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ああっ女神さまっ 森里愛鈴

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14-1 まだ知らなかった炎

──目を逸らしたかった。でも、逸らせなかった。

 洗面所の鏡に映る自分の額。その生え際から、白く、鋭く、確かな質量をもって突き出た二本の角が、浴室の淡い明かりを受けて鈍く光っていた。
 長さはおよそ五、六センチ。根元は皮膚に溶け込むように自然で、それでいて“異物”であることを疑う余地はない。白い陶器のような滑らかさと、骨のような重さをあわせもつその形状は、まるでどこかの伝承に出てくる“何か”の証のように見えた。
 ──これが、自分に生えている?
 青木瑠璃は、まだそれを信じきれずにいた。 
 触れれば、確かに熱を持っていた。冷たくはない。むしろ、皮膚よりも少し温かくて、それが自分の“内側”から生えてきたのだと、身体の奥が告げている気がした。
 心臓が、ずっと速かった。呼吸も、浅いままだった。
 やがて、震える唇が、名前を呟いた。
「……お母さん」
 その声に応じたのは、すぐ外の廊下からの返事だった。
「なに? 風呂あがったの?」
 ためらった。でも──言わなきゃ、もうどうにもならないと思った。
「ちょっと……来て。……お願い」
 ほんの十秒ほどで、浴衣を羽織った母・海が現れた。珈琲色の髪をゆるく結い、ノーメイクでもどこか凛とした顔立ちをしている女性。その目が、洗面台の前で固まる娘の姿を捉えた瞬間──一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、その瞳が見開かれた。
 だが、それ以上驚くことはなかった。
「……とうとう、出たんだね」
 その声は、静かで、どこか遠くを見ているようだった。
「……え?」
「こっち、座りなさい」
 母の手に導かれ、居間のソファへ。濡れた髪をタオルで拭かれながら、瑠璃はずっと俯いていた。唇はきつく結ばれ、視線は宙をさまよっていた。
「ごめんね……言ってなかったのは、悪かったと思ってる。けど、どう説明すればよかったか……ずっと悩んでた」
 タオル越しの母の手は、思いのほか優しかった。
「瑠璃。あんたね──人間とドラゴンのハーフなの」
 聞いた瞬間、世界が止まった気がした。
「……は?」
 あまりに突拍子もなくて、理解が追いつかなかった。
「正確にはね、人間と“竜の血を継ぐ者”の混血ってところ。うちは、代々……その“仲立ち”をしてきた一族なの。ドラゴンと人とのあいだに立って、誓いを守ってきた。あんたの父親……つまり、私の旦那はね、“向こう側”の血を引いてた」
 ぽつぽつと語られる言葉が、まるで夢のなかのセリフのように現実味を欠いていた。
「……じゃあ、わたし……人間じゃないってこと?」
「そうじゃない。半分人間。半分、ドラゴン」
「──そんなの、どこに……」
 言いかけた瑠璃の手が、額に触れた。そこには、確かにあった。鏡越しではない、直接の感触がそこにあった。

 角。

 身体の一部として生えてきた、真新しい自分の“形”。
「どうして……どうして、今まで黙ってたの……?」
 そう問う声は、泣き出す寸前のように震えていた。
 母は少し黙った後、目を伏せて答えた。
「できるなら……“出ないまま”生きていけたほうがいいと思ってた。普通の人間として暮らせる。そう思ってたの。そう願ってた。でも──」
 母の声が少し掠れた。
「その角が生えたってことは、目覚めかけてる。“中の何か”が。だから……きっと、これから“火”が出る。思い通りにならないかもしれない。けど──」
 そこで一拍、母は微笑んだ。
「……あんたは、あんただよ。ドラゴンでも、人間でも。どっちでも、ちゃんと私の娘」
 その言葉に、瑠璃の心が静かに揺れた。
 額の角が、じんわりと温かくなった気がした。


──どうして、あの子は、あんなに痛そうな目をするんだろう。
 四月も終わりかけ、放課後の昇降口。西日に照らされた校舎の壁が、薄紅色を映していた。
 靴を履きながら、そっと横目で見る。
 少し離れたロッカーの前で、青木さん──青木瑠璃は、うつむいたまま黙々と動いていた。誰かに声をかけられるでもなく、自分から笑いかけるでもなく、けれど、それを寂しがる様子もない。
 ……そう見えるだけかもしれないけれど。
 私は、たぶん、彼女のそういうところが気になっていた。
 クラスが始まってすぐのころ、誰よりも先に名前を呼んでみた。けれど、返事は返ってこなかった。耳に入っていなかったのか、それとも、無視されたのか……その時は分からなかった。
 でも、ある日──授業中、誰かがノートを忘れて慌てているとき、彼女が何も言わずに、静かに自分のノートを差し出していたのを見た。
 言葉にしない優しさって、あるんだなって思った。
 だから。
「……瑠璃ちゃん」
 声をかけたのは、ほとんど衝動だった。
 びくりと肩が揺れた。私は思わず息を呑んだ。
「えっと、ね……明日、一緒に帰らない?」
 言いながら、自分の言葉がとても唐突だったことに気づいて、顔が熱くなった。何を言ってるんだろう、私。断られるかもしれない。でも、ここで何も言わなかったら、きっとまたあの子の心に、私が届くことはない。
 瑠璃ちゃんは、靴ひもを結ぶふりをしていたけど、その手が少しだけ止まった。
 私は、ただじっと待った。
 夕方の光が廊下に差し込んで、埃が金色に舞っていた。人の声も、足音も、遠くに聞こえるだけで、この空間には私たち二人しかいないような気がした。
 そして──
「……べつに、いいけど」
 それだけだった。そっけない。でも、ちゃんと“答えて”くれた。
 私は嬉しくて、声に出したいのを我慢した。
──ありがとう、って、言ってもいいかな。
 けれど、結局、何も言えなかった。言葉にしたら、何かが崩れそうな気がして。だから私は、ただ微笑んだ。
 その笑顔が届いたかどうかは、分からない。瑠璃ちゃんは一度も私の顔を見なかったから。
 でも、それでよかったのかもしれない。たぶん、今はまだ、それで──。
 外に出ると、春の風が頬を撫でた。あの子と歩く明日の帰り道を、私は、少しだけ楽しみにしていた。

 校門をくぐった瞬間、吐き気がした。
 制服の下、肌にまとわりつくインナーが異様に熱い。風が吹いているはずなのに、身体の芯がずっと沸騰しているようで、熱がこもって抜けていかない。
 ──視線が怖い。
 そう思っていた。鏡に映る自分を見て、心から思った。
 この角は、隠せない。
 朝、母が言った。
 「もう帽子やカチューシャで誤魔化せる段階じゃないわ。いっそ堂々としなさい。……目立つことから逃げたら、ずっと目立つだけよ」
 分かってる。けど、それでも怖かった。何を言われるか分からない。石を投げられるような声が、また聞こえてくるかもしれない。
 でも。
 愛鈴と「一緒に帰ろう」と約束したのだ。あの子は、昨日の私を拒まなかった。だから──私は、私のままで行く。
 額に生えた、白く鋭い二本の角を晒したまま。
 下を向かず、まっすぐ前を見て、教室の扉を開けた。
──沈黙。
 一瞬だけ、教室の空気が凍った気がした。
 会話が止まった。ペンの音も、椅子の軋みも、消えた。四方八方から、視線が刺さった。
 足が、止まりそうになる。
 けれど、その次の瞬間──
「……え、なにそれ、超かっこいいんだけど!」
「マジで? 本物? 触っていい?」
「いやいや、これコスプレ? ウィッグじゃないの?」
「写真撮っていい? SNS載せても大丈夫なやつ?」
 ──耳を疑った。
 嫌悪でも、蔑みでも、恐怖でもない。むしろ……興味。面白がり。好奇心。誰もが目を丸くして、面白いものを見つけたような表情で、笑って、近づいてきた。
「やば……まじ、似合ってる。ファンタジー系のアニメ出れそう」
「何系? 角……ってことは、鬼? ドラゴン? え、神様?」
「めっちゃクールじゃん。てか瑠璃ちゃんって、こんなキャラだったっけ?」
 ──私は、呆然としていた。
 拒絶されると思っていた。嘲笑されると思っていた。
 なのに、今、目の前のクラスメイトたちは──角を“ファッション”の一部として受け入れ、はしゃいでいた。
「でもさ、ガチだったらやばくない? 痛くないの?」
「え、ほんとに生えてんの? いやちょっと待って、マジで生えてる!? すげぇ!」
 指先がそっと角に触れた。硬さに驚いて、手を引っ込める子もいた。けれど、誰も怖がらなかった。
 私は、戸惑った。戸惑いながら、それでも、どこかで──ほっとしていた。
 そのとき。
「……瑠璃ちゃん、おはよう」
 声が届いた。あの声だった。
 森里愛鈴。クラスで誰よりも柔らかく、誰よりも真っ直ぐなその声が、角の向こうからまっすぐ届いた。
 私は、ゆっくり振り返った。
 そして──ほんの少し、頬を緩めた。
 あの子の目だけは、誰よりも、真正面から私を見ていた。飾らず、気負わず、ただ“私”を見ていた。
 その瞬間、ようやく私は分かった気がした。
 この角が、異物でも異常でもなく、私の一部として存在しているのだと。
「うわあ……ほんとに生えてる……!」
 アカネの目がまるくなった。
 そして、ユリとユカも左右からのぞき込むように瑠璃の額を凝視し──
「ちょ、近い近い! 額の油つくって!」
「触るなって言ってないじゃん~」
「ほんとに“角”なんだね……すごい。きれい」
 昼休み、教室の一角はちょっとした“見学ブース”のようになっていた。机を囲むように女子数名が集まり、青木瑠璃の額から生えた白く艶のある二本の角を、代わる代わる興味深そうに見つめていた。
 ユリがそっと指を伸ばす。
「……触って、いい?」
 瑠璃は迷った末、こくりと頷いた。
 その瞬間、女子たちの表情が一斉に華やいだ。
「やった!」
「ありがと、瑠璃ちゃん!」
「さすが! 太っ腹!」
 人差し指でそっと角の表面をなぞる。つるりとした硬さに、ユリが目を見開く。
「……わ、すべすべ……ちょっとだけ、ぬくもりある……」
「なにそれ、えろくない?」
「アカネやめなさいよっ」
 笑い声が弾けた。瑠璃は頬を赤らめながら、それでも拒まなかった。
 女子たちの無邪気な好奇心が、どこか心地よかった。彼女たちの指は恐れずに触れてきて──そして、そっと離れていく。それがとても優しかった。
 だが、そこに──
「なあなあ、俺もちょっとだけ触っていい?」
 男子が一人、後ろから声をかけた。
 すると、間髪入れずに──
「男子は駄目です!」
 愛鈴の声が、教室に響いた。
「あ、ずるい! なにその差別ー!」
「男子だけ触っちゃダメなの? なにそれ、フェミ的なやつ?」
「ちがいます! これは……これは……っ、あの、瑠璃ちゃんの“聖域”なので!」
 愛鈴の声が少し上ずっていた。隣で見ていたユカがくすっと笑ってフォローを入れる。
「要するに“繊細な部分”ってことね。男の手で触っちゃだめなのよ、バランス崩れるから」
「え、バランス?」
「何の?」
「角の……オーラ?」
「はい嘘ついた!」
 教室が笑いに包まれた。
「うわあ……完全に“女子の秘めエリア”扱い……」
「いやまあ、なんか分かるけど……納得できねぇ!」
「男子かわいそ~」
 瑠璃は苦笑いを浮かべながらも、内心ではほっとしていた。男子たちの手のひらに触れられるのは、やっぱり、ちょっとだけ怖かったのだ。
 そのとき、愛鈴がそっと囁いた。
「……ちゃんと、言っておいたから」
「……ありがとう」
 ほんの一言。けれど、心の奥がぽっと熱くなる。
 角が生えて、世界が変わると思っていた。でも──案外、この場所も、悪くない。

 放課後の屋上には、風の音と遠くの部活の掛け声だけが届いていた。
 人気のないコンクリートの上、金属製のフェンス越しに西日が落ちかけ、二人分の影を長く伸ばしている。校舎の壁面を染めるオレンジは、刻一刻と色を変えながら、沈黙の時間をゆっくりと撫でていた。
「……ねえ、瑠璃ちゃん」
 先に口を開いたのは、森里愛鈴だった。
 ゆるく風になびく栗色の髪の下で、真剣とも、冗談ともつかない声が、横にいた少女の耳朶をくすぐる。
「私ね──半分、女神なんだ」
 言葉が落ちて、風が止まったような気がした。
 背を向けたままだった青木瑠璃が、ぴくりと肩を動かす。
「……は?」
 聞き返した声は、あまりに率直で、乾いていた。
「だから、うちの母親、天上界の神様なの。ワルキューレでもある。で、父は地上の人間。だから、私は半分……その間にいる子」
「……冗談でしょ」
 瑠璃が小さく呟く。けれど、そこには笑いも、皮肉もなかった。
 むしろ、必死に現実との接続を探るような、声だった。
「マジ?」
 問い返した瑠璃の目が、すっと愛鈴を捉える。
 その瞳の奥で、昼間、クラスの誰もが笑って触れたあの“角”が、今また違った意味で疼き始めている。
「……ほんとだよ」
 愛鈴の声は、やわらかかった。嘘も飾りもない、ただの“事実”を伝える音だった。
 瑠璃はしばらく何も言わなかった。黙ったまま、向こうの空を見ていた。
 沈黙に応えるように、愛鈴がゆっくりと手すりの前に立つ。
「信じてもらえないなら、証明するよ」
「──え?」
 言い終えるより先に、彼女の身体は地を蹴っていた。
 助走もつけず、ほんのわずかな足の踏み出しで、愛鈴の体はひと跳ねするように軽やかに宙へと浮かんだ。
──浮いた。
 瑠璃の目にそれは確かに映った。地面から離れ、数メートル先にある隣の校舎の屋上へ、まるで風に乗る羽のように、軽やかに、そして確実に着地する姿が。
 金属の手すりに触れもせず、白いスニーカーの裏がコンクリートを吸うように止まり、ふわりとスカートの裾が静止する。
「……はあっ?」
 思わず漏れた声に、自分で驚いた。
 向こうの屋上に立つ愛鈴は、くるりと振り返り、小さく手を振って見せた。
 夕陽が後ろから差し、彼女の輪郭を輝かせていた。
──女神。
 ふいに、その言葉が、心に焼きつくように浮かぶ。
 そんなはず、あるものか。神様だなんて。現実じゃない。そう思っていたのに──目の前で、それは起こった。
「うそ、でしょ……」
 しかし、次の瞬間。
 愛鈴は再び、今度はしなやかに助走をつけて、再び宙を舞う。
 跳躍というよりも、“滑空”に近かった。膝も肘も一切の力みがなく、風の流れにそっと預けるように、彼女の身体が空を渡って戻ってくる。
 着地は、音もなく。
 白い足が、瑠璃の目の前に止まった。
「──見たでしょ?」
 愛鈴が小さく笑う。
「ほんとに、女神なんだよ」
 言葉が、出てこなかった。
 怒るでもなく、呆れるでもなく──ただ、震えた。
「……すご……なにそれ……」
 喉の奥で溶けたような声が、ようやくこぼれた。
「神様って……ほんとにいるんだ」
「いるよ。空の上には、もっとたくさん」
「じゃあ、あんたは……その子供?」
「うん。だから“全部”じゃないけど、“半分”は、本物」
 瑠璃の視線が、愛鈴の額を見た。
──角はない。けれど、その目は、空の奥を映しているようだった。
「……変な子」
「お互いさま、でしょ?」
 ふっと笑いが滲んだ。
 角があること。身体が異形を受け入れ始めていること──全部、誰にも言えなかった。でもこの子には言える。
 同じじゃない。だけど似てる。形は違っても、“ひとりきりの感じ”は、たぶん、同じだった。
「ありがとう、見せてくれて」
「ううん、こちらこそ──話してくれて」
 日が落ちかけていた。影が長くなり、ふたりの影が交わった。
 静かな屋上で、ただ一つの真実が、夕空に溶けていった。 
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