俺の涼風 ぼくと涼風
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11. お化粧ならあのひと(2)
さきほどゆきおとひと悶着を起こした私は、モヤモヤした気持ちを抱えながら、トボトボと宿舎に戻ってきた。外はとてもいい天気だが、私は今、気持ちがとてもどんよりしている。
「うう……」
廊下を歩いている最中、窓に映った自分の顔を見た。ガラスに写り込んだ私の顔は、ガラスの向こうの景色にまぎれているにも関わらず、目の下のクマがハッキリ分かる。そのどす黒いクマに触れてみたが、痛みはまったくない。痛くないなら、ついでにクマも消えてくれればいいのに……
しかも、これだけくっきりとクマができているのに……全身は睡眠不足でけだるいのに、目だけはバッチリと冴えていて、逆に覚醒しすぎて痛いほどになっていた。
改めて窓を覗き込む。白目の部分がなんとなく赤いような……自分の顔の状態が、想像以上に悪い。ゆきおや五月雨が心配するのも分かる。これはかなりひどい。
窓の外を眺めながら、窓の向こうの冬日和の景色に似つかわしくない、どんよりした気持ちを抱えている私が、景色に重なる自分の顔を覗きこむのをやめて、再び廊下を歩こうと前を向いた、その時だった。
「……」
私の前に、険しい表情をした榛名姉ちゃんが立っていた。
「は、榛名姉ちゃん……」
さっきまで胸に押し寄せていた、夢を見たことによる不安や、ゆきおに対するモヤモヤ、クマをなんとかしたいという焦る気持ちといった、どんよりとした気持ちが、潮が引くようにサッと引いていった。
「……涼風さん」
「あ、あの……」
代わりに私の胸に押し寄せたのは、榛名姉ちゃんに対する罪悪感と、恐怖。今、榛名姉ちゃんは、自分の姉妹が沈んだ原因の私を、この上なく憎んでいる。
「目の下、クマが出来てますよ?」
「え、えっと……」
喉が震えてきた。身体も震えてくる。榛名姉ちゃんの冷たく鋭い眼差しは、私に対する憎悪がこもっていて、見つめられる私はとても怖い。私は榛名姉ちゃんの顔を見ていられなくて、顔をそむけた後、視線を榛名姉ちゃんの胸元辺りまで下げた。
「……」
「あ、あの……」
榛名姉ちゃんとちゃんと話したいのに、喉が震えて、お腹から声が出せない。だから喉で声を出すのだが、喉にも力が入らない。だからまるで、蚊が鳴いたような声しか出せない。
自分の情けなさと不甲斐なさが嫌になる。せっかくゆきおに出会えたのに……せっかく、昔の事を乗り越えて、出撃して戦える艦娘に戻れたというのに、これじゃあ、ゆきおと出会う前の私と変わらない。あの、過去におびえて、戦うことが出来なかった、あの頃の自分と変わらないじゃないか。
私が自分の不甲斐なさに打ちひしがれ、イヤになっていた時。榛名姉ちゃんが私に声をかけたのだが、その声に、私は違和感を覚えた。
「……眠れなかったんですか?」
私は、この言葉に、なんだか懐かしい感触を抱いた。あの、まだ私たちの仲が悪くなかった頃の、優しく朗らかな、あの時の榛名姉ちゃんの声に近い。
「うん」
つい、素直に返事をしてしまった私は、そのまま視線を上げ、榛名姉ちゃんの顔を見た。そこにいた榛名姉ちゃんの眼差しには、なぜか憎悪は感じなかった。表情も、いつになく柔らかく、以前の榛名姉ちゃんに近い。
「クマ、隠さないんですか?」
「え、えっと……」
「?」
「あたい……普段、お化粧なんてしないから、よく分かんなくて……」
気のせいかな……榛名姉ちゃんの顔がどんどん険しくなってくる……また怒られるのかな……また、憎まれるのかな……
でも。
「……」
「摩耶姉ちゃんも、いつもすっぴんだし……口紅塗っても、あんな感じだから……」
「……」
「……ほんとは、隠したいけど……」
――榛名さんは?
ゆきおの言葉が頭をかすめた。あの時は何の冗談だと思ったけど……
「……」
今の、険しいけれど、目だけはどことなく優しい感じがする榛名姉ちゃんなら、なんとなく、教えてくれそうな気が……
「あ、あのさ……榛名姉ちゃん」
「……」
「も、もしよかったらさ……」
……いや、教えてくれそうだからじゃない。今分かった。私は、榛名姉ちゃんと仲直りして、クマの消し方を教えて欲しいんだ。だから今、私の口は、恐怖と不安で押しつぶされそうな私の心の代わりに、榛名姉ちゃんに、お化粧のことをお願いしようとしてるんだ。
「あ、あたいに……」
だって。昔みたいに、榛名姉ちゃんと、仲良くしたいから。
……でも。
「……」
「お化粧、おし……え……て……」
私の口は、最後まで言うことは出来なかった。私の喉が、恐怖と不安に、ついに白旗を上げてしまったようだ。最後の方は、鼻がツンと痛くなって、涙で目が滲んで、声も震えて言葉にならなかった。泣きたくないのに。ちゃんとお願いしたいのに。私は涙がこぼれるのを我慢したくて、目をギュッと閉じた。
次の瞬間、私の右手首が誰かの手にギュッと握られ、そして前に引っ張られた。
「えっ……」
あまりに力強く引っ張られたため、私はそのまま前に引っ張られるままになった。目を開くと、そこには私の手を右手で引っ張り、スタスタと歩いている榛名姉ちゃんの背中があった。
「あ、あの……榛名……ねえちゃん……」
「……」
大きな歩幅でスタスタと、急ぐように足早に歩く榛名姉ちゃん。私は榛名姉ちゃんと比べると、歩幅が小さい。だからついていくのに精一杯だけど、榛名姉ちゃんはそれに気付いていないのか、私のスピードに合わせようとはせず、スタスタと足早に歩いて行く。
でも、不思議と榛名姉ちゃんに掴まれてる右手の手首は暖かい。まるでゆきおに握られてるような……いや。
――うわー! 姉ちゃんの手、あったけー!!
――そうですか?
まるで昔、榛名姉ちゃんとはじめて握手した時のように、とてもとても暖かい。
榛名姉ちゃんに引っ張られながら、歩くこと数分。私が榛名姉ちゃんに強引に連れて来られたのは、榛名姉ちゃんたち金剛型四姉妹の部屋だ。榛名姉ちゃんたちは、姉妹でひとつの部屋に住んでいる。つまり、ここは榛名姉ちゃんの部屋だ。
「あ、あの……」
「……」
榛名姉ちゃんが、私の手を掴んでない左手でドアを開けた。私は榛名姉ちゃんの背中しか見えてないから、榛名姉ちゃんが今、どんな顔でドアを開いたのか、分からない。
「お姉様がた! いらっしゃいますか?」
でも、今自分の姉妹に声をかけた榛名姉ちゃんの声は、以前のように、とてもやわらかかった。
部屋の中はとても広く、しかも部屋の中でさらに居間と4つの部屋に区切られているみたいだ。その居間では、金剛さんと比叡さんがこたつに入って、のほほんとくつろいでいた。冬の必需品、みかんも常備されている。金剛さんはこたつの上でつきたてのお餅のようにとろけきり、比叡さんはそんな金剛さんによりかかり、『ああっ……お姉様……』と恍惚の表情を浮かべていた。
「オーゥ。おかえりなさい榛名ー」
「……んはッ!? おかえり榛名ー。あ、涼風ちゃんも!」
「ヘーイ涼風〜。ウェルカーム」
私に気がついた金剛さんと比叡さんは、笑顔で私に軽く手を振ってくれた。二人のその笑顔は、以前の鎮守府にいて、私を守って沈んだ、金剛さんと比叡さん、二人の笑顔とまったく同じだ。
そして、あの時の榛名姉ちゃんも、二人と同じく、温かくて、人懐っこい笑顔だった。
「お姉様、霧島は?」
「霧島は今は外出中デース」
「そうですか」
「え、えと……榛名姉ちゃん……」
「榛名は今から部屋にこもります。帰ってきたら霧島にもそう伝えて下さい」
「オーケイ!」
「こ、これでお姉様、独り占め……ッ!!」
「比叡……来客中は自制するのデス……」
あまりに突然のことで、私の頭の理解がついていかない。状況に置いて行かれて混乱している私の手を引き、榛名姉ちゃんは、『はるな』と書かれた立て札がぶら下げてあるドアを開く。どうやらそこは、榛名姉ちゃんの部屋のようだ。
ドアの向こう側は、榛名姉ちゃんの匂いが漂う、とてもおしゃれな部屋だった。窓からは秋のお日様の光が入ってきて、その光がレース越しに優しく室内を照らしている。散らかし放題の私の部屋と比べて、とてもキレイに整頓された部屋だ。
「……ちょっとここに座って待ってて下さい」
私をふかふかのベッドに座らせて、榛名姉ちゃんは再度居間に戻る。そのまま私が不安一杯で待っていたら、ドアの向こうから、『頑張ってクダサーイ』という、金剛さんのポソポソ声が聞こえた気がした。でもそれが何を意味しているのかは、混乱してる私には、よく分からない。
ガチャリとドアノブが回り、榛名姉ちゃんが再び姿を表した。その手にはポーチといくつかの化粧品、そして手鏡があった。いくら私が普段お化粧をしなくても、それがファンデーションやチークの類なのは、見て分かる。
「あ、あの……榛名姉ちゃん」
「……」
「教えて……くれるの?」
「……とりあえず、そのクマを隠します」
ベッドに座る私の隣にポーチと手鏡を置いて、その後私の前に片膝をついた姉ちゃんは、私の前髪を準備してたヘアピンで止めた。そのあと、私の左目の下まぶたを下に引っ張って、なんだかあっかんべーみたいな状態にして、ジッと私の顔を見つめた。
「あ、あの……なに、やってんの?」
「クマの種類を見てます」
そう言ってしばらくジッと私の顔を見ていた榛名姉ちゃんは、私のほっぺたから右手を離し、そのままポーチに手を伸ばして、中からチューブみたいなのとスティックみたいなのを取り出していた。チューブになってるものはファンデーションだって分かるけど……
「コンシーラーです。これでクマを隠します」
ファンデーションを自分の左手の甲で伸ばしながら、榛名姉ちゃんが私の疑問に答えてくれた。私は何も言ってないのに、視線だけで、私が何を考えてたのか、分かったんだなぁ……。そんな風に考えている私の顔に、榛名姉ちゃんはファンデーションを塗っていく。
「本当は、あなたにはパウダーのファンデーションの方がいいんでしょうけど……」
「……」
「でも今日は、クマがひどいですから。でも薄く薄く伸ばしますから」
最初はほっぺたに……次はおでこと鼻に……榛名姉ちゃんが、人差し指で優しくぽんぽんとファンデーションを伸ばしてくれた。一通りキレイに塗ってくれたあと、コンシーラーを取り、今度はそれを私のクマに、人差し指で優しくポンポンと伸ばしてくれる。
「……あなたのクマは茶グマです」
「茶グマ?」
「はい。自分のクマが何かは、知っておいて下さい」
「うん……」
コンシーラーをポンポンと塗り終わった後は、なんだか固まった粉みたいなのを、スポンジでやっぱり顔にポンポンと塗ってくれた。お化粧をしてくれてるからなのか、その感触はとても優しく、心地いい。
「……思い出すんですか?」
とても大きな筆みたいな刷毛で、私のほっぺたにチークを優しく塗りながら、真剣な表情の榛名姉ちゃんが、私にそう聞いてきた。その言葉には、いつものような刺々しさはない。とても優しくて、私への気遣いに満ちている。
「……うん」
「だから眠れないんですか?」
「うん……」
私のほっぺたにチークを塗る榛名姉ちゃんは、この部屋に入った時からずっと、とても真剣な……それこそ、何も知らない人が見れば、私への怒りを押し殺してるんじゃないかと思えるほど、真剣な表情を浮かべている。
でも、私には分かる。表情は真剣だけど、目はとても穏やかだ。前の鎮守府で、私や摩耶姉ちゃんと談笑してくれていた頃の、あの優しい眼差しに近い。
だからだろうか。私の心は、次第に緊張を解けて、リラックスしはじめていた。
そして、それに呼応してか、榛名姉ちゃんの表情も少しずつ、柔らかくなっていった。この鎮守府に来てからずっと私に見せていた、あの、怒りを押し殺したかのような冷たい眼差しは、いつの間にか、昔の暖かい、優しいまなざしへと、変わっていた。
「……知ってました。あなたが苦しんでいたのは」
「……」
「あの日から……あなたが、自分がみんなを沈めたんだと、自分を責めて苦しんでいたのは知ってました」
懐かしい、榛名姉ちゃんの優しい声が、私の耳にじんわりと染みこんでいく。心地いい波として、私の心に、静かに、だが確実に届く。次第に榛名姉ちゃんの目には、涙が溜まり始めていた。
「でも榛名は……あの日榛名は、みんなが沈んで憔悴しきってるあなたに、ひどいことを言いましたから……あなたがみんなを沈めたと勘違いして、とてもひどくなじってしまいましたから……」
薄く薄くチークを塗ってくれる榛名姉ちゃんの手が止まり、名残惜しそうに、私の顔から離れていった。しゃがんでいる自分のふとももに手を置き、俯いた榛名姉ちゃんの声が詰まる。
「だから、本当は謝りたかったけど……もう無理だと思ってました。だからせめて、あなたが戦えないのなら、榛名があなたの分まで、戦おうと思って……」
「……」
「あなたがもう二度と、戦いの場に出なくて済むように……だから、戦いに行く榛名に近づかないで済むように、ずっとあなたに……ひどいことを言い続けて……」
うつむく榛名姉ちゃんのふとももに、ぽたりぽたりと涙が落ちていることに気付いた。
今分かった。私は、ずっと榛名姉ちゃんに恨まれてると思ってたけど、本当は榛名姉ちゃんも苦しんでたんだ。私にひどいことを言ったから、もう仲良く出来ないと思って、ずっと苦しんでたんだ。
だから榛名姉ちゃんは、せめて私を戦いから遠ざけようとして、私にずっと冷たくあたって、自分から遠ざけようとしてたんだ。だから久々の出撃のときも、私にキツいことを言って、出撃させまいとしてたんだ。
でもそれが、逆にずっと榛名姉ちゃんを苦しめ続けて……私に対してひどいことを言い続けてるって、自分を責めて……
榛名姉ちゃんが顔を上げた。目には涙がいっぱい溜まってる。その涙を拭かず、榛名姉ちゃんは、私のそばに置いていた手鏡に手を伸ばし、そしてその鏡を私に向けた。
「……ほら。クマは消えました」
鏡には、クマがすっかり消えてなくなった私が写っている。クマが消えているだけじゃなく、榛名姉ちゃんのお化粧で、いつもより少しだけキレイになった、私が写っている。
「こうすればクマも消えますし、いつもよりもう少しだけ、キレイになれます」
私の目に、再び涙が溜まってきた。今は泣きたくない。泣いちゃダメだ。泣いたら、せっかく榛名姉ちゃんがしてくれたお化粧が無駄になる。泣くな。涙を流すな。
「今度から、メイクは榛名が教えますから」
「う……ひぐっ……」
「……だから、もしよかったら、また昔みたいに……仲良く、してくれますか?」
「ひぐっ……ひぐっ……」
お化粧を崩したくなくて……榛名姉ちゃんが私のためにしてくれたお化粧を台無しにしたくなくて、私は必死に涙を我慢した。けれど。
「……涼風ちゃん」
榛名姉ちゃんが、笑顔で、私を昔の呼び名で呼んでくれた。この瞬間、私の心に、榛名姉ちゃんと仲直りできた喜びと、今まで榛名姉ちゃんを誤解していた申し訳無さが、胸にあふれた。お化粧が崩れるのも厭わず、私は涙を流して、わんわん泣きながら、しゃがんで私と目線を合わせてくれている榛名姉ちゃんの胸に飛び込み、しがみついた。
「ごめんなさい! ひぐっ……榛名姉ちゃんごめんなさい!!」
話したいことはいっぱいあった。でも、私の口からはこの言葉しか出てこなかった。頭の中で何度も、もっと言いたいことを探したけれど、私の口は、その言葉しか発することが出来なくなった。
「そんな……榛名こそ、ずっと意地悪しててごめんなさい……」
「違うよ! 悪かったのはあたいだ!! ずっと姉ちゃんが苦しんでるのに気付かなくて!! ずっと、ずっと姉ちゃんはあたいを憎んでるって勘違いしてて!!!」
「違います……悪いのは榛名です。ごめんなさい涼風ちゃん……ほんとに……ほんとに、ごめんなさい」
「ごめんなさい榛名姉ちゃん……!! ほんとに、ごめんなさい……ッ!!」
私はボロボロと泣きながら、榛名姉ちゃんの胸に頬を寄せた。
「ひぐっ……榛名姉ちゃん……榛名姉ちゃん……!!」
「ほら……そんなことしちゃ……」
「ごめんなさい……ごめんなさい……榛名姉ちゃん……ッ!!」
「せっかくメイクしたのに……台無しに……なり……ますから……」
そして榛名姉ちゃんも、私のお化粧の心配をしながらも、私のことを強く抱きしめてくれた。その力はとても心地よく、そして榛名姉ちゃんのぬくもりは、ゆきおのように、とても温かかった。
その日の夕食時、私は久々に榛名姉ちゃんと晩ご飯を食べることが出来た。私たちが二人で楽しく、今日の献立のクリームシチューに舌鼓を打っているところに、夜通しで出撃していた摩耶姉ちゃんが戻ってきた。
「ういーす……やっと飯食える……はらへ……ぉお!?」
「摩耶姉ちゃんおかえりー!!」
「摩耶さん、おかえりなさい」
私と榛名姉ちゃんが同じテーブルで、楽しくクリームシチューを食べているのを見た摩耶姉ちゃんは、まず開口一番、口をあんぐりと開け、パクパクさせながら目を見開き、そして私たち二人を交互に見比べていた。
「お前ら……!?」
「今日さ。仲直りしたんだ!」
「ま、まじで?」
「はい。ね。涼風ちゃん?」
「なー。榛名姉ちゃん!」
そんなわたしたちの上機嫌の報告を聞いた摩耶姉ちゃんは、最初こそ口をパクパクさせて聞いていたけど……
「……」
「? 摩耶姉ちゃん?」
「どうかしました?」
「んー……」
次第にうつむき、身体をプルプル震わせはじめた。両手をギュッと握りしめ、私たちが心配になり始めたその時、
「……そっか! お前ら!! やっと仲直りしたんだな! アタシもうれしいぞ!!!」
と顔を上げ、満面の笑みを浮かべていた。気のせいが、左目にほんの少しだけ、涙が滲んでいた。
「よかったなぁぁああ!! 涼風ぇぇええええ!!!」
「いだだだだ!!! 摩耶姉ちゃんいだいいだい!!!」
その後は、満面の笑みのまま私の頭をガッシと掴み、痛いぐらいの力で思いっきり頭をわっしゃわっしゃとなでてくれた。
「……榛名も、ありがとな」
「……いや。榛名は……ほんとに……」
「いや、いいじゃんか! お前ら二人が仲直りしてくれたんだから、あたしはそれだけで大喜びだよ! あたしゃうれしいぞ!!!」
一瞬だけ、摩耶姉ちゃんと榛名姉ちゃんの間に真剣な空気が流れたのは感じたが……その次の瞬間には、摩耶姉ちゃんは私の頭を左腕でロックしたまま、その向かいの席に座った榛名姉ちゃんの頭にも手を伸ばして、キレイな黒髪をワッシャワッシャと乱し始めていた。
「ちょ……いたたたた!!! 摩耶さん、痛いですって!!!」
「うるせー! 散々あたしに心配かけた罰だ! いくら高速戦艦でも、今日は黙って折檻されとけ!!」
「……はい」
「ニッシッシ!!!」
頭を拘束される痛みに耐えながら、私は二人の顔を見比べた。
「へへッ! どうだーお前ら! まいったか!」
そう言いながら、私の頭をぎゅうぎゅうと絞めて、榛名姉ちゃんの頭をガッシガッシと力強く乱す摩耶姉ちゃんは、この鎮守府に来てから、一番嬉しそうに笑っているように見えた。
「痛いです! 髪が乱れますから!! もう放してくださいって!!」
そして、そう悲鳴を上げながら摩耶姉ちゃんに抗議する榛名姉ちゃんの顔も、とても晴れ晴れしく笑っていた。その笑顔は、この鎮守府に来て初めて見る、榛名姉ちゃんの、心からの笑顔だった。
夕食を食べ終わった後、私はゆきおにお礼を言うために、ゆきおの部屋に足を運んだ。受付が出来た宿舎の出入り口を通り、奥の階段を駆け上がって、いつものようにゆきおの部屋に向かう。ゆきおの部屋の前に到着したら、いつものように……でも、いつもより少し力を込めて、ドアをガッツンガッツンとノックした。
「ゆきおー!! ゆーきーおー!!」
『はーい。すずかぜ?』
「おう! あたいだ!! 涼風だ!!」
『開いてるよ。どうぞー』
ゆきおの許可を経て、私はドアをドカンと開き、部屋に足を踏み入れる。
「やっ……すず……か……」
「よっ! ゆきおー!!」
相変わらずベッドの上で本を読む、カーディガンを羽織ったゆきおと目が合った。その途端、ゆきおはほっぺたを少しだけ赤く染め、私の顔をぽけーと眺めはじめた。
「……」
「?」
「……」
「……ゆきお?」
不思議に思い、私はゆきおの名を呼びながら、ゆきおの目の前で右手をパタパタ振ったり、自分の鼻の頭を指で持ち上げて、豚鼻にしたりしてみる。それでもゆきおはしばらくぽけーとしていたが、やがてハッと我を取り戻し、慌てて視線を本に落としていた。
「や、やっ! すずかぜっ!!」
「んー?」
「で、きょ、今日はどうしたのかな?」
本を読みながらの返事なんだけど、なんだかゆきおがちょっと慌てふためいているような……まぁいいか。私は、ゆきおに言われたとおり榛名姉ちゃんに、お化粧を教えてもらえることになったことを伝えた。
「今もさ! 榛名姉ちゃんがあたいのクマを消してくれて、ほんのりお化粧してくれたんだ!!」
「そっか……それで……」
「ん? なにが?」
「な、なんでもないっ」
ベッドのそばのソファに腰掛け、私は今日の出来事をゆきおに報告するのだが……どうもゆきおの様子が先程からおかしい。私と目が合うと、自分が読んでいる本にサッと視線を落とすくせに、私の視線がゆきおから外れると、私の顔をジッと見る……なんだか少し、気持ちが悪い。
でも、本人が『何でもない』というのなら、特に問題はないだろう。本人のほっぺたが少々赤くなっているのが気にはなるけれど。
「そっか。よかったね」
「うん! それも榛名姉ちゃんをおすすめしてくれたゆきおのおかげだ!!」
「僕はなにもしてないよ」
私はゆきおの顔を見るが、ゆきおは相変わらずほっぺたを赤く染めたまま、私の顔をまっすぐ見ないで、向かって右上方向に目を向けながら話をする。その様子がどうにも可笑しいが、今の私は機嫌がいい。あまり突っ込まないでいることにした。
……ところで、まだ解決してない問題がある。
「なー。ゆきお」
「ん?」
「ゆきおはさ。なんであんなに榛名姉ちゃんをおすすめしてくれたんだ?」
「んー……」
そうだ。最終的にそれが功を奏したわけだが、いつも静かなゆきおにしては、榛名姉ちゃんに関してはとても強情で強引だった。そのことだけが、妙に気になっていた。
私の問いに対し、ゆきおのほっぺたの赤みがすっと引いた。言おうか言うまいか迷っているように口をもごもごと動かした後、とてもやわらかな眼差しで、私の目を見て、ゆきおはポツリと、こう言った。
「……榛名さんね。ここに時々顔を見せてたんだよ」
ゆきおが言うには、私がゆきおと仲良くなった頃から、実は榛名姉ちゃんは、よくゆきおの部屋に顔を出していたそうだ。
「そうだったのか……」
「それでね。よく涼風の話をしてた」
なんでも、
――この前は、涼風ちゃんを助けてくれてありがとうございました
――最近涼風ちゃんが明るいのも、雪緒くんのおかげです
とこんな具合に、最近明るくなった私のことを、とても嬉しそうに話していたんだとか。
「でさ。よく涼風の話をするから、『仲いいんですね』って言ったら……」
――そんなことないです。
榛名は、涼風ちゃんにずっと、ひどいことを言ってますから……
「って言ってたから、何かあるんだろうって思って」
「そっか……」
それでお昼にお化粧の話が出たから、榛名姉ちゃんの話を私に振ってみたところ、私の様子もなんだかおかしい……だから二人が話ができるよう、榛名姉ちゃんを大プッシュした。事の真相は、こうだったそうだ。
「そっか……それで榛名姉ちゃんを……」
「うん。どうなることかと思ったけど、涼風を見て、仲直りできたんだなって思ったよ」
私はうつむき、目に涙が溜まるのをゆきおにさとられぬよう、必死に隠した。ゆきおは、恐怖で戦えなくなっていた私だけでなく、榛名姉ちゃんも助けてくれた。仲直り出来なくて苦しんでいた私たちを仲直りさせてくれて、またあの時のような仲良しに戻してくれた。
「ありがとな。ゆきお」
「んーん。僕は何も。お礼ならさ。お化粧を教えてくれた榛名さんにいいなよ」
「榛名姉ちゃんにはもう言った。だから、ゆきおにも言わなきゃ。ありがと」
ゆきお。本当にありがとう。ゆきおは、いつも私の力になってくれる。怖くて震えていたら、カーディガンを貸して身体を温めてくれる。困っていたら、手を差し伸べて力になってくれる。私の中で、ゆきおの存在が少しずつ大きく、そして欠けてはいけない存在になりつつあることが分かった。ゆきおは、私にとって、無くてはならない友達だ。
ゆきおと友達になってよかった。この小さくて細っこい……でも優しくて、誰よりも頼りになる、将来の改白露型駆逐艦のゆきおと、仲良くなることが出来てよかった。私の心に、その喜びと感謝が、じんわりと広がっていった。
……でもここで、疑問がさらにひとつ生まれた。私は、今も私の顔を見つめ続け、私と目が合うと途端に目線を私から逸らしてほっぺたを赤く染める、目の前にいる大切なゆきおに、その疑問をぶつけてみた。
「でもさゆきお」
「ん?」
ゆきおは私から顔をそらして、向かって右上の方に顔を向けながら、私の問いに答える。
「ゆきおさ。なんであたいを見て、あたいと榛名姉ちゃんが仲直りできたってわかったんだ?」
なぜ私が何も聞いてない段階で、私と榛名姉ちゃんが仲直りできたと分かったんだろう。
さっきからほんのりと赤かったゆきおのほっぺたが、さらに赤くなってきた。途端に目が泳ぎ始め、ゆきおの目がぐるぐると回り始める。こんなにうろたえるゆきおも珍しい。
「え、えと……」
「それにさ。あたいがこの部屋に入った時、ゆきお、あたいの顔をぽけーって眺めてたろ?」
「う、うう……」
「なんで?」
私は何もおかしなことは言ってないはずなのだが……なぜだろう? いつもなら、甘いものを前にした時以外はめったに取り乱さないゆきおが、今は目をぐるぐると回し、顔中から冷や汗を流して、両手をわちゃわちゃと動かして、とても取り乱しているように見えるけど……。
「え、えーと……あのー……」
「うん」
「そ、そのー……く、クマが、消えてた……から?」
「それだけ?」
「う、うん」
どう考えてもそれだけじゃないだろうと思いつつ、私はキャスターの方に視線を移した。キャスターの上には、お昼にゆきおが飲んでいた、ピーマン以上に苦い粉薬の包みが、二つ置いてあった。
「ほんとに?」
「ホ、ほんとだよっ! 信じてよ!!」
これから苦い薬を飲まなければならないから、今は恐怖と不安でこんなに取り乱しているのかな? でもほっぺた赤いしな……そんなことを考えつつも、私は、今も顔を真っ赤にして狼狽え続ける、ゆきおを追求し続けた。
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