世界はまだ僕達の名前を知らない
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決意の章
06th
信じられない話
「ぁっ、ぁっ、ぁっ、ぁっ、」
トイレ男が喘ぐ。
「もう少しです」
彼の腕を引く衛兵がそう声を掛ける。
「ぁっ、ぁぅっ、ぁっ、ぁっ、」
トイレ男は走りながら頷いたが、相手に伝わったかどうかは不明であった。トイレが摺り落ちそうになったので慌てて抱え直す。
彼らは路地裏から出、今は表通りを走っていた。既に疎らになりつつある人通りが彼らを不審そうな目で見詰める。
「見えました、あそこです」
角を曲がると、玄関に二人の衛兵の立つ建物が見えた。
衛兵はそこにトイレ男と共に傾れ込む。
「ニーアス!? どうしたんだい!?」
「路地裏区画にて、支部長と他三人、そしてリーフィア氏が何者かと戦闘になった。私は別件で保護したこの男を巻き込まぬ様に離脱し、先に帰ってきたという訳だ。……支部長はまだだな?」
「まだだけど……支部長とリーフィアちゃんが戦闘? 一体何が有ったんだ??」
「さぁ……支部長曰く、相手は女二人、男一人だそうだが」
「…………尚更よく解らないな」
『支部長の帰還を全く』という事で取り敢えずは落ち着いた衛兵と、入口に立っていた衛兵は納得すると、トイレ男を建物の中に招き入れた。
「この男に関しても支部長が帰ってからになるだろう。アルトー、悪いが様子を見ていてくれ」
「了解っと。……所で彼が脇に抱えてるのは?」
「解らんのだ、こっちにも。取り敢えず壷売り関連ではない」
「だから何だってんだ……えぇと」
入口に立っていた二人の内、右側に立っていた衛兵は、
「衛兵のアルトー。宜しくね」
と、トイレ男に簡単な自己紹介をした。手を伸ばされたので掴み返し、握手をする。
「あ、それとどういう訳かこいつは喋れない」
「…………かなり個性的な人なんだね」
『個性的』のワードに込められた意味がマイナスの物かの様に感じられたが、それは置いておいて。
右衛兵はトイレ男を二階の部屋に案内した。
「……………………」
質素な部屋に通されたトイレ男は、案内されて一人掛けのソファに座る。
「……えぇと、喉乾いたよね?」
トイレ男が頷くと、右衛兵は「じゃあ水持ってくるよ」と一時退室した。
「……………………」
何と無く懐かしさの有る部屋だった。殆ど何も無い質素な感じが、こう、トイレ男のノスタルジーを刺激してくる。記憶無いのに。
それ程時が経つ前に右衛兵は戻ってきた。
「はい」
水の注がれたコップを受け取り、一息に飲む。思えば、気が付いてから一度も何かを口にしていなかった。
「良い飲みっぷりだねぇ〜。それとはいこれ」
豪快に一気飲みした事をニヤニヤと茶化してくる右衛兵がポケットの中から何かを取り出し手渡してくる。
受け取ってみれば、それは紙とペンだった。
「喋れなくても書けはするんじゃない?」
そう言ってくるので、文字を書いてみる。
【トイレ】
「……………………、う、うん、書けるみたいだね」
右衛兵は紙とトイレ男の抱えるトイレを何回か見比べて、何も言わない事にした。
「それじゃあ、先ずは名前を教えてくれる?」
【記憶が無いので判りません】
「…………、もう一回」
【記憶が無いので判りません】
「……………………」
右衛兵は二行並んで書かれたその一文をマジマジと見詰める。
「……じゃあ喋れないのは何で?」
【判りません】
「そのトイレは何?」
【判りません】
「親の名前は?」
【判りません】
「…………本当に何も憶えてないんだね」
執拗いぐらいの確認の上、右衛兵はトイレ男が本当に記憶が無いのだと信じた。
「記憶喪失で喋れない上にソレって……君、怪し過ぎない?」
【最初は宗教家と間違えられました】
「…………まぁ仕方無いだろうね」
右衛兵はトイレ男の全身をジロジロと見た末にしみじみと言った。確かに、言われてみればそうとしか思えないのであった。彼を連れてきた衛兵が『壷売り関連ではない』と態々言ったのも頷ける。
「……………………」
「……それで、どうする? 支部長が帰ってくるまでする事も無いけど」
記憶が有れば色々と話を聴いたんだけどね、と右衛兵。聴く話が無いのだから聴き様が無いのであった。
「……………………?」
さぁ? とでも言いた気に首を傾げたトイレ男を見て、「そうだな、それじゃ本でも……」と立ち上がろうとした右衛兵であったが、
「……何やら一階が騒がしいね。ちょっと見てくる」
と立ち上がる目的を変え、再び退室した。
「……………………」
一人残されたトイレ男は天井を見上げ、シミの数でも数える事にする。
「……………………」
シミが顔に見えたので止めた。怖い。
◊◊◊
「総員集合ッ!」
前衛兵は詰所に帰還するなりそう怒鳴る。
「え……」
「集合ッ!!」
突然の事に唖然とする衛兵達を再び怒鳴り付ければ、彼らは蜘蛛の子を散らす様に建物中に散っていった。建物中から衛兵を集める為だ。
「苦しいだろうが、リーフィア氏を休める部屋に運んでくれ」
「「了解」」
共に帰ってきた衛兵達に言えば、彼らは未だ目を醒まさない巨女をえっちらおっちら上階へ運んで行った。
「…………さて」
この目で見た確かかつ信じられない事をどう説明するか考える事少々。
衛兵全員が前衛兵の前に集合し、考えの纏まらない侭に話し出す事になった。
「……いいか」
結局、前衛兵は事実を有りの侭で話す事にした。
「今から言う事の幾つかは信じられないかも知れないが、本当だ。疑問が有れば、話し終わってから訊いてくれ。⸺先ず、ここが襲撃される」
一気に場がザワ付いた。
「静かに。私と、シザノアにアッズ、ニヨンドそてリーフィア氏とで襲撃犯と目される三人の捕縛を行う為戦闘を行った。そこで信じられない事が起こった」
前衛兵は、一瞬、黙った。言っても信じられる気がしなかったのだ。
それでも、己の普段の行いと部下達からの信頼を信じて、言う。
「先ず、リーフィア氏が倒れた。手で触れられていないにも関わらず、だ。敵は彼女に向かって腕を伸ばすだけでそれを為した」
再び場がザワ付いた。
巨女と言えば、衛兵の誰もが知る逞しい正義漢である。彼女はこれまで数多くのチンピラを倒してきたし、何度か衛兵の作戦にも参加している。そんな彼女が手も触れられずに倒されるなんて、とても考えられなかったのだ。
「何か罠が張ってあったという可能性は無いんですか?」
「質問は後だと言ったろう。しかし、その可能性は低いと思われる。リーフィア氏に異常が起きて気絶するまでには幾らかのタイムラグが有ったが、その間も敵はずっと彼女に向かって腕を伸ばしていたからだ」
何かしらの罠が張っており、それに巨女が掛かったのだとすると、敵の行動が可怪しいし、そもそもその罠はどんな罠だという話になる。敵が得体の知れぬ能力を行使していたと考えた方が辻褄は合うのだ。
「そして、その敵とは別の敵だが……そちらは宙に浮かび上がった」
「「「!?」」」
信じられない、という気配が伝わってきた。
「それだけに留まらず、彼女が脱ぎ捨てた靴は地面を凹ます程の威力を持っていた。訳が解らないだろうが、もうそういう物だと思ってくれ。私だけでなく、シザノア、アッズ、ニヨンドもそれが事実だと保証しよう」
前衛兵の隣に立っていた三人の衛兵が深く頷いた。
あの三人は衛兵達の中でも実力が有り真面目であると認識されている。彼らが揃って頷く事で、前衛兵一人の妄言であるという可能性は無くなった。残る可能性は二つだ。真実か、四人揃って気が可怪しくなったか。衛兵達はどちらを信じるか、判断を迫られた。
「質問です!」
「答えよう」
それから前衛兵は、質問の雨に暫し対応した。
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