ドリトル先生の長崎での出会い
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第十一幕その五
「生まれ変わりを信じているしね」
「そうだよね」
「日本に来てからね」
「そうなっているね」
「天理教のお話だけれどね」
仏教ではないけれど、というのです。
「とあるお家の娘さんが幼くして亡くなって」
「可哀想だね」
「幼くしてなんて」
「やっぱり小さな子は身体が弱いから」
「そうしたこともあるね」
「その後で息子さんが生まれたけれど」
娘さんが亡くなってというのです。
「同じ場所に黒子があったそうだよ」
「まさに生まれ変わりだね」
「その息子さんは娘さんの」
「そうだね」
「そう、天理教の経典でも生まれ変わりを書いているし」
こちらでもというのです。
「それでね」
「あるんだね、生まれ変わりって」
「天理教の世界でも」
「天理教も日本の宗教だし」
「あるのね」
「そうだよ、そしてね」
先生はさらにお話しました。
「蝶々さんも中尉もね」
「生まれ変わって」
「それでだね」
「今度はハッピーエンドになる」
「そうなるかも知れないんだね」
「うん、そして若しそうなるのなら」
先生は心から思って言いました。
「本当にね」
「こんないいことはないね」
「やっぱり」
「悲劇が幸せに変わるなら」
「生まれ変わって」
「まさに神様の配剤だよ」
先生は心から思ったままこうも言いました、奇麗で整った品のある和室の中で和蘭中のご馳走を楽しみながら。
「そうであるならね」
「そうだね」
「そしてね」
「今度こそ幸せになるのなら」
「最高だね」
「そうだよ、悲劇はあっても一度でいいよ」
そうだというのでした。
「二度目はね」
「ハッピーエンドだよね」
「そうであるべきだよね」
「やりなおされるなら」
「贖罪は必要だよ」
先生は反省と後悔から至るそれはというのでした。
「やっぱりね、けれどね」
「それはずっとじゃなくて」
「その人だけのことで」
「子孫の人達の問題じゃないから」
「本当にその必要はないね」
「親の因果とかはあってはならないよ」
決してというのだ。
「そんなものは切らないといけないしね」
「切れるね」
「その人の努力で」
「それが出来るね」
「そして切ってね」
そうであってというのです。
「新しく前を向いて生きるべきだよ」
「全くだね」
「その通りよ」
「その人がやったことじゃないし」
「それならね」
「お家や魂のいんねんがあっても」
それでもというのです。
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