機動戦士ガンダム0086/ティターンズロア
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第二部 黒いガンダム
第六章 ヒルダ・ビダン
第五節 散華 第四話
ヒルダは機体の衝撃で目が醒めた。
シートベルトを外して通信を封鎖したエマに抗議している最中に受けた攻撃で、脳震盪を起こし、気絶していたのだ。
「う……」
宇宙空間を映す全周天モニターは、さながら宇宙に放り出されたかのような錯覚をもたらす。ぼやっとして意識がはっきりしない状態では尚更だった。
「えっ?……い、いやあっ!!」
ヒルダはパニックに陥った。人は宇宙で浮遊したが最後、助かる見込みなどない。真空では、もがいたとて、その場に回転するだけで、推力がない限り移動はできない。緊急用にエアを使って推力を得ることはできるが、エアが切れれば、窒息死という惨たらしい終わりを迎えるしかないのだ。
必死にもがく。すると体が動いた。コクピットには空気が充ちている。空気抵抗のお蔭でヒルダの体は虚空を泳ぐかのようだった。しかし、ヒルダはそんなことに気付く余裕を与えられなかった。
背後から、覆い被さるように《カスタム》が腕を伸ばす。羽交い締めにして抵抗がないことを確認して、パイロットを捕獲しようというのだ。
――ハッチを開けろ!開けなければ、ビームサーベルで抉じ開けるぞ!
かなりの声量だ。接触回線は、便利だが電導性の問題から声が多少劣化する。ノイズを感じさせない音声は、声の大きさより、指向性の強さを物語る。つまりは、よく通る声だ。その、かなり明瞭に響いた見知らぬ声に、ヒルダの恐怖は一気に「死ぬ」から「殺される」へと塗り替えられた。
巨人さながらのMSの手には短い棒状の兵器――ビームサーベルが握られている。柄の先から光が少し噴き出していて、今にも光の刃が伸びてきそうだった。
「ヒィッ!」
仰け反ったヒルダは全周天モニターに突き当たり、ようやく自分がMSのコクピットに居たことを思い出す。自分はMSの操縦などできない。操縦していたのは――
「エマ中尉」
気を失ったエマの肩を揺するが、意識はない。エマはパイロットシートに固定されたまま気絶していた。さらに肩を揺さぶろうとして、躊躇う。エマを起こしてどうするというのだ。エマは決して投降しないだろう。
なら――投降するなら今しかない。
そう考えた瞬間、伸びかけた手が留まった。ハッチを開けて投降しなければ、あのビームサーベルで灼かれて殺される。自分は何も悪いことなどしていないのだから、夫や息子のいうようなことにはならないのではないか。
ヒルダの主張は強ち間違いではない。
だが、それは、軍隊の銃口が市民を護るためより、権力者を護るために市民に向けられることの方が多い――軍隊が基本的に権力者のための暴力機関であることの方が圧倒的に多いという歴史的認識を持っていないということである。さらに、ティターンズは軍隊ですらないと評される『重力に魂を引かれた人たちの私兵』――つまり、地球居住者、とりわけその中でも一部の選民思想者たちのためだけにある暴力機関という認識が出来ていなかった。
(ハッチを早く開けなければ)
殺されたくない。その一心だった。
ヒルダの専門は材質工学であり、ルナチタニウム精製や複合材質による強度向上を研究しているため軍に所属しているだけで、MSなどに興味はない。したがって、コクピットハッチの操作など解るはずもなかった。
だからコンソールなど触ろうともせず、全周天モニターの正面横にあるハッチロックに取り付いた。それは、電気系統や電子機器が故障してもハッチを開けることのできる油圧式のロックである。
「い、いま開けます。開けますから、殺さないでぇっ」
ヒルダは目の前の暴力に屈した。フランクリンが振るう暴力は所詮感情の暴発に過ぎず、己で対処出来うるものだ。しかし、これは違う。一瞬で消滅する――人としての存在が無となってしまうということに思える。死んだことさえ認識されないかも知れない――それは人の尊厳を冒涜するものでしかなかった。
油圧式ロックはリング状のハンドルになっている。体重を掛けて押し込み、セーフティを解除した。そこから反時計回りにハンドル回せばよいのだが、女の力ではなかなか動かない。
どれ程の時間が掛かっただろうか。
ヒルダには途方もなく長い時間に感じられたが、実際には然程の時ではない。
――グオンオン、ゴンゴンゴン
不意に機械音が鳴る。油圧式のロックが内側から解除されると自動的に外で胸部コクピットシールドがせりあがっていくようになっているのだ。コクピットシールドが上がりきると、ハッチを覆う紅いシールドが降る。内側がタラップになっており、ガントリーレーンがあれば、直結するようになっていた。
――シュー……
エアロックが解除され、空気が抜ける音が聞こえなくなると、ハッチを開けることができる。ハッチ上のランプが赤くUNLOCKと点灯した。一瞬、ヒルダは躊躇した。
本当にこれでいいのだろうか。カミーユの言葉は嘘ではない。だが……。首を左右に振って、迷いを断ち切るようにハッチの開ボタンを押した。
既にビームサーベルの光は消え失せ、MSは掌を差し出している。生理的な恐怖は拭えないが、見馴れた連邦のMSである。ハッチをくぐり、タラップから脚を伸ばして、巨大な掌に移った。
――そうだ。そのまま腹這いになれ。
先程の声がより明瞭に、そして少しだけ優しかった。ヒルダはそれだけで自分が死を免れたと感じた。
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