世界はまだ僕達の名前を知らない
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決意の章
05th
友人(?)
詰まる所、記憶喪失なのであった。
「……………………」
名前も何も思い出せない。自分の顔だって判らないし、性別だって知れない。知り合いだって居たかどうか定かではないし、何なら自分が人間であるという確証すら無い。
男(ズボンの中を確認して、辛うじて性別だけは得た)は小脇にトイレを抱え、広い往来のど真ん中に立っている。
「……………………」
一体全体これはどういう状況なのだ。
男は取り敢えず通行の邪魔になっている事を察して道路の端に移動する。
「……………………」
頭の中は真っ白だ。トイレの色である。頭の中がトイレで埋め尽くされている⸺流石に嘘だ。何も思い浮かばないだけである。これからの行動、身の振り方、将来の野望と何から何まで思い付かない。記憶が無いのだから当たり前であろう。記憶があればあったのだろうか。記憶が無い今となっては判らない。
取り敢えず男は道の端で往来を眺めている事にした。小脇に持っているのも疲れるのでトイレは前に抱える。トイレを抱えて人の流れを眺める男が出来上がった。トイレ男である。「…………」、人々は彼を避ける様に通行した。自然、彼の前にはそこそこ広い無人空間が出来た。
「……………………」
トイレ男は何だか悲しくなった。悲しくなって、それでより一層トイレを強く抱き締めるから、その度に無人空間は広くなって、トイレ男は更に悲しくなった。
「……………………」
悲しく人の流れを見ていると、殆どの人が一定の方向に流れていっている事が判った。
トイレ男から見て、右から左。その向きに人々は流れている。稀に逆走する者も居るが、本当に稀で、川が流れているかの様である。
人が去るのはそこに目的が無くなくなったからだ。
トイレ男は多くの人々が同時に目的を無くす場所とは何なのだろうと気になった。
という訳で彼はトイレを抱えて逆走する。
「……………………」
人々は自然とトイレ男を避けた。なので道はそこそこ混んでいるにも関わらずトイレ男は人に打つかる事無く楽に通行できた。「…………」、皆何が嫌なのだろうか。
そんな風に思いながら或る程度歩いた時だった。
「おっ! ツァー……ヴァス?」
そう最初は友好的に、しかし後半に行くに連れ自信を無くす様に話しかけられたのは。
◊◊◊
彼はトイレ男の友人を名乗った。
「……記憶喪失ってマジ?」
「……………………(頷く)」
今は道端に二人で話して⸺片方は筆談だが、会話は会話だ⸺いる所だ。幾ら話し掛けても応答せず困った様に佇むトイレ男を不思議に思った友人氏が、持っていた紙とペンを渡してみればトイレ男は真っ先に『記憶が無い』と書いたのだった。「「…………」」、二人してお互いを見詰め合い、沈黙。
「……そのトイレは?」
【何か持ってた】
「棄てないのか?」
【棄てたくない】
最初は敬語で話していたトイレ男だったが、友人氏が『お前に敬語で話されると、こう、何か、ムズムズするというか、あー、気持ち悪い』と言ったので、通常語を書いていた。
「…………気持ち悪くないか、それ?」
【気持ち悪くない。寧ろ好い】
「……………………そうか、お前は頭を打ったんだな。それでその時に一緒に記憶も無くしたんだな」
友人氏の中で、トイレ男は『何かに頭を打つけ、その拍子に記憶を無くし、偶々近くに有ったトイレに刷り込み的なサムシングで愛情を持ってしまった哀れな男』という事になった。少し抗議したくなったトイレ男だった。
「あー、しかしそれだと喋れない事の説明が付かねぇなぁ。お前ホントに喋れない?」
「……………………(頷く)」
「もう喋り方とかも判んない感じ?」
「……………………(首を横に振る)」
喋り方は判る。だが、とてもやる気になれないだけだ。無理にやろうとしても、何か恐ろしい物が込み上げてくる様な感覚に襲われる。
そう伝えると、友人氏はうーんと唸り考え込んだ。
「判んねぇな」
そして直ぐに諦めた。
「まぁ、取り敢えず今日はウチに泊まんな。何も憶えてないんじゃ色々と不便だろ?」
「……………………(頷く)」
確かに、トイレ男は夕食の作り方は疎か自分の家の場所すら憶えていない。そんな体で夜を越せと言われても無理が有った。
トイレ男は夕焼けの下、感謝する様に腰を曲げた。
◊◊◊
「ドリフェルの家へようこそ! 結婚する事を見越して買った大きめの家だが未だに結婚できない寂しい男の家だぜ!」
「……………………」
それは果たして自慢気に言う事なのだろうか? トイレ男は疑問に思った。
家に上がるに当たって靴を脱いで欲しいとの事だったので、脱いで靴棚に入れた。将来まだ見ぬワイフと円滑な生活を送る為に清潔には気を使っているのだという。どうでもよかった。
「……………………」
スリッパを履かされ、居間に通されたトイレ男は「じゃ、晩飯作ってくるからちょいと待っててくれや」と言われたので大人しくソファに座って待つ事にした。将来まだ見ぬワイフと円滑な生活を送る為に一通りの家事はできる様にしているのだという。どうでもよかった。
「……………………」
ソファに体を預け、トイレを抱き抱える。背凭れに完全に体重を預ける様に上を見れば、先程友人氏が火を付けたランプがぷらぷら揺れていた。曰く、留守にしている間に万が一が有って火事が起こり家を喪わない様に外出時は毎回火を消しているのだという。「…………」。そんな面倒な事を続けられる彼は意外と几帳面なのかも知れない。そう思った。
「……………………」
ぷらぷらと揺れるランプを眺める。特にする事も無いのでそうしていたのだが、オレンジ色なのと、一定のリズムで揺れるのとで段々と眠くなってきたトイレ男であった。
「へいお待ちぃ! ドリフェルの特製デリシャス☆サムシングだぜ!」
「……………………」
具体的に何かは決まっていないらしい。トイレ男は取り敢えずミートボールではないな、と思った。
ねっとりとした餡の中に様々な具材が入っている料理だった。茶色いのは肉だろうか? ミートボールの破片に似ている気がする。黄色のは全く見当も付かない。赤色のは何だか辛そう。
トイレ男は友人氏に頭を下げてから、スプーンで餡を掬った。
「……………………」
特に狙った訳ではないのだが、具は一つもスプーンに載っていなかった。
「あー、うまうま」
友人氏はトイレ男の向かいで、そう自画自賛しながら料理を食べていた。実に美味しそうに食べるのであった。「…………」、何と無く、自分で作った料理をああも美味しそうに食べられるのは凄いと思った。
そんな友人氏に食欲を強く刺激されたので、餡しか入っていないスプーンを口に入れる。「…………」、少し熱かった。熱かったが、熱いからこそ判る美味しさというのが有る気がした。これは冷めたら不味い奴だ。そう思い、直ぐに次の一口を食べる。「ッ……!」、熱くて噎せ掛けた。
「おいおい急がなくていいんだぞ? 遅かったら奪うから」
トイレ男を落ち着けようとしているのかはたまた急かしているのか、ちょっとよく判らなかった。
そんな感じで特にこれと言って特筆するべき様な事も起こらず、夕食の時間は終わった。
「ふぃー、疲れた。風呂入る?」
食器を洗い終えた友人氏がそう言いながらトイレ男の横にどっかりと座った。「……………………」とトイレ男は首を横に振り、『先にいいよ』と紙に書いた。
「んあ? 俺はいいよ」
「……………………」
家は綺麗にして家事も熟すのに、自分の清潔には興味が無い様だった。だから結婚できないのでは? トイレ男はそう疑問に思った。
「どうする? 行く?」
「……………………(首を横に振る)」
実を言うと風呂の事は憶えていても風呂の入り方は判らなかった。何と無く訊きたくなかったので、今日は入らないと誤魔化す事にした。
「そかー」
友人氏はソファに全体重を預ける様にして上を向いた。
「……………………」
「……………………」
会話が途切れた。
トイレ男は何だかソワソワしてきた。何か、話す事は無いかと話せないのに焦り出した所で、
「なぁ⸺」
友人氏が唐突にタイミングでそう切り出した。
「⸺記憶を無くす前のお前の話、聴きたい?」
「……………………」
トイレ男は一も二も無く頷いた。
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