ることは難しいことではないだろうが、最初から自分を挟んで会話されてしまえば、ものすごく疎外感を感じてしまう。ならば、とアリサは乗り込もうとした足を止めて、道をアリサが乗り込むのを待っている翔太に譲った。

「なにやってるのよ? 早く乗りなさいよ」

「え?」

 ちょっと逡巡する翔太だったが、やがて諦めたようにアリサよりも先に乗る。それを見届けてアリサが、デビットが、梓が順番に車に乗り込んだ。乗り込んだのを鮫島が確認したのか、ドアがばたんと閉じられた後、ゆっくりと車は発進する。車が発進したというのに揺れが少なかったのは運転手である鮫島の運転の腕であるが、アリサにとっては普通のことなので、特に気にすることはなかった。

「ショウくん、久しぶりだね」

「うん。そうだね」

 車が走り出した途端、さっそくすずかが翔太に話しかける。やっぱり、と思うと同時に二人だけで話されると、何所となく疎外感を感じてしまう。話に加わりたいと思っても、まだ話題が始まってすらおらず、入るタイミングをうかがうことしかできなかった。

「ショウくんは、今日までゴールデンウィークは何やってたの?」

「なのはちゃんの手伝いかな」

 もしかしたら、着くまで二人で話するのかな? と心配していたアリサだったが、思ったよりも話に入る切っ掛けはあっさりと訪れた。ついでに、アリサも聞きたかった事が聞けて一石二鳥だ、と内心喜んでいた。

「あっ! そういえば、ショウっ! ちゃんと片付いたんでしょうねっ!!」

 アリサが急に割り込んできたような形になってしまい、彼女が入ってきたことに少し驚いた表情を見せていた翔太だったが、すぐにいつもの笑みを浮かべながら言う。

「うん、大丈夫。ちゃんと片付いたよ」

 その言葉を聞いてアリサは、ほっ、と胸をなでおろした。もちろん、翔太が約束を破るとは思っていなかった。それでも、もしも、何かあれば、助けるというのがアリサの知る蔵元翔太という人間だ。万が一、片付かなくて、高町なのはが、助けて、とでも言えば、翔太は間違いなく助けるために動くだろう。一ヶ月という約束を守るために、助けてと懇願する高町なのはを袖にするのは、アリサの親友である蔵元翔太ではない。もっとも、翔太はちゃんと一ヶ月という約束を守って片をつけてくれたが。

 心の底からよかった、と思った。

 いつまでも続くと思っていたアリサの日常。その色を変え始めたのは一ヶ月前からだった。

 最初に変わったのは翔太だ。翔太が、高町なのはに構うようになった。塾やアリサとの英会話教室さえ休んで。つまり、それは高町なのはが、絵に書いたような真面目君である翔太が塾やアリサとの英会話を休んでまでも構う価値があるということだ。おそらく、アリサが頼んでも翔太は先約があれば、それを優先しただろう。親友である自分でさえも優先するような価値がある高町なのはが許せなかった。

 しばらくは、すずかと二人で過ごす日常になってしまった。それでもいいい、と思っていた。すずかがいれば、それでも一人ではないからだ。しかし、それが続いたのも二週間ほど前までだった。急にすずかの態度が余所余所しくなった。翔太の前であれば尚のこと。まるで、アリサが目の前にいないように。翔太しか目に入らないように振る舞い始めたすずか。

 すずかの態度が変わったのを恋と知って。もしかしたら、このままアリサだけになるかもしれないと思って、アリサは、その事実を恐れていた。このまま、自分ひとりだけで、以前のような関係が空中分解してしまうのではないか、と心配していた。

 だからこそ、アリサは内心で翔太に自分を好きになってもらおうと考えているのだが。もっとも、その方法は現在模索中である。

 だが、その恐怖も、不安も、心配も、今日で終わりだ。高町なのはの用事を終えた翔太はきっと、以前と同じように自分とも付き合ってくれるだろう。すずかのことは少しだけ不安だが、それでも自分と一緒にいることを嫌がっているわけではない。だったら、きっと元に戻れるはずだ。一ヶ月前と同じような関係に。

 その後は、ゴールデンウィーク前半のことで盛り上がっていく。きっかけは翔太からだったが、少し前と同じような空気になって、アリサは少しだけ嬉しくなり、心が躍った。昔のように三人でお喋りしながら、きっと、この三日間も楽しいものになるに違いない、とアリサはある種の確信を抱いていた。

 そんな彼女達を乗せた車は、一路、温泉旅館へ向けて速度を上げて向かっていた。



  ◇  ◇  ◇



「わ~、綺麗っ!」

 アリサ・バニングスは温泉から見える風景に歓声を上げていた。同時刻、隣の男湯で翔太が、同様の風景に呆けていたことはまったくの偶然だが。

 アリサたち一行が、温泉地についたのはつい先ほど。フロントでこういう場所には不慣れなのか、いつも落ち着いている翔太がオロオロしていて、珍しいものを見た気分になった。もしも、彼が外国のアリサが泊まるようなホテルに行ったらどうなるのだろうか。ここよりもサービスが行き届いているのだから。そんな翔太を想像して少しアリサは、笑ってしまった。幸いなことに翔太に気づかれることはなかったが。

 そして、チェックインして、すぐに温泉へと向かった。温泉旅館に来たのだから当然だ。そして、アリサが三人でこの旅行を楽しむということを決めた以上、お風呂も三人ではいることは、彼女の中で確定事項だったのだが、なぜか、翔太に酷く嫌がられてしまった。もしも、翔太が頑なではなく、やんわりと断わったのであれば、アリサも仕方ないか、と諦めるような部分があっただろう。だが、翔太が強く、頑なに拒むものだから、そんなに親友である自分達と一緒にお風呂に入るのが嫌なのか、と勘ぐってしまい、無理にでも連れ込もうとしてしまった。

 しかしながら、そのアリサの思惑は、アリサの父であるデビットによって阻止される形になってしまったが。三人で一緒に入れないことは確かに残念だったが、その代わり、明日の約束は取り付けることに成功した。そう、明日もあるのだ。だから、焦ることはない。そう、アリサは自分に言い聞かせた。

「アリサ、いつまでも外にいると風邪をひくわよ」

 母親の梓に言われてみれば、確かに現状はバスタオル一枚の一子纏わぬ姿だ。誰かに指摘されて自覚すると、急に肌寒さを感じたような気がした。せっかくの旅行なのに風邪をひいては、意味がないと、アリサは急いでバスタオルを頭に巻いて、体を洗った後、ゆっくりと湯船に浸かる。温泉というだけあって、いつも浸かっている家のお湯よりも若干熱いような気がしたが、慣れてくれるとその温度も気持ちよく感じられた。

「はぁ、気持ちいいわね」

 いつも忙しそうで、疲れているはずの母親も温泉が気持ちいのか、ゆったりと蕩けるような表情をしている。梓を挟んだ向こう側にはすずかもいるが、彼女も気持ちいのだろうか、ゆったりと力を抜いて、ふぅ、と息を吐いて、目の前の自分が綺麗と絶賛した風景を見ていた。

 アリサ、梓、すずかと無言で並んで温泉に浸かる。傍から見れば、自分達は親子―――すずかとアリサは姉妹に見えるだろうか、とアリサは考えた。いや、どちらかというと梓とすずかは親子に見えるかもしれないが、アリサは余所の子と思われるかもしれない、と思ってしまった。すずかと梓は黒髪に対して、アリサは金髪という決定的な違いがあるからだ。梓の夫が金髪と知らなければ、梓とアリサが親子と思われることはないだろう。

 もっとも、それはアリサが内心で、自分の容姿―――金髪と白い肌に対してコンプレックスのようなものを持っているだけであり、よく見れば、アリサと梓は顔のつくりがよく似ていることが分かる。金髪と肌の色を除けば、間違いなくアリサは梓の娘だった。それにアリサ自身が気づくことはできないが。

 そんな暗い感情がアリサの胸の中に漂い始めたのを感じて、それを払拭するようにアリサはばしゃばしゃと顔を洗って、その感情を洗い流した。そんな感情は小学校に入る前にとうに克服したはずだからだ。今、再び起き上がってきたのは、きっと不安だった時期から、再び元に戻ろうと期待しているからだ。

 暗い感情を顔を洗うことで、すっかり洗い流したアリサの目に不意に梓の胸が目に入った。大きく膨らんだ梓の胸が、だ。続いて自分の胸に目を落としてみる。次にすずか。二人ともストンという擬音が似合うようにまったく膨らみなどなかった。年齢を考えれば当然なのだが、アリサからしてみれば、梓もすずかもアリサも性別で言えば『女』なのに、どうして違うのか? と気になるところだ。

 そんなアリサの視線に気づいたのだろうか、梓が悪戯っぽい笑みを浮かべて、アリサに話しかけた。

「胸が気になるの?」

 コクリ、と頷くアリサ。その言葉に釣られて、すずかも気になったのか、梓の胸を凝視していた。ペタペタと自分の胸を触ってみても、そこには何もない。そんな二人を見て梓は面白いものを見るように笑っていた。

「二人とも心配しなくても大きくなったら、自然と胸も大きくなるわよ」

 あははは、と笑いながら梓は隣に座っていたアリサを抱き寄せる。急に抱き寄せられたものだから、アリサはバランスを崩し、お湯が少しだけ口の中に入ってしまったが、現状はそれどころではなかった。抱き寄せられたアリサは、肌を合わせる形で梓の胸に触れているわけだが、それが自分のものと違って非常に柔らかいのだ。我が母親ながら、非常に不思議なものだった。

「特にアリサは私の娘なんだから」

 にんまりと笑う梓。先ほど考えていた事が見透かされたようで、アリサは少しだけドキッとしたが、偶然だったのだろう。顔をこわばらせたアリサに、どうしたの? と不思議そうな顔をしているのだから。

 なんでもないわ、とアリサは誤魔化し、梓の腕から逃れると再び風景に視線を移し、ふぅ、と息を吐きながら思った。

 ―――そっかぁ、大きくなるんだ。

 平らな胸をこっそりと触りながら、アリサはまだ見ぬ将来に思いを馳せるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 アリサ・バニングスは、四方を仕切られた更衣室の中で、渡された浴衣に着替えていた。アリサが選んだ浴衣は、すずかとは対照的な白の明るい色だ。前は、主に白を好んでいたすずかだったが、最近はどうやら暗い色も好み始めたらしい。そういえば、あのワンピースを着てからだろうか。白が好きだ、と言っていた彼女が暗色系の服も着るようになったのは。今回も、すずかは黒を基調とした浴衣を選んでいた。

 だから、アリサは、コントラストではないが、反対の白を選んだのだ。そもそも、翔太もすずかも黒で、さらに自分も黒を選んでしまえば、非常に暗い集団になってしまう。せめて一人だけでも彩が欲しいではないか。一人だけ暗色系の浴衣ではないとはいえ、バランス的には、アリサが白というのは間違いではない。

 そんなことを考えていたためだろうか、着替えるのに手間取ってしまったようだった。隣の更衣室で着替えていたはずのすずかの声がアリサの更衣室の布越しに聞こえたからだ。

「どう……かな?」

「うん、可愛いと思うよ」

 恐る恐るといった様子のすずかに対して、少し間を置いて翔太の褒める声が聞こえた。翔太がすずかの浴衣を褒めたことに気を取られながらも、アリサは着替えるスピードを上げた。アリサとすずかが同時に着替え始めたはずなのに片方だけ遅いというのは、気になるからだ。早く着替えなければ、と思いながらアリサは手の動きを早めていく。それから間もなくアリサは浴衣に着替え終える事ができた。

 やや気がせきながらも、少し乱暴に更衣室のカーテンを開く。

「どうよっ!」

 思ったよりも大きな声が出てしまったらしい。突然のアリサの声に驚いたような表情を見せながら、翔太とすずかの視線がアリサに向けられる。

 見られているという視線に人というのは意外と敏感だ。翔太とすずかの視線が自分に向けられているのが分かる。特に翔太は上から下まで順番に見ているようだった。上から下まで見た翔太は再びアリサに視線を合わせるといつも浮かべている笑みのままで言う。

「うん、似合ってると思うよ」

 翔太の口から出てきたのは間違いなく褒め言葉なのだが、どこか聞き飽きたような感じがする言葉だった。例えば、アリサが下ろしたての洋服を着てくると翔太は殆どそのことに気づくのだが、毎回出てくる言葉は似たような言葉だ。自分ならすずかの洋服はもっと褒められるというのに。

 そのことに不満と疑惑を持ってしまったアリサは思わず、ジト目で翔太を見てしまう。

「……ショウ、めんどくさくなってない?」

 図星をつかれて少し正直な人間なら表情が引きつるとか、肩が動くとかリアクションを返しそうだが、翔太の場合は、アリサの疑惑を受け流すように表情を一切変えることはなかった。

「そんなことないよ。うん、可愛いよ」

 まるで付け加えるような言葉。だが、おそらくそれは本音なのだろう。ただ、翔太は褒めるべき言葉が少ないのだ。だからこんな風になってしまう。それを改めてアリサは理解した。できれば、もっと数を増やして欲しいとは思うが。しかし、それが翔太といえば、それまでだ。無理してまで飾って欲しくないというのも本当だから。

「まっ、今回はショウを信用してあげるわ」

 だから、今回は許してやることにした。きっと、次も似たような事があったら、似たようなことを考えて許すんだろうな、と心の隅で思いながら。

 それから、三人で記念撮影をして、目的である温泉街へと飛び出した。

 アリサが前日までに調べた中に当然のように温泉街についての調査も入っていた。面白そうな場所。楽しそうな場所。興味があるものがありそうな場所。冊子に挟まれた地図の中にきちんと印がつけられていた。

 その中には、当たりも外れもあった。想像していたよりも面白い場所。想像していたよりもつまらない場所。期待はしていなかったが、意外にも楽しめた場所。様々な場所があった。もっとも、一番効果的だったのは三人一緒だったからというのがあるのかもしれない。何も考えることなく、ただ三人で遊ぶ事が楽しくて、きゃーきゃー言いながら、彼らは温泉街を駆け巡った。

 さて、そんな最中、不意にアリサの目に止まったのは、路上に広げられた布の上で、昨日と同じく快晴となり、雲ひとつない空から燦々と照りつける太陽の光を反射する金属だ。もっと注目してみるとそれは、チェーンに繋がれたいわゆる首から下げるアクセサリーのように見えた。

 アリサとて、まだ小学生とは言え、女の子だ。いや、むしろ小学生の女の子だからだろうか。そんなものへの興味は人一倍だった。だからこそ、足を止めて屈みこみ、アクセサリーを覗き込む。三人は全員子どもだけで見ているだけでは何か言われるだろうか、と不安だったが、店主はどうやら気のいい人物だったようで、「いらっしゃい。ゆっくり見て行ってくださいね」と迎え入れてくれた。

 それならば、遠慮なく見て行こうとアリサは考える。アリサの興味を引くような可愛いものもあれば、カッコイイといえるようなものまで様々なものがあった。案外、どんな顧客にも対応できるようにしているのかもしれない。

「ねえ、どれが好き?」

 興味深く、目移りしながら見ていたアリサの耳を不意に翔太の声が打った。

 突然の翔太の声に思わず驚きの表情と共に翔太の顔を見てしまう。そうすると彼はまるで悪戯が成功したように笑い、さらに続けて、驚くようなことを口にした。

「だから、どれが好き? プレゼントするよ」

 ―――ぷれぜんと、プレゼント、プレゼントっ!?

 アリサが翔太の言葉を理解するまでに若干の時間を要した。あまりに突然すぎる言葉に彼女が状況を理解するのに時間を要しただけだったのだが。だから、理解してしまった瞬間、思わず「本当なのっ!?」と身を乗り出して翔太に聞いてしまった。彼も身を乗り出したアリサに若干驚きながらも頷いてくれる。

 翔太の言質を取って、アリサの心は歓喜に震える。理由はよく分からないが、どうやら翔太がこの中の一つをプレゼントしてくれるというのだから。もしかしたら、これが、母親に聞いた男の甲斐性というやつなのかもしれない。だが、しかし待てよ、とアリサの中でブレーキがかかる。

 翔太は言った。どれが好き? と。つまり、それは翔太はプレゼントをアリサたちに選ばせるつもりなのだろう。だが、それは違うだろう、とアリサは思った。お金を出すだけがプレゼントの意味ではないだろう、と。プレゼントする人が選んでこそ、物に価値が宿るのだから。もしかしたら、翔太にはセンスの自信がないのかもしれない。だが、それはそれで乙なものだ。

 だから、アリサは翔太を窮地に追いやる一言を口にする。

「でも、あたしたちが選んだのをショウがプレゼントするっておかしいわよね?」

「そういえば……」

 しかも、幸いなことにすずかも同調してくれたようだ。顎に人差し指を当てて、考え込むような仕草をしながらアリサの考えに同調するような言葉を出してくれた。そして、翔太が困ったような表情をすることを期待して二人してニヤニヤと彼を見つめる。

 翔太は彼女達の想像を裏切らないように困ったような表情を浮かべながら、後頭部をガシガシと掻いた後、真剣な表情で考え込むように真剣な目でアクセサリーを見始めた。そんなに真剣にならなくてもいいのに、とは思うが、本気で選んでくれているようで、それはそれで嬉しかった。

 やがて、少し時間をかけてようやく翔太は二つのアクセサリーを選んだ。それらの会計を済ませて翔太はアリサとすずかにそれぞれアクセサリーを手渡す。

 アリサに手渡されたのは太陽をあしらったアクセサリーで、すずかに渡されたのは月をあしらったアクセサリー。センスはそれなりで、やはり男の子だからなのだろうか、可愛いというよりもカッコイイに部類されるようなアクセサリーだった。だが、それでも翔太が真剣に選んでくれたものだ。異論があろうはずもなかった。

「へ~、いいんじゃない?」

「うん、いいと思うよ」

 アリサが気に入ったように、どうやらすずかも気に入ったようだ。アリサの意見に同調していた。

 手渡されたアクセサリーは早速、首からかけられる。首にかけたとき、金属が持つ冷たさだろうか、やや首筋がヒヤッとしたが、それもすぐに収まり、胸元へと視線を落とす事ができた。そこには先ほど翔太からプレゼントされた太陽をあしらったアクセサリーが、空からの太陽の光を反射してその光沢を輝かせていた。

 ―――初めて貰った翔太からのプレゼント……。

 大切にしよう、とアリサは思うのだった。



  ◇  ◇  ◇



 なんでこんな面倒なことをするのだろうか? とアリサ・バニングスは、部屋の庭に設置されたお風呂に浸かりながら思う。

 温泉街の散策から帰ってきたアリサたちは、今度は大きな露天風呂ではなく、庭に設置されているいわゆる家族風呂の中に身を沈めていた。身体にタオルを巻いたままで。さらに髪の毛をお風呂につけるのはマナー違反なので髪の毛にまで巻いている。それは、アリサもすずかも同じだ。

 そう、現状、家族風呂に身を沈めているのは、アリサとすずかと翔太だ。昨日の約束どおり、こうして三人で一緒にお風呂に入っているわけだ。デビットと梓は、というと家族風呂というのは三人家族程度を想定しているらしく、子ども三人が入れば、大人は一人しか入れない。どちらが入っても角が立つなら、入らないことにしようという結論に至ったらしい。

 もっとも、アリサにしてみれば、目的は三人でお風呂に入ることだからなんら問題はなかったわけだが。

 彼女達がタオルを巻いているのは、翔太の必死の抵抗があったからだ。一緒に入ることは了承したからせめてタオルを巻いてくれ、と懇願されてしまった。

「温泉にタオルをつけるのはマナー違反じゃないっ!」

 そう憤ったのはアリサだ。少なくとも、アリサはそう教わっていた。しかし、彼曰く、何事も例外があるのだという。その例外の理由は? と聞くと、恥ずかしいからだ、という。アリサにはまったく意味が分からなかったが。どうして、恥ずかしいのだろうか? と思う。まあ、他人ならどうだろうか? と思う心はアリサにはあるが、相手は翔太だ。何も気兼ねすることはないと思うのだが。

 そう思ったが、結局、梓のとりなしでアリサたちが折れることとなってしまった。しかも、面倒なことに頭にまでタオルを巻いて。

 そんな少しの混乱があって、ようやく三人でお風呂に入ったのだが―――

「ちょっと、ショウっ! 背中向けてたら意味ないでしょうっ!」

 そう、翔太はなぜかずっとアリサとすずかに背中を向けるような形でお風呂に浸かっていた。一応、声をかければ応えは返ってくるのものの、これではまったく意味がない。昨日の垣根を越えた向こう側といるのと何が違うのだろうか。アリサの目的は一緒にお風呂に入ることだ。それは、何も同じ湯船に浸かることだけではない。例えば、大きな温泉には劣るものの、部屋から見える山々に沈む夕日というのは一見の価値があるだろうし、それを三人でお喋りしながら見るのは楽しいと思う。だが、こうして翔太は、自分達からも背を向け、風景からも背を向けている。まるで、何もかもを拒絶するように。

 ―――それが、アリサの癇に障った。

 翔太の態度が、行動が、何もかもが。

「ええいっ! こんな風にタオルなんて巻いてるからよっ!」

 たかだかタオル一枚。だが、それすらもアリサには自分達と翔太を隔てる壁のように思えて仕方なかった。だから、まずは自分の体に巻きつけられたタオルをスパンと外す。水を吸ったタオルは少し重かったが、勢いよく外したのが功を奏したのだろう。遠心力を得たタオルは鞭のようにお風呂の淵にパチンという音を立てて叩きつけられた。

「すずかっ! ショウのタオル外すから押さえてっ!」

「うん、分かったよっ!」

 え? という声を翔太が出すが、もう遅い。そのときには背後に回ったすずかが、翔太のわきの下から腕を通して拘束するような形になっていた。ばしゃばしゃとお湯をかき分けて、翔太に近づくと腰に巻かれたタオルの結び目に手を伸ばす。やめて~、と翔太が叫んでいるような気がしたが、それはハエを追い払うように無視して、あっさりと翔太のタオルはするりと解けてアリサの手の中にあった。そして、すぐさま淵ではなく、少し遠くにタオルを投げ捨てる。これで、取りに行くことはできないはずだ。

「まったく、何を恥ずかしがってるんだか」

 こうして、何一つ身に纏っていない今でも別になんてことはない。翔太だけは一生懸命、見ないように顔を背けていたが。

「ほら、見なさいよ」

 そんな翔太を無理矢理首を動かして、ある方向を向けさせる。それは山間部に今にも太陽が沈みそうな綺麗な風景だった。もう明日の昼には帰るのだからきっともう見れない刹那の風景。昨日見たときから思っていたのだ。これを三人で見たらきっといい思い出になると。

 少しだけその景色から視線を外して翔太に目を向けてみると先ほどまで叫んでいたことも忘れて、景色に見入っているように思える。

 それを見てアリサは少しだけため息のように息を吐きながら思う。

 ―――まあ、ちょっとばたばたしちゃったけど、これもいい思い出よね。

 思い出は、静かなものよりも若干、騒がしいほうがきっと思い出に残るだろう。刹那にしか見る事ができないはずの景色を完全に夕日が沈むまでの間、三人は無言でお風呂に浸かるのだった。



  ◇  ◇  ◇



 アリサ・バニングスの心臓はまるで壊れるのではないだろうか、と思うほどに高鳴っていた。原因は言わなくても分かる。先ほど見た光景だ。

 今の時刻は、月が南中しそうな時間。すでに全員が布団にもぐりこみ、寝入っているはずの時間。だが、それにも関わらず、隣の布団がごそごそと動き出し、がらっという音と共に次に外に出て行くような音がした。トイレだろうか、と思ったが、部屋にトイレはあるので外に出る理由が分からない。

 気になってアリサはすぐさま隣の布団の持ち主―――翔太の跡を追う。

 急いだのが幸いだったのだろうか。彼の姿は簡単に見つける事ができた。本当なら、声をかければいいのだろうが、こんな夜中に何所に行くのだろうか? という興味のほうが勝ってしまい、結局、探偵のように彼の後を追うことにした。

 黙々と時折、案内板に目を向けて彼が向かったのはこの旅館が有する中庭だった。アリサがパンフレットを見たときも旅館の中庭についても書いていたが、何か面白いものがあったのだろうか? と思い出しながら変わらず、彼の後を追うアリサ。

 しかし、中庭について思い出す前に中庭についてしまったアリサは、そこで思いがけないものを目にしてしまった。

 空に浮かぶ月を写した水面。ベンチの下に淡くともされた光。その光に照らされた男女。二人の顔の距離はゼロと言っていい。彼らの唇は重なっているのだから。しかも、彼らは二人の世界に入っているのだろうか。アリサに気づいた様子はなかった。

 思わず、足を止めてしまうアリサ。彼女が、彼らの行為を理解するのに数秒が必要だった。ちなみに、彼女が追ってきた翔太は、その光景を目にすると一瞬、足を止めたが、すぐに踵を返して別の場所に向かっているようだった。思考回路が停止していながらも、少しだけ動いていた思考回路で、さすがだ、と翔太を褒めながら、ようやく再起動を果たし、全力で動くようになった思考回路で彼らの行為を理解したアリサは、顔を真っ赤にしながら、その場から逃げ出した。おそらく、翔太が向かった方向に向けて。

 ドクンドクンとありえない速度で鼓動を刻む心臓を押さえながら、何所をどう歩いたか分からないが、とりあえず開けた場所に着いた。そこは、先ほどの中庭のような場所で、されども池はない。雑草と石畳があるだけだ。

 そこに設置されたベンチの一つにアリサの探し人が居た。

 ベンチの背もたれに体重を預け、顔は月を見ているのだろうか上を向いている。しかし、その表情はいつもの笑みを浮かべておらず、珍しくぼぅとしているような表情だった。珍しいものを見た、と思いながらも、今はこの心臓の鼓動の中一人でいることが怖くて、アリサは翔太に近づくと声をかけた。

「ショウ、なにしてるの?」

「―――アリサちゃん?」

 アリサがここにいるのは意外だったのだろう。アリサの声に反応した翔太は驚いた顔でアリサを見ていた。そんな翔太を無視して、アリサは翔太の隣に座る許可を貰い、隣にストンと座り、しばしの静寂の後に不意に切り出した。

「ねえ、ショウはチュウしたことある?」

 ぶっ! と翔太が噴出すのが分かった。確かに不意打ちにしては、やや威力のありすぎるようなものだったかもしれない。

 アリサも、そのことについては承知している。しかしながら、聞きたかったのだから仕方ない。

 先ほどの彼らが何をしていたか、その行為の意味は分かっていた。確か、キスというものだ。ただ、それを言うのは恥ずかしいので、チュウという言葉になってしまったが。

 好きという行為を表す行為。アリサだって、梓がデビットにしているのを見たこともあるし、アリサがデビットや梓にしたことだってある。だが、あれとは意味が違うだろう。アリサのはあくまでも親愛。だが、彼らのはアリサが知りたくて仕方ない『恋』という感情に起因するものだからだ。

 翔太に聞いたのはなんとなくだ。いつもなんでも知っているような翔太であれば、もしかしたら、と思ってしまうのだ。

 だが、翔太の答えは、NOだった。その翔太の答えにアリサは少し残念なような、少し嬉しいような複雑な感情だった。もしかしたら、そのときの体験を教えてもらえば、『好き』が分かるかも、と期待したところもあったし、翔太が自分よりも先に進んでいないとわかって安心したところもある。

 だからだろう、自分でも考えもしないうちに言葉が出てきたのは。

「ねえ、チュウってどんな感じなのかしら?」

 言ってから、何を言ってるんだろう!? と慌てたが、すぐに、いい考えじゃないか? と思ってしまった。

 好きという感情を表すキスという行為。ならば、もしかしたら、キスをすれば好きという感情が理解できるかもしれない、と思ったからだ。だが、アリサは、好きという感情とキスという行為が、不可逆ということに気づいていない。それが不可能だということに。

 だが、先ほどその行為を見てしまったのと、夜という雰囲気がアリサの肩を押したのか、先ほど見た行為と漫画や小説の中で見たことを思い出しながら、目を瞑り、顎を上げた。

 これでいいのかしら? と不安になる。目を瞑ってしまい、翔太の姿が見えないから尚のことだ。しかも、目を瞑ってしまったことで余計な事が頭に浮かんでしまう。

 ―――あれ? このままチュウしたら、鼻ってぶつからないのかな? 口が合わさったらどうやって息するんだろう? どんな感触がするのかな? やっぱり柔らかいのかな?

 色々なことを想像するアリサ。だが、次にアリサを襲った感覚は、期待したような柔らかい唇の感触ではなく、おでこに感じた痛みだった。

「いたっ!」

 思わず声を上げ、痛みが襲った部分を両手で押さえる。こんなことをするのは、この場には当然一人しかない。隣に座っていたはずの翔太だけだ。アリサは翔太を攻めるような視線を向けるが、翔太は悪びれた様子は一切なかった。それどころか、どこか苦笑するような時折みせる大人びた笑みを浮かべていた。

「ダメだよ。試すようなことでそんなに簡単にそんなことしちゃ。そういうのは、もう少し大きくなって、アリサちゃんが本当に好きになった男の子にやらないと。ファーストキスは女の子にとって大切なものなのだから」

 ベンチから、降りた翔太が、アリサの前に立って、諭すような柔らかいような声で言う。話の内容はよく分からなかったが。

 本当に好きも何も、その感情が分からないのだから仕方ない。しかし、そういえば、似たような事が漫画や小説にも書いてあったような気がする。その『ふぁーすときす』というのは聞き覚えがあったからだ。まあ、翔太が言うのだからそうなのだろう、と長年の付き合いの中で積みあがった信頼の元、翔太の言葉を信じることにするアリサ。

「さあ、帰ろう。風邪引いちゃうよ」

 一足先に下りた翔太が手を差し出してくる。翔太が自ら手を差し出してくるのは珍しい。いつもは照れて、滅多に手を繋ごうということはないのに。だから、そのもの珍しさに笑みが浮かび上がってきて、「そうね、帰りましょう」という言葉と共にアリサは翔太の手を取った。

 翔太に手を引かれながら部屋に戻る途中で考える。

 果たして、自分が『好き』という意味を理解する日が来るのだろうか。それが、アリサにとっては楽しみなような、不安なような、くすぐったような複雑な感情で。さりとて、それは遠く未来のことかもしれなくて。だから、どんなふうになるのかアリサには分からなかった。

 ただ、いま一つだけ確かなことは、繋がれた右手から感じる温もりは確かなものであるということだけだった。



  ◇  ◇  ◇



 月村すずかは、夜の一族としての能力を全開にしながら、自分に与えられた部屋へと戻っていた。まるで、今まで見てきた光景を振り払うように。

 すずかが目を覚ましたのは偶然ではない。彼女の血に宿る夜の一族としての特性だ。夜の一族というだけに夜の気配には敏感になる。特にアリサと翔太の二人が少しだけ時間を置いて両者とも外に出て行けば、気づかないはずがない。

 ―――お散歩かな?

 そう思って、少しだけ時間を置いてからすずかも部屋を出て、後を追いかけた。アリサと違って不幸だったのは、出るタイミングが少しずれたのか、すずかが翔太とアリサの二人を見失ってしまったことだ。しかしながら、日付も変わろうという時間。こんな時間に子どもが行ける場所は限られている。

 遊技場は当然アウト。温泉に道具を持っていくはずがない。ならば、場所は外しかなかった。

 外に出たすずかは、まるで空に浮かぶ月に誘われるようにまっすぐ中庭への道を歩いていた。夜の一族の血が活性化しているのだろうか、外に出たすずかは、普段なら聞こえない遠くの声も聞こえ、普通の人間なら見えない暗闇でさえ、猫のようにはっきりと見る事ができるようになっていた。

 最初は、池があるほうの中庭へと行こうとしたのだが、そちらには大人が多すぎる。一方で、もう一つの中庭には人の気配が殆どなかった。ならば、向かったのはそっちだろう、とすずかは当たりをつけて、また歩みを続ける。やや歩くとすぐに目的としていた中庭へと出る事ができた。

 ぐるりと周囲を見渡すと足元を照らすような少しの明かりと片手で数えられるほどのベンチしかない。簡素な中庭だった。そんな中、その数少ないベンチに座る男女。いや、背の低さから言えば、男の子と女の子というべきだろうか。普通なら見えないかもしれないが、夜の一族としての彼女の目は確かに夜でもはえる金髪と整った顔立ちを持つ横顔を視界に捕らえていた。

 彼らを見つけられた事が嬉しくて、すぐに駆け寄ろうとしたすずかだったが、なんだか二人の空気がおかしいことに遠目からでも分かった。どうしたんだろう? と思わず足を止めてしまったが、すぐに状況が動き出す。

 不意にアリサが目を瞑って上を向いたのだ。まるで、何かを望むように。その『何か』をすずかは知っていた。彼女が読む小説の中でも時折出てくる表現。

 ―――え? キス?

 そう、まるでアリサの仕草は翔太にキスをねだっているようにしか見えなかった。このとき、すずかはアリサの年齢のことなど既に忘れていた。驚きのあまり足を止めてしまったすずかだったが、すぐに再び動き出すことにある。ただし、それは踵を返し、もと来た道を戻ることになるのだが。

 その契機は、翔太がアリサのキスをねだるような仕草に応えるように顔を近づけ始めるのを見てしまったからだ。

 これから、先を予想して。これから先が見たくなくて。だから、すずかは目の前の光景から逃げ出すように。目の前の光景を否定するように。その場から動くために足を動かしたのだった。

 部屋に戻ったすずかは、すぐに布団にもぐりこむ。夜の一族としての身体能力のおかげだろうか、汗一つかかず、短い時間で戻ってくることができた。布団を頭の上まで被りながらすずかは先ほどの光景を否定する。

 ―――ショウくんとアリサちゃんが……キス?

 すずかは、少なくともキスという行為に対してはアリサよりも理解していた。もっとも、理解しているだけで、したいと思ったことはないが。確かにすずかは翔太と仲良くなりたいと思っているのは確かだ。だから、今回の旅行も楽しみだったし、今日の浴衣も翔太に合わせて黒を選んでみたし、月の形をしたアクセサリーをプレゼントされたときは、飛び上がりたいほどに嬉しかった。

 だから、すずかは今の光景を信じたくはなかった。夢だと思いたかった。だからこそ、こうして布団にもぐりこんでいる。

 ―――そう、夢だよ。うん、明日になったら普通に朝が来て、みんなで帰るんだ。

 眠気は襲ってこない。だが、それでも、今見た光景が夢だと信じたくて、すずかは、夢の世界へと逃げ出した。



 ◇  ◇  ◇



 明けて翌日。車に揺られて数時間で帰宅した月村すずかは、荷物をファリンに預けて、それからをよく覚えていない。姉の忍に旅行について聞かれたような気もするし、晩御飯を食べたような気がするし、お風呂に入ったような気がする。分かっているのは、今はすでに寝巻きに着替えており、後は寝るだけという状況だけだ。

 部屋にお風呂に入り、部屋に入ったすずかは、一直線にベットに向かい、倒れこむようにベットに寝転がった。すずかにしては珍しいことだ。

「……本当のことだったんだ」

 数時間ぶりに言葉を口にしたような気がする。

 本当のことというのは、昨夜のことだ。帰宅途中の車の中ですずかは、なけなしの勇気を振り絞って昨日のことを聞いた。できれば、ずっと寝ていたよ、と翔太が言ってくれることを期待して。しかしながら、答えはすずかの期待を裏切って、アリサと一緒にいたことを告げるものだった。キスのことを口にしていなかったが、キスという行為は口にすることはないだろう。目の前にアリサの両親もいることだし。

「……ショウくんとアリサちゃんって恋仲だったんだ」

 それを口にしたとき、すずかの中でズキンと痛みが走った。その正体は、すずかには掴みきれていない。だが、そのことを考えようとするとまるで、それを邪魔するように痛みが走るのだ。だが、認めないわけにはいかない。すずかは昨日の夜、彼らがキスしている光景を目にしてしまったのだから。

 すずかにとってキスという行為は、恋仲である男女がするものである。

 それをはっきりと認めた、認めてしまったとき、まず、浮かんできたのは、羨ましいという羨望と自分が望んでいる以上のものを既に得ているという憎々しさだ。それから、次々に浮かんでくる。

 どうしてアリサの位置にいるのが自分ではないのだろうか? いつの間にアリサとショウくんは恋仲になったんだろう? アリサちゃんは、私がショウくんと仲良くなりたいのを知ってたの? だから、いつもと違ってショウくんを私の隣に? 車の中でも? お布団のときも? もうアリサちゃんはショウくんと恋仲だから? 余裕なの?

 頭の中がぐちゃぐちゃする。心の中は、ジクジクとどす黒い何かが染み出し、ドロドロとそれはすずかの心の中を這いずり回り、気持ち悪い。何より、今の自分の感情が一切コントロールできず、分からない事が悔しく、苛立たしかった。

 ―――分からない、わからない、ワカラナイ。

 何もかもが分からなかった。翔太に対してどんな反応をすればいいのか、アリサに対してどんな態度を取ればいいのか、自分がどうしたのか、自分の中の感情は一体何なのか、分からなかった。

 いや、正確にはわかりたくなかったのかもしれない。アリサはすずかにとってもお友達だったから。ただ、それでも黒いくらい感情が浮かんでしまうのは、翔太とアリサでは優先度が違うからだ。アリサに対しては何も話していないが、翔太は自分に関するすべてを話し、受け入れてくれた。

 その違いだが、大きな違いだ。だからこそ、すずかは、アリサを気にせず翔太と仲良くなりたいと思ったのだから。

 そう、すずかは心の奥底では、既に選択しているのだ。どちらかを捨てなければならないならば、どちらを捨てるかなど。

 しかし、それに気づかない。気づかない振りをしている。自分が捨てられると思っているものに、自分が一番欲しい翔太の隣という場所を取られているという事実を認めたくなくて。自分の中にそんな黒い感情があることを否定したくて。

 もう、嫌だった。何も考えたくなかった。考えれば考えるほどに、心の中からジクジクと染み出してくるどす黒い何かは増えていき、ドロドロとした黒いものも這いずり回る。考えれば考えるほどに苦しくなり、頭が痛くなる。もう嫌だった。何もかもが。

 だからだろう、夜の一族としての自分が確かに心の隅で小さく囁くような声が聞こえてしまったのは。

 ―――もう、簡単に解決しちゃえば?

 何を馬鹿なことを。と思うが、これ以上聞きたくなかった。逃げ出してしまうのは最適な答えだったから。確かにすずかは選んでいる。だが、だからと言ってそう簡単に捨てられるわけがない。だが、それでも、この苦しさから逃げ出したくて、故にその甘言に乗ってしまうかもしれなくて、でも、それも嫌で。

 だから、別の場所にすずかは、逃げ出した。昨日と同じく夢の中へと。そこはきっと優しい場所だから。

 自分の感情が理解できなくて、コントロールできなかった事が悔しかったのだろうか、よほど苦しかったのだろうか。眠りに着いた彼女の瞳から一筋の雫がこぼれる。それは、重力に従い頬を伝い、顎を伝って、雫となって零れ落ち、すずかがお守りのように握っているアクセサリーの一部に零れ落ちた。

 その光景を彼女が握るアクセサリーと同じ形をした月だけが、はるか上空から見守るように見ていたのだった。
















 
 

 
後書き
 少女の弱さは何を得るためだろうか。 
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