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俺の涼風 ぼくと涼風

作者:おかぴ1129
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10. お化粧ならあのひと(1)

 私ははじめ、提督の一言が理解出来なかった。それは、この艦隊のメンバー全員も同じだと思う。たった一人を除いて。

『金剛。行けるな?』
『は、ハイ……ごふっ……』

 腹部に大きな傷を負った金剛さんが、血を吐きながら提督の通信に答えている。金剛さんの答えは『Yes』。

『やめて下さい司令!! お姉様はもう無理です!!』

 同じくこの艦隊に参加している比叡さんが、悲鳴に近い叫び声で通信を送っていた。金剛さんはその横で、出血の激しい身体に鞭打ってなんとか立ち上がろうとするが、足に力が入らず、そのまま前のめりに倒れる。バシャリという水しぶきの音と共に、金剛さんの周囲に血がとんだ。

『作戦の中止は認められん。このまま敵を追撃し、この編成でなんとしても敵を殲滅する』
『なら、せめてお姉様の離脱の許可を!! お姉様はこのままでは轟沈してしまいます!!』

 比叡さんが、目に涙をいっぱい溜めて提督に懇願していた。その間も金剛さんは必死に立ち上がり、ゲホゲホと咳をする度に血を吐きながら、再び主機に火を入れている。

 比叡さんの必死の懇願のあと、提督からの通信が途絶えた。でも執務室の喧騒は、こちらにも無線を通して聞こえてくる。『お姉様! 戻って下さい!!』という榛名姉ちゃんの悲鳴も聞こえた。ちょうど入渠中で出撃出来なかった榛名姉ちゃんは、傷を癒やした後、執務室に様子を見に来ていたようだった。『提督!! もうこれ以上は!!!』という、大淀さんの声も聞こえる。

『……提督、金剛は貴様の嫁ではないのか』

 一緒に出撃していた那智さんが、厳しい口調で提督を問い詰めていた。那智さんは普段から物腰が固いが、こんなにも険しい表情で怒りを顕にする那智さんは初めて見た。

『嫁だよ』
『だったら……』

 しばらくの沈黙と喧騒の後、無線機から帰ってきた提督の返事がこれだ。那智さんのサイドテールが揺れる。歯ぎしりの音がここまで聞こえた。

『嫁だからこそ、信じている』
『何をだ』
『たとえ自身が轟沈するようなことになっても、俺の涼風を守り通してくれるとな』
『……クソ野郎が……ッ!!』

 私の背筋に氷柱を押し付けられたような、極低温の冷たさが走った。敵と相対したときとは違う恐怖が、私の心をゆっくりと咀嚼し、飲み込んでいく。

『涼風ッ!!』
『な、なに……?』
『撤退命令を出せ!! 旗艦の貴様が命令を出せば、我々はそれに従うッ!!!』

 那智さんがすさまじい剣幕で、私に怒号をぶつけてきた。確かに私はこの艦隊の旗艦だ。私が撤退命令を出せば、提督の指示はどうであれ、作戦は中止となる。『涼風ちゃん!! お願い戻って!!!』という榛名姉ちゃんの悲鳴も聞こえてきた。

『那智ィ……俺の涼風にそんな怒声を浴びせるとはなぁ。身の程をわきまえろ』
『やかましい!! お前の命令など聞く耳持たんッ!!! 我々は戻る! 貴様の愛しい涼風自身の命令でな!!!』
『貴様もだよ榛名ァ』

 だが、提督は那智さんのそんな怒号すら、涼しい顔で受け流しているように見えた。今、通信機から聞こえてくる提督の、落ち着いた……嫁の金剛さんがひどい怪我を負って轟沈寸前とは思えないほどに冷酷な声は、さらに私達に追い打ちをかけた。

『ここで戻ってきても変わらんぞ那智。また、同じ面子で出撃するだけだ』
『……ッ』
『涼風がこの作戦を完遂するまでは、何度でも何度でも、涼風を旗艦として出撃する』
『……黙れ!』
『お前らが怪我をしてるなら、バケツで回復させて出撃する。バケツがなくなれば回復せずに出撃だ。士気が下がってるなら間宮のアイスを食わせてやるから喜べ。伊良湖のモナカでもかまわんぞ。俺が直々に、お前たちの口にぶち込んでやろう』
『……貴様、狂ったか……ッ!?』
『資材の心配はいらん。今もゴーヤたちを24時間フル稼働でオリョールで活動させている。それでも足りなくなったら、いらん奴らを解体して資材をかせぐ。これは作戦終了まで……涼風がこの作戦を完遂するまで続く。俺の涼風が、俺の涼風に相応しい、輝かしい栄光をつかむまでな。お前らの死はその足がかりでしかない。盾は盾らしく、俺の涼風を守ることだけ考えてろ』

 提督の口から告げられる、極めて冷静な狂気。金剛さんただ一人を除いて、私たち全員の顔から血の気が引いていった。

『涼風ちゃん……』

 隣の五月雨が、私の顔を見る。その顔は恐怖で青ざめきっていて、身体がカタカタと震えている。

 言わなければ……私が言わなければ、提督は止まらない。私は震える喉に鞭打って、通信機に対しありったけの大声を出して、提督の一切を拒否した。

『提督! あたいはそんな命令は受けたくねぇ!! みんなに守ってもらってまで、作戦を完遂したいなんて思わねえ!!!』

 私の視界の隅で、金剛さんが比叡さんに肩を貸してもらっていた。比叡さんが私を見る。私が提督に対して啖呵を切ったのがうれしかったようだ。目に輝きが戻り、私を見る視線が力強い。

『そっかぁ……涼風ぇ……』

 提督の声から力が抜けたのが分かった。これなら帰ることが出来る。提督が意気消沈した今なら、帰ることが出来る。私はそう信じ、皆に対して撤退命令を出そうとした。

『じゃあ……』

 だが、提督はそんなに甘い人ではなかったことが、次の通信で分かった。この男は、すでに狂気に呑まれていたのだと、私達は理解した。

『がんばって、作戦遂行しようなぁ……涼風』
『……ッ!』
『お前は絶対に轟沈させない。盾はたくさんいる。お前は安心して、作戦を完遂すればいいんだよぉ……なぁ、涼風ぇぇえええ』
『イヤだ……イヤだ! あたいたちは帰る!! みんなで帰るんだッ!!』
『帰ってもまだとんぼ返りで出撃だぁ。だって作戦完了してないからなぁ』
『……ック!!』
『だから行くんだ。なぁ、涼風ぇ……俺の、俺だけの……涼風ぇぇぇええエエエ!!!』

……

…………

………………

 瞼を無理矢理こじ開けられたかのように、私は目を覚ました

「……ッ」

 右手の甲で、自分の額に触れてみる。顔はおろか全身が、びっしょりと汗をかいていた。これだけ汗をかいているのに……いや、汗をかいているからなのか、布団をかぶっているのに、とても寒い。

「……っく」

 身を縮こませ、周囲を見渡す。真っ暗で周囲はよく見えないけれど、かろうじて、ここが自分の部屋だということが理解できた。

「また……なんで……」

 思い出したくない、忌まわしい過去の記憶を夢に見たらしい。ゆきおと出会い、楽しい日々を過ごしてきた中でずっと忘れていた感覚が、再び身体を縛っているのを私は感じた。

 悔しいけれど……私はまだ、あの男が作り上げたおぞましい狂気の過去に、縛られ続けている。震える私の身体が、それを物語っていた。



 それから眠れない時間が過ぎた朝。寝不足で重い身体を引きずって私は食堂に朝食を取りに向かった。いつも私を起こしに来る摩耶姉ちゃんが、珍しく今日は私の部屋にやってこない。そういえば摩耶姉ちゃんは、昨日の夜から夜戦の作戦に出ていて、帰ってくるのは今日の夕方過ぎだったことを思い出した。いつもならやってくる人が来ないというのは寂しいけれど、作戦ならばそれも仕方がない。私はいつもの制服に着替え、一人で朝食を食べに食堂に向かう。

「うう……眠い……」

 気を抜かなくても、あくびが何度も出てくる。顔を洗うときに鏡を見たが、やっぱり今日は目の下のクマがひどい。出来ればお化粧でもしてクマを隠したいのだが、そのやり方を私は知らないし、化粧道具も持ってない。仕方なく、そのままの顔で食堂へ続く廊下をとぼとぼと歩く。

「……あ、涼風ちゃんおはよー」
「おーう五月雨ー。おはようさーん」

 食堂へと向かう道すがら、私の姉妹艦の五月雨と偶然出くわした。普段はこの時間は摩耶姉ちゃんと一緒にいるから、他の子と会って話をすることは珍しい。

「涼風ちゃん、眠れなかったの?」
「ん? なんで?」
「目の下のクマ、ひどいよ?」

 目の下のクマは、私が思っている以上にひどいらしい。五月雨の、朝の挨拶の次のセリフがこれだ。

「へへ。昨日ちょっと夜ふかししちゃってさ。あんまよく寝られなかったんだ」
「そっか。んじゃ今晩は早く寝なきゃね!」

 本当のことを五月雨には知られたくなくて、適当にウソをついた。あの日に五月雨を失った私は、どうしても、今目の前にいる五月雨には、心配をかけたくなかった。

 五月雨は私のウソをそのまままるっと信用したようで、屈託のない、朝日のように明るい笑顔を私に向けてくれた。よかった。この五月雨には、いまみたいな笑顔をずっと続けて欲しい。

 そのまま珍しく五月雨とともに食堂に向かい、二人で朝ごはんを食べる。今日の朝ごはんの献立は、ベーコンエッグとサラダとほうれん草のおひたし。そしていつものお味噌汁とご飯だ。五月雨とともに鳳翔さんから朝食を受け取り、近場の席に二人でこしかけた私たちは、目の前の美味しそうな片面焼きの目玉焼きに舌鼓をうつことにする。

「涼風ちゃん」
「んー?」
「涼風ちゃんって、最初に黄身を潰しちゃうの?」

 目の前でお味噌汁のお椀を持った五月雨が、私の皿の上をジッと眺めていた。今しがた、私は目玉焼きの黄身を潰して、そこにカリカリベーコンを突っ込んだところなのだが……

 不思議に思い、五月雨の皿の上を見てみる。五月雨は黄身を最後に食べる流派らしく、白身の部分だけに箸が入っている。

「五月雨こそ、最初に黄身を潰さねーの?」
「なんで?」
「なんでって……」

 私にとって当然の疑問をぶつけてみたのだが、逆に五月雨にとってはそれが不思議な質問のようだった。五月雨は首を傾げて不思議そうにきょとんと私の顔を見た。

「目玉焼きの黄身って、最後にひょいって口の中に入れて、幸せに浸るためのものじゃないの?」
「へ? 目玉焼きの黄身って、最初にツンツン潰して、ベーコンとかハムとかを浸して、幸せに浸るためのものじゃねーの?」
「「?」」

 私たちは不思議なやりとりをしながら互いを見つめ続ける。その時タイミングよく、窓際の席の方から、まさにタイムリーな叫び声が聞こえてきた。

「なんだよー。目玉焼きって言ったら普通さー。両面焼いた黄身にケチャップつけて食べるだろー!?」
「あらあら……天龍ちゃんはまだまだおこちゃまよね……」

 互いに顔を見合わせる私と五月雨。今度は朝食を今まさに鳳翔さんから受け取っている、空母の人たちの方からも、不穏で、でもとてものどかな会話が聞こえてきた。

「鳳翔さん、お醤油をお願いします」
「ゲッ!? 一航戦、まさかあんた、目玉焼きに醤油かけて食べるの!?」
「あつあつご飯の上に乗せて、お醤油をかけて黄身を突き崩す……それが目玉焼きの正統な食べ方よ」
「何言ってんの。目玉焼きにはね。ウスターソースって昔っから相場が決まってんのよっ」
「そんなんだから七面鳥だなんて言われるのよ。あなたも正規空母なら、目玉焼きはご飯の上に乗せて、醤油をかけて食べることね」
「たとえそれが原因で世界が崩壊しようとも、私はウスターをかけ続けるわよ一航戦ッ」
「フゥ……幻滅したわ。今日からあなたのこと、『五航戦のウスターの方』て呼ぶしかないようね」
「アンタのことだって、今日から『一航戦の濃口醤油』て呼ぶから!!」
「「ふんッ!!」」

 なんだか至るところで、目玉焼きが原因のケンカが巻き起こってる気がする。私たちは、お互いのお皿を見た。黄身を食べる順番に違いはあるけれど、ふたりとも塩コショウをかけている。その点では、私たちはみんなと比べて、まだ気が合っているようだ。

「涼風ちゃん、食べよっか」
「おう」

 気を取り直し、食事の再開。私は改めて、カリカリベーコンを黄身に浸したあと、それを口に運ぶ。とろとろ半熟の黄身と、カリカリと心地いいベーコンの塩気が、口の中で混ざり合って、とても美味しい。

「ん〜……」

 一方の五月雨も、プリプリな白身を口に運び、私と同じく『ん〜……』ととろけそうな顔をしていた。何をかけても、どう食べても、目玉焼きは美味しいってことか。

 ……そういえば、五月雨なら、お化粧でクマを消す方法を知ってるかも知れない。五月雨は私と違い、可憐でとても女の子らしい。ある程度食事が済んだところで私は、最後に残った黄身を口いっぱいに頬張って、今まで以上に幸せそうな顔を浮かべている五月雨に、お化粧のことを聞いてみることにした。

「なー五月雨?」
「んー?」

 私の問いかけに、五月雨はとろけきった顔のまま返事をした。その時、五月雨のほっぺたの肌に気付く。きめ細かくてとてもキレイな肌だが、お化粧はしてないようだった。どうやら五月雨も、お化粧はしないようだ。

「どうしたの?」
「……んーん。なんでもなーい」
「変な涼風ちゃん……」

 五月雨との朝ごはんを食べ終わった後は、お昼まで時間が空く。私はその足で、ゆきおの部屋へと足を運ぶことにした。

 ゆきおの宿舎に入る時、ふと桜の木が見えた。そういえば、私がゆきおと初めて会った時、この木の木陰で入渠で火照った身体を冷やしてたんだっけ。懐かしくなって、桜の木陰に足を伸ばしてみた。季節はもう12月。この桜も、茶色い葉っぱがだいぶ落ちてしまっている。ゆきおと会った時は、まだかなり残っていたんだけど。

 木陰から空を見上げた。少々さみしいことになってしまった桜の木の向こう側に見える空は、薄い青色をしていて、とても高く感じる。季節はいつの間にかもう真冬。ゆきおと出会って、けっこうな時間が経ったんだなぁと、なんだか感慨深い気持ちになった。

 海から吹く潮風に冷たさを感じ、私は急いで宿舎に足を運ぶ。宿舎に入ると、中の空気はほんのり暖かい。入り口のところに受付のような窓口ができていた。中に人はいないから、素通りしても大丈夫なはずだ。私は構わず宿舎の奥の階段に向かい、そのまま駆け上がって三階のゆきおの部屋に向かった。

 ゆきおの部屋のドアの前に到着。いつものように『ドカンドカン』と砲撃音のような激しいノックをして、部屋に入る。いつものごとく優しい声で私を招き入れたゆきおは、私の顔を見た途端、

「やっ……て、どうしたの? クマひどいよ?」

 と、ちょっと眉間にシワを寄せて、訝しげに私の顔を覗き込んできた。ご飯を食べてる間に少しはマシになっているのでは……と淡い期待を抱いていたが、やはり現実はそううまくは行かないらしい。私のクマは、起きた時と同じく、今もひどい状況なようだ。

「うう……やっぱひどいか……」
「昨日夜ふかしでもしたの?」
「うん……まぁ」

 適当にごまかしつつ、私はゆきおのベッドのそばのソファに勢い良く腰掛けた。このソファも相変わらずやわらかい。勢い良く座っても『ぼふっ』と音を立てて、私を優しく包み込んでくれる。

 そばのキャスターに目をやった。今日は本や筆記用具はなく、水差しとコップ、そして薄い紙に包まれた何かが二つ、置いてある。

「ゆきおー、これなにー?」
「粉薬。これから飲むの」
「風邪か?」
「うん」

 ゆきおが風邪をひいてるなんて、なんだか初耳だ。見てると風邪をひいてるようには見えないけれど……ゆきおがキャスターの上の粉薬に手を伸ばしたので、ゆきおよりも近い距離にいる私が薬を取ってあげて、それをゆきおに手渡した。

「ありがと」
「あいよっ」
「でも自分でやったのに……」
「そいつは失礼っ」

 つづいて水差しを取り、コップに水を汲んでゆきおに渡す。水差しの水は冷たくもなく、熱くもない、でもぬるま湯というほどぬるくもない、本当にただの水だった。

 私からコップ一杯の水を受け取ったゆきおは、『ありがと涼風』とお礼を言ってくれたが、ちょっとばかし不服なようで、口をとんがらせていた。その後顔を引きつらせ、粉薬の包みを開く。

「うっ……」
「んー?」

 包みを開いた途端、ゆきおが小さなうめき声を上げた。何事かと私の一緒に覗きこむ。中には、ツブが細かい白い粉薬が、少しだけ入っている。

「これ、すんごく苦いんだよねー……」
「そうなのかー……ゆきおも大変だなー」

 極めて他人事のような心配を投げかけたが、ゆきおはそれに気付かないほど、目の前の薬を凝視していた。冷や汗を垂らして生唾を飲み込んで……苦い薬がそんなにイヤか。私自身も大人というわけではないが、こういうところはまだまだ子供なんだなぁと、恐怖で顔をしかめるゆきおを眺めながら考えた。

 そんなゆきおを眺めていると、私から見てゆきおの向こう側にある、大きな本棚が目に入った。あの本棚には、今までゆきおが読んできた本や、これから読もうと想っているらしい本が、所狭しと並んでいる。確か以前、『その本棚にあるのはほとんど読んだよ』と言っていた。

 確かにゆきおは男の子だけど……あれだけたくさんの本を読んでるゆきおなら、ひょっとしたら、お化粧の仕方を知ってるかも知れない。今、目の前で口の中に粉薬を流しこもうと、上を向いて嫌々口を開いている、この大切な友達なら、ひょっとしたら分かるかも……

 それに、なんだかゆきおは女の子みたいな顔してるし。ホントに、ひょっとしたら、知ってるかも……

「なーゆきおー」
「ん……んー?」

 ギュッと目を閉じながら、恐る恐る粉薬を流しこもうとしているゆきおに、私は意を決して質問した。

「お化粧の仕方教えてくれよ」
「ブホッ!?」

 その瞬間、ゆきおは盛大にむせ、口に流しこんでる最中だった苦い粉薬と、口に含んでいた水を盛大に吹き出していた。

「グホッ!? ゲフンッ!? えフッ!? えフッ!!?」
「大丈夫か?」

 ゆきおの口から吹き出された粉薬が、まるで吹雪の時の粉雪みたいにキレイに飛んでいく。でもキレイなのは粉雪だけで、ゆきおが口から吹いた水は、盛大にゆきおの掛け布団に吹き出されていた。私は急いでキャスターの側面にかけられていたタオルを取り、それで素早く掛け布団の上の水分を吹いてあげた。

「大丈夫かって……涼風のせいじゃないかっ! ちくしょっ……鼻に……ケホッ」
「えー。だってゆきおなら知ってんじゃねーかなーって思って」
「僕は男だよ? ゲフッ……化粧なんて出来るわけないって」
「でもゆきお、あれだけ本読んでっからさー。だったらその中にお化粧の本があったりするかなーと思って」

 『そんなわけないじゃないか……』と半ば呆れ気味に返答し、再びキャスターの上の薬に手を伸ばすゆきお。私は再度キャスターの上の薬の包みをゆきおに渡してあげたが、その瞬間、なんだかゆきおの周囲の空気が、ちょっと苦いことに気付いた。

「……ゆきお」
「ん……な、なに……?」
「なんか苦い」
「気付いた? これがこの薬の苦味なんだよ……」
「うう……空気がピーマンより苦いって……」
「ぼくはこれを飲むようになって、ピーマンが食べられるようになった」

 私から再び薬を受け取り、その包みを開いて、水を含んだ口の中にさらさらと流しこむゆきおは、まるでピーマンを食べてる時の摩耶姉ちゃんみたいな、ぶっさいくな顔をしていた。なんせ撒き散らした後の空気を吸っただけで苦く感じるほどだから、さぞ苦いのだろう。口を含んだ薬を飲み込もうとして中々飲み込めない、ゆきおの苦悶の表情が、その苛酷さを物語っている。

 数秒の挌闘のあと、ゆきおはやっとこさ薬を飲み込んだ。そのあと、コップに残った水を急いで飲み干していたから、きっと口の中がまだ苦いんだろう。最初こそ面白おかしく眺めていた私だったが、今は、その大変さに同情する。

「ふぅ……えとさ。摩耶さんは?」

 水をすべて飲み干した後、ゆきおは苦悶の表情を崩すこと無く、私の方を見てそう答えた。その時、ゆきおが摩耶姉ちゃんのお化粧の惨劇を見たことがないという事実を思い出した。なんだか最近ずっと一緒にいるから、もう昔からの友達のような感覚がしていたけれど……まだ知り合って数カ月しか経ってないんだなぁ。

「摩耶姉ちゃんもさ。お化粧って苦手なんだ」
「意外だねぇ。あんなにキレイな人なのに。でも、だったらダメだね……」

 ……思い出した。前に一度、摩耶姉ちゃんが『アタシだって……!!』と一念発起し、見様見真似で口紅だけを塗ってきたときのこと。真っ赤な口紅をこってりたっぷりぬってきたものだから、唇だけ妙に浮いて見えて、随分大笑いしたっけ。

「ぶぶっ……」
「?」
「あ、いやゴメン。思い出し笑い」

 ……話を元に戻すが、摩耶姉ちゃんは多分普段はお化粧はしてない。もし知ってたら、私が眠れなくてクマを作った時に、『アタシが消し方教えてやんよ』とか言いながら、お化粧でのクマの消し方を教えてくれるはずだ。あの摩耶姉ちゃんなら。

 それをしてくれないってことは、きっと摩耶姉ちゃんは、お化粧でのクマの消し方を知らないんだと思う。

 となると、他の人に教えてもらうしかない。五月雨はダメだし……他だと……いつもお菓子をくれてる鳳翔さんに教えてもらってもいいんだけど……でも教えてくれるかな……

「……あ」

 私が誰に教わるか悩んでいたら、ゆきおが頭に豆電球が灯ったような口ぶりで声をあげていた。右手で拳を軽く握り、それで左手の平をポンと叩くという、なんだか提督が小さい頃に流行っていた漫画に出てきそうなリアクションを取りながら。

「ん?」
「榛名さんは?」
「……」

 その名前は、よりにもよって、一番力になってくれそうにない人の名だった。

「……ゆきおー。わりぃけど、榛名姉ちゃんはダメだ」
「そなの? なんで?」

――だって私は、榛名姉ちゃんに憎まれてるから

「……なんでも」
「?」

 いくら仲のいいゆきおといえど、あの話はまだしたくない。ゆきおには、まだ私たちの過去のことを、知って欲しくはなかった。

 私のちょっとおかしな反応を見て、何かがあるとゆきおは勘付いたらしい。それ以上はゆきおも、特に私を問いただすことはなかった。ただそれでも榛名姉ちゃんの線は諦めきれないらしく……

「でもさ。ダメだって決まったわけじゃないよ? ひょっとしたら教えてくれるかもよ?」

 と、しつこく私に、榛名姉ちゃんのことをおすすめしてくる。このしつこさは一体何なんだろう。私の中で、小さな疑問が芽生える。

 はじめ私は、ゆきおは私のことをからかっているんじゃないか……私と榛名姉ちゃんの関係性を、おもしろおかしく茶化してるんじゃないか……そう疑った。でなければ、何かしらの理由があって榛名姉ちゃんにお化粧を教えてもらうことは不可能だと分かった後も、こんな風にしつこく食い下がってこないだろうからだ。

 でも。

「無理だよ。ゆきおー……」
「でもさー。一回お願いしてみたら?」
「無理!」
「そこをなんとか……っ!」

 真剣な表情で、私に何度も榛名姉ちゃんをおすすめしてくるゆきおの様子は、決して面白半分で私に食い下がっているようには見えなかった。今もゆきおは私に対し、両手を合わせて頭を下げて『ちょっと頼んでみてよぅ』と口走っている。

 ゆきおの目は、とても真剣だ。それこそ、なんとしても私と榛名姉ちゃんを会わせたいかのような……

「なーゆきおー」
「へ?」
「なんでそんなに榛名姉ちゃんのことにくいついてくるんだ?」

 どうしてゆきおは、こんなに真剣に、私に榛名姉ちゃんをおすすめしてくるんだろう? 単純に疑問に感じた私は、単純にゆきおに質問をしてみたのだが……

 私の問いかけに対して、ゆきおはほっぺたを少々赤くしてうつむいて、急にもじもじしはじめた。しばらくもぞもぞと口を動かした後、ゆきおは急に顔を上げ、真っ直ぐな眼差しを私に向ける。ほっぺた赤いけど。

「……だ、だって榛名さん、キレイじゃないか!!」
「確かにキレイだけどさー」
「あんなにキレイな人なら、お化粧だってきっとうまいよ!!」

 確かに言われたとおり榛名姉ちゃんはキレイな人だし、それこそお化粧だってきっと上手なんだけど……本当にそれだけだろうか? なんだか気になってきた。ちょっと問い詰めてみることにする。

「……ゆきお」
「ん、ん? なに?」
「ゆきおさ。何かあたいに隠してる?」
「ソ、そんなことはないよ?」

 ズバリ、ゆきおに直球をぶつけたみた。ゆきおは途端に冷や汗をかきはじめ、私から見て右上の方を視線が定まらない目で見上げながら、口をとんがらせて口笛をピューピューと吹き始めた。絶対に何か隠している……。私の疑念が確信に変わる。

「うそつけー。絶対にあたいに何か隠してるな?」
「そ、そんなことないクマ」
「球磨さんのマネしてもダメだぞー」
「何も企んでない……ですって。ぱんぱかぱーん」
「苦し紛れにろーちゃんのマネしても、その細っこい身体で愛宕さんのマネしてもダメだっ」
「ゆ、ゆきおは何も、隠してないのですー」
「いい加減ほんとのこといえよっ」

 こんな感じでしばらくの間、私とゆきおの間に、この上なくしょぼい戦いが勃発した。私が問いただす度、ゆきおはろーちゃんや球磨さんのモノマネをしたり、愛宕さんみたいに両手を開いて『ぱんぱかぱーん』って叫んだり、大騒ぎもいいとこだ。どれもそれなりに似合ってるのが腹立たしい。男の子のくせに。

 これはますます怪しい。絶対にゆきおは何かを隠している。なぜゆきおは、榛名姉ちゃんにお化粧のことをこんなに聞いて欲しいんだろうか。

 ……あ、ひょっとして。

「ゆきお」
「ん?」
「榛名姉ちゃんが好きなのか?」

 あれだけキレイで……優しくて、それでいてカッコイイ人なら、ゆきおも男の子だし……榛名姉ちゃんのこと、好きになっても仕方ない。……なんか、すんごい残念だけど。理由はよく分からないけど、なんだかすんごい残念だけど。

「なんでそうなるんだよっ!」

 ゆきおは私の追求を、真っ赤な顔で否定していた。鼻の穴をぷくっと開いて、そこから水蒸気を出して、かなりムキになって怒ってる。そんな感じだ。ほっぺた赤いけど。

「えー。だってやたら榛名姉ちゃんをプッシュしてくるしー」
「それは榛名さんがキレイだからっ」
「そうやって、榛名姉ちゃんのことキレイだって褒めるしー」
「だってキレイじゃないか榛名さんはッ」

 ゆきおの反論を聞いていると、不思議と私も口がとんがってくる。モヤモヤした不快感が胸に広がってくるが、それはなぜだかゆきおには悟られたくない。でも、そんな私の気持ちに気付いて欲しいような……我ながら、なんだかとてもめんどくさい感情を抱いた。

 ひと騒ぎした後、ゆきおから『とにかく一回、榛名さんに聞いてみるんだよ!?』と念を押され、私はもんもんとした気持ちを抱えながら、半ば強引にゆきおに部屋から追い出された。

 ちぇ……もうちょっと話したかったのに……ゆきおのアホ。そんな風に私を扱うのなら、もうここに遊びに来てやんないからな。豆大福も桜餅も、もう持ってきてなんかやらないからな。そんな幼稚なことを、心に誓った。

 
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