ああっ女神さまっ 森里愛鈴
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
13『魔女と女神の卵』その1
前書き
ふらいんぐうぃっち編です
それは、風の匂いが変わりはじめたある午後だった。
地上界にも春の兆しが色濃くなり、芽吹く木々の梢を、ひときわ艶やかな黒が駆け抜ける。
すらりとした身体、揺れる尻尾、そしてこちらを振り返るように一度だけ──金の瞳が、愛鈴を見た。
「……黒猫?」
黒猫は何も答えず、けれど「こっちだ」とでも言いたげに角を曲がった。
「ヴェルスパーじゃないよね」
森里愛鈴、九歳。
名のある女神の娘にして、まだ卵──生まれたての、光と祈りの器。
この日、彼女はひとつの運命と出会う。
──追いかける。
直感だった。いつもの神力の反応とは違う、もっと柔らかく、ふわりと揺れる気配。それはまるで、春の風の中に混じった魔法の粒子のようで。
裏路地。神社の脇。小学校のフェンスをくぐって、その先。
そこで彼女は見た。
ひとりの少女。
制服でもなく、修道服でもなく──見たことのない、けれどどこか懐かしいような、不思議な服を着た子。
風を受けて揺れる長い黒髪。そして、肩に乗った、あの黒猫。
「こんにちは。……黒猫さん、あなたの?」
愛鈴がそう声をかけた時、少女はふっと微笑んで、ひとことだけ、こう名乗った。
「木幡真琴。魔女です」
春が、はじまった。
桜の花びらが風に乗って流れていく。
「じゃあ、わたしは……」
少女はほんの少しだけ胸に手を添えた。自己紹介というには、少しだけ重たい──けれど、誇らしさを内包した、そんな仕草。
「森里愛鈴。女神の、卵です」
真琴の目がわずかに見開かれる。けれど驚きは短く、すぐにあたたかな眼差しに変わった。肩のチトさんも、愛鈴の足元まで降りて、しゅるりと尻尾を巻く。
「そっか。女神……なんだね」
「まだ、ちゃんとはなれてないけど。でも、きっと──なるよ」
愛鈴の声には迷いがなかった。けれど真琴には、それがどこか、背伸びした子どもの決意のように聞こえた。
神さまの娘として、どれほどの責任と力を背負っているのか──そのすべてを知らずとも、魔女として感じるものがあった。
春の光が、ふたりの肩にやさしく落ちる。
その日から、女神の卵と魔女の旅は、ゆっくりと始まった。
「……女神の卵、かあ」
真琴がつぶやくように言うと、愛鈴はちょっとだけ胸を張ってうなずいた。
チトさんがくるりとふたりの足元を回る。どこか、導くような歩き方だった。
「それで……あなたは? どこから来たの?」
「青森。こっちには修行でしばらくのあいだね」
「修行?」
「うん。魔女の家って代々“ひとり旅”を通過儀礼にしてて……それで、猫実に滞在してるの。ここの空気、ちょっと不思議なんだよね。気がすうっとする」
愛鈴は一瞬、言葉を詰まらせた。だって、それ──とても“近い”から。
「うん。そうかも。あたしは慣れちゃったけど」
「住んでるの?」
「うん。他力本願寺ってお寺の中。家族と一緒に。学校も、この近く」
「あ、わたしも今日から学校なんだ。聖神学園ってとこに編入して──」
「…………えっ?」
ぴたり、と愛鈴が足を止めた。目を丸くする。
「いま、なんて?」
「え? 聖神学園っていう──」
「そこ、うちの学校!」
真琴の言葉に、愛鈴は信じられないという顔でぐっと距離を詰めた。
「ほんとに? 高校の方?」
「うん、高等部の編入生ってことで……」
「うちってね、ほんっとに編入試験、めちゃくちゃ厳しいの。普通の成績良くてもダメって先生も言ってたし、セントパッドで基礎から出題されるし、推薦枠もほとんどないし──」
畳みかけるようにまくし立てながら、愛鈴は目を輝かせていた。
「……へえ。なんか、歓迎されてる感じ」
「それは……まあ、ちょっとあるかも。うち、外から来る人って貴重だから。で、専攻とかは? 学部っていうか」
「特別枠って聞いてるけど……ちゃんと通えるようにって、魔女協会が手配してくれてるの。だから、普通の授業も受けるよ。今日、午後に顔出す予定で」
「午後から……! じゃあ、午前中だけでも案内するよ!」
いつの間にか、ふたりの距離はぐっと近くなっていた。
黒猫のチトさんが、ふたりの影を横切るように一歩前に進む。
「ねえ、ちょっと寄り道してもいい?」
愛鈴がそう言うと、真琴は笑ってうなずいた。
「うん、ついていく」
神さまの娘と、魔女の旅人。
ふたつの世界の卵たちが、猫実市という小さな舞台で──はじめて肩を並べた瞬間だった。
聖神学園の校門をくぐると、春の陽射しがすっと遮られて、ゆるやかな影が生まれた。校舎まで続く石畳の並木道。その先で、制服姿の生徒たちが朝のざわめきを交わしている。
「……ほんとに、来ちゃったんだね」
愛鈴がポツリと漏らす。
真琴は肩のチトさんを撫でながら、感慨深げに頷いた。
「うん。制服も受け取ったし、今日からここでがんばるよ」
「信じられないなぁ……転入生って言っても、ふつうは資料の登録やら初期設定やらで、しばらく来れないのに……」
「いや、それはもう……全部済ませてあるよ」
そう言いながら、真琴は鞄から一台の端末を取り出した。
学校指定の《セントパッド》。聖神学園では授業・生活すべてがこれ一台に統合されている学習用AI端末だ。学年別にロックがかかっており、初期設定からアカウント認証まで、通常なら1週間以上かかる。
「え、ちょ、まって……」
愛鈴が思わずのぞきこむ前で、真琴は端末を起動。軽やかな音とともに、淡く光るインターフェースが浮かび上がる。彼女の指先が数回スワイプしただけで、授業用メニューが表示されていった。
「今日の予定、こんな感じみたい。午前中はホームルームと個別面談、午後から本格的に合流って──あ、英語と数学あるね」
「……まさか、ここまで操作できるとは思ってなかった……」
愛鈴は、セントパッドを「うまく使えない高等部の先輩」を何人も見てきた。
真琴の指の動きは、それらとまるで違っていた。まるで長年使ってきたかのように、迷いも遅れもない。
「ちょっと貸してもらっても、いい?」
「うん、どうぞ」
真琴が端末を愛鈴に渡す──と、そこでチトさんがひょいっと画面の上に飛び乗った。
「ちょ、チトさん!? 触っちゃ──」
だが、その瞬間。
セントパッドの画面が、自動的に「数学アプリ」に切り替わった。
その中に、関数グラフの描写画面。まさかと思って見守る愛鈴の前で、チトさんは肉球でy = x2 + 2x + 1と入力。
数秒後、なめらかな放物線が画面に描き出された。
「──え、えぇぇぇ!?」
愛鈴が叫ぶ。周囲の登校生が振り返るほどの驚きだった。
「チトさん、関数……解いた!? グラフ化まで!?」
「うん、この子、数字に強いんだよ。あと、パッドみたいな静電タッチ系は得意」
真琴はあくまで平然としている。
その様子に、愛鈴は額に手を当ててため息をついた。
「……あーもう、これは私の負けかも……」
「なにに勝負してたの?」
「いや、なんかこう……“都会の女神としての威厳”とか……」
「女神って、そういう勝負するんだ?」
ふたりは目を見合わせ──そして、吹き出した。
セントパッドの画面には、チトさんが追加で入力したらしいy = sin(x)のグラフが、なめらかな波を描いていた。
「……流石に、私はここまでだね」
正門前の分岐で足を止めながら、愛鈴が少し残念そうに言った。
その先、左手に見えるのは高等部校舎──聖神学園のなかでも特に立ち入り制限が厳しい区画だ。小学生の立ち入りは、特別な許可がないかぎり認められていない。
「そっか……そうなんだ」
真琴が名残惜しげに立ち止まる。肩のチトさんがぴょん、と彼女の頭に飛び乗った。
「うん。ちょっとだけ名残惜しいけど、また会えるし」
そう言って笑う愛鈴の姿は、ほんの少しだけ誇らしげだった。まるで、ここまで案内できたことが、何かの役目を果たせたかのように。
「また、放課後にでも。図書館、案内するよ。紙の本、いろいろあるし」
「うん、楽しみにしてる」
そこに──きれいな長方形の影が足元に伸びた。
「君が、木幡真琴さんだね?」
優しいが通る声。振り向くと、黒のジャケットに身を包んだ教員が、すぐそばまで来ていた。
「月岡藤吾です。きみの担任になる」
月岡はスリムで落ち着いた印象の男性だった。細身のフレーム眼鏡と整えられた口ひげが、妙に“教壇”に似合っている。
セントパッドで確認していたらしく、真琴に軽くうなずくと、愛鈴にも目をやった。
「こちらは?」
「森里愛鈴さん。小学部の生徒で──お友達だそうです。なるほど、校門まで付き添ってくれていたのかな?」
「はい」
愛鈴が小さく頭を下げると、月岡も静かに笑って返した。
「じゃあ、ここからは私が案内するよ。真琴さん、こっちへ」
「はい、お願いします」
別れ際、愛鈴がチトさんの頭を軽く撫でた。
「じゃ、いってらっしゃい、“高等部の転入生”さん」
「ありがとう、“女神の案内役”さん」
ふたりはそれぞれの道を歩き出した。
ほんのわずかな時間の出会いだったけれど、その響きは、心に小さな残光を残していた。
* * *
高等部の教室。春の空気がまだ新しく、窓から射す陽が床に長く落ちている。
教壇に立った月岡が、やや気だるげに教室内を見渡しながら、簡潔に告げた。
「転入生を紹介する。きみ、入って」
真琴が教室のドアを開けると、生徒たちの視線が一斉に向いた。
ざわ……という小さなさざ波のような反応が、教室内を流れる。
制服は間に合っていた。きちんと整えられた前髪、落ち着いた黒髪。どこか空気が柔らかく、けれど不思議と目を引く雰囲気をまとっていた。
「木幡真琴です。……出身は横浜です。青森には、ちょっと修行で行ってました」
一瞬の沈黙。そして、数人のクスッという笑い。だが真琴は動じず、きちんとお辞儀をした。
「うちのクラスは、名前のクセが強い奴が多いけど、ま、すぐ慣れるよ」
月岡が補足のように言うと、最後列の女子が立ち上がって一礼した。
「如月蜜樹(きさらぎ・みつき)、学級委員です。席はこちら──わたしの隣、空いてますので」
スカートのすそを払って、すっと腰を下ろす所作には、どこか舞台俳優のような気品があった。
真琴が視線を向けると、蜜樹は小さく微笑んで──言った。
「ようこそ、猫実市へ。転入生の木幡さん。……隣、歓迎するわよ」
席についてしばらく、最初のチャイムが鳴るまでのわずかな時間。
クラスのざわめきの中、隣からふっと、やや乾いた声が聞こえた。
「ねえ、木幡さん」
「はい?」
「“修行”って……何の?」
その問いは唐突だったが、声にとげはなかった。どこか“様子見”の距離感を保ったまま、相手の正体を測るような、そんな響き。
蜜樹の瞳は琥珀色──じっと真琴を見据えていた。
「魔女の、です」
即答だった。迷いのない声。
「……魔女、の?」
「はい」
蜜樹は一度、まばたきして、それからふぅっとため息をついた。
「なるほど。あなたの頭のなか、ファンタジー系ってことね?」
「あっ、違います。ちゃんと現実に“いる”んですよ、魔女って。隠れて暮らしてますけど」
言葉を選ぶでもなく、真琴は自然体だった。軽口でも嘘でもない。まるで「昨日の晩ごはん、カレーでした」くらいの感覚で、魔女であることを口にしていた。
蜜樹はそんな彼女の態度に、わずかに眉をひそめた。
「……へぇ。なら、空でも飛んで見せてくれるの?」
「いいですよ」
即答。
「……えっ」
ぽかん、とする蜜樹の横で、真琴はすっと立ち上がった。そして一言。
「じゃ、これ……お借りしますね」
教室の隅、掃除用具のロッカー。モップやバケツに並んで置かれていた、一本の古ぼけた竹箒。
真琴はそれを手に取ると、何の躊躇もなく窓辺へと歩いた。
「ちょ、ちょっと木幡さん!? それ、ダメじゃ──」
誰かの叫びを背に、真琴は窓を開けた。
春の風が吹き込み、カーテンがふわりと舞う。
「チトさん、乗る?」
「にゃ」
黒猫が肩に飛び乗った。
次の瞬間、真琴の足がふわりと床を離れた。
「……え?」
ざわり、とクラス中の空気が震えた。
真琴は何の前振りもなく、箒をまたいで窓の外へ──飛んだ。
高さ三階、校庭の向こうへゆるやかに弧を描きながら、春風にのって旋回する。まるで鳥のように軽やかに、そして見惚れるほど静かに。
蜜樹はただ、呆然と立ち尽くしていた。
「……飛んでる……本当に……」
窓際に集まっていた生徒たちが、口々にざわつき始める。
「え、何あれ! 魔法?」
「CG? ドローン!?」
「いや、生で見てるって!」
数分後。
真琴は静かに窓から戻ってきた。何事もなかったかのように、箒をロッカーに戻し、席に座る。
「ありがとうございます。お借りしました」
「……」
蜜樹はなにも言えず、目をぱちぱちさせるばかりだった。
ただ、その顔には──信じてしまった、という色が、隠せずに滲んでいた。
昼休み。騒ぎは当然、職員室にも届いていた。
「月岡先生、ちょっと来てくれ」
呼ばれたのは、教頭だった。
すでに教員の何人かがスマホで「魔女飛行動画」らしきブレブレの映像を見せ合っており、「え、これCGじゃないの?」「箒、マジで?」と顔を寄せ合っていた。
当の担任、月岡藤吾はというと──特に動じた様子もなく、湯呑を片手にいつものペースで立ち上がった。
「……ふむ。やはり、飛んだのか」
「知ってたんですか?」
教頭の問いに、月岡は頷いた。
「知ってたとも。配属前の資料に“注意点”として書かれていたよ。『彼女は魔女であり、一定の魔術行使能力を有していますが、いかなる場合も法的問題は生じません』ってね」
「いやいや、法的じゃなくて“物理”的に問題でしょそれ!」
「まあまあ」
そう言って月岡は眼鏡を上げた。
やがて、上層からの通達が下りる。──学長面談。
* * *
校長室。
机の奥には、猫実学園創立から数えて三代目の学長・野村天外が椅子に腰かけていた。背筋はまっすぐ、年齢不詳の老紳士。
彼は静かに、目の前のセントパッドに映された動画を再生していた。
映っているのは、春の空をゆったり飛ぶ少女と黒猫──そして、箒。
「……実に優雅だ」
「問題ないのでしょうか、学長」
教頭が尋ねる。
天外はうなずく。
「うん、問題ない。個性みたいなものだよ。わたしの若い頃にもね、スケボーで登校する生徒や、勝手に畑耕してた園芸少年もいたものだ。空を飛ぶくらい、可愛いもんだろう?」
「いやいや、“可愛い”で済ませていい話では──」
「月岡先生、君の見解は?」
話を振られた月岡は、落ち着いた声で答えた。
「彼女は危険な存在ではありません。魔女であることを隠す気もないし、それをひけらかすつもりもない。ただ、必要とあらば飛ぶ。それだけです」
「ふむ」
天外は、机上の紙をトントンと揃えてから、こう結んだ。
「では、特別措置として“校内では飛行を慎むこと”を伝えておいてください。ただし、放課後や学園敷地外での飛行については規制しない。彼女の個性を尊重しましょう。聖神学園は、そういう学校です」
* * *
その日の放課後、月岡は真琴を職員室に呼んだ。
彼は特に咎める様子もなく、あくまで“伝えるだけ”という口調で告げた。
「飛んでくれたのは、まあ、助かったよ」
「……はい?」
「クラスにインパクトを与えるには十分だった。いい意味で“非現実”を許容させるきっかけになった。うちの生徒には、少しそういう刺激も必要だからね」
「それって……怒ってないんですか?」
「怒る必要はない。ただ、校内での飛行は今後なるべく控えるように。あと、可能であれば“もう少し着地のときにスカートを抑える習慣”を」
「……は、はいっ」
チトさんが机の下で「にゃ」と鳴いた。
月岡はくすりと笑って、机の引き出しからチュールを取り出した。
「これでもう、君は正式に“受け入れられた”ことになる。ようこそ、真琴くん。聖神学園へ」
「……で、本当に空飛べるんだ」
月曜日の放課後。
校舎裏の芝生に、真琴はいつものローブ姿で座っていた。
そしてその正面、やや距離を置いて体育座りをしているのが──如月蜜樹だった。
「うん。見たでしょ?」
「うん……でも、さ……。あれ、テレビのトリックとかじゃなくて?」
「セントパッドに記録されてるよ。校舎上空の風向き、気圧、あと気象センサー全部反応してた」
蜜樹は、自分のパッドを開いて確認しながらぼそりとつぶやく。
「科学的に説明できない、ってことが逆に腹立つわ……」
真琴はそれを聞いて、少しだけ笑った。
「じゃあ、私のローブも見る? この間、愛鈴ちゃんにあげたやつの色違い」
「……なんで“ファイルを見る?”みたいなノリで“ローブ見る?”って言えるの……?」
「だって、あなたが見たいかどうか知りたかったから」
「…………」
蜜樹はしばらく固まって、それからポケットからチョコを取り出して口に放り込んだ。
「……見てもいいけどさ。どうせならちゃんと着てみせなさいよ。ファッションチェック的な」
「ふふ、それなら任せて」
真琴は芝生の上で立ち上がり、
ローブをひるがえすようにして一回転してみせた。
風がふわりと揺れ、朱に近い深紅の布が陽に透ける。
「どう? 青森の手仕事で仕立てたんだよ」
蜜樹は、思わず口元に手をあてる。
「……悔しいけど、似合ってるわ。てか、なんでこういうのを堂々と着れるのよ。わたしが着たら“あいつ何かのサークルか?”ってなるのに」
「蜜樹ちゃんにも似合うと思うけどな。……ね、少しだけ信じてきた?」
「……なにを?」
「魔女って、生きてるんだよ。──この世界に」
蜜樹は、少しだけ視線をそらして、
遠くの校舎を見た。
「……“いるかもしれない”とは思ってた。でも、“クラスにいる”とは思ってなかった。それだけよ」
それは彼女なりの“認めた”という言葉。
真琴はにっこり笑いながら、
肩にチトを呼び寄せた。
チトさんは「にゃ」と鳴き、蜜樹の膝にすとんと飛び乗る。
「きゃっ、ちょ……なに!? なにこの猫……重い、温かい、なにこれっ」
「それ、魔女の相棒だよ」
「相棒とか言うな、ちょっとくすぐった……! ……っふふ、あーもうっ……」
蜜樹の肩が少しだけ震えた。
笑ってるのか、照れてるのか、それとも……まだ信じきれないのか。
でも。
その横顔は、少しだけやわらかくなっていた。
「……なんか、あったかい」
チトさんは、蜜樹の膝で満足そうに丸くなり、喉を鳴らしていた。
蜜樹は少し緊張気味に背を伸ばしながら、その重さとぬくもりに戸惑っていた。
「……生きてる猫、なんだよね?」
「うん、たぶん」
「“たぶん”ってなに」
真琴が笑いながら返したそのとき──
ばさっ。
「ちょっ!? こらぁああぁぁ!!!」
チトが、蜜樹の鞄の中に突っ込んだ。
前足で器用にファスナーを開け、ファイルを引っ張り出して、
おまけにプリントまでバリバリに引っかいてしまった。
「やめて! そこ、次のテストのまとめノート!!」
「にゃ」
「“にゃ”じゃないッッッ!!」
あわててプリントを奪い返す蜜樹。
でも、ページの端はヨレて、インクがにじみ、一部は爪で破られていた。
「……最悪」
ぽつりと、蜜樹が言う。
その表情は、怒ってるというより、泣きそうだった。
「……待って。治すよ、魔法で」
真琴が手をかざそうとした、その瞬間。
「魔法に頼るな!」
蜜樹が、ピシャリと制した。
「……は?」
「そーいうの、あんたはいいかもしれないけど、わたしにとっては“ミスったら赤点”なやつなの!」
空気が、ふっと止まる。
真琴の手は宙に浮いたまま。
けれど、やがてゆっくりと下ろされた。
「……それも、正論だね」
苦笑まじりに、真琴は言った。
「魔法って、便利なんだけど……“やらなくてよくなる”と、“考えなくなる”のと紙一重なんだよね」
「そう。“ずる”になるの。あたしにとっては」
蜜樹が、ぎゅっとくしゃくしゃのプリントを抱き直す。
真琴は少しだけ寂しそうに微笑み、代わりにティッシュを出して差し出した。
「これでちょっと拭いて。それで……一緒に清書、手伝うね」
「……あんたの字、キレイじゃなかったら殴る」
「頑張るよ。……“魔法じゃなくて”、ね」
そして──ふたりは並んで、くしゃくしゃになったプリントを机の上に並べた。
膝の上ではチトが、知らん顔でぐうぐうと眠っていた。
「……終わった」
蜜樹はペンを机に置き、軽く背を伸ばした。
チトさんは既に自分の膝から真琴の肩へ移動し、満足そうに丸くなっている。
真琴は、少しにやけた顔で完成したプリントを眺めていた。
「キレイに書けたね。文字も、うん、合格点」
「……あんたに言われたくないけど」
蜜樹は小さく鼻を鳴らして、横目でちらりと真琴を見る。
「……ま、ありがと。とは言わないけど」
「うん」
「別に手伝ってくれて嬉しいとか、そういうんじゃないからね?」
「うん」
「……“あんたがいなきゃ困ってた”とか、そういうのもないから」
「うん。わかってるよ」
真琴はにこにこと笑った。
蜜樹はぷいとそっぽを向く。
「……だから、お礼とか言わないからね。絶対」
「うん、言わなくていい。ちゃんと伝わってるし」
真琴のその一言に、蜜樹の肩が一瞬だけぴくりと動いた。
「……なんでそういうことサラッと言うかな。魔法とかよりそっちのがタチ悪いよ」
「えー、褒められてる? 今のって褒められてる?」
「褒めてない!」
けれど、その声には怒りの色はなく、──むしろ少し、照れくさそうなあたたかさが混じっていた。
放課後の図書館。
放課後の鐘が鳴ってもなお、本のページをめくる音だけが静かに響く場所。陽はすでに西へ傾き、窓の向こうでは猫実市の空が淡く朱に染まりはじめていた。
「──いた!」
駆け込んできた声に、真琴が顔を上げる。
振り返れば、セーラー服姿の愛鈴が息を弾ませてこちらへ走ってきていた。肩にかかるポニーテールが、小さく揺れている。
「真琴姉ちゃん、そら飛んだって?!」
開口一番、それだった。
愛鈴の目は期待と好奇心で爛々と輝いていて、真琴はちょっとだけ肩をすくめて苦笑した。
「うん、まあ……ちょっと飛んじゃった」
「すごすぎでしょ! 私、クラスの子に言われたもん、“あんたの友達マジで魔法使い?”って!」
「魔法使いじゃないよ。魔女です」
「ちがうの?」
「……似てるけど、ちがうの」
説明する暇もなく、愛鈴はすとんと真琴の隣に腰を下ろした。
図書館の長机。チトさんがその上で丸くなりながら、静かに尾を巻く。
「でも、問題になったりしなかったの?」
「ううん。お咎めなし。むしろ“個性みたいなもん”って、校長先生が」
「うわぁ……うちらしいね、そういうとこ」
愛鈴が、どこか満足げにうなずく。
彼女の中で“聖神学園”という場所は、既に“変わった子も受け入れる場所”として定義されていた。それを、真琴が体現してくれたことが、妙に誇らしかった。
「でもまあ……そのうちもっとすごいのが来るかもよ?」
「えっ?」
真琴は、背後の書棚に視線を滑らせながら、軽く肩を揺らして言った。
「たとえば──頭に角生やした、ドラゴンとのハーフとか」
「角!?」
愛鈴が目を丸くする。
「うん。そういう子もね、いるんだよ。どこかに。火を吹いたり、雷を落としたり、時には毒を撒いたりもする」
「まって、それ完全に災害じゃん……!」
「でも、たぶん本人は、わりと普通の女の子だったりして」
愛鈴は、一瞬だけ空想した。
制服を着た、頭に小さな角を生やした少女。
笑っていても、心の奥に何か強いものを抱えているような──そんな誰か。
「……もし来たら、仲良くできるかな」
「できるよ、きっと。だってあなたは、“女神”だもの」
ふと、真琴の声が少しだけ柔らかくなった。
愛鈴は照れくさそうに頬をかき、視線をそらす。
「それ、ずるい。こっちはまだ“卵”なんだよ?」
「じゃあ、わたしは“ひとり旅中のヒヨコ”ってことで」
ふたりは笑い合った。
その笑いの中に、まだ見ぬ“異なる存在”をも受け入れていける──そんな強さが、確かにあった。
図書館の時計が、ゆっくりと時を刻む。
この世界には、まだまだ知らないことが山ほどある。けれど、こうして誰かと出会い、言葉を交わし、驚いて、笑って──その積み重ねこそが、きっと“なる”ということ。
女神の卵と、旅する魔女。
その夕暮れの図書室には、世界が広がっていく音が、確かに満ちていた。
* * *
風が止んだ瞬間だった。
小さな手のひらからあふれた光は、ほんの指先でとどまるはずだった。
だがその輝きは一瞬にして拡がり、空気を裂き、庭木の一本を焼き焦がした。
「……やっぱり、まだコントロールできてない……」
ひざをついた愛鈴の顔に、焦げた風の熱がふれる。
吐きそうになるくらい、怖かった。力の暴走。それは彼女にとって、あの“幼き記憶”を引きずり出す呪いでもある。
――父を、殺しかけた記憶。
もう繰り返したくない。
けれど、思うようにならない力は、まるで自分の中に棲む獣のように暴れていた。
その夜、森里家では静かに“家族会議”が開かれた。
円卓には、父・螢一、母・ベルダンディー、そしてウルドとスクルドの姿があった。
「このままじゃ、あの子の力が……無意識のうちに誰かを傷つけるわ」
ベルダンディーの声は、限りなく静かだった。
しかし、その奥にあったのは女神としての“覚悟”の重みだった。
「方法は二つある」
ウルドが指を二本、卓上に立てる。「ひとつは、力を封印する。しばらくの間、抑えて安全に育てる」
「そして、もうひとつは?」
「教えるのよ。神の力の“重さ”と“使い方”を。――あの子自身に、武を選ばせるの」
部屋の空気がぴんと張りつめた。
誰もが、それが簡単な道ではないことを知っていた。
「でも……まだ八歳だぞ」
螢一の声が低く落ちる。「あいつには、まだ“戦う”なんて重すぎる」
「戦うためじゃない」
スクルドが口を開いた。「制御するため。“力は制御してこそ力”。姉さんがあの子にそう刻んだんでしょ?」
沈黙。
「……候補は?」
ウルドが腕を組みながら、ふたりの妹を見た。
「わたしがついて訓練させてもいいけど、たぶん“相性”が悪いわ。あの子、無理して笑うもの。私の前じゃ」
「わたしでもいいけど……“自分の力を壊さないように”教えるのは得意じゃない」
スクルドが悔しげに眉を寄せる。
彼女の言葉は、技術者としての自負の裏返しだった。
「戦術師のバーナム」は?
「あいつロリコンだよ」
スクルドにウルドが受け答える。
「なら……誰を?」
静かに沈黙が落ちた。
そのなかで、ベルダンディーは、そっと唇を開いた。
「……リンドに、お願いするしかないと思うの」
「ッ……!」
空気が変わった。
「おい、まさか……!」
「彼女なら、あの子を“壊さずに”導ける。……むしろ、“壊さずに導ける”唯一の存在かもしれない」
螢一が目を伏せる。
リンド──天上界最強の戦闘女神。その名は、幼い娘にはまだ重すぎる。
* * *
愛鈴がその名を聞いたのは、翌朝のことだった。
居間で告げられた母の言葉に、愛鈴は……三秒、動けなかった。
「え、ええええええっ!? リンドさん!? わたしが!?」
「うん。リンドが、あなたの“力の先生”になるの」
「む、むりむりむりむりむり……絶対怖いもん……!」
「でも、あなたが“本当に神として人を守りたい”って思うなら……逃げちゃいけない相手よ」
ベルダンディーの目を見て、愛鈴はすぐに悟った。
これが“決まってしまったこと”であることを。
「え、無理無理無理無理!」
「でも貴方を導けるの彼女しかいないと思うの」
「……えらいことになった……」
小さな声で、愛鈴はそう呟いた。
その声には、重みがあった。
恐れでも後悔でもなく──彼女の中に芽生えた、覚悟の音だった。
『リンド先生、こわいです(ちょっと)』
稽古初日。
空気はやたら張りつめていて、鳥すら鳴いていなかった。
場所は、他力本願寺の裏手にある訓練場。砂が敷かれた広場の真ん中で、愛鈴は正座していた。──緊張の極みである。
「……あの……その……今日は、どういうメニューで……」
返事はない。
リンドは立ったまま、無表情でこちらを見ていた。腕を組み、髪は風にたなびいている。
まるで時代劇のラスボスみたいだなと、愛鈴は思った。
そして、開口一番。
「──立て」
「えっ、はいっ!? いきなり!?」
慌てて愛鈴は立ち上がる。膝がちょっとしびれていて、ふらつく。
「構えろ」
「……えっ!? えっ!? なに構えですか!? なにが来るの!? 説明は!? 事前資料とか──!?」
「甘えるな」
「説明もナシィィィィ!? 」
とりあえず、以前見たことのある“基本の構え”っぽいものをとってみる。膝を曲げ、手を開いて前へ──微妙にプルプルしている。
「……ふむ。ひよこ以下」
「そこは卵って言ってくださいよ!?」
風が吹く。砂が舞う。
リンドは無言で愛鈴の正面に立ち、すっ……と足を出した。
「ちょ、ちょっと待っ──」
その瞬間、視界が回転した。
地面が近い。冷たい。いたい。
「……え、いま、なにが……?」
「今のは“見えた”か?」
「見えませんでした……秒で投げられました……」
「なら、次は“感じろ”」
「説明は!?」
立ち上がりながら、愛鈴は心の中で叫んだ。
そしてまた、「立て」の一言。
その日、リンドが愛鈴に発した言葉は、全部で五つだけだった。
「立て」
「構えろ」
「感じろ」
「甘えるな」
「終わりだ」
それ以外、全部無言。
夕暮れ。体じゅう砂だらけで帰ってきた愛鈴を見て、C2は「すごい、昭和の部活漫画みたいですね」とコメントしたという。
そんなこんなでこれを2ヶ月。ふつうの女の子ならとうに肉体的にもメンタル的にもボキボキに折れているはず。
「──父さん、聞いてよ……」
夜の縁側。
虫の声がかすかに響き、風鈴が一度だけ鳴った。
愛鈴は麦茶を片手に、もたれるように螢一の隣に腰を下ろした。
まだ稽古着のまま。膝には汗の跡が残っている。
「今日さ、また言われたの。“立て”って。転んだら“立て”、倒されたら“立て”、疲れたら──やっぱり“立て”」
「……うん」
螢一はうなずいて、グラスの中の氷をゆっくり回す。
「もう、なんなのって思わない? 別に反省の時間くらいくれてもいいのに」
「でも、立ったんだろ?」
「……うん」
愛鈴は、ちょっとムッとしながら頷く。
「だって立たないと、“やり直し”って顔されるんだもん。あの先生。怖いよもう」
螢一はふっと笑って、夜空を見上げた。
「愛鈴。戦場ってね、“立ってる人”しか、未来を決められないんだよ」
「え?」
「倒れてる人は、そこで終わる。動けない。でも立ってる人は、まだ“やれる”。次の一手を、自分で選べるんだ。」
愛鈴は、麦茶をぐっと飲み干した。
目を伏せたまま、ぽつりと。
「ねえ……わたし、戦いたくて剣やってるわけじゃないのに」
「うん。父さんもそう思ってるよ。でも、たぶんリンド先生は、“戦うこと”だけ教えてるわけじゃない」
「……?」
「“立ち続けること”。たぶんそれが、リンド先生の教えなんだろうな。どんな状況でも、“終わらせない”勇気。そして背負うんだよ。背中の向こうの命を」
愛鈴は、しばらく黙っていた。
ふと目の奥がざわめいた。
──それは、いつかどこかで見た映像だった。
レースだった。
サーキットを猛スピードで駆けるバイク。
コーナーを攻めた瞬間、バランスを崩して……倒れた。
マシンは滑り、ライダーは弾かれるように砂利の上へと転がった。
観客が一斉に息を呑む。
けれど──
その男は、立ち上がった。
肩で息をしながら、
ヘルメットの中に血がにじんでいても、
すぐにマシンのほうへ向かった。
「……まだ走れるか?」
メカニックが駆け寄ると、彼はそう尋ねた。
それが、戦場だ。
倒れて、立って、また走る。
ゴールが遠くても、次のコーナーまででも。
──あれ、父さんだったんだ。
思い出す。
あの映像は、父・螢一の若い頃のレース。
家の古い映像記録で見た記憶。
母と二人で見ながら、「ここで立ったんだよ」と言っていた。
(そうか)
愛鈴の胸の奥で、なにかが“ひとつ”になった。
戦うだけじゃない。勝つためでもない。
“走りたいから立つ”。
“その先が見たいから立つ”。
“背中の向こうの命のために立つ”
リンドの教え。父の背中。
わたしは、どちらの道も、きっと歩いている。
そして、ぽつんと。
「ねぇ、父さん」
「ん?」
「立つのって、つらいね」
「……うん。でも──」
螢一は、隣に座る娘の髪を優しく撫でた。
「それでも立つ人を、父さんはカッコいいと思うよ」
愛鈴は、ちょっとだけ笑った。
「ずるいな、父さん。……よし、明日は文句言いながら、また立つ」
翌朝、訓練場。
風がやさしい朝だった。
稽古場へ向かう砂利道には、まだ陽が差しきっていない。
でもその冷たさが、今日は少し気持ちよかった。
朝露の残る砂地を、パタパタと駆けてくる足音が一つ。
(……変わったわけじゃない)
愛鈴は思う。
剣が重くなくなったわけでもないし、リンドが優しくなったわけでもない。
でも、歩いている足は、昨日より軽かった。
“父さん、聞いてよ”と愚痴をこぼした夜。
「戦場では立ってる人にしか、未来は渡されないんだよ」
──その言葉が、胸のどこかに、温かく残っている。
(わたし、まだ何にもわかってない。でも、少なくとも……“わかろうとしてる”)
その気持ちだけは、自分で誇れる気がした。
そこへ、音もなく現れるひとつの影。
「……来たか」
リンドだった。
今日も変わらず無表情。相変わらず風に髪をなびかせ、物陰から出てくる登場タイミングは怖いくらい完璧だった。
その姿はいつも通り、微動だにせず、背筋が空に向かって伸びていた。
けれど、こちらに目を向けた瞬間──
「は、はいっ! 本日もよろしくお願いしますッ!」
元気よく頭を下げる声が、凛とした朝の空気を切り裂いた。
そこには、前日あれだけ投げられ、転がされ、砂まみれになったにもかかわらず──
まっすぐに立つ、森里愛鈴の姿があった。
(すっごい筋肉痛だけど……痛いのは、ちゃんと“動いた”証拠だし……!)
愛鈴は、ぐっと拳を握った。
(あとちょっと背中に砂が残ってる気がするけど……これはもう気にしない……!今日こそ……“立て”って言われる前に、立っててやるんだから!)
が、それは通用しなかった。
「構えろ」
「即本番ーーっ!!?」
もはや“挨拶”など存在しないらしい。
でも。
昨日と違うのは──投げられても、すぐに立ち上がれたこと。
動きながら、リンドの視線の先を少し“読めた”こと。
そしてなにより──
「……ふむ。昨日より、ひとつだけマシになったな」
ぽつりと、リンドが言った。
「…………えっ?」
「“立て”と言わずとも、立っていた。それだけで充分だ……なんだ。今日はやけに顔がすっきりしてるな」
そう言われた。
驚いた。
昨日までなら“立て”しか言わなかったその人が、そんなふうに“顔”を見るなんて。
「……いい夢でも見たか?」
「いいえ。父さんと話しただけです」
言いながら、自分でも不思議なくらい、すんなり声が出た。
嘘じゃないし、照れくさくもない。
“言っていいこと”だと思えた。
リンドの目がわずかに細くなる。
そして、口の端が少しだけ持ち上がった気がした。
「──なるほど。ベルダンディーではなく、螢一か」
(……見抜かれてる)
でも、嫌じゃなかった。
だから、わたしは一歩、前に出た。
「で、どうするんですか? 今日も“立て”って言います?」
「ふ……」
リンドが笑った。
「言う前に立てるなら、上出来だ。……今日の稽古、少しばかり“先”を見せてやる」
ぞくりと背筋が震えた。
でも、それは恐怖じゃない。
(──来る。でも、わたしはもう、倒れるつもりじゃない)
剣を握る。ローブが、風に揺れる。
視線の先に立つリンドは、いつも通りの静かな構えだった。
だけど、その空気の中で、たしかに思った。
(“立つ”だけじゃ足りない“進む”剣を……持つ)
「明日も来い。ひとつ“覚え”たなら、次の“段”に進む」
(……いま、ちゃんと褒められた!?)
無表情のくせに、絶妙に上からで、けどちゃんと内容がある。
「マシ」って単語だけで、なんかもう嬉しくなってくるのはどういう罠なのか。
「……は、はいっ! もちろん来ます! 明日も、その次も!」
愛鈴はぴしっと礼をした。
リンドは「ふむ」と短くだけ返すと、風のように背を向けた。
その背中は──なんだか、ちょっとだけ柔らかく見えた。
訓練1ヶ月目の午後、稽古が終わった後の静かな境内。
風に木々がざわめき、稽古場の砂に落ちる光が、やけに柔らかかった。
「リンド」
声をかけたのは、ベルダンディーだった。
リンドはちょうど稽古場の掃き清めを終えたところだったが、その声を聞いた瞬間、動きを止めた。
そして振り向き、きちんと姿勢を正した。
「何か……クレームか?」
「いえ。ありがとうございます。愛鈴があなたを“先生”と呼びたがっている……それだけで、どれだけ信頼しているか、伝わってきます」
「……それは光栄だな」
リンドの表情は相変わらずだったが、瞳の奥にほんのわずか、熱が宿ったようにも見えた。
だが──ベルダンディーの声には、少しだけためらいがあった。
「ただ……ひとつだけ、お願いがあります」
リンドは静かに耳を傾ける。
「愛鈴は、まだ学生です。日々の授業があって、友だちとの時間があって、無駄なおしゃべりや、寄り道や、お菓子の取り合いがあって……それも、全部、彼女の“今”なんです」
ベルダンディーは微笑んでいた。
けれど、その眼差しには強い想いが宿っていた。
「その“今”は──生涯で、たった一度だけしかない。だから……お願いです。彼女の時間を、“武の道”だけに染めすぎないであげてください」
リンドは少しだけ目を伏せた。そして、短く問い返す。
「私は君の女神としての願いを聞いて武の道を教えている。それは……母としての願いか?」
「ええ。そして、母としての祈りでもあります」
少しの間、沈黙が流れた。
やがて、リンドはふっと息をついた。
「了解した。一日の稽古時間は、二時間までとする」
「ありがとうございます」
「……もっとも、内容によっては“実質的にはもう少し長くなる”こともあるかもしれんが」
「ええ、そのくらいは覚悟してます。あなたですから」
ふたりは微笑み合った。
戦神と慈母。対照的なふたりが、ひとつの目的のもとに並び立つ、その一瞬。
「ですが……“訓練だけでは育たぬ”という言葉、心に刻みる」
「ありがとう、リンド」
ベルダンディーは、風のように去っていった。
その背中を見送りながら、リンドはほんの少しだけ、砂に指で線を引く。
それは、愛鈴の歩くべき「道」を示す、まだ見えない輪郭のようだった。
朝の境内は、澄んだ空気と鳥の声だけが支配していた。日課となった瞑想と準備運動を終えた後、リンドがふいに構えた木剣をゆっくりと下ろした。
「……今日から、“型”に入る」
その言葉に、愛鈴はわずかに息をのんだ。
長かった“立て”の時期を越えて、ようやく「動き」が始まるのだ。
リンドは、直立したまま続ける。
「型は、基本的には二つに大別される。“柔”と“剛”だ」
その語り口に感情は薄い。けれど、そこに込められた厳しさと真剣さは、確かに響いてくる。
「“剛”は力を断ち、打ち、制する技。“柔”は流し、いなし、返す技。本来、型は体格や筋力、霊格によって適性が分かれるが――」
そこで、リンドはちらりと愛鈴を見た。
「――いまのお前の体格と筋量では、“剛”はまだ無理だ。骨が砕ける前に、技が通らない」
愛鈴は思わず肩をすくめた。自分でもわかっていたが、はっきり言われると地味に痛い。
「だから、“柔”から学んでもらう。払う、流す、崩す。――相手の力で、相手を倒す」
語るリンドの姿は変わらず静かだが、その眼差しには、どこか“入り口に立つ者”を見る温かさが潜んでいた。
「だが……簡単にできると思うな」
ぴたりと空気が張り詰めた。
言葉の余白が、教えの重みを際立たせる。
「“柔”は、“剛”を知って初めて成る。力の流れ、心の呼吸、そして“自分を通さない”覚悟が必要だ」
愛鈴は、そっと唾を飲み込み、静かにうなずいた。
「はい。……教えてください、師匠」
風が一筋、木立を揺らした。
リンドは構えを取った。
その動きは、水のように滑らかで、まるで斬撃の気配を含まない。
「では、まずは“払う”からだ。構えろ――“力を受け流す器”として、立つんだ」
“力を通さず、壊さず、返す”。
それは、女神として、人として、“誰かを守る者”が初めて学ぶ技だった。
ページ上へ戻る