故郷は大空にあり
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第三章 忘れられないもの
第三話 日常は突然に
「ふんふふ~ん……♪」
ドライバーを回しながら、ヒナは鼻歌混じりにネジを締めていた。
開け放たれた格納庫の扉からは、初夏の風が吹き込んできて、作業着の袖をくすぐる。
「ヒナ、また鼻歌歌ってる。ご機嫌だね」
先輩がペットボトルを片手に戻ってくる。額にうっすら汗をかきながらも、その声には柔らかい笑みが宿っていた。
「んー、先輩の機体、もうちょっとで整備終わるからです!」
「お、それは助かる~。訓練の時間、ギリギリになりそうでヒヤヒヤしてたんだ」
先輩は工具棚の前に腰を下ろし、ヒナの作業を見守るように座った。
「……でも、ヒナってほんと器用だよね。前に比べて作業も早くなってるし」
「えへへ……先輩の機体にだけは、特に気合入りますから!」
「うわ、それは嬉しい。けどプレッシャーでもあるなあ」
ヒナは笑いながらドライバーを置き、手袋を外してポケットからハンカチを取り出した。
「先輩こそ、飛ぶの怖くなったりしませんか?」
「え?」
「わたしはまだ……なんていうか、空の高さが怖いっていうか、落ちたらどうしようって思っちゃうんですよね」
「そっか……ヒナは整備士として優秀だけど、パイロットとしてはまだ不安があるんだ」
ツバキは頷きながらも、すぐに言葉を継いだ。
「でもそれ、普通だよ。誰だって最初は怖い。わたしも訓練生の頃、最初のフライトの前日は緊張で寝れなかったし」
「え、ほんとですか!?ツバキ先輩が!?」
「ほんとほんと。今だから笑って言えるけどね。でも、そんなときに『大丈夫』って言ってくれる先輩がいてさ。
その人の整備してくれた機体なら安心できた。だから今度は、わたしがヒナのそんな存在になれたらって思ってるよ」
ヒナはその言葉に少しだけ目を潤ませながら、首を小さく縦に振った。
「……嬉しいです。先輩がいてくれて、本当によかった」
作業がひと段落ついた頃、ヒナはスパナを手から離し、背伸びをした。肩の関節が軽く鳴る。
「ねぇ、先輩」
「ん?」
「もし、空を飛ばなかったら……どんな仕事してたと思います?」
先輩は少し考えてから答える。
「うーん……小さなカフェとか、やってみたかったかも。お昼だけ開いてて、ランチがちょっと評判のいいようなやつ」
「へぇ〜〜、似合いますねぇ〜。でも先輩、絶対コーヒー濃く煮詰めるタイプです」
「なにそれ、失礼じゃない?」
「だって先輩、訓練のときもエンジン回すときも、ちょっとアクセル強めなんですもん」
「むっ……まぁ、たしかにパワー出したくなるけどね」
「でも、そういうとこ好きですよ。空、わたしにはまだ遠く感じるけど……先輩はそれをぐんっと引き寄せてくれる感じがして」
照れくさそうに頭を掻くツバキ。
「なによ、今日はやけに褒めるじゃん」
「たまには。っていうか、いつか先輩に追いつきたいから。……まだ空を飛ぶのは怖いけど、そばにはいたいなって思って」
「……ヒナはそのままでいいよ。焦らなくても、ちゃんと飛べるようになる。わたしが教えてあげる」
「ほんとに?」
「もちろん」
その日の夕方、格納庫を出たふたりは、鎮守府裏の浜辺までふらりと足を伸ばした。
「……夕日、綺麗ですね」
「うん、明日も晴れるといいな」
ヒナタは靴を脱ぎ、素足で砂に足を沈める。まだほんのりと温かさが残る砂の感触が心地よかった。
「ねえ、先輩」
「ん?」
「わたし、空が怖いって思ったこと、先輩には言ったけど……本当は、それでも飛びたいって思ってるんです」
「……知ってるよ」
「え?」
「ヒナの目を見てれば、わかるよ。整備してるときの真剣な顔も、訓練機を見上げるときのまなざしも」
先輩はそう言って、砂浜にしゃがみこんだヒナの隣に腰を下ろす。
「でも、焦らなくていい。わたしが隣にいるから、ちゃんと大丈夫って思えるようになるまで、ずっと見てるから」
「……ありがとうございます」
空はゆっくりと茜に染まり、波音がやさしく耳に届く。
ふたりはそれ以上言葉を交わさず、ただ夕焼けの中、並んで海を眺めていた。
その時の沈黙が、いつかヒナの中で最も大切な記憶になるとは、このときまだ知らなかった。
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