冥王来訪 補遺集
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第三部 1979年
原作キャラクター編
代理人 アイリスディーナ・ベルンハルト
前書き
ハーメルンで書き下ろした話の再録になります。
「苦境 その3」から「苦境 その4」の間に入る話です。
本編に追加しても良いのですが、順番が狂うのでこちらにしました。
「アイリスディーナには話しておいてくれたかね」
日本で開催されるサミットに出発する日の朝、議長はシュトラハヴィッツ中将を呼び、話しかけていた。
それが、情報工作であることはシュトラハヴィッツにわかっていた。
「2,3日、時間をいただけませんか」
「済まない。
向こうにいる特別投入将校に、早々にスケジュールを伝えないといけないのでね」
「1週間しかありませんからな」
「なにせ、俺からは言いにくい話なんでな」
「アンタも意外と純情なんだな」
シュトラハヴィッツがアイリスディーナにすぐ話さなかったのには事情があった。
工作員を介して連絡を取っておいたミラ・ブリッジスの知人は喜んだものの、やはり実際アイリスディーナに会って、納得したい様子だった。
東京サミットの日に合わせて、新宿のホテルで会食をする予定になっていた。
シュトラハヴィッツもまた、議長やアイリスディーナに話す以上、先方からしっかりとした言質を取っておきたいという気持ちを強く擁いていた。
だから100パーセントの結果を得て、二人に話すつもりだった。
赤坂からほど遠い、新宿の京王プラザホテルを選んだのには理由があった。
赤坂見附周辺のホテルは、既に英米を始めとする外交関係者で予約が埋まっていた為である。
また報道関係者の目を避けるために新宿の京王プラザを選んだ節があった。
1970年代の新宿は、現代と違い、都心とみなされていなかった。
歌舞伎町を始めとする歓楽街もなく、あくまで乗り換えのためのターミナル駅という扱いだった。
その為、新宿駅の南口には戦後間もないころからのバラックが数多く残っていた。
住宅事情は悪く、マンションは未建設で、簡素な戸建て住宅と長屋の様なアパートが一般的な風景だった。
巨大なスーパーもなく、細々とした商店街が居並ぶ寂れた町という認識が残っている時代であった。
また安い賃料の為に、都心の大学に通う学生の下宿先として人気のある場所だった。
1968年10月21日に起きた新宿騒擾事件では、武装した2000人(一説には4000人)の過激派が新宿駅へ乱入し、駅構内を破壊し、放火した。
最終的に2万人の暴徒に対して、警視庁は機動隊を投入し、最終的に騒擾事件の中心となった過激派700名を騒乱罪で検挙した。
この事件の結果、延べ150万人の足に影響が出て、経済的損失も計り知れないものだった。
このテロ行動に味を占めた極左暴力集団は、教職員団体や労働組合と提携し、地方の青年を尖兵として利用するのだが、紙面の都合上、再度の機会に述べたい。
移動中に代々木1丁目に差し掛かった時のことである。
ビル街のど真ん中で翩翻する赤旗を見て、議長は思わず口走った。
「あれは、何だね」
随行員の一人で、シュタージのダウム少佐は応じる。
「あれは、日本の共産党本部ビルです」
議長はあきれたように答えた。
「日本では、共産党が合法!」
脇に居たアイリスディーナは、彼らの会話を困惑気味に聞いていた。
共産党って、資本主義国では弾圧の対象ではないかと教わっていたからだ。
「たしかにG7で、議会に議席を持っているのは日本だけですからね」
かつてフランスとイタリアも共産党が国会に議席を持っていたことはあった。
だが、スターリン批判以後、共産党という看板を下ろして、社会党との連立を組んでいた時期もある。
「しかも、日本の共産党は西側諸国で最大規模です」
あのソ連でさえ、東独の共産党を解散し、社会主義統一党という看板に付け替えた。
まだ納得しきれていない議長は、眉を動かして訊ねる。
「潜入工作の危険はあるんじゃないか」
西ドイツの学生運動家を多数リクルートして、中央の官界に送り込んできた。
SEDの幹部として、シュタージとKGBのやり口を知っている男には日本の現状が理解しかねた。
「日本は2000年もの長い間、島国でやってきましたから……
その辺の常識が、我々と違うのでしょうね」
ダウムは笑って答えた。
「だから万歳の君を頂く国家体制にも影響を与えないと、確固たる自信を抱いていると」
それまで黙っていたシュトラハヴィッツ中将は、軽く冗談を言う。
議長は笑いだした。
そうか、日本人は底抜けの楽観主義なのだな。
だが40年前、第三帝国と同盟を結んだときは、実に頼もしい戦士だったと思えたのに。
「同志シュトラハヴィッツ将軍、ご冗談はよしてください。
おそらくは、地下に潜られて、破壊活動を恐れての事でしょう。
戦前までは治安維持法という法律があって、秘密結社は非合法でした。
ですが戦後は、あらゆる結社の自由が法律の下で許されて、堂々と共産党が表にあるようです」
ダウムは意地の悪い笑みを浮かべた。
「我々が見て奇異に思うのですから、同じ立場の朝鮮人やベトナム人が見たらどう思うのでしょう。
分断国家の南朝鮮や南ベトナムに、合法の共産党があったという話は寡聞にして存じません。
ボン基本法で共産党は非合法です。
全く不可解な連中です」
議長とシュトラハヴィッツは頷く。
アイリスディーナは、男たちの会話を聞きながら、車窓から東京の繁栄ぶりをぼんやり眺めていた。
こんな超高層ビルが立ち並ぶメガロポリスの中に、どうして金甌無欠の帝室が存続しているのだろうか。
事前に読んだ史書によれば、その長さは古代ローマや前漢王朝の頃から続く古さという。
アイリスディーナはあらためて、自分が世間知らずであることを思い知らされていた。
アイリスディーナたちが京王プラザホテルに着いた時、相手側は一足先に待っていた。
これは東独議長への印象を良くするために、10分前にレストランの中へ入っていたのだ。
場所は、一階にある中華レストランで、奥にある個室で会合が行われることとなった。
ただアイリスディーナは、自己紹介した際、相手側が目を見張るような表情をしたのが気になった。
ビールで乾杯したが、ダウム少佐とアイリスディーナは酒は控えた。
だが日本人たちは、よく飲み、饒舌にしゃべった。
議長は、ミラ・ブリッジスの知人が大手自動車メーカーの航空事業部長(現実世界での日産自動車株式会社宇宙航空事業部)と聞き、感心した表情を浮かべる。
「ほう、固体燃料ロケットの開発を行っている会社ですよね。
そいつはすごい」
――ルノーと合併する前の日産では、中島飛行機の遺産を引き継ぐ形で、荻窪にある工場で航空機エンジンと固体燃料ロケットの開発を行っていた。2000年にIHIに売却され、現在はIHIエアロスペースとなっている――
航空事業部長は議長とアイリスディーナの会話を聞きながら、議長は威厳はあるものの、義理の娘には甘いという印象を持った。
義理の息子である彼女の兄に跡を継がせるためだろうか、元々そうなのだろうかは判らなかった。
「どうして私たち東ドイツに興味を持たれたのですか?」
アイリスディーナの質問は、子供っぽいものだった。
だが誰も咎める様子はなかった。
航空事業部長は、アイリスディーナの子供っぽさがたまらなく可愛く感じた。
目の前にいる大人しい娘に、まるで諭すかのように伝えた。
「これからの国際競争の時代、相手を力で押すよりも相手の先を越すことが重要なのです。
相手よりもいち早く状況をつかむために、いろんな方面から情報を収集しているのです」
「情報ですか」
アイリスディーナの小首をかしげた表情は、古典絵画に描かれた天使のように愛らしかった。
同時に男の心を無限に揺さぶる妖精のように、悩殺的でもあった。
「左様。私ども、商人の世界では、どうしても情報が必要でございましてな……
情報がなければ、相手よりも安く仕入れることも出来ず、必要以上に高く売らされ、商売に負けてしまうのです」
「ええ、我が東ドイツも情報機関を持っていますが……」
「精々、隣国の情報ぐらいではありませんかな」
その言葉を耳にした時だけ、アイリスディーナは信じられないという表情を見せた。
マサキ以外の日本人の多くは、シュタージの事をただの情報機関としか知らないのだと。
「東西に分かれた隣り同士の争い……
つまりは局地戦ですがそれもよろしいでしょうが……
今の政治経済は遠国にまたがり、全世界に様々な動きがございます」
思いがけないものだった。
男の口から出たシュタージを肯定する様な言葉に、アイリスディーナは居心地の悪さを感じていた。
「現に東独議長であられる父君が、わざわざ東ベルリンから東京にまで来ているのではございませんか。
昨今の国際情勢の変化を見ての事とお見受けいたします」
アイリスディーナは嫌な予感がした。
「もし再び5年前の様なオイルショックがあれば、東独の経済発展は無理ですな。
ただし情報収集に秀でていれば、その危機は回避できますでしょう」
初めて聞く話である。
アイリスディーナは、東独の経済事情が意外に複雑であることを今知った。
―――――――――
場面は変わって、滋賀県大津市内にある九條家の屋敷。
そこでは数人の男たちが密議を凝らしていた。
「おのれ、木原マサキめがッ!
俺の和美を殺すとは……」
KGBの協力者である大野は、やり場のない怒りを周りの人間にぶつけていた。
酒の勢いで、大野はわずかばかりの自制心を失い始めていた。
「ゆ、ゆるさぁあーん!」
同席した穂積たちは、大野の狼狽ぶりを見て、後味の悪そうに席を立った。
泣きわめく大野を残して、どこかへ行ってしまった。
「和美、無念だったろう。
愛しいわが妻、和美よ……もうこの手でお前を抱くことが出来ぬのか」
大野は床の間に飾ってある当世具足を睨み、それから外に出る。
先程まで降っていた夕立は上がり、蒸し暑さは和らいでいた。
庭に出た時、意味ありげな笑みを含んだ男が彼の傍に現れた。
和美の兄であるKGB少佐であった。
大野は酔った眼差しで男を睨んだ。
「何をじろじろ見ていやがるんだ!
俺の顔に何かついているか」
KGB少佐は大野に顔を寄せて言った。
「発展家で知られる君が、たった一人だけ失敗した女がいるそうではないか。
それも飛び切り奇麗な女性にと……」
「誰から聞いたんだ!」
大野は表情をこわばらせた。
この事は穂積以外の誰にもしゃべっていないからだ。
漁色家として、ある種の誇りを持っている大野にとってそれは忘れられない屈辱だった。
「むきになって怒るところを見るとほんとのようだな。
大野も焼きが回ったと、大阪領事館で笑いものになっているところさ」
妹を差し出したKGB少佐も大野の乱倫ぶりに呆れていたところに、留飲を下げた形だ。
「だから誰から聞いたんだ」
「そんな事はどうでもいいじゃないか」
「なんだと」
決して他人に言えたものじゃない。
それをKGB少佐の義兄は冷やかしたのだ。
「それよりもその女が欲しくないか?」
大野は、突如とした義兄の提案に首をかしげる。
「なんだって!」
「まあ兄弟、話を聞けよ」
KGB少佐の話はこうだった。
F―14戦術機のセールスのために来日しているフランク・ハイネマンを誘拐する。
ハイネマン博士を京都旅行に招待して、九條亭に呼び寄せた後、拉致するという計画である。
G7サミット中の日本政府は人質事件を表面化させないため、こちらの要求に応じるだろう。
木原マサキか、ゼオライマーを引き渡すように通告すればいい。
マサキは、アイリスディーナの傍を離れる隙が出来る。
その際、一人になったアイリスディーナに手を付けてしまえばよいではないか。
KGBは作戦に参加した見返りとして、いくらでもアイリスディーナの連れ出しに協力するという内容だった。
「本当なんだな」
KGB少佐は残酷な笑みを漏らし、深呼吸した。
「ああ、KGBに協力してくれれば、私は可愛い義弟の為に何でもするさ」
大野は涙をぬぐう。
「や、やるよ。
何とかやってみるさあ、兄貴」
大野はよろめき、涙で充血しな目をこすりながら、夜の大津市内に消えていった。
アイリスディーナ・ベルンハルト……そうだ、憎きユルゲン・ベルンハルトの妹。
日本野郎に媚びを売り、KGBに楯突いた東ドイツの青年将校の唯一の血縁者。
それほどまでにKGBにとって、許せぬ裏切り者のドイツ野郎。
シュトラハヴィッツの子飼いの部下、ユルゲン・ベルンハルト。
黒い屈辱の記憶と共に、ギリシア彫刻に似た白皙の美貌と金色の髪を持つ偉丈夫。
ユルゲン・ベルンハルトの名前を完全に覚えていた事は、KGB少佐を驚かせた。
俺はKGBの評判を落とした、あのドイツ野郎の事を忘れていないのではないか。
アイリスディーナさえ、どうにかすれば、木原も、あのドイツ野郎も倒せる。
男の想いは、確信へと変わった。
「今度こそ、木原マサキ、ゼオライマーめ!
貴様とそれに連なる者たちを血祭りにしてやる」
KGB少佐は彫りの深い引き締まった顔に、凄惨な笑みを刻むのだった。
後書き
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