世界はまだ僕達の名前を知らない
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開眼の章
07th
地下水路での逃避行
「……………………」
暫くじっとしていた。
何も見えない暗闇でじっと居るのはなかなかに気が狂いそうである。腹から感じる水気と滲み出る汗の感覚、そして痛みが正気を繋いでくれたお陰で今はまだ狂っていない。というか眠い。ただ、この環境で意識を手放せばどうなるかわかったもんじゃないので、時折わざと身をよじり背中を痛ませる事で眠気を凌いでいた。
「……………………」
考えるネタも尽きて、如何に人間は人間たるのか、そしてトイレ男とは何か、何者なのか、どこから来たのか、そしてこれからどこに行くのかという事を考えていた時だった。
「…………?」
何かを感じた。漠然としすぎていて何をどう感じたのか、どの感覚で感じたのかすらわからないが、とにかく何かを感じた。
遂に幻覚が出てきたか、と思いきや、
「…………、!!」
また感じた。思考を中断して集中していたのもあって、どの感覚で感じたかもわかる。
触覚だ。
トイレ男は、右の二の腕の辺りを、指でなぞられていた。
「!!!!」
一度気付けば後は早い。
背中を、左の二の腕を、頭を、尻を、太ももを、ふくらはぎを、靴越しに足の裏を、指で撫でられていた。
「ッ!?!?」
いつからか。それはわからない。いつの間に、としか言いようがない。
トイレ男は背中が痛むのもお構い無しに、立ち上がり逃げようとした。
「〜〜ッ!!」
脳を貫く激痛。しかし、恐怖と痛みでは、今回は恐怖の方に利があった。トイレ男は白眼を剥きそうになりつつも、トイレを引っ掴んで、だいぶ前屈みになりながら逃げた。とはいえ、それほど速度は出ず、普通に歩いているのと同じぐらいの速さしか出ない。それでも、逃げた。
あの全身に走っていた感覚は消えていた。しかしそれはもう触られていないという訳ではない。最初は気付かない内に触られていたのだ、今もそうでないと誰が言える。
こうして碌に視界が利かない状態で走って、先程みたいに段差から落ちてしまうのではないかという危惧は当然あった。だが、トイレ男の全身を触っていた存在から逃げられるのならそうなれば寧ろ好都合とも思っていた。流石に奴らも、それなりの高さのある段差越しに追ってはこないだろうから。それは正体不明な相手に対して如何にも無力な希望的観測であったが、トイレ男はそこまで思考を回す余裕を持たなかった。一刻も早く、さっきの場所から逃げる事しか考えていなかった。
「……………………」
どれほど走ったろうか。
ただでさえ体力を削られていた所に現状でき得る全力疾走を行ったトイレ男は、疲労の限界を感じて座り込んだ。丁度よい所に壁があったのでもたれかかる。ずっと真っ直ぐ走っていたので、先程の場所からはかなり離れられた筈である。トイレ男は触覚に意識を集中しつつ、また走れるようになるまでここで休む事にした。
「……………………」
今の所触られているようには感じない。
というかあれは何だったのか。トイレ男はまるで人間の指のように感じられたのですぐに逃げたが、本当に人間なら助けを求めるべきだったのでは? いや、倒れている人間の体をあんな風に触るような奴が真人間な筈が無いので、逃げて正解だ。そもそも感覚は離れた箇所に複数あったので、人間一人の所業ではない。複数人居たのだろうか?
それとも人間ではなく、小動物の類いだったのか。毛は感じなかったのでネズミなどではない。では人間の皮膚に張り付いて血を吸う生物が居るらしいが、それだったのだろうか。いや、感じたのは張り付かれる感覚ではなく、撫でられる感覚だ。ゾワゾワとするような、思わず鳥肌を立ててしまうような撫で方だ。例の吸血生物ではない。
ならば⸺最初に思った通り、幻覚か。自分ではまだ正気を保てているものだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。とっくの昔にトイレ男は狂気に落ちていたという事だ。
それはつまり、トイレ男は幻から必死に逃げるあまり、助けが来るかもしれない穴から遠く離れてしまったという事だ。「…………」、滑稽にも程があった。幻を感じたという事は、もう限界が近いという事なのだろう。ならば、限界が来る前にトイレを使わなければ。
トイレ男は両手でトイレを固定し、体を仰け反らせる。壁にもたれかかっているのを忘れて、後頭部を壁にぶつけてしまった。
かと思いきや、頭は壁をすり抜けて、トイレ男は仰向けに倒れた。
「!?」
脇腹の辺りを壁に挟まれている。否、これは壁などではなく……
脇腹を挟んでいた足首が、少し回って、より強く脇腹を締め付けた。
「!!!!」
全然逃げられてなどいなかった。トイレ男は四つん這いになり抜け出して、先程と大して変わらない姿勢と速度で逃げた。
いつから、いつから壁は壁でなくなったのか。否、最初からだ。最初からあれは壁なんかではなかったのだ。壁ではなく、人。そもそも、トイレ男は水路の真ん中で座り込んだのだ。背後は直前に居た場所である。壁などあろう筈も無い。つまりはトイレ男が馬鹿だったという話だ。
それからはもう休む事もできずに、一心不乱に逃げ続けた。逃げて、逃げて、つい立ち止まりそうになっては、恐怖を思い出して、逃げた。
背中の痛みはとうに消えていた。麻痺して感じなくなったのか、或いは本当に怪我が治ったのか。間違いなく前者であろう。枷が無くなったトイレ男は健康な時と遜色ない速さで走った。何回か壁にぶつかって、その度に方向を変えた。幸いな事に、袋小路には行き当たらなかった。
ふとトイレを使えばいいと思い出したのは、右に七回、左に三回曲がった時であった。
「……………………」
この時ばかりは立ち上がって、手の中のトイレを意識した。
麻痺してるだけとはいえ、異常なほどの疲労に苛まれている以外は、トイレ男は普段と何も変わらない様子である。火事場の馬鹿力とでも言うのか、疲れが出力に影響しない今ならば時を戻せるほどの力を出せる筈だ。
トイレ男は今度こそとばかりに体を反った。
途端、トイレが手の中から滑り落ちた。
「!?!?」
いや、抜き取られた。
空中から、キーキーとトイレの表面を引っ掻く音が聞こえる。例の人物が、トイレ男の手からトイレを抜き取り、それを引っ掻いているのだ。
「!!!!」
俺のトイレに何しやがる!
トイレ男は怒った。助かる事を邪魔された事への怒りも無いではないが、大部分はトイレを奪われた挙句それを傷付けられている事にである。
トイレ男は拳を握って、音から推測できた、人物の頭があるであろう場所を殴った。
さっ。
直撃はしなかったが、掠りはしたらしい。直後に、何かが倒れる音がした。コケたらしい。
トイレ男は音のした場所に飛び込んで、手で探り当てたトイレを奪い取った。そして起き上がり、また逃げる。戻ろうとするたびに邪魔されるのではおちおち立ち止まる事もできない。走りながら頭を打ち付けるのも難しい。少しでいいから、奴から干渉されない時間が必要だ。
……というか相手は本当に一人なのだろうか? 壁だと勘違いした時とついさっきは一人だったが、最初は明らかに複数人だったし、そもそも壁と勘違いした奴とトイレを奪った奴が同一人物だというのも考えにくい。トイレ男は運動は得意ではないが、それでも全力で走っていたのだ。仮に同一人物だとしたら、相手はトイレ男を後ろから追って、前に回り込み、トイレを奪ったという事になる。不可能ではないが、難しい。トイレ男は敵は複数人居ると断定した。どこに居るかわからない、気配すらも感じ取りづらい複数人の誰からも干渉されないにはどうしたらいい?
「…………!!」
考えながら走っていると、トイレ男は前方に光があるのを見た。
そう、光だ。何が光っているのかはわからないが、真っ黒な視界の先に、薄い黄色の光がある。
トイレ男は、そこを目がけて、よりいっそう我武者羅に走った。
そこに誰が居るかなんて、考えもせずに。
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