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ああっ女神さまっ 森里愛鈴

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13『魔女と女神の卵』その2

夜。
部屋の照明は落とされ、亜空間スクリーンには静かな庭の夜景が投影されていた。
その中で、森里愛鈴は自室のベッドにうつ伏せで沈んでいた。
道着は脱ぎかけ、髪はまだ結んだまま。まるで全身が“床と一体化”してしまったかのような脱力状態。
「……もう、鬼……師匠……」
小さくつぶやいたその声に、ピン、とホログラムの音が返ってきた。
「お疲れさまでした。本日も“生還”おめでとうございます」
C2が、柔らかな光をまとって枕元に現れる。
「きつい……もうやだ」
「でも、ちゃんとついて行けてるじゃないですか。動きの型も、昨日よりスムーズになってましたし、転倒数も10回から7回に減ってます。成長ですね」
「……それ、統計で励ますの、やめて……」
 愛鈴は顔を埋めたまま、手だけで“やだやだ”とばたつかせた。
「だって……ほんと、きついんだってば。リンド師匠の“払う”って、払ってるのはこっちの意識だよ……」
「でも、“ゆるくて楽な修行”じゃ、修行にならないですよ?」
 C2の声が、少しだけイジワルに跳ねた。
「……それは、わかってるけどさあ」
 愛鈴は寝返りをうって、ぼさぼさの髪をかきあげながら天井を見上げる。
「やる意味はわかってるし、逃げたくはないけど……でも、やっぱり疲れるものは疲れるの」
「うんうん、健全です。疲れるのは頑張った証拠でね。……というわけで、“本日のお姫様業務”はここまで。はいはい、シャワー浴びて寝ましょうね」
「……言い方が完全に保護者……」
「“専属AIでありながら生活指導担当”なので、当然です」
 C2はツヤツヤとした笑顔でぴょこんと浮き、すでに浴室の空間投影操作を起動していた。
「温度38.5度で設定。BGMは『回復系アロマヒーリング』、照明は橙系で。……これで立てないとか言ったら、強制搬送モードですよ?」
「わかってるってば……もぉ……」
 愛鈴はようやく体を起こし、足を投げ出したまま立ち上がる。
 肩や腕に残る“リンドの記憶”はまだ熱を持っていたけれど、
 部屋の中の空気は、少しだけ柔らかくなっていた。
「……明日も頑張る」
 そうつぶやいた愛鈴の背中を、C2は黙って見送った。
 シャワーを終えた愛鈴が、タオル地のガウンを羽織って部屋に戻ってきた。濡れた髪を肩にかけたまま、まだ火照った頬に手を当てながら、ベッドに倒れ込むのではなく、今日は床に座ることにした。
「ふー……生き返った……」
 バスタオル越しに首筋をふきながら、天井を見上げる。
 やわらかい灯り。カモミールの香り。C2が空気設定を「回復モード」に切り替えてくれていた。
「本日も無事ご帰還、お疲れさまでした。“転倒7回、反撃成功ゼロ、でも踏ん張りが昨日比120%”という結果です」
 C2が、まるでTVの天気予報みたいな口調で愛鈴の一日を総括する。
「そこまで記録されてると、なんか逆にありがたいかも……」
愛鈴は苦笑しながら、持ち上げた足をストレッチするようにぐいっと伸ばす。
「でも、踏ん張り120%ってどういう測り方してんの……」
「足裏の接地圧と姿勢軌跡、あと“精神的な逃げ腰回数”も加味してます」
「“精神的な逃げ腰”ってAIが言う単語じゃないよね……」
「でもあなた、今日の3本目でリンド師匠の肩の動き見た瞬間“あ、これヤバいやつ”って目が泳いでましたよ?」
「泳いだよ! だってあれ絶対殺意あったもん!“払う”って言っておきながら“砕きにきてる”動きだったもん!」
 タオルで髪をくしゃくしゃにしながら、愛鈴は半笑いで抗議する。
「まあまあ。でも、それに向き合って、最後の最後に“立ち続けた”んですから。ちゃんと、今日の愛鈴は“一日分、前に進んでた”と思いますよ」
「……うん」
 ぽつりと返して、愛鈴は膝を抱えるように座り直す。
「立ち続けるって、難しいよね。“できない”って思っても、“やめたい”って思っても、動かなきゃいけない。でも、少しだけでも結果が出ると……次も頑張れる気がする」
「それが“成長”ってやつですね。積み重ね型ですから、あなた」
 C2の言葉に、愛鈴は小さく笑った。
「……ねえC2。わたし、ちゃんと“強く”なれてるかな?」
「なれてますよ。まだ途中ですが、十分に“神の卵”してます」
「“してます”って何語……」
「“してるものはしてる”って意味です」
 愛鈴は、ふふっと笑って、タオルを枕のように丸めながらごろんと寝転んだ。
 心地よい疲労感が、体と心を包みこむ。
 明日もまた修行。
 でも、今夜だけは――この“ゆるみ”の中で、ちゃんと呼吸していい。
「おやすみ、C2」
「おやすみなさい、アイリ。明日は、今日の続きですからね」
 その優しい言葉を背に、愛鈴は目を閉じた。
 夢の中でさえ、彼女は少しずつ、前に進んでいた。

 朝。カーテン越しのスクリーン窓に、やわらかな朝日が投影されていた。鳥の声。部屋の空気はまだ少し冷たく、布団の中はぬくもりに満ちていた。ベッドの中で背伸びをしながら、愛鈴がひとつ大きく息を吐いた。
「あー……よく寝た……」
 その声に応えるように、ホログラムが柔らかく光り――
「おはようございます、アイリ。……うわ。今日も寝癖がひどいですね。髪質のせいですね。いつも通り、はねてますよ。特に右側」
 C2の的確すぎる指摘に、愛鈴はうっすら目を開けながら顔をしかめる。
「それ、聞いたの……何回目かな……」
「毎回。しかも私は毎回、受け流してますけどね?」
「……受け流す、かぁ……」
 ベッドの上でぼんやりと髪を撫でながら、愛鈴の目が、どこか遠くを見るように揺れた。
 “受け流す”――その言葉が、昨日の修行を思い出させる。
 リンドの木剣が肩に当たった瞬間。
 自分が“避けようとした”こと。
“跳ね返そうとした”こと。
 でも、そのどれもが上手くいかなかった。
「……押し返そうとすると、かえって自分が痛いんだよね」
「え?」
「力って……押さえつけるんじゃなくて、寄り添うもの……そう言ってた。魔女の人が、“寄り添う力”って」
 C2の目が、わずかにきらめく。
「それはつまり、“流れの中に自分を置く”という考えですね。相手を拒絶するのではなく、自分を通して“変える”」
「……それって、神様のやり方にも似てる」
 愛鈴は、膝を抱えるように座りながら、小さくつぶやいた。
「神様ってさ。人の願いを“かなえる”んじゃなくて、“寄り添っていく”ものなのかもね」
 C2は一瞬、何も言わなかった。
 やがて、静かに問い返す。
「では、アイリにとって“力”とは、なんですか?」
 愛鈴は、まだ寝癖が残った髪をくしゃくしゃにしながら、ぽつりと答えた。
「……ちょっとだけ難しい言い方だけど。“誰かと一緒に立ち続けるための、約束”かな」
 自分だけが強いわけじゃない。けれど、誰かの想いが自分にあるのなら、その想いを抱えて――受け流して――また、立ち上がる。それが、“柔”の意味なのかもしれない。
「よし、今日は昨日よりうまく払えるかも」
 元気を取り戻した声でベッドから飛び出した愛鈴を、C2はしっぽのようにぴょこぴょこと追いかけた。
「はいはい、洗顔とヘアブロー忘れずに。あと本日のお弁当は“ハンバーグ・ブロッコリー・秘伝卵焼き”です」
「やった、母さん特製だ!」
“学ぶ”ということは、“気づく”ことの連続。小さな気づきが、少女をまた一歩、女神に近づけていた。

 午前六時、境内にはまだ朝靄が立ちこめていた。
 木々の合間を抜ける風が、すこし冷たい。
 森里愛鈴は、道着を整えながら、深く深く息を吐いていた。
 身体の奥にまだ眠る倦怠感。それでも今日は、胸の内に、いつもと違う静けさがあった。
 リンドは、木剣を手に、黙って立つ。
「構えろ」
 その一言に、愛鈴は足を半歩開き、左腕を軽く上げる。
 ごく基本の受け型。だが、昨日までの“身構えるだけ”とは違った。
 C2が「今のあなたには寄り添いが足りない」と言ったのも、今なら理解できる気がした。
 リンドが一歩、踏み込む。
 肩が動く。剣が振り下ろされる。速い――けれど、今日は見える。
(“力を受けて、流す”――)
 昨日までの自分なら、咄嗟に押し返そうとしただろう。
 けれど、愛鈴は右足をわずかに引き、腕を動かす――“抵抗”ではなく、“導くように”。
 木剣が自分の左側をすべり抜けた。
 紙一重の軌道で、刃先は肩に触れもせず、空を斬る。
 リンドの身体がわずかに揺れ、視線が釘付けになる。
「……流した……この短期間で……!?」
 目を見開いたリンドの口元に、微かな驚きと、ふっとほぐれたような笑みが浮かぶ。
(この娘は……伸びる)
 愛鈴は構えを戻し、リンドと正対したまま、まだ呼吸が浅い。
 でも、その胸の内には、はっきりとした感覚があった。
(流せた。押し返さず、でも――逸らせた)
「――もう一度。今の感覚を忘れるな」
 リンドの声は静かだが、明らかに何かが変わっていた。
“単なる訓練生”ではなく、“学ぶ者”として向き合う眼差し。
「はい、お願いします」
 愛鈴の声は透き通っていた。
 朝日が、境内の木立の奥から差し込んできた。その光の中で、少女はもう一度、構えを取った。女神としての力――ではない。“人としての学び”の先にあるものを、いま彼女は手にしかけていた。
「――第二段階に入る」
 リンドの声は、朝露を斬るように鋭く、それでいてどこか澄んでいた。
「今までは“型”だった。だが本質は、相手の気配を感じて、それに応じて動くこと。私の動きに“構える”な。“応じろ”。」
 木剣を軽く振るい、リンドは地面に一本の線を引いた。
「この線を越えずに、私を止めてみせろ。……逃げても、拒んでも意味はない。お前の“流し”が通じるか、確かめる」
 愛鈴は、ごく自然に息を整えた。
 胸の奥が、少しだけ震えていたけれど、怖くはなかった。
“受けるんじゃない。感じて、返すだけ。”
 少女の意識は、研ぎ澄まされていく。遠くでセミが鳴いていた。空の青が少し深くなっていく――そんな時間帯。
 リンドが動いた。
 ただの踏み込みなのに、風が鳴ったような錯覚。
 間合いを詰める速度が違う。剣の角度も、重さも、さっきとは段違い。
 愛鈴は、無理に動かない。
――そのまま、踏みとどまる。
 相手の力に、自分の中心を委ね、剣筋に沿わせるように自らの身体を旋回させる。
 空気が弾けた。
 しかし、足は、線を越えなかった。
「……止めたか」
 リンドがわずかに口元を歪める。
 満足とも、警戒ともとれる、戦士のそれ。
「よくやった。まだ粗いが……“感じる”ことができている。人間離れした力任せではない。“意味ある使い方”を、お前は選び始めた」
「ありがとうございます」
 愛鈴は、ふうっと肩の力を抜き、軽く頭を下げた。
 そして、道着の袖で額の汗をぬぐいながら、小さくつぶやいた。
「……真琴さん、茜さん。あの時の言葉、ちゃんと届いてました」
“寄り添う力”――
“流れに身を任せる”という考え方は、たった一言だったけど、今の自分にとって、最初の一滴になっていた。
「魔法って、いまの私には少し遠いけど……“誰かのために、立ち続けたい”って思う気持ちは、同じですから」
 どこかで真琴が空を飛び、
 どこかで茜がまた山を削っているかもしれない。
 でもその軌跡は、確かに愛鈴の中で、力になっていた。
 リンドは何も言わず、ただ一歩、愛鈴に近づき――
「これから“剛”も教える。体格を言い訳にするな。構えろ」
「えっ、もう……!?」
「今教える。後悔はあとでしろ」
「ひえぇ……!」
 少女の叫びが、境内に響いた。
 だけどその背筋は、少しだけ、誇らしげに伸びていた。

     * * *

「うん、うまいなこれ……」
 茜が缶コーヒーをぐいっと飲んで、満足そうに背もたれに体をあずける。
 隣では真琴がソフトクリームをぺろぺろ舐めていて、
 愛鈴は棒付きアイスを齧りながらぼんやり空を見上げていた。
 公園の芝生には犬の散歩と小学生。
 空にはカラスが帰っていく。
「ねえ、真琴さん。あの時、なんであたしに“魔女です”って名乗ったの?」
 ふと思い出したように、愛鈴が訊いた。
 真琴はソフトクリームを一回転させてから、ぽんと答える。
「うん? だって、言ったほうが楽でしょ。
 あれ隠してたら、たぶんアイリちゃんにすぐバレるし」
「……まあ、そりゃそうだけど」
「あとね、あんたの場合――」
 茜が缶コーヒーを振って、チャポンと音を立てた。
「“脱兎ルール”が効かないのよ」
「脱兎ルール?」
「うん。魔女が何かやらかしても、普通の人は“気のせい”になるやつ。世界が勝手に記憶をぼやかすの。“魔女社会の自衛本能”ってやつ」
 真琴はソフトクリームを傾けて、ぽたっと溶けた雫を慌てて舐めた。
「でも、アイリちゃんみたいな子には効かないんだよね」
「……そっち側だから?」
「そう。“そっち側”」
 茜は、目を細めて愛鈴を見た。
「神様と魔女って、同じじゃないけど、
 “普通じゃない世界に一歩足を突っ込んだ者同士”って意味じゃ、仲間だからさ」
「うん。最初から隠す気なかったよ」
 真琴が笑った。
「だって、同じ空気吸える相手には、魔法って隠せないんだよね。匂いでわかるっていうか、気配で」
 愛鈴は、アイスの棒をじっと見つめた。
「……じゃあ、もし普通の子だったら、教えてくれなかった?」
「教えないね~」
 茜が即答する。
「下手したら、“あの時の黒猫、なんか見た気がするな”くらいで記憶が消えてる。でもまあ、あんたは最初から特例。あたしらの世界に“片足突っ込んでる”って、真琴は最初から分かってたんだよ」
「ふふ……だって、アイリちゃん、風の匂いが違ったもん」
 真琴はそう言って、残ったソフトクリームをぱくっと食べきった。
「……そっか。なんか、すごいけど、すごくない感じに聞こえるな」
「そりゃそうよ。魔法って“すごいこと”じゃなくて、“暮らしの中にあるもの”だから」
 茜が最後の一口を飲み干した。
「だからさ――“無理に普通になる必要、ないんだよ”」
 その言葉が、空気にふわっと溶けていった。
 カラスが鳴いて、夕日が公園の遊具を赤く染めていく。
 愛鈴は、アイスの棒をぎゅっと握りしめた。
「……じゃ、そろそろ帰ろっか」
「そうだねー」
「うん」
 3人は立ち上がり、何気ない足取りで帰り道についた。
 誰も“特別な話”をした顔はしていなかったけれど――
 その背中は、ちゃんと“同じ世界”に立っていた。

     * * *

 放課後の神社裏、木々の影が少し長くなっていた。
 夕陽が土の地面にオレンジ色の斜線を落としている。
 その中を、愛鈴はゆっくり歩いていた。
 今日の稽古は“剛”。リンドの教えは手加減などなく、腕はしびれ、脚には鈍い疲労が残っている。
 けれど、心はどこかすっきりしていた。いまは、誰かと少しだけ言葉を交わしたい、そんな気分。
 そのとき、鳥居の前でふたりの姿を見つけた。
「あ、真琴さん……」
 黒ローブの影がゆるく振り向く。
 夕陽に逆光で透けた髪、そしてその隣には――
「やぁ、アイリちゃん。今日も泥んこ修行だった?」
 にっこりと笑う、褐色の肌の女。
 木幡茜。真琴の姉であり、“山削りの魔女”の異名をもつ天災級の存在。
「はい……それなりに……というか、本気で“死ぬかと思いました”ってレベルでした」
 愛鈴が肩を落とすと、真琴は「あはは」と苦笑いしながら、
「でも、顔がなんかすっきりしてますよ。なにか、掴んだ感じですか?」
「……たぶん、“立ち方”かな。ようやく分かりはじめた気がして……」
 そう口にしたとたん、茜の眉がわずかに動いた。
「“立つ”、か。うん、奥が深いねぇ」
「え?」
「“立つ”ってさ、技術でも、筋力でもなくて――“気持ちの芯がどこにあるか”ってことでもあるのよ。特に、お父さんがよくそう言ってた」
 愛鈴は目を瞬かせた。
「……お父さん?」
「うん、あなたのお父さん。森里さん。昔、あたしがちょっとね、勢い余って“時空を巻き戻しちゃった”ことがあってさ。
そのとき彼に言われたの。“茜さん、立ってください”って。あたし、初めてだった。誰かに“立つこと”を命じられて、意味を感じたのは」
 夕日が茜の横顔に赤く落ちていた。
 いつもの破天荒な印象とは違い、まるで何かを見つめるような表情。
「……詳しくは、ご両親にでも聞いてみな。“立ち続ける”ってどういうことか。あの二人なら、きっと答えを持ってるよ」
 愛鈴は、小さく頷いた。その言葉は、胸の中に静かに沈んでいく。今日の修行の痛みと一緒に。
「ありがとうございます、茜さん。……真琴さんも」
「え、なんでわたしも?」
「“寄り添う力”って、今もまだよく分かんないけど、でも……言葉の一滴が、今日の“受け流し”を生んだ気がするんです」
 茜が茶々を入れた。
「おー、言うねぇ」
「ちょ、なんか照れるからやめてください」
「はいはい、照れてるとこ可愛いなぁ~♪」
「だからやめてくださいってばぁぁぁ……!」
 夕暮れの境内に、少女たちの笑い声がこだました。
“強くなる”って、ひとりで成し遂げるものじゃない。
 誰かの言葉が、誰かの想いが、自分の中に積もって――
 そうしてようやく、立てるようになる。
“立つ”という行為の意味を、愛鈴は少しずつ、その足で学んでいく。
夜風が、夏の匂いを運んでくる。
境内の灯籠がぼんやりと光を放ち、虫の音だけが背景を彩っていた。
 愛鈴は、浴衣の裾を直しながら、縁側で足をぶらぶらと揺らしていた。その隣に、座布団を敷いてお茶をすすっているのは、螢一――彼女の父。
「ねぇ、父様」
「ん?」
「“立つ”って、なぁに?」
 唐突な問いに、螢一は少しだけ目を細めた。
 愛鈴の横顔を見て、彼はすぐにそれが“修行の一環”だと察する。
「……リンド、厳しい?」
「うん、でも今日は褒められた。少しだけだけど、ちゃんと“流せた”って」
「そっか。えらいな」
 静かに湯飲みを置き、螢一は夜空を見上げる。
「“立つ”ってさ、戦場じゃ“覚悟”なんだ。……誰かを“守る”って決めたとき、どんなに怖くても、痛くても、倒れないって自分に言い聞かせること」
 愛鈴は、膝を抱えて彼の言葉を聞いていた。
「……後ろに、誰かがいるとね。逃げられないんだ。その人の命が、自分の背中にあるって思うと……もう、立つしかない。……だから、“立つ”って、ほんとはすごく怖いことなんだ」
 そう言った螢一の声は、どこか遠い記憶をなぞるようだった。
「でもね、アイリは……優しいんだ。優しい子は、自分より先に“目の前の相手の痛み”が見えちゃう。だから、怖さより先に、躊躇しちゃうんだろうな」
「……」
「けど、それも大事な“目”だよ。誰かの痛みに気づけるって、それが本当の“強さ”だから」
 愛鈴は、小さく頷いた。夕飯の後で、まだ髪に残っていたシャンプーの香りが風に乗る。
「……じゃあ、私もいつか、“怖くても立てる”女神になれるかな」
「なるさ。父様が保証する。母様もきっとそう言うよ」
「ふふ……ありがとう」
 螢一は、娘の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。
 その小さな肩には、まだ未熟で不安定な力と、誰かの想いがゆっくり積もりつつあった。
“戦場で立つ”という言葉が、ただの教えではなく、“自分が誰かを守る日”のための指針として、愛鈴の中に静かに息づいていく。

 修行場に朝日が差し込む。
 境内の砂地はうっすらと夜露を含み、足を踏みしめると少しだけ沈む。
 そこに、今日もふたりの影が向かい合う。
 リンドはすでに構えていた。木剣ではない。竹で編まれた稽古刀――重みが違う。
「今日から、実戦形式。“流す”だけでは済まない。“芯を持って立つ”ことも、教える」
 愛鈴は、ゆっくりと構えをとった。
 足の裏に意識を落とし、地面を踏みしめる。
“後ろには誰かがいる”
 昨日、父に言われた言葉が胸の奥で反響する。
 あの時、なにかが“降りて”きたような気がした。
 リンドが動いた。
 木立を裂くように踏み込み、鋭い斜めの打ち下ろし。
 避けるか――流すか――どちらでもない。
 愛鈴は、剣の下へ、わずかに重心をずらして入り込む。
 そして両の手で剣を受け止め――
 そのまま、“立った”。
 剣が止まる。風だけがふわりと抜けた。
 受け止めたのではない。衝撃を、殺さずに、“芯”で受けきった。
 少女の足は地を踏み、身体はぶれず、ただまっすぐに剣と向かい合っていた。
 リンドの目が見開かれる。
(……“立った”?いや、違う。あれは……立って、“後ろ”を見た動き)
 剣を引き、後退しながら、リンドは息をつく。
(まてまて、それ“極意”の一端じゃないか……!誰だ、こんなこと教えたの……ベルダンディーじゃないな。あのひとは“抱くこと”は教えても“立つ”は教えない……螢一か……あいつめ……)
 思わず舌打ちしそうになったのを飲み込み、リンドは声を落として言った。
「――いいか、愛鈴。“立つ”というのは、誇りだ。ただの姿勢じゃない。“誰かのために倒れない”と決めた時、人は――神でも魔でもなく、“戦士”になる」
 愛鈴はうなずいた。その顔は、どこか幼さを残しながらも、確かに“戦う人”のものだった。
「もう一度お願いします、リンド師」
「いいだろう。……次は本気でいくぞ」
「はい。……私もです」
 境内の空気が、張りつめた絹のように震えた。

 午後の図書館。
 放課後とは思えないほど静かで、陽が差し込む窓辺には木漏れ日がゆれていた。
 愛鈴たち四人は、奥の丸テーブルを囲んで、それぞれ手元の本に目を落としていた。
 ユリは歴史図鑑をぱらぱらとめくりながら、たまに口を尖らせる。アカネは武道雑誌を斜め読みしていて、ふと愛鈴の肘をつついた。
「ほら。“型が崩れない子は、基礎の鬼”だってさ。愛鈴、そのまんまだわ」
「うるさいな……鬼じゃないよ、私は」
 ぼそっと返しながら、愛鈴は国語辞典をめくっていた。
 特に何を調べているわけでもない。
 ただ、言葉の森を散歩しているような、そんな時間。
――その隣で、静かに本を読んでいたのが、青木瑠璃だった。
 彼女は今日も、どこか落ち着いた様子で文庫本をめくっている。だけど、ページを繰る手の速さがいつもより遅いことに、
愛鈴はなんとなく気づいていた。
 やがて、ふとした拍子に目が合った。
 瑠璃は、ほんの一瞬だけ微笑んで――それから、本に視線を戻した。
 それだけ。
 でも、それだけで充分だった。
 彼女はきっと、もう気づいている。「森里愛鈴」という存在が、ただの同級生や友達じゃないということ。天界の血を引き、戦う力を持ち、どこかこの世界の“境目”に立っているということ。
 それでも、瑠璃は何も言わなかった。
 言わなかったし、顔にも出さなかった。
 ただ隣に座って、本を読み、同じ空気を吸って、同じ午後を過ごしていた。
 それが、どれほど救いになるかを――愛鈴は誰よりも知っている。
「……ありがとう」
 唐突に漏れた愛鈴の呟きに、アカネが首を傾げた。
「ん? なにが?」
「ううん、なんでもない。……ちょっと疲れてただけ」
「そっか。じゃ、これ見て元気出しなよ。“筋肉で世界を救う”特集」
「読むかっ!」
「うっわ本でツッコミって新しいな……」
 笑い声。ささやかで、温かいもの。
 その横で、瑠璃はページを一枚、静かにめくる。
 一切、言葉にしないまま。それでも、“何も知らないふり”をする優しさが、空気みたいにそこにあった。
 それでいい。今はそれが、何よりの“平和”だから。

     * * *

 夕暮れの境内。
 空がゆっくりと藍色に染まりはじめる頃、
 愛鈴は鳥居の下で真琴と向き合っていた。
「……もう二年か。長居しちゃったなあ」
 真琴はローブの裾を払って、少し笑った。
 その笑い方は、最初に出会ったときと変わらない、柔らかくて自然なもの。
「……青森に帰るの?」
「うん。一度ね。報告もあるし、また旅に出るかもしれない」
 そう言った真琴の目は、どこか遠くを見ていた。
「魔女って、そういうものだから。根を張るのも大事だけど、風に乗るのも仕事なんだよ」
 愛鈴は唇を噛んで、それから素直に言葉を重ねた。
「……ありがとう、真琴さん。いろいろ、勉強になりました」
「こちらこそ。君のおかげで、いい空気吸わせてもらったよ」
 真琴は軽くウィンクして、愛鈴の肩をぽんと叩いた。
「魔女協会への報告は?」
「それは――秘密」
 くすりと笑いながら、真琴は空を見上げた。その目はどこまでも澄んでいて、雲の向こうを見ているようだった。
「じゃ、機会があったらまたね」
「……うん」
 別れの言葉は、それだけで良かった。
 でも、真琴は最後に、ふっと表情を引き締めて、愛鈴の目をまっすぐ見つめた。
「君に、この言葉を送るよ。古い古い魔女の独り言」
 空気がすっと変わる。

 「わたしは夜に誓う。
 心は高く、足は地につけて歩くこと。
 友を敬い、世界と仲良くすること。
 前を向いて、作り、進み続けること。
 嘘に負けず、欲望に流されないこと。
 自分のしたことには、自分で責任を持つこと。」

 愛鈴は息を呑んだ。
 それは、ただの“別れの言葉”じゃなかった。
 まるで、魔女から女神への、ひとつの“バトン”だった。
「……覚えときます」
「うん。……じゃあね」
 ふわりと風が吹いた。
 真琴は、まるで最初に現れたときのように、どこか軽やかに、その場から去っていった。
――また、どこかで会えるかもしれない。
 愛鈴は、胸の奥にその言葉を刻みながら、静かに、空を見上げた。
 夜に誓う。
 心は高く、足は地につけて。
 そして、また歩き出す。

 翌日の朝の境内は、まるで絵に描いたように澄んでいた。
 風が一筋、髪をなでる。鳥の声も、蝉の声も、今朝だけは遠慮がちに聞こえた。
 愛鈴は、静かに立っていた。リンドと向かい合い、木立の間に張る薄い朝靄の中で、自分の心臓の鼓動だけを頼りにして。
「――もう、いいな」
 リンドの声が、風のように低く響いた。
「……はい?」
 愛鈴は一瞬、聞き間違えたかと思った。
 けれど、リンドの目は冗談でも、試しでもなく、本気だった。
「もう充分だ」
 その一言は、稽古で何百回も聞いた「立て」とは、全く違う重みを持っていた。
 愛鈴は、手のひらをぎゅっと握りしめた。言葉にできない何かが、胸の奥で膨れ上がる。
「……それは……」
「今日で終わりだ。もう、教えることはない」
 リンドは、背を向けかけた。
 けれど、ふと足を止め、振り返る。
「お前は“型”を学んだ。“受け流すこと”も、“立つこと”も、“折れないこと”も。それは、ただの技じゃない。お前自身が“どう生きるか”を選ぶ、そのための道だ」
 境内の空気が、しんと静まり返る。空には雲一つない。太陽が、ゆっくりと昇っていた。
 愛鈴は、胸の奥に溜めていたすべての思いを、そのまま吐き出すように、
 ゆっくりと、深く頭を下げた。
 涙がこぼれそうになるのを必死でこらえながら、声を絞る。
「――ありがとうございました」
 ただ、それだけ。
 でもその一言には、言葉にならないものが全部詰まっていた。
 痛みもあった。
 怖さもあった。
 逃げたくなった夜もあった。
 でも、それでも“立つ”と決めた。
 だから今、ここにいる。
「……礼は、いらん」
 リンドはわずかに視線をそらすようにして言った。
「学んだ者が、それを生きてくれることが、私の報酬だ。それでいい」
 風が吹いた。
 境内の木々が、ざわ……と葉を鳴らす。
 その音に紛れるように、リンドはほんの少しだけ、目を細めた。
「……達者でな」
 そう言い残し、リンドは踵を返して歩き出した。
 その背中は、まっすぐで、強くて、そして――どこか寂しかった。
 愛鈴は、その後ろ姿を、ただ見送る。
 両足は、地面にしっかりと根を張るように立っていた。
“戦うため”じゃない。
“守るため”でもない。
 ただ、“自分で選んで立つ”こと。
 それが、いまの自分にできる、最初で最大の答えだった。
 境内に、朝の光が満ちていく。
 世界は変わらず回っている。だけど――自分は、昨日までの自分とは違う。
 少女はそのことを、誰にも言わず、ただ心の奥で、静かに噛みしめた。
「……ありがとうございました」
 もう一度、胸の中で繰り返したその言葉は、きっとどこかに、届いている。
 涙は流さない。
 それがリンドに教わった最後の型だった。
 境内に残ったのは、風と光と、静かな余韻だけだった。

――おしまい。
 
 

 
後書き
愛鈴13歳の秋の終わり
今更だがC2だすことで螢一&ベルダンディーをださくよくなった。
子離れと同時に親離れ

次は多分 ルリドラゴン編 
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