世界はまだ僕達の名前を知らない
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仲間の章
07th
ボーダーライン
さて、夕方である。黒女はあれから少しして戻ってきて、「私のアーニちゃんが戻ってきたー!!」と店主の娘が狂喜する一幕もあったりしつつ、業務終了の時間となった。
「半日ぶりだな、ツァーヴァス」
巨女がトイレ男を迎えに来たので、トイレ男は普段着に戻り、店を後にした。
「あ"あ"ア"ー"ニ"ち"ゃ"ん"ん"ん"ん"ん"ん"」
店主の娘のまるで最愛のペットと引き離されるかのような声を背にしながら、巨女が問う。
「コイツはどこまで着いてくるんだ?」
コイツとは言うまでもなく黒女の事である。
【家の前まで】
「そうか」
警戒対象を増やしてしまって申し訳ない気持ちである。
「あ、言い忘れてたけど」
そんな二人のやり取りを聞いていたのかいなかったのか、黒女が一瞬目を大きく開いてから言う。
「私、今日ツァーヴァスの家に泊まるから」
「「…………!?」」
◊◊◊
三人分、つまりいつもの三倍もの食材を買って帰り、すっかり軽くなったというか無になったポケットを擦るトイレ男は黒女の話を聞いて納得できるようなできないような微妙な気持ちになった。
曰く、暫くはトイレ男に対する監視を強化するとの事。理由は昨日の午後監視から外れていた事。トイレ男は『私用が入った』と私的な用事である事を強調して書いたのだが、それが茶男に疑念を抱かせてしまったらしい。
「……………………」
本格的に彼に顔を出した方がよくなってきた気がする。
しかし明日は前衛兵の所に行かねばならなず、明後日は壷売り残党の拠点攻撃の日だ。顔を出せるとしたら明明後日以降。明日明後日は休みを貰ったとはいえ、時間を作れるかはだいぶ怪しい、というか作れないだろう。
もうこれに関しては今考えても仕方が無いので、トイレ男は椅子を斜めにしたり倒しかけて慌てたりする黒女を眺める。
「……………………」
接し方がわからない。
本来ならば、悪人として突っぱねるべきなのだろう。が、心のどこかがそれを可哀想だと制止する。同情の余地の無い悪人なのに? 理論では通らない何かが心を支配していて大変気持ち悪い。
「どうしたのよそんなにジロジロと。私がそんなに可愛い?」
「……………………(首を横に振る)」
「!? ひ、ひどい!!」
……こんな遣り取りをどこか心地よく感じてしまう自分を本気で嫌悪した。
「……二人とも待たせたな」
そこへ、料理をしてくれていた巨女が戻ってきた。手には鍋を抱えており、それをドサッと机に置いた。そして中身をあらかじめ出しておいた器に分ける。とろみのある液体が白い湯気を昇らせる様子はなかなかに食欲をそそった。
巨女は配膳を終えると鍋を台所に戻しに行き、すぐ戻ってくる。その間にトイレ男は器とスプーンの位置を調整した。一人暮らしのトイレ男にスプーンが複数置いてあるのは、たまに友人達を呼んで昼食会をするからである。
三人揃っていただきますの合図をして、夕食が始まる。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
誰一人として喋れない。巨女は黒女を警戒しているし、黒女はガッツリ警戒されて居心地が悪そうだし、トイレ男はそもそも喋れない。
カチャカチャとスプーンと器がぶつかる音だけが響き、遂にはそのまま夕食が終わる。巨女が三人分の食器を回収し台所で洗う。
「体を洗いたいのだけど」
【風呂なんてたいそうな物は無いから奥の部屋で体拭いてこい】
「ケッ、貧乏な家!」
先程の仕返しか、トイレ男の収入の低さを嘲りつつ黒女はトイレ男の寝室に入った。ひどい。
「ツァーヴァス」
漸く二人きりになれたタイミングで、巨女が食器を洗いながら話しかけてきた。
「彼女は監視なんだよな?」
「……………………」
頷いても彼女からは見えないので、トイレ男は巨女の元まで行き『はい』と書いた紙を見せた。
「にしては馴れ馴れしい気がするが」
【そういう奴です】
「……監視役としてどうなんだ?」
【ダメダメでしょうね】
今も自分の都合を優先して監視対象から目を離してるし。この現状を茶男が知ったらどうなるだろうか。
「彼女と居ると酷く脱力させられて、何かこう、扱いに困るな」
【僕もです】
トイレ男は同士が居た事に少しほっとした。
「……これは私の老婆心からの忠告なんだが」
巨女はやや躊躇いながら、トイレ男の様子を見ながら切り出した。
「人を『悪人』『善人』という色眼鏡で見るのはやめた方がいい」
「……………………?」
善きを助け、悪きを挫く。そういう生き方をする彼女からそんな言葉が出てきた事をトイレ男は不思議に思った。
「私はこれまでに相当な数の犯罪者を懲らしめてきた。その内半分くらいはチンピラだが、もう半分の中には止むを得ず法を犯した者や、そもそも『善い』『悪い』のボーダーラインが私達と違う奴も居る」
「……………………」
「一つ例を出そうか。ヘルマン、覚えてるか? あのヘラヘラした奴だ」
「……………………」
ヘラヘラ男。前衛兵に呼ばれた内では唯一トイレ男と同じ、義務貢献処分の男だ。彼がどうしたのだろうか。
「彼は私達と常識が違った。親にどんな教育をされたかは知らんが、物は人から奪うもの、というのが彼にとっての常識だったんだ」
「……………………」
トイレ男にとって、物とは他の人から貰う、或いは自分の物と交換するものだ。それが当たり前の常識として根底にある。
だから、そうでない人間が存在するという事は大きな衝撃だった。
「一応今は矯正してる。だが本人も、昔の事が癖みたいになってしまっているんだろうな。ふとした瞬間にスリをしてしまいそうになるとよく嘆いている」
「……………………」
あのヘラヘラした態度の裏でそんな苦悩があったなんて。
「私は彼女も同じなんじゃないか、と睨んでいる。あの分じゃ、幼い頃から人を殺す事を教え込まれていた筈だ。もう少し成長していたならともかく、あの年齢じゃ親、というか育て役の言う事を鵜呑みにしてしまうのも仕方無い。疑う事なんて知らない年齢だろうから」
「……………………」
「確かに、あの子のその常識は忌むべきものだ。ただ、その常識は他者に植え付けられたものであって、彼女本人は悪くない。私にはそう思える。……だから別に、接し方に悩む必要は無いんじゃないか?」
「……………………」
人を殺す事が、当たり前。
そんな人間と仲良くしてもいいのか? その恐ろしき常識に、気付かぬ間に染まってしまうのではないか?
「ツァーヴァスー! 着替え忘れたから服貸してー!!」
寝室からそんな声が聞こえてきた。
「……………………」
「まぁ、あくまでも私個人の意見だ。参考にするもしないも君の自由だ」
巨女はそんな苦笑混じりの言葉で締めた。
トイレ男は巨女の横を離れ、寝室の前に立った。少し軽くなった心で『その部屋にある服を適当に着ろ』と書き、その紙をドアの隙間から差し込んだ。
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