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ああっ女神さまっ 森里愛鈴

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12 ただのいい人じゃない

 
前書き
藤見財閥
家族構成 
父 藤見義教 引退 一代で財閥を築いた切れ者
頑固だが子供たちにはやや甘い面も 
母 春香
兄 慶次 現当主 既婚 堅実タイプ
姉 琴音 既婚 今の姓は 遠野
末妹 千尋
 

 
 これはまだ螢一とベルダンディーが結婚して間のない頃の話
 藤見千尋のアパートに一通の手紙が届いた。それから始まる。


【藤見義教から千尋への手紙】

千尋へ

春寒もようやく和らぎ、庭の梅もほころび始めた。そちらはどうだ。
風邪などひいていないか。夜はまだ冷える。身体は大事にしろ。

さて、そろそろ手紙の一つも書かねばと思い立ち、筆を取った。
店のことは人づてに耳にしている。忙しくも充実しているようだな。
あの“頑固親父”の娘にしては上出来だと、素直に感心している。
おまえが“家”から離れ、自分の手で何かを築きたいと願ったとき、私は一度だけ止めようとした。
だが今は、あのとき反対しなくてよかったと思っている。
ただな、千尋。
おまえももう、三十が近い。
“ひとりで生きていくこと”と、“誰かと支え合って生きること”は、まったく別の道だ。
今のおまえなら、その違いが分かるはずだと思い、ひとつ頼みごとをしたい。
昔からの友人に、ひとり息子を持つ者がいる。
彼の息子が、この春、長い国外生活を終えて帰国する。
母を早くに亡くし、苦労して育ったと聞いている。まっすぐで、不器用で、
だが目の奥に芯の通った“まなざし”がある男だと、友人は語っていた。
名は――五代雄介という。
おまえの気質に合うかどうかは分からん。ただ、悪い男ではない。
先入観なく、まずは会ってみてくれ。
写真も添えぬ。肩書も伏せる。
男の器は、数字や経歴で測れるものではないと、私は思っている。
会う日取りは、母に任せてある。
形式張る必要はない。おまえがいつものように話せる場所で構わん。
会ってから断るのなら、それでいい。
ただ、会いもしないうちに拒むのは、選ばずに諦めることと同じだ。
おまえの人生を決めるのは、いつだっておまえ自身だ。
だが、“選ぶこと”から逃げるな。
母も言っていた。
「千尋には、ちょっと変わった男のほうが合う気がする」とな。
では、あとはおまえに任せよう。
風が春を運んでくる。どうか健やかに。

                         父より

 六畳のワンルーム。雑然と散らかった工具と工具箱の隣、千尋は畳んだ手紙をテーブルに置いて、ぽつりと呟いた。
「……今どき、見合い?どうなのよそれ?」
 吐き出すように言った声は、あきれと呆れと、そして少しの笑いを含んでいた。
 湯気の消えかけたカップラーメンのふたをめくりながら、千尋は過去に付き合った“男たち”の顔を思い出す。
 一人目――大学のサークルで出会った、理屈っぽいくせに浮気がバレたら「心のスキマを埋めようとしてただけ」とか言いやがった奴。
 二人目――社会人になってからのバイク仲間。整備の腕は良かったけど、財布の中身と自分の将来についてはいつも「なんとかなるっしょ」の一言で片付けてた。
 三人目――ちょっと年上で落ち着いた雰囲気に惹かれたけど、実家暮らしのマザコンだった。「おふくろの味が一番」と言いながら、付き合い半年で母親に会わせようとしてきて即逃げた。藤見グループに食いついてきたらしい。
 どれもこれも、“まっすぐ”とは無縁な、妙に曲がって見える男たちだった。
「……まっすぐすぎる、か」
 手紙にあった父の言葉をなぞるように呟きながら、千尋は背もたれに身を預ける。
 天井を見上げて。
「どうせ、また“いい人止まり”なんじゃないの?」
 そう思いながらも――
 どこかで「それでも、少しはマシかも」と思いかけた自分がいた。
 ふと、ベッドの下から出てきた小さな工具箱を開けて、愛用のスパナを手に取る。誰かと一緒にいる未来なんて、想像したことすらなかった。けれど、ほんの少しだけ――今夜は、工具の匂いが少しだけ遠く感じた。
 婚期ねぇ…。
 我に返ってもう一度文面を読み返した。
 もう一度、声に出してみる。
「……五代雄介?」
 どこかで聞いたような気がする。でもすぐには浮かばない。寝不足か、それともラーメンのにおいで脳がバカになってるか。
「五代、五代、五代……って、あれ? なんか……」
 どっかで。
 突然、ひとつの情景が脳裏に立ち上がる。
 高速道路のインター。エンストした車の脇、雨の中、笑って差し出された手。
「“2015の技を持つ男”…!」
 跳ねるように立ち上がり、部屋の引き出しをごそごそとあさる。雑誌、タイラップ、ミラー用のパーツ、そして……
 あった。
 少しシワになった、白地の名刺。
---

 五代雄介
自称・冒険家
――2015の技を持つ男――

---
「……マジで、あのときの?」
 手紙に写真はなかった。名前だけで確信するには足りない。だけど、妙に記憶に残ってる。あの笑い方。あの目の奥の静けさ。わずか数分のやりとりだったのに、なぜかずっと脳の隅に残っていた。
「いやでも……同姓同名ってこともあるし……って、私なにドキドキしてんのよ」
 目の前の名刺をテーブルに置き、ラーメンのフタをもう一度押さえる。
 湯気の中で、千尋はふっと息をついた。
「……確かめるなら、会うのが一番だよね。会って、違ったらその場で“お断り”して、終わり。父さんだってそう言ってたし」
 そう。選ばなくていいわけじゃない。けど、選ばずに済ませることでもない。
「2015の技って、いったいなんなんだか。……ま、見せてもらおうじゃないの」
 気づけば、ラーメンの湯気は消えていた。
 でも――胸の内には、さっきまでなかった熱が、ほんの少し、灯っていた。
 次の昼、電話が鳴る。
(着信:遠野いずえ)
千尋「……出たくない」
 それでも無視すれば、あとで琴音に怒られる。方なくスマホを取って、通話ボタンを押す。
千尋「もしもし。……はい、千尋です」
いずえ(朗らかに)「まあまあ、千尋さん。お元気? お父様からお話は伺っておりますのよ」
千尋「あー、はい。読ませてもらいました」
いずえ「お父様、とても期待してらっしゃるの。あの方がそこまで仰るのは、ほんとうに珍しいことよ?」
千尋「……ありがたいことですね」
いずえ「それでね、今度の“お相手”の方だけど──とても、素敵な青年よ。物腰が柔らかくて、何より真面目。こう言ってはなんだけれど、“育ちの良さ”って、やっぱり滲み出るものよね」
千尋「へえ」
 乾いた相槌。明らかに興味のなさそうな千尋の声に、いずえが少しだけ声のトーンを落とす。
いずえ「千尋さん。わかっているのよ。あなたが“自分で決めたい人”だってこと。だけど、今回ばかりは――“会うだけでも”お願いできないかしら?」
千尋「会いますよ」
ピシッと、はっきり言った。
千尋「会いますけど、それで“付き合う”かどうかは……話してから決めます」
いずえ「もちろん、それで結構。あなたが決めることよ。でも、ほんの少しだけ……運命って、そういう“一歩”の先にあることもあるのよ」
千尋「……“運命”って言葉、簡単に使わないほうがいいですよ」
いずえ「まあ」
 ちょっとだけ笑って、通話は終わった。
 千尋はスマホを伏せ、ふぅっと息を吐く。
「運命ねぇ……だったら、“こっち”にもギアくらい選ばせてほしいもんだわ」

 藤見家本邸
「……うわ、まだこの鏡台あったんだ」
 そう呟きながら、千尋は藤見家の一室――かつて琴音と共用していた和室に立っていた。欄間から差し込む光に、部屋の空気が懐かしさと少しのよそよそしさを含んでゆれる。
 和箪笥から選ばれた一着は、薄青の絽。落ち着いた地色に小さな花文様が品良く浮かぶ。
 着付けのために呼ばれた和裁師が手早く帯を締めていく間、千尋は落ち着かない様子でうつむいていた。
 襖が控えめに開く音。
「……見合い? おまえが?」
 兄・慶次の声だった。
「なにその顔。“あの千尋がついに”みたいな目で見るのやめて」
「いや、素直に意外だっただけだ。まさか本家に戻ってまで着替えるとは思わなかったし」
「ここじゃないと、まともな衣装ないから。うちのクローゼット、ツナギと革ジャンしかないし」
「着物、似合ってるぞ」
「……それ、素で言ってる?」
「いや。たぶん母さんに言えって言われてる」
 千尋は吹き出しそうになりながらも、かろうじて息を飲み込む。帯を締められながら、肩を揺らして小さく笑った。
「兄貴はさ。見合いって、どう思う?」
「……俺は、やってよかったと思ってるよ」
「へえ。直葉義姉ちゃんとは恋愛じゃなかったの?」
「見合いだった。けど、三度目で“あ、これだな”って思えたから。……おまえも、“ただのいい人”じゃない奴が来るといいな」
 千尋の手が一瞬止まった。
「……なんでその言い方、知ってんの」
「妹が酔って電話してきたときの名言だ。“いい人ってのは無難ってことだろ?私はそういうの、もういらない”ってな」
「うわ、わたし酔うとめんどくさいな」
 慶次は「まあな」と笑って、襖を静かに閉めた。
 鏡の中には、少しだけ背筋を伸ばした自分がいた。
「車をお願い」
「畏まりました、お嬢様」
 エアコンの効いた車内。揺れも音も抑えられた高級セダンの後部座席で、千尋は帯を少しだけ緩めるように背中を浮かせた。
「……やっぱり、和服って肩凝るわ」
 小さく吐き出すように言って、窓の外に目を向ける。
 初春の光に街がぼんやりと滲んで、知らない景色に見えた。
「見合いなんて、私が一番似合わない舞台だって、わかってる」
 革ジャンとツナギでオイルにまみれてる方が性に合ってるし、
 着物なんて――生き方の逆をなぞってるような気さえした。
 でも。
 “あの名刺”を思い出してから、心のどこかがザワついている。
 五代雄介。
 あの雨の日にすれ違った男。
 “2015の技を持つ男”。自称・冒険家。
 名前だけで、人を動かすなんて、ほんとバカみたい。
「……ただの同姓同名かもって思ったくせに、期待してるとか、まじでダサい」
 目を閉じる。吐息の中で、遠野いずえの言葉が蘇る。
『あなたが決めることよ。でも、運命って、そういう“一歩”の先にあることもあるのよ』
「運命、ね」
 誰かに選ばれる人生じゃない。
 選ぶのは自分。
 会って、話して、それで“やっぱ違う”と思えば、その場で帰ってやる。
 そもそも、過去に男で失敗したって、何も減るもんじゃない。
 けど。
 もし“あの目”が、あの日と同じだったら――
 思考を振り払うように、千尋は髪をかきあげた。
 バックミラー越しに、運転手と目が合い、気まずそうに笑う。
「……なんでもない。あと何分?」
「え、ええと……10分ほどで到着いたします」
「そっか。……覚悟、決めとくか」
 まるでこれからレースに出るみたいに、千尋は手を握った。

 料亭「花乃苑」 和室 ― 見合い当日
 障子越しの光は柔らかく、檜の床に張られた薄縁が静かに空気を吸い込んでいた。外には手入れの行き届いた中庭。梅の枝が淡く色をつけ、鯉がすっと水を割る音がする。
 室内には、無駄な装飾はない。ただ、控えめに飾られた掛け軸と、朱塗りの膳がふたつ。
 それだけで、贅沢だった。
 千尋はその空間に、着慣れない絽の和服姿で座していた。
 背筋は伸ばしていても、手のひらには薄く汗がにじむ。
 けれど顔には出さない。
 なにがあっても、出さない。
 襖がゆっくりと開いた。
「お待たせいたしました」
 入ってきたのは、いずえ。そして、その後ろに――
「ご紹介いたしますわ」
 いずえの声が少しだけ弾んだ。それは彼女にしては珍しい、ほんのわずかな“感情の揺れ”だった。
「こちら――五代重工業の三男、五代雄介さんです」
 その名を耳にした瞬間、千尋の内側で何かがぴくりと動いた。
 名刺の記憶が、雨の日のインターが、視界の端を横切る。
 男は、軽く頭を下げた。
 控えめな所作。だが、その動きには“軸”があった。
 和装である。
 だが、どこか礼を崩さない佇まい。
 髪は自然に撫でつけられ、目の奥に静かな光を宿している。
 あのときと、同じ“目”だ。
 雨の中で、自分に手を差し出した――あの男の。
「あ……」
 言いかけて、飲み込んだ。
 まさか、と思っていたのに。
 まさか、だったのに。
 ほんとうに――この人だったのか。
 五代は、穏やかに微笑んだ。
「初めまして。五代雄介と申します。……今日は、お会いできて光栄です」
 “ただのいい人”の声ではなかった。
 それは、“何かを知っている”人の声だった。
 千尋は、まだ返事をしていなかった。
 けれど、なぜか、息だけは深く吸っていた。
「そして、こちらが――」
 いずえが静かに、言葉を継いだ。
 その声には、ほんの少しだけ“誇らしさ”が混じっていた。
「藤見グループの三女、藤見千尋さんです」
 五代の視線が、その名をたどるように千尋に向けられる。
 千尋はわずかに首を傾け、深く礼をした。
 動作は正確で、きちんと“娘として”の所作だった。
 けれど――その中に、どこかしら反骨の気配があった。
 与えられた立場に甘んじない、けれど無闇に背を向けるわけでもない。そんな絶妙な“距離感”をまとう女。その空気に、五代のまぶたがわずかに揺れた。
 和服姿の千尋は、美しかった。だがそれ以上に――「この場に馴染もうとしていない美しさ」が、彼の目を引いた。
 帯の位置、手の置き方、どこにも隙はないのに。
 まるで、これが“戦闘服”であるかのように、彼女は静かにそこに座っていた。
 千尋の視線が、彼に重なる。
 その目には“探る”気配がある。いや――確かめている、というべきか。
「……藤見千尋です。お忙しいところ、ありがとうございます」
 その声は、どこかひやりとしていた。
 けれど、それは“拒絶”ではない。
 あくまで、「こちらも観察している」という表明。
 そしてその瞬間、五代の目元に、微かに笑みが浮かんだ。
「――光栄です」
 障子の向こうで風が枝を揺らす音だけが、かすかに響いている。
 膳には湯のみと菓子が置かれ、手元には懐紙と爪楊枝。
 緊張と沈黙が、薄い紙のように場を包んでいた。
 先に口を開いたのは、いずえだった。
「おふたりとも、まだご挨拶だけではございますけれど──どうぞ、堅くならずに。お話しされてみてくださいな」
 千尋は目線を外さずに、静かに言葉を置く。
「では……五代さん。差し支えなければ、お仕事のほうはどのような?」
「ええ……いまは、父の事業を継ぐ準備を少しずつ、というところです」
 雄介は丁寧に言葉を選んでいた。あくまで“重工業”という語は出さない。藤見義教の意図を、理解しているのだろう。
 千尋もまた、それを受け止めながら頷いた。
「そうなんですね。お忙しいところ、今日はわざわざお時間を取っていただいて」
「いえ、こちらこそ。……とても静かな場所で、落ち着きます。こうして、お話しできる機会をいただけて嬉しく思っています」
「……それはどうも」
 礼儀の応酬。型通りのやり取り。
 けれど、言葉の隙間で、千尋は相手の目をじっと見ていた。
「形式の中に、“素”を隠してる目」だった。
 雄介は、言葉を選ぶ癖がある。だがそのぶん、**選ばれなかった言葉たち**が彼の背景を照らしていた。
「ご趣味などは……おありなんでしょうか?」
 いずえの問いかけに、五代はふと目を細める。
「ええ。……旅、が多いですね。景色を見るというより、**人に会う**のが好きで」
「旅……いいですね」
 千尋の口調が少しだけ和らぐ。
「わたしは……逆です。旅より、拠点派というか。落ち着ける場所がないと、落ち着かなくて」
「なるほど。……それも、素敵なことだと思います」
 また、言葉は整っている。なのに――ふと、千尋の中で何かが“ひっかかる”。
 この男、どこかで見たことがある。いや、たしかに──“会ってる”。
 けれど今は、会話を崩すにはまだ早い。
 そのとき、いずえが笑った。
「まあまあ、おふたりとも。少しずつ、少しずつで構いませんのよ。ご縁というのはね、最初は“水のように透明”でも、時間が色をつけてゆくものですから」
 五代は柔らかく頷いた。
「その言葉、とても……心に残りますね」
 千尋もまた、小さく頷いた。
 けれどそのまなざしの奥には、“問い”があった。
──あなた、本当に“ただの五代雄介”なの?
「少しだけ、失礼いたしますね」
 いずえは湯のみの位置を整え、静かに立ち上がると、品のある仕草で襖をすべらせるように閉めた。
 障子の外、足音は遠ざかる。音の消えた和室に、あたたかな静寂が降りた。
 千尋はその沈黙を破るように、帯の下から一枚の紙をすっと取り出した。
 折れ目のついた、少し古びた名刺。
 テーブルの上に置かれたそれを、指でゆっくり滑らせる。

  五代雄介
 自称・冒険家
 ――2015の技を持つ男――

「……あなた、もしかしてこれの人?」
 五代は名刺を見た瞬間、小さく目を細めた。そして、声を出さずに、笑った。
「……ええ。懐かしいですね。まさか、まだ持っていてくださったとは」
「やっぱり、あなただった」
 千尋の声には驚きと安堵が混ざっていた。
「高速のインター。……あの時、車が止まって……私、エンジンルーム開けたはいいけど、バッテリーが上がってて」
「で、僕がちょうど通りかかって、ブースターケーブル持ってた」
「“2015年の技を持つ男”……あのとき、意味わかんなかったけど、ずっと忘れられなかった」
「名乗った覚えは……あります。でも、まさか名刺まで渡してたとは」
 五代は少し照れくさそうに眉を下げた。
 千尋はじっとその表情を見つめた。
 目元の皺、笑い方、やっぱりあのときと同じ。けれど、いま目の前にいる男は“ただの旅人”ではない。この空間で、それでも柔らかく呼吸している男だった。
「偶然って、あるんですね」
「ええ。……でも、偶然が“続く”ことも、ありますよ」
「どうだろ。続くかどうかは……わたしが決める」
「もちろん」
 名刺の余白をなぞるように、千尋の指先がゆっくり動いた。
 五代はその様子を見守りながら、静かに言った。
「……こうして、再会できたのは嬉しいです。あのときのこと、正直、少し気になっていたから」
「なにが?」
「……あの場で名前も聞かずに立ち去ったこと。なんとなく、心残りだったんです」
 千尋は、くすっと笑った。
「紳士っぽいこと言うのね。……まあ、助けてもらったのは事実だし、悪い印象はなかったわよ」
「それは、安心しました」
「でも」
 声の調子が変わった。和らぎかけた空気が、ピンと張り詰める。
 千尋はまっすぐに五代を見据えて言った。
「だからって、すぐに信用するわけじゃない」
 その目は、笑っていない。淡々と、だが確かな芯のある声。
「この歳になるまでに、いろんな“いい人”に出会って、いろんな目を見てきた。口当たりのいい言葉も、タイミングのいい偶然も、もう慣れっこ。だから、こういうときこそ冷静にならなきゃって思うの。……わたし、そういう性分なのよ」
 五代は、動じなかった。むしろ、ほんの少しだけ、目の奥に微かな熱を宿して頷いた。
「……そのほうが、いいと思います」
「は?」
「簡単に信用されるより、ちゃんと見極めてくれる人のほうが……一緒にいて、安心できるから」
「……上手いこと言うじゃない」
「本心です」
 千尋はふぅっと息をついた。目を伏せ、笑ったのか、肩だけが小さく動いた。
「……そっか。じゃあ、もう少しだけ話してみる?」
「もちろん」
 名刺の上に、千尋の指がそっと重なった。
 それはまだ警戒の手。
 けれど――
 わずかに、触れてもいいかもしれないという温度が、そこにはあった。
「おふたり……楽しそうに、お話してらして」
 やわらかな声と共に、襖が静かに開いた。
 いずえが、まるで庭の風を背負ったかのような所作で戻ってくる。
「お茶、冷めていないかしら?」
 そう言って卓の上の湯のみを見ながら、ちらりとふたりの間を覗き込む。
 そこに置かれた、やや古びた名刺に目を留めたが、なにも言わず、ただにっこりと微笑んだ。
 千尋は、とっさに名刺を引き寄せ、懐紙で包んで膝の上に隠した。
「まあ……いずれ、おふたりのお話に混ぜていただけるのを楽しみにしてますわね」
 いずえはそう言って、ふたりに目配せする。それは言葉以上に「手応えを得た」者の表情だった。
 五代は軽く会釈し、千尋は視線を伏せて、少しだけ口元を引き締めた。
「楽しく……だったかは、まだ保留ですけどね」
「まあまあ。保留も、最初の一歩ですわ」
 いずえは音も立てずに座しなおすと、あえて話題を変えるように膳の水菓子へと手を伸ばした。この場の緊張を解きほぐすための、さりげない配慮だった。
 その間、千尋はふと、五代の横顔に目を向けた。
 何も語らなくても、彼の“距離の取り方”が心地よいことに気づいていた。
 押さない、媚びない、だけど、逃げない。
『この人なら、“恋人”としては……アリかもしれない』
 結婚という言葉はまだ遠い。
 だけど、この日この場で「悪くないな」と思える相手に出会えたことは、たぶん奇跡に近い。
 千尋は膝上の懐紙を軽くなでて、ひとつ息を吐いた。
「――ま、連絡先くらいは……交換しとこうか。ね?」
 五代の目がわずかに見開かれ、すぐに静かに笑みを返した。
「はい。光栄です」
 それは、かつて雨の中で差し出された手と、同じくらい誠実な“答え”だった。
 五代雄介という男のことを、
「気になる」ではなく「もう少し、見てみたい」と思い始めた千尋。
 彼女の中に“ひとつの歯車”が回り始めたことを、そっと描き出します。
 本家から手配された黒塗りの車は、静かに料亭の門を出た。サイドミラーには、淡く咲き始めた梅が遠ざかっていく。
 千尋は、後部座席の窓辺に肘をつき、外の景色をぼんやり眺めていた。
 帯を少し緩めて、ふぅと吐いた息は、少しだけ甘い緊張を含んでいる。
「……見合いって、あんなもんだったっけ」
 誰に聞かせるでもない独り言。
 車内にはオーディオもかかっておらず、運転手も気配を消していた。
 膝の上には、まだ懐紙に包んだままのあの名刺。
 さっき、あの男が笑ったときの目を思い出す。
 やわらかいけど、芯がある。距離はあるけど、逃げていない。
 “触れてみたい”と思ったのは、たぶん――はじめてかもしれない。
「……でも、すぐには信じないけどね」
 つぶやいた声に、自分で笑う。
 過去に何度も痛い目を見たからこそ、慎重にもなる。けれど今回は、そういう意味での“疑い”じゃなかった。言葉でも、肩書きでもなく――
 あの目を、もう少し見ていたいと思った。
 それだけで、たぶん今日は“成功”だったんだと思う。
 窓の向こう、夕日が町の端に差しかかっていた。
 柔らかな金色に染まる街路樹。
 そのなかをゆっくりと進む車の中で、千尋はひとつ、肩の力を抜いた。
「……ま、付き合ってみるくらいなら、いっか」
 言葉にして初めて、自分の中に浮かびあがった“答え”。
 それは、見合いという舞台では出せなかった、本音だった。
 数日して千尋は他力本願寺を訪れていた・
 風がやわらかく、庭の竹がかさこそと音を立てていた。縁側の端、湯飲みと煎餅を前にして、千尋はぼんやりと空を見ていた。
「……お見合い、ですか……」
 隣に座っていたベルダンディーが、そっと微笑む。
「気になる方だったのですか?」
 千尋は、口元を歪めて鼻で笑った。
「なんだ、噂回ってんの?」
「いずえさんが、螢一さんにほんの少しだけ。“うまくいったかもしれません”って」
「……ったく、早ぇんだよあの筋は」
 煎餅を一口かじる。その音が、静かな庭に溶けていった。
 ベルダンディーは急かさない。
 ただ、風のようにそばにいるだけ。その静けさが、かえって千尋に言葉を吐かせた。
「ま、悪くなかったよ。見合いって感じじゃなかったけど。……ああいうのも、あるんだなって」
「五代さん……という方、でしたね?」
「ん。知ってる?」
 ベルダンディーは、少しだけ目を伏せてから、そっと微笑んだ。
「その方の話が出るとは……思いませんでした」
「……なにそれ。まるで私が男の話なんて絶対しない女みたいじゃん」
「そうは言っていませんよ。ただ……そのようなお話を、千尋さんの口から聞けるとは」
「……っつーか、言い方柔らかいのに、妙に刺さるのやめてくれる?」
「ふふ。では、お詫びに、お茶を淹れ直してきますね」
「いや、そういう──もう行っちゃったし」
 縁側に残された湯飲みと、静かな日差し。
 そして、煎餅のかけら。
 千尋は苦笑して、それらを一度見渡したあと、ぽつりとつぶやいた。
「……五代雄介、ね。今んとこ、いい感じ。たぶん、今までで一番」
 その声は、自分に言い聞かせるようでもあり、誰かに聞かせたかったようでもあった。
 ぽつりとつぶやいたその瞬間――
「へぇ、やっと口を割ったかと思ったら、意外と素直なんだねぇ、千尋ちゃん」
 その声に、千尋はびくっと肩を跳ねさせた。
「っわ、びっくりした! なに黙って背後霊みたいに立ってんの、あんた!」
 振り返ると、縁側の柱に寄りかかるようにして立っていたのはウルドだった。今日もどこからともなく現れたらしい。薄く笑って、片手に持った団子を揺らしている。
「五代雄介、でしょ? ああ、あいつか。うん」
「……知ってるの?」
「ま、ちょっとだけ。人となりくらいは」
 団子をひとつ口に放り込みながら、ウルドはさも当然のように言った。
「結婚相手としては、問題なしだ。良縁だね」
「――ちょ、ちょっと待った。何その雑な診断。なんでそんなさらっと“良縁”って断言できんのよ」
「うーん……長年やってるとね。見た瞬間わかるの。あの男、腹は据わってるし、無駄な駆け引きしないでしょ。あんた、そういうのに弱いじゃん」
「は……? なに、いつの間に私の恋愛パターン分析してたわけ?」
「恋愛パターンってほど積み上がってもいないから、分析もラクよ?」
「……アンタな」
 千尋が煎餅のかけらを投げると、ウルドは余裕でかわしてから指を立てる。
「ま、選ぶのはあんた。でもさ――“自分が壊れなくても済む相手”ってのは、大事よ。わかる?」
 千尋はその言葉に、ふっと目を伏せた。壊れずに済む。たしかに。あの男の目には、どこか“傷つけないための距離”があった。そして、こちらが寄った分だけ、ちゃんと寄ってくる余白も。
「……だからって、結婚決めたわけじゃないけどね」
「いいじゃん、それで。でも、“ちょっと好きになるかも”くらいには見えたけど?」
「見えたんじゃなくて、勝手にそう思ってんでしょ」
「違いない♪」
 ウルドはご機嫌な様子で団子をもう一つ口に放り込み、
「じゃ、あとは若いもん同士でよろしくね~」と手を振りながら、またふらりとどこかへ消えていった。
 残された千尋は、煎餅の袋をぐしゃっと握りながら、静かに顔を赤くした。
「……ほんと、姉妹そろって油断ならないんだから」
 けれど、その顔には――
 どこか、笑みが残っていた。

 夜の他力本願寺。
 夜風が涼しく、遠くで梢がざわめいていた。月明かりに照らされた屋根の端に、ウルドが胡坐をかいて腰かけている。その横に、ベルダンディーが静かに佇んでいた。
 しばらく、ふたりは無言だった。
 やがて、ウルドが口を開く。
「まさか――あいつが生きてるとはね」
「……ええ。わたしも、少し驚きました。けれど……確かに、彼でした」
「五代雄介。クウガ」
 ウルドはそう呟いて、空を見上げた。
 星がいくつか、雲の間から顔をのぞかせていた。
「“世界を救った英雄”……ですよね?」
 ベルダンディーの声には、ほんのわずかな熱がこもっていた。
 ウルドが続ける。
「もちろん。……ただし、周りの協力もあった。それも相当なね。でもあいつは、最初から最後まで、“ただの人間”として立ってた。それがすごいのよ。……天上界じゃ、それが一番都合が悪かったらしいけど」
 ベルダンディーは静かに頷いた。
「記録――天上界では、抹消済みですね。あの時代のすべてが、“なかったこと”にされている。でも、記憶まで消すことはできない。……あの目、あの意志は、まだ生きていました」
 ウルドは目を細め、ため息のように言った。
「それでも“普通の見合い相手”として現れるあたりが、らしいっちゃらしいわね。あの男、どこかの神でも救世主でもなく、“人であること”にこだわったから」
「千尋は、まだ何も知らないでしょうね」
「うん。でも……千尋には、知るよりも先に“信じるかどうか”を選んでほしい。過去の重さじゃなく、今の目を見て、手を取るかどうかを」
 ベルダンディーはそっと目を閉じた。
「そうですね。……きっと、彼女なら」
 その静けさのなか、ウルドがぽつりと付け加える。
「……まあ、“2015の技を持つ男”っていう名刺は相当アホっぽかったけどね」
 ベルダンディーは小さく笑った。
「でも、それが彼らしくて、少し……嬉しかったです」
 風がまた、葉を揺らした。
 それは、確かに“生きている”という音だった。

 目的地は、山間の温泉街。
 ローカル線の終点からさらに送迎バスに揺られてたどり着いた、小さな宿。
 昭和風情の残る、川沿いの木造旅館。
 到着した午後、千尋は風呂上がりの浴衣で窓を開け放つと、川のせせらぎにふうっと息を落とした。
「……静かすぎて逆に落ち着かないわ」
「それ、都会の人がよく言うやつだよ」
 五代は浴衣の帯をゆるめながら笑う。
 窓辺に腰かけるその姿が、やけに似合っていた。
「ねえ、ほんとに“冒険家”だったの?」
「自称、ってつけたでしょ。詐称じゃない」
「ま、旅慣れてるのは確かだし。……私、こういうの、初めてなんだよ」
「旅が?」
「“誰かと一緒に来る旅”が。……ちゃんと“好き”って思える相手と」
 ふっと沈黙。けれど、それは気まずさではなく、言葉がいらない種類の静けさだった。
 その夜、夕食のあとは地酒を少し。
 湯ざめしないようにと、五代が持ってきた毛布を分け合うようにして、
 古い旅館の布団にふたり並んだ。
 部屋の灯りは落とされ、障子越しに月の光がうっすらと射す。
 すぐ隣にある、温もり。
 ふいに交わる指先。
 誰も言葉にしないまま、けれどたしかに触れた鼓動。
「……ねえ」
「ん?」
「明日の朝、寝坊したら起こして。……いや、起こさないで。……どっちでもいい」
「了解。じゃあ、“起きる気がない場合”はどうしたら」
「キス以外認めない」
「ハードル高いなぁ」
 くすくすと笑い声がこぼれ、
 そのあと、しんとした時間が流れた。
 ふたりの距離が、もう“他人”ではなくなっていた。
 翌朝
 川のせせらぎと鳥のさえずりが、静かに耳に入ってくる。
 暖簾をくぐった先の朝食処には、湯気の立つ味噌汁と、銀色に光る焼き魚の香ばしい匂いが満ちていた。
 千尋は、浴衣の上に羽織をひっかけて、先に席に着いていた。湯上がりのように顔はほんのり赤いけれど、それが昨夜の余韻なのか単に朝風呂のせいなのか、本人もよくわかっていない。
「おはよう」
 五代がふらりと現れる。軽く寝ぐせの残る髪、どこか“気を抜いた男の顔”。その無防備な雰囲気に、千尋は思わず一瞬だけ目を逸らした。
「……おはよう。ちゃんと起きたんだ」
「うん、目が覚めたら……君がいなかった」
「早く起きちゃっただけ。……別に逃げたとかじゃないから」
「わかってる」
 それだけで、なんとなく通じ合う。
 食卓に並ぶのは、焼き鮭・卵焼き・煮物・小鉢に温泉卵と白米。
 いかにも“旅館の朝”らしい、整った膳。
 ふたりは同時に箸を取り、小鉢を手に取る。
「……この煮物、甘すぎない? ってか、昨日の残り?」
「いや、優しい味ってことでしょ」
「……旅館の朝食で“優しい味”って評価、ずるくない?」
「じゃあ、“昨日とは違うやさしさ”でどう?」
「うっわ、朝から口うまい男だな……」
「昨夜も、って言おうとした?」
「言ってない! 言わせない!」
 箸を持ったまま、千尋の頬が真っ赤になる。
 それを見た五代は、なにも言わず、ごはんをひと口。
「……ん。おかわり、いけそう」
「うん、そうだね……」
 ふたりの間に沈黙が落ちる。でもそれは、気まずさでも、気を遣った間でもなかった。ただ、お互いに一緒にいる時間を味わっている沈黙だった。
 千尋は湯呑を手に取りながら、ぽつりとこぼす。
「……なんか、“次”のこと考えてもいいかもって、ちょっと思った」
 五代は茶碗を置いて、やわらかく頷いた。
「じゃあ、次の旅は……もう少し、遠くまで?」
「……うん。たとえば、二泊三日とか」
 笑いながら交わす言葉の中に、
 これからも一緒に朝を迎えられるかもしれない予感が、ふんわりと息づいていた。

 本宅の玄関をくぐった瞬間、千尋は微妙な空気を察知した。
 何かが待っている。できればそのまま踵を返して自分の部屋に戻りたい――
 だが遅かった。
「ふうん。帰ったのね、妹さん」
 その声に、千尋の背中がびくりと跳ねた。
 応接間の戸がすでに開いており、ソファには足を組んで座る姉・琴音の姿。
「……なんであんたがここにいんの?」
「ちょうど実家に用があってね。で、母さんから“千尋が旅行から帰る時間”って聞いて、待ってたの」
「やめて、もうその“情報網”ほんと無駄に強い」
 琴音は手にした茶菓子をひと口かじり、鋭い目で千尋の顔を値踏みするように見た。
「顔、ちょっと浮いてるわよ。肌の調子はいいけど、なんか……柔らかい」
「は? なにそれ」
「男と一緒だった顔。あんた、目尻がゆるんでる」
「どこの元諜報部員だよ……」
 千尋は靴を脱ぎながら、ため息混じりに笑った。
 だが隠しているつもりだった“変化”を、琴音は見逃さない。
「五代雄介さん、だったわよね」
「……うん」
「どうだった?」
「ん……まあ、悪くなかったよ。普通に楽しかった。普通に落ち着いた。で、普通に朝起きて、普通に帰ってきた」
「“普通”を三回も使うあたり、だいぶ特別だったのね」
「……うっさいな」
 琴音はもう一口菓子を食べ、今度は少しだけ声を落とす。
「ちゃんと、“大事にされた”顔してる」
 千尋は一瞬黙った。でも、それを否定しなかった。
「……うん。なんか、ね。やっと“無理しなくていい相手”ってこういう人か、って思ったかも」
「じゃあ――次は、“無理せず続ける覚悟”ね」
 その言葉に、千尋の背筋がすっと伸びる。
「……結婚しろって言いたい?」
「まだ言わない。でも、あの人なら、母さんも父さんも納得すると思う」
「ふーん……」
 そのまま返事を濁して、千尋は奥のキッチンへ向かった。
 背中を見送る琴音が、ふと呟いた。
「……たぶん、あんた、少しだけ“女の顔”になったわね」
 その声は、からかいじゃない。妹を見守る、姉の声だった。

 五代雄介の部屋・夕刻
 部屋に戻ると、旅の荷物の匂いがわずかに残っていた。キャリーバッグを玄関に置いたまま、五代はリビングのソファに沈み込む。午後の光がカーテン越しに差し込み、白い壁にやわらかな影を落としていた。
「……よく笑ってたな、千尋さん」
呟くように言って、ふっと微笑む。
 ふたりで撮った写真はまだ数枚。それでも、湯気の中の横顔や、箸を持ったまま言い返してきたときの眉の動き――頭のなかには、はっきりと焼きついている。
 “付き合う”という関係の中で、誰かと旅をするのは初めてだった。
 ただの“親密”ではない。
 信頼と笑いが、自然に混ざっていた。
 スマホを手に取る。送るでもなく、ただLINEの履歴を眺める。
「……そういえば、“次は二泊三日”って言ってたな」
 ぽつりと笑いながら、スマホのメモアプリを開く。
〈次に行きたい場所〉
・雪の残る山里(湯治宿)
・古本屋の多い町
・海沿いの小さな神社(彼女が静かに好きそうだった)
「派手じゃなくていい。ただ、彼女が『うん、いいね』って言ってくれそうなところを」
 自分の好みではなく、誰かの呼吸を想像して決める行き先。それだけで、今の自分が“独りじゃない”と実感できた。
 ふと、隣に置いてあった名刺入れを手に取る。
 あの名刺。
“2015の技を持つ男”なんて、今なら照れくさくて出せない。
 けれど――その肩書きに、彼女は最初の“記憶”を結びつけてくれた。
 もう、名刺はいらない。
 これからは、“一緒にいた記憶”そのものが、名刺の代わりになる。
 ソファから立ち上がり、軽くストレッチをした。
 スマホのメッセージ欄に指を置き、少しだけ考える。
 そして、簡単な一行を打った。
>「おつかれさま。次、どこに行たい?」
 数秒後、画面の右上に既読がつく。
 そして、
> 「どこでもいいよ。あなたとなら。」
 思わず、五代はソファに背を預け、深く息を吐いた。
 これが、“誰かと生きる”ということかもしれない。
 ある日の夕暮れ、千尋のワンルームにて
「……ここ、椅子ぐらい買えば?」
 床に座って靴下を脱ぎながら、五代がぼそりとつぶやく。
 小さなこたつと作業机、それに古い座椅子がひとつ。
 千尋の部屋は相変わらず“必要最低限”だった。
「いらない。ここに人来るの、ほぼあんただけだし」
「……うん、だから言ってるんだけど?」
「……あ」
 言ってから気づいた。
 五代はそれ以上言わなかったが、視線がふと優しくなる。
 千尋は唇を噛み、雑にテレビのリモコンを取ってチャンネルを回す。
 どこも似たようなバラエティ。
 だけど音がないと、胸の鼓動ばかりが耳についてしまいそうだった。
「……この前さ」
 五代が、お茶の入ったマグを片手に言った。
「洗剤、君がいつも使ってるやつ、買ってみた」
「……は?」
「うちで使おうかなって。あの匂い、わりと好きだったし」
 千尋はマグを受け取りながら、目を細める。
「……それ、地味にヤバいやつじゃん」
「そう?」
「日常のにおいが混ざるとね、戻れなくなるって言うのよ。一人暮らしの人間が、誰かの柔軟剤の香りとかで“寂しさ”を思い出すっていう……」
「じゃあ、戻らないようにすればいいんじゃない?」
「…………」
 反論できなかった。
 ソファ代わりのマットレスに背を預けながら、千尋は小さくため息をついた。
「……あんたって、そういうとこ、ずるいよね」
「どこが?」
「さりげなく“この先”を匂わせるくせに、こっちに答えを出させる」
「ずるいかもしれないけど……強引に引っ張るの、好きじゃないから」
「…………」
 五代はマグの縁に口をつけながら、続ける。
「たとえば、君が風邪を引いたとき、黙って鍵を預けてくれたら――たぶん、そのとき俺は、“この人と結婚できるかもしれない”って思うと思う」
「……鍵ぐらい、今渡してもいいけど?」
「いやいや、そういう条件反射みたいなのじゃなくてさ。自然に、当たり前のように“開けていいよ”って言える日が来たら……ね」
 千尋は、笑いながら肩をすくめる。
「……じゃあ、風邪ひくまで待ってて。結構熱、上がるタイプだから」
「それは困るな。じゃあ元気なうちに考えといて」
 ふたりの笑いが、部屋に満ちていく。
 “そのうち”なんて言葉が、少しだけ現実味を帯びて感じられる夜だった。

 ある日、藤見家 応接間 ― 父・義教との静かな対話
 母・春香が席を外し、姉・琴音もいない、珍しいタイミング。
 午後の光がカーテン越しに差し込む中、義教と千尋が、向かい合って茶をすすっていた。
「……どうだ、最近は」
 義教が低く、しかしやわらかく切り出した。
「まぁ、ぼちぼち。仕事も変わらず。生活も、それなり」
「男の話は?」
「っ……いきなりそれ?」
「いきなりではない。おまえに限っては、これが“ようやく”だ」
 義教は茶をすすりながら、目を細める。
「五代雄介。名前は、思い出すには充分な男だ」
「……記録、残ってたんだ」
「残っていなくても、“あの筋”から情報は流れてくる。私はな、娘の見合い相手が“世界をひとつ救ったことがある男”と聞いたとき、“ついにそう来たか”と思ったよ」
 千尋は苦笑した。
「別に、神話になってるわけじゃないでしょ。あの人、すごいとか偉いとかって言葉、たぶん一番嫌う」
「そこがいい。だからこそ、おまえが彼と向き合っているなら――“そろそろ言葉にしろ”」
「……は?」
 義教は茶托をひとまわししてから、静かに言った。
「付き合っている、仲がいい、信頼している――それだけで生きていけるうちはいい。だが、“信じられている”という言葉に、責任を持てるのはな、“共に生きると決めた者”だけだ」
「……つまり?」
「“結婚するのかしないのか”――自分の意志で、考えておけということだ」
 千尋は、茶の湯気を見つめながら、しばらく黙った。
 父の言葉は、どこまでも直球だった。
 突き放すようでいて、実は彼なりの“気遣い”だとわかっている。
「……ずるいよね、ほんと。あんたにそう言われたら、逃げらんないじゃん」
「逃げるな。おまえは、背を向けるために生まれた娘ではない」
「……はいはい。わかりましたよ、もう」
 言いながらも、千尋の胸の奥に、“結婚”という言葉が静かに沈んでいく。
 それは、ただのイベントでも義務でもない。五代雄介という男と、“これからも並んで歩く”ということの、ひとつの形。
――その形を、選ぶかどうか。
 その夜、千尋はスマホを握りしめ、メッセージを開いたまま、しばらく何も打たなかった。
 けれど最後、こうだけは書けた。
> 「ねえ、今度ちゃんと話そう。将来のこと」
送信。
 画面が静かに光る。
 その向こうに、確かにいる人のことを思いながら。
 藤見家 本邸・晩餐の間
 藤見家の本邸、その奥にある格式張らないが重厚感のあるダイニング。
 食卓には白磁の器が並び、母・春香の手による和洋折衷の夕食が彩りを添えていた。
「……それじゃ、いただきます」
 千尋が箸を取ろうとした、そのとき――
「その前に、一言よろしいでしょうか」
 五代雄介が立ち上がった。
 思わず千尋の手が止まり、家族の視線が一斉に彼へ向く。
「……え、ちょっと待って」
 千尋が半笑いで止めようとするも、五代は動じず、視線をまっすぐに保った。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます。突然のこととは存じますが……本日、お伝えしたいことがございます」
 その場の空気が、静かに変わった。
 春香は箸を止め、琴音は水の入ったグラスを指先でくるくると回す。
 義教は腕を組み、表情を崩さず、ただ見ていた。
 五代は深く頭を下げる。
「藤見千尋さんと、これからの人生を共に歩みたく、本日こうして、皆さまの前で……**結婚を申し込みに参りました**」
「……ちょ、ちょっと待って、聞いてないんだけど!? ねぇ、ちょっと!?」
 顔を真っ赤にし、立ち上がりかけた千尋を琴音が肩を押し戻す。
「静かにしなさい。いいところなんだから」
「いいところじゃないでしょコレ、私、何も知らされてないんだけどっ……!」
 義教が、静かに口を開いた。
「君の父上には恩がある。その男の息子でなければ、今日の席はなかった」
 そして、初めて表情をわずかに和らげる。
「……だが、君自身の目で娘を見ていたのなら、その言葉を信じよう」
「はい。……千尋さんとは、ただ“うまくいっている”とか“楽しい”というだけではなく、言葉にしない部分を大事にしてこれたと思っています。だからこそ、きちんと向き合いたい。彼女に“信頼される覚悟”を持ちたいと、思っています」
 その言葉に、春香がふと、そっと目元を押さえる。
 琴音は、ため息まじりにぽつり。
「……五代さん、完璧すぎて逆に引く」
 千尋はまだ混乱したまま、唇を開けたり閉じたりしていたが――
 ようやく絞り出した。
「……ほんとに、今ここで言うとは思わなかった。……けど……そういうとこ、嫌いじゃない」
 ゆっくりと、座り直す。
 頬は赤いまま、でも目は逸らさなかった。
 義教が、再び静かに言う。
「……了承するのは、娘本人だ。俺たちは、それを尊重する」
 そして、箸を取る。
「さて、冷める前に、いただこうか」
 その場にふっと笑いが生まれ、ようやく空気が柔らいだ。
 “家族の前でのプロポーズ”――それは騒がしくて、誠実で、そして、なによりも千尋らしい始まりだった。
 披露宴でもないのに疲れた、そんな一日だった。
 夕食後、親たちと話し終えて、やっとふたりだけになれたのは、夜も深くなった庭の縁側だった。
 虫の音が遠く、風鈴が小さく鳴る。
 五代は板張りの縁に腰かけ、靴下を脱いで足をぶらぶらさせていた。
 千尋は、その隣にそっと腰を下ろした。
「……ねぇ」
 五代が横を向く。
 千尋は月を見上げたまま、頬杖をついていた。
「さっきの、あんたなりに頑張ったの、わかってる。ちゃんと、感謝してる」
「ありがとう」
「でさ……」
 小さな息継ぎ。それから、千尋はようやく彼のほうを向いた。
 以前の彼女なら、茶化したり、逃げたり、バイクを話題にすり替えたりしていたかもしれない。
 でも今は、角が取れて、素直な千尋がそこにいた。
「……ちゃんと言うよ。私と、結婚してください」
 五代の目がわずかに見開き――すぐに、やさしく細まった。
「……え? さっき僕が言ったじゃん?」
「知ってるよ。でも……家族の前じゃ言いづらかったし。だから、今ここで、“私の意思で”ってこと、ちゃんと伝えとく」
 五代は、声を出さずに笑った。
 そして、ごく自然に彼女の手を取る。
「じゃあ、改めて。……よろしくお願いします、千尋さん」
「うん。よろしくお願いします、五代くん」
 手と手が重なり、指先が絡んだ。
 ただそれだけで、
 今まで付き合ってきた“誰か”との違いが、すべてわかった気がした。
 気負いも、戦いも、見栄もいらない。
 ただ、まっすぐに生きて、並んでいける。
 月の下、藤見家の庭に、静かな祝福の空気が流れていた。
 結婚式準備編・藤見家ダイニングにて
「はいっ、まずは式場候補、国内リゾート5件、海外2件。それと……引き出物のパンフ、あと30冊ね」
「……誰がそんなに呼ぶの? てか、海外ってどこの話してんの……」
 千尋はテーブルの上に広げられた紙の山を前に、すでに半分魂を抜かれていた。
 姉・琴音と母・春香、そして仲人の遠野いずえが三方から詰め寄る構図は、もはや作戦会議のそれだった。
「お色直しは3回でもよくてよ。最近は着崩し演出も人気らしいわ」
「ドレスは和洋2着ずつ。和装前撮りも今のうちに予約しておかないと」
「食事は和懐石かフレンチ。会場によっては中華も出せるそうよ」
 千尋
「――もうやだ!!」
 ガタンと椅子を引き、逃げるように廊下に出る。
 その後ろから、琴音が涼しい顔でひと言。
「ちなみに、キャンセル料は明日から発生するわよ?」
 千尋
「鬼か!!」

 五代雄介・新居の準備
 一方そのころ、五代は新居となる**中古マンションの内装チェック**を終えていた。
 駅徒歩10分、築14年。
 部屋は2LDK。
 風通しがよく、日当たりも申し分ない。
 何より、千尋が「整備道具を置ける物置スペース欲しい」と言った一言で決まった物件だ。
「……このベランダ、君が観葉植物とか育てたら似合いそうだな」
 誰もいない部屋で、ぽつりと呟く。
 壁の色はまだ殺風景。家具も入っていない。
 けれど、どこかもう\*\*“暮らしの音”が聞こえてくる気がした。\*\*
 帰ってきた千尋に、家具カタログと食器の写真を見せながら言う。
「この辺、どう?」
「え、なにその可愛いお皿……うちじゃ浮くでしょこれ」
「でも、君の朝食がここに乗ってたら可愛いと思って」
「……なにそれ。ずるい。買う」
「ふふ」
 日々の生活を一緒にデザインしていく作業。
 それはまるで、“これからのふたり”を設計する作業にも似ていた。

 結婚式本番・式場チャペル
 静かなオルガンの音色が、花で飾られた大理石のバージンロードに響く。
 白いチャペル。
 窓の外には新緑と陽光。
 ドーム天井から差し込む光が、神聖な空気を染めていた。
 参列者の中、ひときわ目立たず、しかし確かな存在感で座っているのはベルダンディーだった。
 微笑みはいつもと変わらず、目元に少しだけやわらかな光をたたえている。
「豪華ですね」と誰かが言っても、彼女はただ微笑んでいた。
 式の派手さ、装飾、演出。
 すべては“このふたりの歩む門出”を見届けるための演出にすぎない。
 大切なのは、その中央にいるふたりの“決意”だけだった。
 一方その隣――螢一は**ガチガチに硬直していた。
 ネクタイはきちんと結ばれている。靴も磨かれている。
 だが、緊張で両肩があきらかに上がり、汗も額ににじんでいた。
「べ、ベルダンディー……これ、あれだよね……結婚式って、こんなに見てるだけで緊張するの……?」
「ええ、そうですね。螢一さんが緊張してくださる分、千尋さんが安心できるのではないでしょうか」
「えっ、そういう構造!? いや、でも僕が緊張しなくても……!」
 小声で混乱しているその横で、ベルはやさしく手を握る。そのだけで、螢一の肩がほんの少しだけ、降りた。
 式が終わり、賑やかな披露宴の前――
 控室にふたりの姉妹神が、静かに訪れた。
 先に現れたのはウルド。
「はいはい、おつかれー。これが人間社会で言うとこの“儀式”ってやつね。いやー、しかし千尋がこんなに化粧で光るとは。プロの力すごいわ」
「そこ褒めるとこじゃないから!」
 千尋が頬を赤らめるのを見て、五代が笑う。
 ベルダンディーも遅れて現れ、小箱をそっと差し出した。
「……ふたりに、“門出”の贈りものを」
 それは、真珠色の陶器でできたオルゴールだった。
 蓋を開けると、小さな花嫁と花婿の人形が寄り添い、優しい旋律が流れ出す。
「私たちからの“願い”です。
 ……ふたりが、音楽のように歩調を合わせ、
 ときに強く、ときにやさしく、響き合えますように」
 千尋は、言葉を失ったまま見つめた。
 五代も、ただ静かに、頭を下げた。
 ウルドはと言えば、もうひとつ別の包みを差し出す。
「こっちは私から。実用重視。これ、どんな工具でも三秒で見つかるスキャンツール。あと、君らの名前入り」
「……ウルドさん、どこから持ってきたのそれ」
「気にしない気にしない。地上仕様だからちゃんと“ギリギリ”OK」
 ベルが小さくため息をつきながらも、「ウルドらしいですね」と笑った。
 千尋は、五代の袖をつかんで立ち止まった。
「……あたしさ。たぶん今がいちばん、素直かもしれない」
「うん」
「だから、今言っとく。――ありがとう。ほんとに、出会えてよかった」
 五代は何も言わずに、ただ手を握り返した。
 拍手の音、祝福の声、ドアの向こうには“これから”が待っている。
 でも今だけは、ふたりだけの静かな余韻が、そこにあった。
 結婚式 翌日・藤見家の客間にて
 陽が傾き始めた午後、藤見本家の奥座敷。
 家族と一部の親族だけが集まる“内輪のお茶会”が開かれていた。
 ふすま越しに笑い声と、湯呑を置く音がかすかに響く中――
 藤見春香は、一枚の名刺をそっと卓上に置いた。
《五代雄介 冒険家/フリーランス整備士(兼 自営)》
 見つめる瞳は穏やかで、しかしその奥に微かな計算の色が浮かぶ。
「――やっぱり、あの男……あのままでは惜しいわね」
 向かいに座る長男・慶次が、グラスを傾けながら苦笑する。
「母さん、昨日まで“自由人らしいところがうちの子にはちょうどいい”って言ってたろ」
「それはそれよ。結婚して、こちらと縁ができた今だからこそ言うの。
……あの男、引き上げれば伸びるわよ。間違いなく」
 春香は、静かに茶菓子に箸をつける。
「貴方の右腕に――いえ、“参謀役”でもいいわ。慶次、あの男をもう一度、こっち側に立たせてみない?」
「……あいつにそんな気、あるかな。昔から“人の下につくより、誰かの背中を押すほうが好き”な男だ」
「ならその背中ごと引っ張ってくればいいのよ」
「……母さん、それスカウトって言わない。略奪だ」
 春香は、小さく笑った。
「でもね、慶次。『上級』っていうのは生まれや資産じゃなくて、使い方のこと。あの子、使い方を間違えなければ“伝説”を築ける器よ。うちの娘に相応しい、世界レベルの男になれる」
 慶次は眉をひそめた。
「……母さんの口から“伝説”なんて単語が出るとは思わなかった」
「言うわよ。母親だもの」
 そこには、娘を幸せに送り出した母の顔と、企業家としての冷静な目が並び立っていた。
 花壇に咲く紫陽花が、雨上がりの光を含んでやわらかく濡れていた。
 藤見家の広い庭、その一角のベンチ。
 そこに並んで座るのは、春香と千尋。
 式が終わって数日。
 世間の慌ただしさが一段落し、ようやくふたりきりの時間が訪れた。
 沈黙がしばらく続いたあと、先に口を開いたのは春香だった。
「……よく似合ってたわよ、白無垢」
「ありがと。……まあ、プロがやってくれたからね」
「でも、あの笑い方はプロじゃできないわ。……あの子といるときの、あなたの顔、母親としてすごく嬉しかった」
 千尋は少しだけうつむいた。
 それから、ふと笑った。
「なんか……素直に言われると、照れるね。あたし、昔から母さんの前だと逆らうか黙るか、どっちかだったから」
「……そうね。でも、そういう子だったからこそ、ちゃんと“自分で選んだ”ことが、よくわかったのよ」
 千尋は、掌を見つめながら静かに言う。
「……昔、母さんに“上級の娘なら、それなりの相手を”って言われた時、正直、ちょっと反発したの。……けどさ。あいつといると、“それなり”って意味、なんかわかる気がしてきた」
「ふふ」
 春香の笑い声は、ほんの少し涙交じりだった。
「上に立てる人って、“選ぶ力”がある人なのよ。何を捨てるか、何を守るか、それを決められる人。……あなたも、彼も、ちゃんと“選んだ”のね」
 千尋は、春香の横顔を見つめた。その目には、かつて知らなかった母の顔があった。
「母さん」
「なに?」
「……ありがと。今まで、たくさん言えなかったけど……ちゃんと、ありがとう」
 春香は、黙って千尋の肩に手を置いた。
 言葉は少なくても、その手のひらに込められた愛情は、誰よりも重く、あたたかかった。
 ライトを落とした静かな部屋。
 TVもつけず、ふたりだけでお茶を飲む夜。
 千尋は何度目かのため息をついていた。
 五代はその音を聞きながら、黙ってカップを手に取った。
「……なあ、雄介」
「ん?」
「もしさ……あたしが“藤見の役”に戻ったら、どう思う?」
 五代は少しだけ考えて、穏やかに答える。
「驚きはしない。……千尋なら、そうするだろうと思ってたから」
「え、なんでよ」
「君はさ、“責任”って言葉に弱いくせに、逃げない人だろ」
 千尋は苦笑した。
「……ほんと、イヤになるぐらいあんたには読まれてんな」
 そして、ソファに深くもたれた。
「でもさ、あたし、“あっち側”に行ったらもう戻ってこられない気がして。ワールウィンドの店長としての顔とか、整備場の空気とか……全部、すりガラス越しになるような気がしてさ」
「戻ってこなくてもいいんだよ」
「……え?」
「俺が、そこに行くから」
 千尋は言葉を失った。
 五代は微笑んで、続けた。
「君が“そっち側”に進むって決めたなら、俺はその横を歩くだけ。俺自身のやり方で、君の選んだ世界と向き合うさ。……昔は正直、こういうの苦手だった。でも今は、君とならできると思える」
 千尋の目に、静かに光が宿る。
「……じゃあ、行く。ちゃんと、藤見の女として。……あたしのやり方でね」
 ワールウィンド本店・整備ピット奥の休憩所
 午後。
 店内は通常営業中、スタッフたちの笑い声とエンジン音が混ざる中、千尋と螢一は、コーヒーを片手に奥の休憩スペースへ。
 螢一が言う。
「で、今日はどうしたんですか? 顔見せにしては……やけに、改まってますね」
 千尋はにやっと笑う。それはいつもの調子――だが、その奥に、決意が混じっていた。
「うん、改まった話。……あたし、辞めるわ。引き継ぎもあるからあと一週間ぐらい……かな」
「え?」
「ワールウィンドの店長。――来週で引退。今後は“藤見の女”として、ちゃんと生きてくことにした」
「………………えっ?」
 螢一の表情が固まる。
 目が、瞬きを忘れたまま千尋を見つめていた。
「えっ……それって……本気のやつ?」
「うん」
「……あの、“豪快で、機械油まみれで、客にも容赦なく説教する”千尋さんが?」
「うんうん」
「“あいつ螢一は結婚しても相変わらずだな”って言ってたあの千尋さんが?」
「言ったねぇ~」
「その千尋さんが……“上級国民側に戻る”?!」
「うん。“戻る”というか、“向き合う”って感じかな」
 螢一は、まるで悪い夢を見てるように頭を押さえた。
「いや、ちょっと待って。店長引退って、それ……誰がやんの?っていうか、俺……俺?」
 千尋は満面の笑み。
「おめでとう、次の店長」
「まじかよ!? いやいやいや、俺は副店長止まりのつもりで……え? 本当に?」
「ほんとにほんと。だって、螢一は“店を任せて安心なやつ”だもん。」
「えっ、俺そんなこと言ったっけ」
「あんたはあたしが拾ってきたのよ」
 螢一は、目を白黒させたまま立ち尽くす。
「……でも、でもさ、千尋がこの店をここまで回してきたんだろ?あの、“千尋店長”がいなくなったら、空気変わるぞ?」
「だから言ってるじゃん。やればできるって。あんたなら、ちゃんと“変わる空気”を次の“色”にできるよ」
 螢一は、しばらく黙ってから苦笑した。
「……なんか、カッコつける暇もないくらい突然だけど……でも、お前に“任せる”って言われたら、断れねぇな」
「そうそう、それそれ。で、最初の仕事――“名札の書き換え”、ね?“店長:森里螢一”って」
「うっわ、現実味きた……胃がキリキリしてきた……」
「大丈夫。“責任”って、意外と着心地いいよ」
 千尋は立ち上がり、背中で軽く手を振る。
「……じゃ、あたしは“別のフィールド”で暴れてくるわ。でもたまに見に来るから。ちゃんと整備場磨いておきなよ、新・店長さん」

「はーい、店長頑張ってね! じゃ、あたしは“上級”の世界で地雷踏んでくるから!」
 千尋の冗談まじりの置き土産を背に、螢一は店の中央でぼー然と立ち尽くしていた。
 カレンダーの日付がいやに大きく目に入る。
> 現在スタッフ:2名(螢一、ベルダンディー)
> 必要最低人員:4名
「……え、うそでしょ?」
 慌てて業法マニュアルを確認すると、確かにあった。
> 「二輪車整備事業所は国家整備士もしくは認定補助者を含む4名以上での常時稼働を基本とする」
「いやいやいや、ちょっと待ってよ!?千尋さん、そんなの一言も――いや言ってたかもしれないけど俺が聞き逃してた!?やっば!!」
~電話地獄編~
「鳴門くん? 今どうしてる?」「あ、そっか転職してたか……」
「玉井くんは? ……え、バイク屋辞めて農業やってるの!? まじで?」
「ていうか、ここの給料そこまで悪くないよ!? なんでみんな断るの!?」
 ベルダンディー「螢一さん、またおでこに火花出てます」
~当てのない足~
 シーグル「この街の整備士候補者、12名中、稼働可能者は2名。ただし、1名はパチンコ中、もう1名は不審者として警察に連行中」
「もう、だめだ……店が閉まる……俺が閉まる……」
~出会いは突然に~
「やあやあ、ひさしぶりね」
 現れたのは長谷川空。昔、千尋の指導を受けていた元見習い、現在は一応別業界でバイト中。でも手にはちゃっかりグリップのオイルが。
「千尋姉さんに言われたのよ。“あんた、あのバカ真面目な男、放っといたら倒れるから、見てきてやりな”ってさ」
 螢一、ちょっと泣く。
 そして空が連れてきたのが、長谷川の親戚の男の子・大月ライト。
 口数は少ないが、整備センス抜群。パーツ知識と図面の読みはプロ級。
「ライト「工具に囲まれてると落ち着くので……」
* 螢一(店長)
* ベルダンディー(受付・整備補助・女神)
* 長谷川空(副店長格)
* 大月ライト(整備班)
 ついに営業再開のスタンプを提出できた日、螢一は言う。
「……やればできるって、こういうことか……。なんか俺、いま“千尋さん”っていう言葉が呪文みたいに聞こえてる……」

 木漏れ日が境内を彩り、落ち葉がカサカサと音を立てていた。
 門をくぐって現れたのは、千尋と――五代雄介。
 しっかりと腕を組んでいるが、歩き方は自然体。
 ふたりの間には、長い時間でしか作れない空気が漂っていた。
 本堂前の縁側。
 そこにちょこんと座っていたのは、小さな少女――森里愛鈴(9歳)。
 彼女は本を閉じ、静かに顔を上げた。
「……こんにちは」
 五代が柔らかく笑う。
「やあ、愛鈴ちゃん。覚えてるかな? 昔、一度だけ会ったよ」
 愛鈴は立ち上がり、彼の顔をまっすぐに見つめた。
 その瞳は、幼さを残しながらも、どこか“奥”を見ている。
「……うん、覚えてる。お母さんの友達、だけど――」
 ほんの一瞬、言葉を切ってから、ゆっくりと続けた。
「“ただのいい人”じゃない、って思った」
 千尋が吹き出す。
「ちょっと! なんか妙に核心突いてない?」
 五代は、少しだけ困ったように笑ったあと、愛鈴に膝を折った。
「……そうだね。たぶん、“いい人”の中にもいろんな種類がある。正義を選ぶ人もいれば、正義から逃げる人もいる。でも君は、その違いを、もう見分けられるんだね」
 愛鈴は小さく頷いた。
「光と闇、両方を見たことのある目だったから。そういう人の“背中”は、においでわかるんだよ。……“生き延びてきた人”のにおい」
 千尋は、少し黙って彼女を見たあと、五代に肘を入れる。
「……すごいでしょ、うちの子。あたしが産んだわけじゃないけどね」
「うん。……でもなんだか、昔の“彼女”を思い出す」
 五代の目が遠くなる。
 名前にはしないが、その“彼女”は、彼がかつて守った少女のことだ。
 ベルダンディーが奥から現れた。
「ようこそ、おふたりとも。今日はゆっくりしていってください。……ちょうど、お茶の時間ですから」
 五代は笑顔で頷いた。
 愛鈴は、五代の隣に座ったまま、ふと手を伸ばし――
 彼の手の甲に、そっと触れた。
「ありがとう。……なんだか、そう言いたくなったの」
「……ありがとうは、こっちのセリフだよ」 
 

 
後書き
### ◆余韻

この日、愛鈴は“ただの来客”としてではなく、
“かつて世界を救った者”と“世界の未来を視る者”として、
静かに交差する“魂の対話”を体験した。

それはまだ、彼女自身も言葉にできない“何か”だったが、
後に心の深くでずっと灯り続ける、小さな光となる。
 
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