Raison d'etre
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二章 ペンフィールドのホムンクルス
9話 篠原華(3)
目覚ましの音で優は目を覚ました。
外はまだ薄暗い。
いつもはベッドで暫くゴロゴロするところだが、この日は違った。
ベッドからすくっと立ち上がり、洗面台に向かって歯磨きを開始する。
それから念入りにシャワーを浴びて、普段より丁寧にドライヤーでブローしていく。
しばらく鏡と睨み合いをして、ようやく納得がいってから部屋に戻って服を選ぶ。
一応前日には組み合わせを決めていたが、念のため三回ほど鏡の前で他の服に着替え、結局元の組み合わせに戻す事にした。
時間にたっぷり余裕がある事を確認して、朝食のために食堂へ向かう。
「あ、桜井くん、おはよう。今日は早いね」
「おはよう。うん、ちょっと用事があって」
廊下ですれ違った中隊員と挨拶を交わしながら、頭の中でデートのシミュレーションをする。
麗の事をよく知らないため、どうしても上手くいく事が想像できなかった。
失敗しそうだなあ、と暗澹たる思いで食堂に到着し、朝定食セットを頼んで席につく。
そわそわしながら携帯端末でデート先周辺の地図を眺めていると、声がかけられた。
「桜井くん、ここ良い?」
顔をあげると、トレイを持った華がいた。
「あ、うん。誰も来ないから大丈夫だよ」
「何だかぼんやりしてるように見えるけど大丈夫?」
気遣うように顔を覗き込みながら華は隣の席に座った。
「うーん。望月さんと今日一緒に遊びに行くんだ。何だか緊張しちゃって」
素直に白状すると、箸に手を伸ばしかけていた華の動きが止まった。
一瞬の沈黙。
「あ、そうなんだ。で、でも、桜井くんって望月さんの告白断ったんじゃなかったの?」
「望月さんのこと、よく知らないからねー。出かけるだけなら良いかなーって」
そう答えてから、思い出したように言う。
「この前はごめんね。医務室まで運んでくれたんだよね?」
「え、あ、うん。医務室まで走って明日香先生を呼んでくれたのは京子だよ。私、どうしたら良いのか分からなくて、何も出来なかったから」
華はそう言って、曖昧な笑みを浮かべた。
「……私もね、ここに来てから何度か嫌なことを思い出した事あるよ。ここの人は多分、みんなそういうのあるから」
でも、と華は続ける。
「大丈夫だよ。ここの皆が家族みたいなものだから。三年以上中隊員として従事すれば特別年金だって給付されるんだよ。だから心配することは、何もないよ」
だから大丈夫、と華はにこにこと言う。
それは恐らく、華が過去に繰り返し自分に言い聞かせた言葉なのだろう。ふと、そう思った。
「……うん、そうだね。華ちゃんもそうだけど、皆良い人ばかりだから、僕は大丈夫。ありがと」
華が柔らかい笑みを浮かべる。
年不相応の包容力のある笑みだった。
華はたまに酷く大人びて見える事がある。
まだ十六歳なのに第一小隊のリーダーとして選ばれた理由が垣間見えた気がした。
「華ちゃんは、ここに来てどれくらい経つの?」
「私? 三年くらい……かな」
三年。
彼女が先程語った特別年金の給付条件をクリアしているという事だ。
それでも中隊を抜けないのは、やはり帰るべき場所がないからなのだろう。
「あ、冷めちゃうよ」
暗くなった雰囲気を払うように華が手元の朝食セットを見る。
「……そうだね。食べないと」
箸を伸ばしながら、ふと考える。
これから会う予定の望月麗も、恐らくは帰るべき場所を持たないのだろう。きっと、中隊が最後の居場所なのだ。
彼女とどういう関係になるかまだ分からないが、不誠実な対応はするべきではないし、居づらくなるような対応はしないように気をつけなければ、と気を引き締める。
「あ、お迎えの人、来てるよ」
華の声に釣られて、食堂の出入り口に目を向けるとスーツ姿の大男が立っていた。送迎を担当する保安部の者だった。亡霊対策室は山奥にある為、街までの移動手段は車しかなく、こうして送迎してもらう必要がある。
「もう行かないと。ごちそうさま。またね」
「うん。行ってらっしゃい」
華に見送られて、大男の元へ向かう。
大男は不器用そうな笑みを浮かべて、小さく会釈した。
「送迎を担当する保安部の中村(なかむら)と申します。では参りましょうか」
「はい。お願いします」
ペコりと頭を下げて、中村と名乗った大男と共に食堂を後にする。
巨体の中村が目立つせいか、エントランスですれ違った中隊員からまじまじと視線が投げかけられる。
「桜井くん今からデート? 頑張れー」
中隊員の誰かがからかう声。
優は苦笑して軽く手を振ってから、外に出た。
空は青く、よく晴れている。
エントランス前には既に黒塗りの乗用車が回されていた。
「では行きましょう」
中村がドアを開ける。
その時、彼の腰に大型の自動拳銃がついているのが見えた。
どうやら広瀬理沙の件を受けて、送迎よりも護衛にウェイトがずれたようだった。
「どうしましたか?」
中村が怪訝そうに問いかけてくる。
「いえ、高そうな車だったので躊躇しちゃって」
優は愛想笑いを浮かべて、車に乗り込んだ。
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