ああっ女神さまっ 森里愛鈴
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11 風はかわる
以前は「森里屋敷」とされていた部屋。現在はここに「愛鈴のお部屋」の入り口がある。
亜空間に構築された部屋は、まだ6歳の愛鈴にとっては贅沢すぎるかもしれない。
ベッドでだらしなく寝ている愛鈴の上でC2が踊る。
「おーい、おきろ、お・き・ろ♪お・き・ろ♪ 目を覚ませ♪」
「あ…え?」
「おきろ♪起きなさいってば!」
「ねるぅ……」
「眠いと思考速度下がるのよね、この娘は」
広さはおよそ18畳。天井は高く、光は柔らかく、空気は澄んでいる。人の暮らす空間でありながら、どこか神殿のような気配を感じさせる――けれど、そこに転がるぬいぐるみや、ソファに座って笑う友達の姿が、この空間をしっかりと「ひとりの少女の居場所」に変えていた。
西の壁面はすべてが「巨大なスクリーン窓」になっており、まるでベランダのように外に開けている。けれど、それは「外」ではない。スクリーンに映されているのは、寺の庭のリアル映像。設定によって風景は切り替えられるが、物理的に出ていくことはできない。このスクリーンは、映画やアニメ、ゲームを楽しむエンタメ用ディスプレイでもある。
愛鈴が「C2、プリキュア見たい」と言えば、すぐに映像が映し出される。
スクリーンの前には6人掛けのソファが置かれており、その中央には低めのガラステーブル。アカネやユリが来れば、ここがたちまち秘密基地のような場所になる。
「C2、モンハンやりたい!」という子どもたちの声が響くと、すぐに画面には壮大な狩猟フィールドが現れ、にぎやかな午後が始まる。
部屋の北側、スクリーン窓から見て右手には小型冷蔵庫があり、その隣にはぬいぐるみコレクション棚。特に目立つのは、光沢のある限定版のテディベア。ユリが「わぁ、これ本物!? C2が探したの?」と驚けば、愛鈴は得意げにうなずく。「うん、お願いしたら見つけてくれたの。C2ってすごいのよ」
南側の中央には出入口のドアがあり、ドアのすぐ横には小さなトイレと洗面所の入り口も設けられている。
そして部屋の東側――静かな空気が漂うその壁には、愛鈴のベッドがある。やや大きめで、将来を見据えて用意されたものだ。ベッドのヘッドは壁にぴたりとくっついていて、その真上には両親の肖像画が飾られている。ベルダンディーのやさしい微笑みと、螢一のどこか頼りなげな顔――けれど、愛鈴にとってはなによりも安心できる「ふたりのまなざし」だった。
ベッドの南隣には学習机があり、ノートやタブレット、教本がきちんと並んでいる。さらにその横にはクローゼットの入り口、そして壁沿いにずらりと並ぶ本棚には、紙の絵本とセントパッドで読めるコンテンツの目録が両立していた。天井の照明は、天界から流れるエネルギーを亜空間変換して使っており、時間帯によって自然光のように変化する。
全体の色合いは目に優しいアイボリーホワイトでアクセントとして木目の部分がある。
「……起きた。だから騒がないでC2」
重いまぶたをこすりながら、愛鈴はふらふらとベッドを降りた。
毛布の名残を名残惜しそうに引きずったまま、部屋の南西――出入口の横にある小さなドアを開けて洗面所へ向かう。
亜空間内に設けられたそのスペースは、簡易的ながらも清潔で整っていた。
備え付けの小さな鏡の前で、水を手にすくって顔を洗う。冷たい水が肌に触れた瞬間、愛鈴の表情がピリッと引き締まる。
「ふぁ……つめたい……でも、ちょっと頭しゃっきりした……」
うがいをし、歯ブラシをくわえて無言でごしごしと磨く。その様子は6歳らしく、どこかおっとりしていて、けれど律儀だった。
洗顔と歯磨きを終えると、彼女は手を拭きながら部屋に戻る。
ベッド横の学習机に置かれた、それは――「セントパッド」
聖神学園の全生徒に標準配布されている、「教育補助用のタブレット型端末」だ。外見は薄型で、軽く、丈夫。操作性は直感的で、幼い子どもでも数日で使いこなせる設計になっている。
「……今日の時間割はっと……」
愛鈴はスリープを解除し、画面を指でなぞる。UIはシンプルで、視認性重視の設計。
セントパッドは学習教材の中心となるデバイスであり、授業内容・連絡事項・課題提出・テスト、そして登下校管理まですべてを網羅している。
通信は学園の敷地内に設置された専用ネットワークで行われ、外部アクセスは制限されている。そのため、通信費は発生せず、保護者の負担もない。
ただし――
「学園敷地外での使用」や「通信機能の拡張」は制限されており、旅行先や海外では使用不可。愛鈴もそのことを理解しており、遠出のときはスマホで代用している。
端末にはLINE風のメッセージアプリも標準装備されており、クラス内のやり取りや先生との連絡に使われている。
また、保護者の許可があればアプリの追加インストールも可能。ゲームや娯楽用途に使う生徒も一部いるが――
「うちの子、パッドに名前つけて呼んでるのよ」
「え、マジで? ウチも「ユウちゃん」とか言ってる……」
――と、保護者の間では軽く議論を呼んでいる。
画面に映る今日のスケジュールを軽く確認しながら、愛鈴はセントパッドをスリープ状態に戻す。
このタブレットひとつで、小学部から高等部までの学習課程をすべてカバーしているというのだから、大したものだ。
授業教材、復習問題、視覚教材、テスト管理、動画解説、そして教員との質疑応答――
すべてがこの薄いデバイスの中に詰まっている。
たしかに便利で経済的。教科書の重さに悩まされることもないし、移動中でも復習ができる。
時間の節約にもなり、効率的な学びが可能になる――はずなのだが。
「うちの子、セントパッドだけで本当に大丈夫かしら?」
「その浮いた時間、塾に行かせた方がいいんじゃ……」
そんな風に考える保護者も少なくはなく、結果的に放課後に塾へ向かう子どもたちも一定数存在していた。
愛鈴の家庭では、父・螢一の方針がはっきりしている。
「学びは体験の中にある。効率より、目で見て、心で感じて、手を動かして覚えることが大事なんだ」
だからこそ、セントパッドの活用には一定の線を引き、あくまで「補助ツール」として位置づけている。
C2が常駐し、わからないことを教えてくれる環境にあっても、愛鈴は教室に通い、友だちと並んで授業を受けていた。
扉が静かに開いて、朝の光のような声が部屋に満ちた。
「おはよう。一人で起きられたのね」
母――ベルダンディーが、穏やかな微笑みを浮かべながら部屋に入ってくる。
愛鈴は洗顔と歯磨きを終えたばかりで、まだ髪を整えないまま、椅子の背にもたれてぼんやりしていた。顔は覚めても、頭の中はまだ夢の続き。そんな様子を見て、ベルダンディーはふふ、と声をもらした。
「髪、整えてあげるわ」
そう言って、愛鈴の後ろにそっと座り込む。母の手が櫛を取り、やさしく髪をすく。
黒くやわらかな髪が、指の間をさらさらと流れていく音が心地よい。
「……ツインテールがいいんでしょ?」
コクリ、と小さくうなずく愛鈴。
彼女はまだ6歳――自分で結ぼうとすると左右の高さがそろわなかったり、結び目が変な方向を向いたりしてしまう。
だからこの時間は、少しだけ特別だった。
髪を分け、結んでいく母の手の動きは、まるで祈るように静かで丁寧。
きゅっと最後にリボンを結ぶと、ベルダンディーは優しく囁く。
「できたわ。今日も似合ってる」
「……うん、ありがとう」
朝の小さな儀式――それは一日のはじまりを告げる、心の支度でもあった。
ベルダンディーにとっては娘の微笑みがなによりのご褒美だ。
「さあ、ご飯にしましょう」
ベルダンディーの声にうながされ、愛鈴は小さくうなずくと、母の手を引いて部屋を出る。
後ろでC2が軽やかに踊る。
「ほいきたーっ!本日も絶賛起動中!お嬢さま、お出かけ前のご安全確認よー。忘れ物なし?髪よし、セントパッドよし、笑顔よし!じゃ、いってらっしゃーい!」
亜空間の扉が閉まる音のあと、二人は廊下を抜けて、いつもの「みんなのティールーム」へと向かった。
朝の光がやさしく差し込む空間には、すでに先客の姿があった。
螢一が新聞を折り畳んで顔を上げ、「おはよう」と微笑む。
その隣では、ウルドが頬杖をついてにやりと笑っていた。
「ねぼすけお姫様、おはよう」
からかい気味の声に、愛鈴はむっと眉を寄せながらも、ちゃんと返す。
「おはようございます……ウル姉、うるさいです」
「ほら、怒った怒った」
くすくすと笑うウルド。けれど、どこか嬉しそうだ。
ティールームの中央には、四人がちょうど囲める座卓の丸テーブル。
そこに今朝も、ベルダンディーが丁寧に用意した朝食が並べられている。湯気の立つ味噌汁と焼き魚、小さなオムレツに、炊きたての白ごはん。季節の果物を添えたヨーグルトも添えられていて、どれも素朴で温かい、日本の家庭らしい朝の食卓だった。
席についた愛鈴が、小さく手を合わせて言う。
「いただきます」
それに続くように、家族たちの声が重なって、静かな朝がはじまる。
靴を履き終えると、愛鈴は玄関で小さく息を吐いた。
「いってきます」
その声に応えるように、廊下の奥からベルダンディーの声がやさしく届く。
「気をつけてね。寄り道しないで、まっすぐ学校へ」
「うん!」
扉が開くと、やわらかな朝の空気が一気に流れ込む。
季節は春――亜空間の温度よりも、ほんの少しだけ冷たい空気。それが愛鈴の頬をくすぐる。
森里家は、他力本願寺の本堂に隣接する建物の一角に構えられていた。
その敷地内を抜けると、すぐに小さな坂道がある。そこからは、猫実市ののどかな住宅街が見下ろせる。
駅まで徒歩十五分、学校までは二十数分。
少し早めに家を出れば、ゆっくり歩いても間に合う距離だ。
カバンの中には、セントパッドと筆記用具、そしてベルが詰めてくれた昼食の包み。
全部そろってる。髪もきれいにしてもらった。朝ごはんも食べた。
「よし……」
愛鈴は小さくつぶやいて、階段を下りようとした――そのときだった。
ガツン、と勢いよく門が開いた。
「っと、悪い!」
「わっ!? スク姉っ!」
現れたのは、風のように忙しないスクルド、スク姉だった。制服ではなく、作業用のカジュアルジャケット。
片手には小型の機材ケース、もう片手にはドリンクボトル。髪はポニーテールにまとめてあり、額にうっすら汗が浮かんでいる。
「おー、愛鈴か。今日はちょっと急ぎなんだ、悪いな!……って、あんた登校時間大丈夫なの?」
「うん、いつもこの時間。スク姉こそ、今日はどこに?」
「新型セントパッドのフィードバック対応。天界側で承認取れたから、今日からアップデート入れて回ってんの。いやー、地上用にカスタムするの、ほんとにめんどくさ……じゃなかった、たいへん」
「……ほんとに大変なんですね」
「そうそう。それに、こっちの技術者さんとの打ち合わせもあるしさ。さすがに神の名刺は出せないし、『某クラウド開発チームのアーキテクト』って名乗ってんの。世知辛いわー」
そう言ってスク姉は、苦笑まじりに肩をすくめた。
スク姉は、現在――他力本願寺の近くにあるマンションに、仙太郎と二人で暮らしている。
結婚してすでに一年が過ぎ、表向きには「やや変わり者のフリーランス技術者」として知られているが、その実態は神の姫であり、天界でも最重要技術を預かる女神のひとりだ。
それでも、彼女は地上での生活を「地に足ついた暮らし」として大事にしていた。
市場に買い物に行き、町内会のイベントに顔を出し、夜は仙太郎とテレビを見ながら笑っている――そんな日々を。
「じゃ、あんたも気をつけてね。何かあったら、呼び出しなさい。通信コードは登録してあるから」
「うん。……スク姉も、お仕事がんばってね」
「へへっ、ありがと。じゃあ!」
スク姉は再び軽やかに門を飛び出し、通りの向こうへ駆けていった。
その背中を見送った愛鈴は、ふっと笑みを浮かべる。
女神で、天才で、スク姉で、でもたぶん――いちばん「頼れる人」
そして、史上二人目の「裁きの門」通過者。
「……私もがんばろ」
そう呟いて、愛鈴もまた、登校の道へと歩き出した。
猫実市――神奈川県南部、相模湾に面した海と緑の街。
都心からほどよく離れ、自然と都市機能がバランスよく共存するこの土地には、どこか懐かしさと柔らかな時間の流れが息づいていた。
市内には、小中高一貫教育を掲げる私立校「聖神学園」があり、教育水準の高さと自然環境の良さから、子育て世代にも密かに人気のエリアとなっている。
鉄道はJR猫実本線と私鉄「湘南急行電鉄」の2路線が乗り入れており、主要駅の周辺には商業施設と古くからの住宅街が静かに広がる。
けれど――この街には、誰もが「どこか不思議」と感じる空気がある。
夕暮れの海辺に漂う光、神社や寺にふと現れる動かぬ風、はたまた人ならざる気配……。
SNSには時折、奇妙な現象や「ちょっと変わった目撃談」が投稿され、都市伝説めいた話がひそかに語り継がれている。
そんな猫実市の東寄り、小高い丘の上に建つのが――他力本願寺「森里家」だった。
見た目はごく普通の住宅。少し広めの日本家屋ではあるが、遠目に見れば目立つことはない。だがその屋敷の奥には、かつて「森里屋敷」と呼ばれた特別な空間が存在していた。
今は外観こそ静かで控えめだが、訪れる者の中には、なぜか「背筋が伸びるような」気配を感じる者もいるという。
なぜ「森里家」が他力本願寺に住み着いてるのか誰も気にしていないのが一番の「異常」だと言える。
愛鈴が暮らすその家には、かつて世界を守った女神と人間の、静かで温かな日常があった。
愛鈴を見送った後、静けさの戻った森里家の玄関を閉じると、螢一はベルトの工具ホルダーを軽く叩いて歩き出した。
「さて、今日も一日、始まるな」
「ええ。……そういえば、今日は空ちゃん、早番でしたね」
ベルダンディーも淡い水色のワンピースに薄いカーディガンを羽織り、資料の入ったバッグを抱えて螢一の隣に並ぶ。森里家から歩いて20分ほどのところにある、バイクショップ――ワールウインド猫実店は、以前千尋が経営していたものを螢一が引き継ぎ、現在ではベルダンディーと整備士・空の3人で切り盛りしている。
静かな通りを抜け、シャッターを開けると、オイルと金属の香りが鼻をかすめた。
「……あ、あのっ、おはようございます!」
整備エリアの奥から、制服姿の青年が顔を出す。
長谷川 空、27歳。腕のいい整備士であり、今やワールウインドのもう一つの柱でもある。
ワールウインドには、店舗運営上最低3人の常勤スタッフが必要とされており、現在の構成は以下の通り。
* 螢一:店長(元整備主任、現在は主に顧客対応と技術監修)
* ベルダンディー:主に経理と事務(公的には「同伴スタッフ」扱い)
* 長谷川 空:整備アシスタント兼接客
「おはよう、そらちゃん。今日も早いな」
「例のYZF、パーツ届いてたでしょ? 気になっちゃって……」
空は油のついた手を慌てて拭きながら、螢一に伝票と納品リストを差し出す。その表情は真剣で、仕事に対する誠実さがにじんでいた。
「しっかりしてるわね、そらちゃんは。……婚約者さん、幸せね」
ベルダンディーの柔らかな笑みに、空の耳がカッと赤くなる。
「い、いえ……まだ、将来の話ってだけで……というか、その、あの、来週イベントがあって……彼女と、アニメの映画……」
「イベントって、「魔法騎士*リボンナイト」の限定上映会?」
「そ、そうです! ベルさん、ご存知なんですか?」
「愛鈴もたまに主題歌を口ずさんでますから。……あの「変身シーン」、女の子の心をくすぐるんでしょうね」
「でしょうね~!」と後ろからウルドの声が聞こえてきそうだ、と螢一は思わず笑いそうになるが、ぐっと堪えた。
「それにしてもさ」螢一が伝票に目を通しながら、ふと思い出したように言う。
「この店も、最初は俺で大丈夫か?って不安だったけど……思ったより順調にいってるな」
空が相槌を打った。
「規模も拡大したしね。千尋さんが見たらびっくりするんじゃない?」
「だよな……最近、昼休みに顔出してくるんだけど、つい昔の話になる」
整備エリアの奥には、修理待ちの中型バイクが3台、洗車済みの展示車が2台。タイヤラックには各種ホイールと予備パーツ。ベルは受付に入り、今日の予約と在庫状況を確認し始めた。
店内には、午前の日差しがガラスを通してやわらかく差し込み、機材の銀と青がきらめいていた。
「さあ、今日も一日、がんばろうか」
螢一が手を叩く。空は背筋を伸ばし、
「はいっ!」
少しだけ頼りなげで、でも確かな意志を持った声が、店に響いた。
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