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無印編
第二十一話 裏 (すずか、アリサ、なのは)
誰かに食べてもらう料理が楽しいと言ったのは、ノエルだっただろうか、ファリンだっただろうか、と月村すずかは朝の早い時間に目の前のフライパンで音を立てている卵焼きを見ながら思った。傍では、月村家のメイドであるノエルとファリンが傍に仕えていた。料理を作り始めた当初こそ、心配そうにはらはらと見ていたが、最近は特に何も言われることなく作れるようになってきた。
すずかが、お弁当を作ろうと思ったのは、なんのことはない、翔太のためである。正確には彼とより仲良くなるためである。翔太にすずかの中の最大の禁忌である吸血鬼の秘密がばれてしまった後、彼女にとっての最大の禁忌をあっさりと受け入れてくれた翔太ともっと仲良くなりたいと思っていた。
翔太と仲良くなることは決して悪いことではない。だから、思い立ったが吉日とばかりにすずかは、仲良くなるための行動を考えた。だがしかし、そのための方法を考え付くのは容易なことではなかった。なぜなら、すずかが思いつくようなことはもうすでに翔太と一緒に行っているからだ。
お茶会、買い物などなど彼女の趣味である読書等を参考にした仲良くなるための方法は大半が実行済みだった。しかも、仮に今までやっていないことがあったとしても、それらの方法は総じて、今は無理なことが分かっている。なぜなら、翔太は今、別の女の子の手伝いをしているからだ。平日、休日問わず、塾すら休んでだ。そのおかげで、すずかと翔太の時間は一ヶ月前と比べると相当目減りしている。しかし、彼女との時間がなければ、このような事態になっていなかったであろうことを考えれば、なんたる皮肉だろうか。
そんな風に考えても仕方ない。どうせ、そんな異常事態もあと少しで終わるのだから。以前、アリサが別の女の子について問いただしたときに翔太は、一ヶ月だけだといった。ならば、すずかはそれを信じるだけだ。まさか、途中でやめろとは言える筈もなかった。
それよりも、如何に翔太と仲良くなる方法を考えるほうが先決だった。だが、考えたところで、簡単にその話が浮かぶはずもなく、少しの間、一人で悩んでいたすずかだったが、やがて、区切りをつけると誰かに相談することにした。三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったものである。ただ、相談する相手は選ばなければならなかった。まさか、友人のアリサに相談できるはずもない。ならば、と考えたとき、浮かんできたのは、月村家のメイドであるノエルとファリンだった。ある程度、翔太とすずかのことを知っており、かつ深入りしないような人物。相談するにはうってつけのように思えた。
それを思いついたすずかは早速相談。ノエルとファリンの仕事の合間を狙って相談した結果、少し腰をすえて話をしようということになり、紅茶と共にテーブルを囲んだ。そして、しばしすずかの相談内容を話した後、おもむろにノエルが提案する。
「そうですね。でしたら、手料理などどうでしょうか?」
「お料理?」
「はい、すずかお嬢様の手料理を蔵元様に食べていただくのです」
すずかはノエルの言ったことを咀嚼するように少し考えた。ノエルの言っているように手料理が果たして翔太と仲良くなるための一手になるのだろうか。言われて見れば、確かにお弁当の中身の交換などは友人同士でしか行わないようなことだ。その食べてもらう料理が自分の手料理であれば、自らが作った料理をおいしいといってもらえれば、それはきっとすずかも嬉しくて、もっと仲良く慣れるかもしれない、とすずかは思った。だが、それを実行するためには一つだけ問題があった。
「私、お料理作ったことない」
すずかは、自他共に認めるお嬢様である。厨房に立つ必要がなかったすずかは、料理を作ったことなど一回もなかった。もしも、すずかが中学生ぐらいになれば、料理の一つでも作れなければ、となっていたかもしれないが、今はまだ小学生なのだ。作れなくてもある種当然ともいえた。
だが、そんな心配を見通してか、ノエルは、微笑みながら言う。
「お嬢様、大丈夫です、私たちがお教えしますから」
ね、とノエルはファリンの方に向き直り、ノエルに話を振られたファリンは、飲んでいた紅茶を慌てて飲み干し、カップを置いたと思うと、コクコクと頷くのだった。
こうして、すずかは、ノエルとファリンの手助けを借りながら少しずつ手料理を習い、お弁当のおかずを一つずつ作っていくことにした。幸いにしてすずかには、料理の才能が皆無というわけではなかったらしい。少しの教えで妥当といえるレベルまでは簡単に作れるようになっていた。
そして、練習の果てに作れるようになった卵焼きを翔太に初めて食べてもらった。その卵焼きを翔太はおいしそうに食べてくれる。感想もおいしいの一言だったが、すずかはそれだけで満足だった。確かにノエルが言うように仲良くなりたい人に手料理を食べてもらって、おいしいといってもらえるのは嬉しくて、心の真ん中に淡い光が灯ったように温かくなる。思わず、顔が笑顔になってしまうほどに。
その気持ちをもう一度、感じたくて、翔太にもっと自分の手料理を食べてもらいたくて、仲良くなりたくて。すずかは毎日、新しいおかずに挑戦しては、お弁当に詰めていくことにした。懸念事項としては、今までよりもお弁当のサイズが大きくなってしまうことだろうか。しかも、残念なことに翔太と毎日一緒に食べられるわけではない。それは前からそうだった。自分とアリサは常に一緒だが、翔太は、いつもすずかたちと一緒ではないのだ。クラスの男の子と食べることもあるし、他の女の子と食べることもある。
本当は、自分たちと一緒に食べて欲しいし、お弁当のおかずも食べて欲しい。だが、そんな我侭も簡単にはいえなかった。すずかの目的は、仲良くなることであり、我侭を言って嫌われては本末転倒だからだ。だからこそ、すずかができる唯一の抵抗はせめて、明日の約束を取り付けることだけだった。もっとも、翔太用に作ってきたおかずの処理にも困るのだが。
そして、約束を取り付けた日の昼食。翔太は約束を違えることなく、すずかたちと一緒に昼食を食べてくれた。ただし、お邪魔虫つきではあるが。
彼女は、翔太が食べる場所に選んだ中庭にいた。しかも、それは偶然ではなく、まるで翔太と約束したように翔太の姿が見えると座っていた石段からわざわざ立ち上がり、彼に向かって手を振っていた。そんな彼女の視界にすずかたちが入ると、まるで転がる石ころを見るような目ですずかたちを見ていた。だが、それも一瞬のこと。今ではもう翔太しか目に入らないといわんばかりに彼の隣に子犬のようにじゃれ付き、自分の隣に座るように促していた。
そんな彼女の態度にムカッと頭にきてしまうのは仕方ないことだと思う。ずるい、という感情が胸のうちを占めてしまうのも。
最初に約束したのはすずかたちであり、彼女はおまけのはずなのだ。それなのに、まるで最初から自分だけしか約束していないように振舞うのだろうか。それが腹立たしくて、昨日からずっと新しい料理を練習して、食べてもらうことを、感想を貰うことを楽しみにしていたすずかが思うことはたった一つだけだった。
―――邪魔だなぁ。
そう、翔太の隣に座ってお弁当を開こうとしている彼女は、すずかにとってただの邪魔者でしかなかった。しかも、あちらも似たようなことを思っているのだろう。まるですずかとアリサがいないように振舞っているのだから。いや、それどころか、彼女の冷たい視線は、まるでココから消えてくれ、といわんばかりの敵愾心むき出しの視線だった。
そんな彼女の態度にすずかはなるほど、と納得した。
―――遠慮なんていらないよね。
もしも、相手がそれなりの態度であれば、すずかも自重するつもりだった。お弁当のおかずは勧めるつもりだったが、それなりの距離感で昼食を過ごそうと思っていた。だが、相手の態度を見るにそんなことをする必要はないようだった。
だから、すずかは彼女に対抗するように空いていたもう片方の翔太の隣にくっつくように腰を下ろした。それを見て、彼女は驚いたように目を見開き、非難するような視線を送ってきた。もしも、すずかが普通の人間であれば、悪寒の一つも走っていたかもしれないが、しかしながら、すずかは吸血鬼だ。だからこそ、すずかは真正面からその視線を受け止め、逆に相手に非難するような視線を送った。
翔太を挟んで、まるで火花が散るような視線のぶつけ合い。お互いがお互いに相手を邪魔と思っている。だが、退かない。退けない。すずかの中の想いは、そんなに容易く退けるほど軽いものではない。ずっと、心の中で求めてきた―――いや、すずかの一族なら誰でも求めている自分を受け入れてくる人なのだ。だからこそ、仲良くなりたい。もっと、もっと、もっと。だからこそ、この場で、退くことはできなかった。
やがて、視線を飛ばしあっていた二人だが、翔太もそれに気づいたのだろう。仲を取り持つように二人の間に入って、口を開いた。
「ふ、二人ともご飯を食べよう」
そう、それが目的だったのだ。相手が邪魔とはいえ、目的を忘れてしまっては本末転倒だ。だから、すずかは、そうだね、と相槌を打って、以前よりも少しだけ大きな弁当箱を開き、その中の一つである卵焼きをつまむと翔太の目の前に持っていった。
「はい、ショウくん、今日も作ってきたんだ」
すずかにとって一番最初に作れた料理であり、一番最初に翔太においしいといってもらえた思い出の料理だ。だからこそ、毎日、新作と一緒に必ず卵焼きを作ってきていた。いつもであれば、すずかの弁当箱の中から翔太の弁当箱の中に移すのだが、彼女がいる手前、対抗するように見せ付けるように、すずかはわざと自らの箸で卵焼きをつまみ、翔太の口へと持っていった。
突然のすずかの行動にさすがに面食らったのか、翔太はその場から動くことなく、呆然とした様子ですずかの箸につままれた卵焼きを見ていた。その表情が面白くて、すずかは卵焼きを押し付けることもなく、ただ翔太がそれを口にしてくれるのを待っていたのだが、それは彼女に隙を与えるだけに過ぎなかった。
すずかが弁当箱から卵焼きを取り出したのを見ると慌てた様子で、彼女も自分の弁当箱の中から卵焼きを取り出すとすずかと同じようにやはり卵焼きをつまみ、それを翔太に差し出していた。
「ショウくん、お母さんの卵焼き好きだったよね? はい」
自分と同じような行動。そんな彼女にすずかは真似するな、と鋭い視線を送るが、彼女はその視線を何所吹く風とあっさりと受け流し、まるで、すずかなどいないかのように自分の卵焼きを勧めていた。無視するな、とは思ったが、それで彼女に注意を向けていて翔太への注意が散漫となってしまっては意味がない。
それに、そもそも、そんなに慌てる必要はなかったのだ。すずかは彼女の手作りだが、彼女は彼女の母親の手作りなのだろう。自分よりも明らかに上の、すずかのメイドであるノエルやファリンよりもはるかにおいしそうなお弁当だったのだから。もしも、これが彼女お手製という考えは、信じたくなかったので選択肢から消した。
自らの手作りと母親のお弁当。力量の差は歴然としている。おいしい、おいしくない、という問題ではない。そこに篭った想いだ。
彼女のメイド曰く―――料理の最大のスパイスは、想いですよ―――なのだから。だからここ、翔太に食べてもらうために作ってきた料理が彼女の料理に負けるはずがないとすずかは思っていた。
結局、お互いに意地の張り合いのような形になってしまい、翔太からはおいしいという一言はもらえたものの彼女との決着がつくことはなかった。
そして、その日の夜。すずかはノエルから借りた『今日のおかず百選』という本をベットの上でうつ伏せになりながら読んでいた。明日からはどんな料理を作ろうか、と悩んでいたのだ。時期の悪いことにもうすぐゴールデンウィークだ。ゴールデンウィークの後半には、翔太たちと一緒に温泉旅行に行くことが決定しているが、それまでは、翔太と会えない日々が続き、お弁当も食べてもらえないのだ。だからこそ、厳選しなければならない。
もっとも、ゴールデンウィークが終わった頃には、彼女の用事も終わっているだろうし、今日のように焦る必要はないだろうが。
だから、安心してすずかはゴールデンウィークまでの間に翔太に食べてもらう料理をページを捲りながら考えていた。できるだけ、おいしそうな、翔太が喜んでくれるようなものを選びたかった。
「ふふふ、ショウくん、喜んでくれるかな?」
彼のおいしいよ、という言葉を思い浮かべながらすずかはページを捲る。
そのすずかのにやけきった笑みを窓の向こう側で煌々と太陽の光を反射する白銀の月だけが見守っていた。
◇ ◇ ◇
アリサ・バニングスは、その日も夜になると自室にあるカレンダーの今日の日付にバツ印をつけていた。カレンダーの最後のバツ印の一週間後には、丸印が三つ並んでいる。この日はゴールデンウィーク中にアリサが計画した親友との温泉旅行の日付である。その日が楽しみでアリサは、その計画を立てた日から一日千秋の思いで指折り数えていた。その旅行もあと一週間に迫っていた。
しかし、残念なことに、その旅行までの一週間はゴールデンウィークで親友とはまったく会えない日々が続くのだが。それでも旅行を思えば、寂しくない、とアリサは旅行のことを思い、笑顔のままばふっとベットにダイブした。
ベットにうつ伏せになったアリサが考えることは温泉で何をしようか、ということである。枕元に転がっているパンフレットは既に何度も確認済みである。行く予定になっている旅館には、温泉はもちろんのことながら、露天風呂やゲームセンター、スポーツセンターなどもあるし、近くには温泉街もある。二泊三日という予定ではあるが、予定を立てていなければ、あっという間に時間が過ぎてしまうだろう、とアリサは考えていた。
あっちに行こう、こっちもいいかもしれない、と考えているアリサだったが、親友であるすずかと翔太と一緒ならば、どこでも楽しいのだから問題ない、と思っている。だが、そんなアリサの気持ちに水を差すようにアリサの一部分が問いかける。
―――本当に?
その自問自答が投げかけられたとき、アリサの心臓がドクンと大きく跳ねた。
分かっている。分かっている。あの時から微妙に齟齬が起き始めたような自分たちの関係を。すずかが翔太のことが好きなのだろう、と推測し始めた頃から微妙に変わっている自分たちの関係だ。表面上は、自分たちの関係は、まったく変わっていない、と自分に言い聞かせるアリサだったが、すずかが翔太に感じている恋ってなんだろう? とすずかを観察していたアリサは、すずかのアリサと翔太に対する態度の違いをはっきりと感じていた。
以前は、すずかの態度にアリサと翔太の間に明確の差はなかった。友人に対する態度。だが、すずかの態度には、明らかに優先順位は、翔太のほうが高くなっていることを感じていた。確かにアリサの読んだ本の中には、『恋は盲目』なんてことわざがあったものだが。
―――ショウもすずかに恋したらどうなるのかな?
不意に思いついた、思いついてしまった疑問。アリサの優秀といえる頭脳は、ちょっと待って、と心が制止の声をかける前に答えを探してしまった。その答えを少しだけ覗き込んでしまったアリサは、もう一度、ドクンと心臓が先ほどよりも大きく高鳴り、背中につめたい汗が流れるのを感じていた。
すずかと翔太がお互いに恋をして、お互いしか見えなくなれば―――その方程式から導き出される解は、極めて簡単なものだ。
―――アタシハマタヒトリニナル?
嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だいやだいやだいやだ、とアリサは、その仮定を否定する。不意に思い出されるのは、あの友人が一人もおらず、ずっと一人だった小学校に入学する前の自分。あの孤独な時間に戻るのだけは絶対に嫌だった。
―――大丈夫、大丈夫、大丈夫。ショウは、すずかに恋してない。
そう、すずかと一緒に翔太のことも観察していたのだが、翔太のすずかに対する態度はまったく変わっていない。すずかの変わった態度にやや戸惑っている感じはあるものの、アリサに対する態度も同じだし、すずかに対する態度も同じである。だから、大丈夫、大丈夫とアリサは自分に言い聞かせていた。
だが、一度、ネガティブの方向に転がってしまった思考は、またしても最悪を想像してしまう。
―――今は、大丈夫かもしれない。なら、未来は?
未来のことなど誰にも分からない。可能性ならば、いくらでも論じることができるだろうが、決まった未来を言い当てることは不可能だ。翔太がいつ、誰に恋するか、など分かるはずもない。もしかしたら、明日かもしれない、明後日かもしれない。あるいは、大人になってからかもしれない。相手は、すずかかもしれない。クラスメイトの女の子かもしれない。未来に翔太が出会う女の子かもしれない。あるいは、先日の昼食会に土足で入り込んできた高町なのはかもしれない。
最悪を想像して、アリサはすっかり忘れていたなのはの存在を思い出していた。すずかだけではなく、もう一人翔太に恋する女の子。高町なのは。すずかをずっと見ていたアリサには彼女が翔太に恋していることを見抜いていた。だからこそ、許せなかった。
自分たちの関係がおかしくなった切っ掛けは、翔太が高町なのはに付き合うようになってからだ。翔太の生活サイクルが変わってしまってからだ。アリサが読んだ本の中にもあった。失って初めて気づくものがある、と。すずかは、生活サイクルが変わってしまった翔太と会えない日々が続いたことで恋に気づいたのではないだろうか。ならば、もしかしたら、高町なのはに絡まず、翔太がずっと同じ生活を続けていれば、すずかは恋に気づくことはなかったかもしれない。こんな風に思い悩むこともなかったかもしれない。
いくら、高町なのはと翔太の付き合いはゴールデンウィーク前で終わってしまうとはいえ、すずかの中に灯った感情が、なのはの中に灯った感情が消えるわけではない。だから、高町なのはは、翔太との付き合いが終わった後でも翔太に付きまとおうとするだろう。もしかしたら、それが原因となって、翔太が高町なのはに恋してしまうかもしれない。
それだけは嫌だった。翔太はアリサの大切なたった二人しかいない親友だ。それが一ヶ月前に急に出てきた女の子しか目に入らなくなるなんて、考えただけでも最悪だった。ならば、相手がすずかならば、いいのか? と問われれば、それも嫌だと思う。また、一人になるのは絶対に嫌だったから。
ならば、ならばどうすればいいのだろうか? どうなれば、いいのだろうか?
アリサの優秀な頭脳は、解を探して、そして、あっさりと見つけてしまった。
―――ああ、そうか。簡単じゃない。
アリサは自分で見つけた満足の行く答えに満面の笑みを浮かべた。
―――ショウが、あたしに恋すればいいんだ。
そうすれば、すずかも翔太も一緒にいられる。あたしは一人じゃない。ずっと、三人一緒にいられる。
その答えを出したアリサは、先ほどまで思い悩んでいたことが嘘のように晴れやかな気持ちになれた。そう、アリサが出した答えなら、アリサはまた一人にならない。ずっとアリサとすずかと翔太は一緒にいられる。そこに高町なのはの姿はないが、そもそも、彼女は一ヶ月だけの関係なのだから関係ない。
―――うん、うん。これでいい。これがいい……。
先ほどまで思い悩んでいたことが解決して、アリサは急に眠気に襲われて、満足の行く解が得られていたため、それに抗うことなく、アリサは夢の世界へと誘われるのだった。
◇ ◇ ◇
高町なのはの世界は、昨日とは色が違った。
翔太と一緒にいる時間以外は灰色のように色あせて見えた景色が、今は眩しいぐらいに輝かしい。まるで、世界が違ったように。ああ、いや、確かに違ったのだろう。高町なのはの世界は一日で変化した。隣で寝ている蔵元翔太という唯一の友人を手にしたことで。
なのはは、眠い頭を必死にたたき起こして、隣で寝ている翔太の顔を目に焼き付ける。なのはの唯一の友人の姿を。
短い黒髪。整ってはいるが、何所にでもいそうな風貌で、あどけない表情で眠っている翔太は、なのはにとって掛け替えのない大切なものだった。彼の顔を見忘れることがないように、となのははじっと翔太の姿を目に焼き付けるように見つめる。
どのくらいの時間が経っただろうか。なのはには分からない。翔太の顔を見ることは時間を忘れていられるから。少なくとも少なくない時間が経った後、翔太はゆっくりと瞼を開けて、寝ぼけ眼で起き上がりながら、なのはを見てきた。
残念と思いながらも、なのはは、翔太におはよう、と挨拶を交わす。未だに寝ぼけているのか、翔太ははっきりとしない頭で返事を返してくれたが、やがて、頭も完全におきたのか、少し驚いたような表情をしていた。いつもはしっかりとしている翔太だが、寝起きの少し呆けた表情を見られてなのはとしては内心笑いながらも、いつもは見られない表情を見られて嬉しいかった。
それから、なのはにとって夢のような時間が始まる。
翔太と一緒に手を繋いでアースラの中を歩き、朝食を食べ、学校へ行く。これは本当に現実なのだろうか、とこっそり翔太に知られないように何度も夢ではないことを証明するために手をつねってみたのだが、そのたびになのはの手の甲には鋭い痛みが走り、これが現実だということを教えてくれた。それが嬉しくて、なのは手の甲の痛みに笑うという奇妙なことになってしまったが。
しかし、そんな夢のような時間も少しで終わりだった。教室の前、翔太となのはのクラスが違うのだから別れるのは当然のことなのだが、それでももの悲しい気分になってしまう。今までくっついていたのだから尚のこと。そんななのはの気持ちを慮ってくれたのか、一緒のクラスだったらいいのに、と零したなのはに翔太は笑いながら慰めるように口を開いた。
「えっと、なのはちゃんも頑張れば一緒のクラスになれるんじゃないかな?」
その翔太の言葉でなのはは、この学校のシステムを思い出した。上位三十名だけがなれる第一学級。翔太と一緒のクラス。運だけではない。ただの学力による力でもぎ取ることができるシステム。二年生の頃は、そのシステムの所為で第二学級に来た事実を知ってしまったなのはだったが、今はそのシステムに感謝していた。自分の努力次第では、翔太と同じクラスになれるからだ。
「うん、ショウくんと同じクラスになるために頑張るね」
「あ、うん。頑張って。僕も応援するから」
嗚呼、嗚呼、となのはは朝から何度目か分からないほどに天にも昇るような気分だった。
―――ショウくんが応援してくれるっ!!
それだけでやる気が先ほどの三倍だった。チャンスは、四年生に上がるときだが、絶対に同じクラスになるために頑張らなければならない。翔太の応援を無駄にすることなどできるはずがないのだから。だから、なのはは、いつもならサーチャーで翔太の教室を覗くことをやめて、苦手な国語の教科書を開きながら、漢字の書き取りを始めた。
さて、朝の出来事からいつもよりも集中して授業を受けながらあっという間に過ぎてしまった午前中の授業。今は、昼休みで、お弁当の時間だ。なのはは幸いなことに翔太と昼食の約束を取り付けることに成功していた。待ち合わせ場所は昨日と同じ中庭。そこで、なのははお弁当を用意しながら、今か、今かと翔太を待っていた。
そして、翔太が中庭に入ってきた気配。なのはは兄たちのように武術の達人ではないので生身の人間の気配を探ることなどできない。だが、魔法に関しては天才的な才能を持っている。故に、翔太を求めているなのはの本能が無意識のうちに翔太の魔力を感じ取っていたのだ。
立ち上がり、翔太が見えるようにその方向を向いたなのはの視界に入ってきたのは、翔太とそれ以外の二人の女の子だった。どこかで見覚えがある顔。片方は親友を名乗る金髪で、もう片方はバケモノだった。
―――なに、それ。
なのはが想像していたのは、翔太と二人だけの昼食だ。それ以外の誰も必要ではない。だからこそ、翔太がつれてきた二人の女の子は、なのはにとって邪魔者以外の何者でもなかった。しかも、よりにもよって、翔太の親友を自称する金髪と翔太を傷つけたバケモノなのだから、なのはの機嫌は決していいものではなかった。
―――消えてくれればいいのに。
そう願うが、その願いが叶うことはなかった。もしも、翔太が見ていなければ力づくでも翔太と二人の昼食の時間を作るのだが、翔太が近くで見ている以上、それは無理だった。しかも、二人は翔太が連れてきたのだ。なのはの勝手にするわけにもいかなかった。
仕方ない、我慢しよう、と思ったのは、昨日から幸せな時間が続いているなのはの甘さか。あろうことかなのはがバケモノと呼称している少女は、せっかく翔太のためにとっていた席の隣に座り、自分のお弁当のおかずまで勧め始めた。しかも、聞けば、そのお弁当は手作りらしい。それに対して自分は、確かにおいしいお弁当ではあるが、母親である桃子のものだ。果たして、どちらが勝者か。それはなのはには分からなかった。
その日の昼食は、せっかく翔太との昼食なのにあまり楽しいとは思えなかった。
くそっ、くそっ、と悪態づくが、終わってしまったことを悪態づいても仕方ないのだ。それよりも、なのはの意識は放課後へと向いていた。今日も翔太と一緒にジュエルシードの捜索だ。魔法の訓練でもいい。どちらにしても、翔太と二人の時間であることには代わりなのだから。それだけを思い、なのははお昼の出来事でささくれた自分の心を慰めていた。
さて、なのはの予想通り、放課後はアースラで魔法の訓練とジュエルシードの回収が待っていた。翔太と一緒にいられうrのは十分嬉しいのだが、相変わらずいる邪魔者が余計だった。クロノ然り、武装隊の面々然りだ。魔法の訓練もなのはがいれば十分なのに。ジュエルシードの封印だって、なのはだけでいいのに。そう思うのだが、翔太がクロノは管理世界の執務官だから。武装隊は護衛が必要だよ、というのだから仕方ない。翔太が言わなければ、彼女は絶対に頷いていなかっただろうが。
そんな日々が続いたある日、ついに最後のジュエルシードの回収が始まった。場所は海底。翔太の防御魔法によって覆われたまま海を潜るのだ。いつもは武装隊の面々が一緒だが、今日は本当に翔太と二人だけの空間。それがなのはにとっては本当に嬉しかった。
ぽちゃんという音を残して、なのはと翔太を包んだ防御魔法が海に沈む。久しぶりに本当の意味で、翔太と二人だけの空間に立ったなのはの心臓はドクンドクンと自分の心臓ではないかのように高鳴っていた。封時結界と海中ということもあってだろうか、音もなく水面から差し込む明かりだけが辺りを支配していた。本当にこの世界はなのはと翔太の二人だけの世界であると見まごう空間だった。
それが嬉しくて、自分の望みが叶ったようで、思わずなのはは口にしていた。
「なんだか、二人だけの世界みたいだね」
「そう、だね」
そのなのはの言葉に答えた翔太の表情はどこか微妙だった。
もしかして、翔太は自分と二人だけの世界は嫌なのだろうか。自分はこんなにも嬉しいのに。自分の歓喜の十分の一だけも伝えられたら、なのはがどれだけ喜んでいるか分かってもらえるのに、となのはは思ったが、いくらなんでもそれは無理だった。だから、なのはは直接聞くことにした。
「どうしたの? ショウくんは、こんなのは嫌?」
「う~ん、嫌というわけじゃないけど……寂しいよね」
「……そうなんだ」
少し考えた翔太の答えを聞いてなのは考える。
―――嫌じゃない。つまり、ショウくんは、私と一緒にいるのは嬉しいんだっ!
それだけでなのはの心は打ち震えていた。翔太がかつてのなのはよりもなのはを受け入れてくれているような気がして。あの本当の友人になった頃よりも親密になったような気がして。
だが、それだけを喜んでもいられない。なぜなら、翔太は、それだけではなく、寂しいと口にしたのだから。
その翔太の言葉からなのはは一つの結論を出した。
つまり、なのはとショウくんの二人だけの世界になるには時期尚早なのだ。もっと、ショウくんがなのはのことを好きになって、親密になって、自分と二人だけになっても寂しくなくなれば、そうすれば、ショウくんだって、なのはと二人だけの世界になってもそんなことをいわなくなるだろう、と。ならば、なのはがやることは簡単だ。もっと、自分がショウくんを好きになればいい。そうすれば、ショウくんはもっと自分を好きになってくれるはずだ。だって、ショウくんは何もない自分と友達になってくれるぐらい優しいんだもん。
なのはと翔太だけの二人だけの世界。それを夢想して、なのはは頬をだらしなく緩ませていた。
そんななのはに翔太の声がかかる。
「さあ、さっさと片付けてしまおう」
おっと、となのはは意識を戻す。どうやら海底についたようで、ジュエルシードを見つけたようだ。今は、まだ時期尚早ということが分かった。ならば、いつか、いつか必ず、と思いながらもなのはは今だけはジュエルシードに集中することにした。
その日の晩、なのはは、ベットにもぐりこんで昼間のように頬を緩ませていた。
今日の昼間の海底調査ですべてのジュエルシードを集め終わった。そのため、明日は簡単なパーティが開かれる。それが終われば、ようやくなのはは翔太と一人占めできる。お邪魔虫は次元の彼方へと行ってしまう。それが嬉しくて、なのはは頬を緩ませていた。
―――あ、明日のパーティは、ショウくんにお料理食べてもらう。
バケモノが翔太に手料理を食べさせているのを見て、なのはは、それを羨ましく思っていた。どこかその行為に負けたような気がして。だから、なのはは、その日の晩から桃子に料理を習っているのだ。桃子は少し驚いたような表情をしていたが、それでもなのはに料理―――卵焼き―――を教えてくれた。最初は、砂糖の入れすぎななどで、焦がしていたが最近は、ようやく綺麗にできるようになっていた。
―――ふふふっ、ショウくん、おいしいって言ってくれるかな?
いや、きっと言ってくれるだろう。彼は優しいから。翔太がなのはの料理を食べて、おいしいといっている姿や声はいくらでもなのはの脳内で妄想できる。だが、所詮、それは妄想に過ぎない。やはり、実際に言ってもらいたいものだ。だから、少しでも明日が早く来るようになのはは、今日はもう眠ろうと思い、部屋の電気を消したところで、不意に魔力を感じた。
いつか感じたことがある魔力。それを感じた瞬間、枕元においていたレイジングハートを手に取り、即座にセットアップ。魔力の反応がある方向に杖先を向ける。杖を向けた瞬間、なのはの部屋が紫色の光で包まれる。その光の中からいつかの女性の声が聞こえた。
「こんばんは」
なのはの部屋に展開される魔方陣。そこから出てきたのはいつかの再現。そう、なのはが魔女と呼んでいる女性の登場だった。
「約束どおり来たわよ。どう? ジュエルシードを渡してくれない?」
対価は、翔太と二人だけの世界。
以前なら、彼女の提案に飛びついていただろう。だが、今のなのはがそれに飛びつくことはない。既になのはにとって翔太は唯一の友人なのだ。もう翔太を疑うことはない。二人だけにならなければ、友達ではなくなると疑うことはない。だからこそ、彼女の提案に飛びつかない。いや、それどころか、彼女の提案は邪魔なものでしかなかった。なぜなら、二人だけの世界はなのはの中では時期尚早と出ていたからだ。
だから、なのはは、警戒するように自分の周りにアクセルシューターを八つ展開した。
それを見て、魔女の表情が歪む。
「それが答え? あなたは欲しくないの? 彼との二人だけの世界が」
「いらない」
彼女の言葉に簡素な答え。しばし、にらみ合う二人。それは、魔女がなのはの意思を確認しているようにも見えた。
やがて、魔女は、ふっと表情を緩ませると、諦めたように大きくため息を吐いた。
「はぁ、あなたが頷いてくれれば余計な労力は必要なかったのだけどね」
魔女は、にぃ、と口の端を吊り上げるようにして嗤った。
「仕方ないから、もう一人の彼にお願いに行くことにするわ」
その魔女の発した『彼』の部分にビクンと反応するなのは。まさか、まさか、まさか、と思う。しかし、ジュエルシードに関係した彼といえば、なのはは一人しか思いつかない。なのはは、嫌な予感がして、待てっ! と静止の声をかけようとした。だが、伸ばした手は届かず空を切るだけだった。また、転送の魔方陣でどこかへ移動したのだ。
どこへ? 考えるまでもなかった。
すぐさま、なのはは翔太の家にこっそりと配置しているサーチャーから映像を読み取る。そこに写ったのは、なのはの黒い敵とその使い魔、翔太。そして、先ほどまで自分の部屋にいた魔女と見知らぬ女性だった。なのはには二人が何かを言い争っているようにも見えた。
―――ショウくんっ!
なのはから見ても、翔太が聞き危機に立たされていることは容易に想像できた。だから、すぐさま、なのははパジャマからバリアジャケットの聖祥大付属の白い制服に換装すると自分の部屋の窓を開け、星空が舞う夜空へと身を投げ出した。普通なら自由落下だろうが、なのはは、魔法使いだ。窓から飛び出したなのはは、そのまま靴に生やした羽を使って空をすごい速度で一直線に翔太の家へと向かって飛ぶ。
その間も、サーチャーから送られてくる映像は、翔太の部屋の様子を映し出していた。
チェーンバインドで拘束される使い魔。何かを叫んでいる黒い敵。そして、魔女の連れに捕まる翔太。
「ショウくんっ!!」
飛びながら叫ぶが、それが翔太の部屋に届くはずもない。気だけが早るなのははレイジングハートに命じて、さらに速度を上げる。もうすぐ翔太の家に着くという前にサーチャーの映像は、なのはにとって最悪の場面を映し出した。
翔太の首筋に衝撃がくわえられると、意識を失ったように項垂れ、そのまま、三人の姿が消えてしまう映像だ。
なのはは、この映像を信じたくなかった。まさか、翔太が攫われるなんて。
嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、となのはは繰り返しながら空を飛ぶ。これが夢であればいいのに、とそう願いながら。そう、目が覚めたら自分の隣には、翔太がいて、おはようと自分に笑いかけてくれて、一緒に朝食を食べて、一緒に学校に行くんだ。
だが、翔太の家についたなのはが目の当たりにしたのは、間違えようのない現実だ。
「あ、あ、あああ」
なのはの口から絶望の色がついた声が漏れる。
翔太の家についたなのはが、空いている窓から侵入した寝室で見たもの。それは、虚ろな瞳で倒れこんだ黒い敵。バインドされたままの使い魔。そして、もぬけの殻となってしまったいつも翔太が寝ている布団だけだった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああああああああっ!!」
なのはの絶望に染まった絶叫が、ゴールデンウィークの夜空に響くのだった。
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