世界はまだ僕達の名前を知らない
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開眼の章
07th
贈り物
光っていたのは、一つの小さなランプだった。
「……………………」
ランプから少し離れた所で立ち止まるトイレ男。ここは十分にランプの光の範囲であり、例の奴らが近付いてきても視覚で感じ取る事ができる。……目で見てわかるのなら、だが。
「……………………」
後ろを向いた。誰の影も目には映らず、またやはり誰の気配もしない。
「……………………」
一先ず、トイレ男はこのランプの持ち主を探す事にし
「あら、私をお探しで?」
「ッ!?!?」
前を向いた時、そこに人が居た。
白いゆったりとした服を着た女だ。白女に似た装いだが、彼女とは違いフードを被っておらず、顔が見える。恐ろしく整った顔面に鎮座する二つの灰色の瞳は真っ直ぐにトイレ男の双眸を射抜いており、口は緩い弧で微笑みをえがいている。また、その白く長い髪は肩にかかり服と同化しているようにも見える。
「あ、驚かせてしまったのならごめんなさい。戻ってきたら人が居たものだから……私を探しているのは、動きと表情でわかったの」
二つの衝撃により固まっていると、女は申し訳無さそうにそう言った。
「……………………」
トイレ男は一歩後ずさった。
一見、彼女は普通の、何の害もないような女性である。しかし、それにしては違和感があった。それは服が綺麗すぎる事。こんな空間に居たらその服はたちまち汚れてしまうのが当然だが、彼女はそうでない。襟から袖、裾に至るまで、その一切が純白なのだ。明らかに異常である。
「私はフィリアというの」
そんなトイレ男の疑いを知ってか知らずか、女⸺フィリアはそう名乗った。
「貴方は?」
「……………………」
トイレ男は迷った。答えたものか、答えざるものか。
目の前の明らかに異質な存在を前に、自らをどれほど明かしてもよいのか。
「……………………」
フィリアは動かないトイレ男を、変わらずじっと微笑みと共に見つめている。
「……………………」
危険だ。すぐにこの女から離れよう。
トイレ男はそう決断した。トイレ男の本能的な部分が、フィリアの危険性を酷く訴えていたのだ。何をされるかはわからない。何もされないかも知れない。だから恐ろしい。この女は次にどのような行動に出るか、全くトイレ男に予測させなかった。一瞬で距離を詰めてトイレ男の首を締め上げるかも知れないし、『答えたくないならいい』とでも言ってトイレ男を解放するかも知れないし、かと思えば背後から襲いかかってくるかも知れないし、或いはそんな事はなく普通に、穏便に見送ってくれるかも知れない。「…………」、文脈、脈絡などこの女の前には無意味であると、トイレ男はその雰囲気から悟っていた。そして、もう一歩後ずさる。
気が付けば、トイレ男は目の前の女を、先程まであれだけ怖がっていた気配の無い奴らよりも、遥かに上位に置いていた。ともすれば白女にも匹敵するような恐怖を、感じていた。いや、白女には最近慣れが出てきているので、上回っていてもおかしくない。
「戻るの?」
トイレ男の足が二回も下がったのを見て、フィリアはそう問うた。
「……………………」
トイレ男は否定も肯定もせず、ただもう一歩下がった。
「そう」
それをフィリアはどう思ったのか、
「貴方がここを去ろうと、私と一緒に居ようと、それは貴方の自由よ」
ギュッ。ピシュ。
「だから⸺これも、私の自由」
一回目の『自由』で、心臓が縮こまった。
二回目の『自由』で、胸を刺された。
「ぁっ」
気が付けば、フィリアは何かを投擲した後の姿勢をしていた。
下を見れば、右の胸に、ナイフが突き刺さっていた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!?!?!?!?」
痛みは遅れてやってきた。
恐ろしいコントロールにより、ナイフは骨と骨の間を縫い、トイレ男の肺を貫いていた。太い血管を破ったのか、隙間からは血がドクドクと流れ、呼吸を行おうとすれば血が止まったり飛び散ったりした。
その上落下の痛みも再来し、全身を激痛に見舞われたトイレ男は、抗う事もできず地に倒れた。辛うじてうつ伏せになってナイフをより深くさしてしまうだけは避けた。
痛みに身を捩り、そしてそれによりよりいっそうの痛みを味わうトイレ男を見ながら、元の姿勢に戻ったフィリアは言う。
「ごめんなさいね、私のせいでそんな事になってしまって。でも安心して、死なせはしないから」
トイレ男の耳にその言葉は届かなかった。正確には、届きはしたが、処理できるだけのリソースを脳が持たなかった。
五感は消えて、ただ痛覚のみが残っていた。これまで無視できていた筈の痛みが無視できないどころか、これまでよりもいっそう強くなっている気がする。少なくとも、前まではこんな指の先っちょまでもが激しく痛むような痛みではなかった。痛むのは背中と腹で、四肢はそうでもなかった筈なのだ。それが、何でだ。何でそこや刺された胸とは関係ない腕や脚までもが痛いんだ。全身を覆う痛みの正体は、何だ。意識が飛びそうだ。
「セッちゃん、お願い」
白眼を剥きそうになったら、無理矢理前を向かせられた。剥けない。気を失えない。
「……って、あれ? 最近見ないと思ったらそこに居たのね、セッちゃん」
脳はとっくに限界を超えていた。感覚神経は麻痺し、なのに痛みはあって、運動神経は出鱈目な信号を送り続ける。ナイフが抜けたかどうか、より深く刺さったのか否かすらわからない。いつか、白女に感覚を封じられた時を彷彿とさせられる。
「何でそこに居るの? ……ふぅん、いつものね」
痛い。痛い。痛い。最早感覚など関係無く、脳に『痛い』が居座っている。
「あ、もしかして、私その子に触らない方がよかった? セッちゃんがお楽しみ中だったのを邪魔してしまったかも。……そう、よかった。なら私も一緒に楽しませてもらうわね」
⸺⸺⸺⸺。
「それじゃ……えーと、お名前は何だったっけ……あ、ありがとうセッちゃん。それじゃ、トイレ男くん」
…………トイレ?
その音を起点に、脳内にスペースが作られる。痛みを無理矢理押しのけて空き空間を作る。といってもトイレ男がやったのではない。やられたのだ。何者かが、トイレ男の頭に入り込んで、音を拾う場をこじ開けた。そこで最初に拾った音がトイレだったというだけだ。
「もう少し私の事を話させてもらうわね」
この声は誰だっけ……そうだ、フィリアだ。
思考は驚くほどにクリアだった。これだけ痛いのに、考えは明瞭で整っている。まるで脳が『痛みを感じるスペース』と『考えるスペース』で綺麗に区切られたようだ。
気持ち悪い。
「もう一度名乗るけど、私はフィリア。⸺愛の化身」
……何を言っているんだ?
愛の化身だと? 自由だなんだと言いながら突然人の胸を刺すような奴が、愛の化身? 真反対すぎるにもほどがあった。愛の化身だというのなら、すぐにこの痛みを取り払ってくれ。思考は邪魔されないが、それでもとても苦痛なんだ。現に全身をよじって暴れているだろう。現に喉の限界を超えて叫んでいるだろう。
「私は貴方を愛したいの」
だったら何だ。早く愛して、この痛みを取り除いてくれ。
「でも貴方は私の愛を望んでいない」
望んでいるとも。
「私の"愛"は苦痛から解放してあげる事ではない」
???? 愛する者を救わないのか。
「何故なら、私の"愛"はその痛みそのものだから」
⸺⸺⸺⸺。
領域が崩れた。
トイレ男の脳は再び思考のスペースを失い、痛みという名の愛に覆い尽くされる。
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