真・恋姫†無双 劉ヨウ伝
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第162話 復讐の顛末 前編
前書き
次話で蔡瑁を登場させる予定です。
正宗は進軍中の合間に蔡平に剣の稽古をつけていた。蔡平から正宗に頼んできたのだ。本来なら身分差のある彼が蔡平の不躾な頼みを聞いてやる謂われなどない。しかし、正宗は蔡平の頼みを聞き届けた。
「何をしている! 腕の力で剣を振るなと何度言わせる気だ!」
正宗は刃を潰した練習剣で蔡平の剣撃を軽々と受け流していた。
「剣を振り下ろす時は腰に力を入れ剣の重量に任せて振り下ろせばいいのだ!」
正宗は蔡平に厳しく叱咤し、剣撃を蔡平に繰り出した。すると彼女は体勢を崩し後ろによろよろと下がった。
「何をしている! 何故踏ん張らない。必要以上に後ろに下がるな!」
正宗は直ぐに蔡平との間合いを詰め、更に剣を振り下ろした。蔡平は奮起し前に出て正宗の剣を受け止め必死に耐えていた。正宗が手加減をしているとはいえ、まともな師匠の元で指導を受けていない蔡平には正宗の攻撃は辛いのだろう。しかし、必死な表情で正宗の攻撃に耐えようとしていた。
「それでいい。競り負けるな。白兵戦では気力のぶつかり合いだ。一瞬でも心に隙を作った者から死んでいく」
「はい!」
蔡平は正宗の言葉に返事し必死に彼の剣撃に耐え、正宗を押し返そうとした。正宗は蔡平の力量を探りながら剣に込める力を弱めた。すると蔡平が正宗を押し込んできた。ぎりぎりまで正宗は蔡平の剣の力を受けると後ろに少し下がった。それを蔡平は見逃すはずもなく、正宗に剣を振り上げ攻撃してきた。正宗は蔡平の剣撃を受け流しながら、蔡平の思うままに剣撃を繰り出さながら彼女の剣技の悪い癖を指摘し教練した。
稽古が終わる頃、伊斗香が正宗の元に現れた。明日、蔡平の村を襲撃する手はずとなっている。彼女は村に最後通告の使者として向かい今帰ってきたところだ。
「正宗様、戻ってまいりました」
伊斗香は拱手し頭を下げた。
「蔡伯節は何と言っていた?」
「通告内容に条件をつけてきました」
正宗は村に住む蔡氏の首を差し出すことを条件に他の村人の命を助命することを通告したのだ。
「条件だと?」
「はい。金を払う代わりに村に住む蔡氏も助命して欲しいとのことでございます」
正宗は伊斗香の話を黙って聞いていた。
「村に通告内容を流したのか?」
「はい。蔡伯節に邪魔をされましたが既に口づてに広がっているはずです。蔡伯節の態度を見た村人は今夜にも逃げ出すことでしょう」
「蔡伯節はどう出る?」
「裕福な蔡氏の一人ですから傭兵を雇い入れようとするでしょう。しかし、負け戦と分かっている戦場に出張る傭兵などいないでしょう」
伊斗香は狡猾な笑みを浮かべ正宗を見た。
「蔡徳珪の動きだけには気をつけておけ。奇襲・暗殺どうくるか分からんからな」
「心得ております」
伊斗香は正宗に拱手した。そして、顔を上げ視線を蔡平に向けた。
「蔡平、正宗様に直接剣の指南を受けるとは果報者だな。正宗様に感謝するのだぞ」
「はい」
伊斗香は蔡平に笑みを浮かべ超えをかけた。蔡平はあまり人慣れしていないと無味乾燥な返事をした。
「正宗様、蔡平に村の蔡一族を処刑させる件ですが些か問題がございます」
「そうだな。私人である蔡平に朝敵の処刑役をさせるのは無理がある。妙な噂を立てられかねんからな。伊斗香、何か名案があるか?」
蔡平は正宗の言葉に表情を変えた。今更、復讐の機会を与えられないと言われては困るからだろう。
「正宗様が蔡平を仕官なされば解決するかと。朝廷の臣下は無理でも、王であられる正宗様の朗官にお取り立てになられれば問題はございません。正宗様が望まれなければ別の案をお考えいたします」
「伊斗香、それ以外あるまいな。しかし、蔡平を仕官させる理由が必要だぞ。蔡平には功績がない。士卒なら問題ないが朗官と言えば話が変わる」
正宗は難しい表情をした。
「蔡平から襄陽城の内情については全て聴取済みにございます。その功績では朗官への任官の材料には弱いです。しかし、村を襲撃するにあたり蔡一族を取り逃がすことなく拘束するために手引きをさせてはいかがでしょうか? 蔡平には適役かと思います」
正宗は伊斗香の意見を聞き沈黙して考え込んだ後、視線を蔡平に向けた。
「蔡平、お前はどうだ? 裏切り者と誹りを受けるやもしれん。嫌なら断っても構わない。拒否してもお前の復讐の機会は余が必ず用意すると保証する。王に二言はない」
「私やります!」
蔡平は正宗の申し出を進んでやると言った。復讐の機会を得るために鬱屈とした人生を過ごした彼女に目の前にある正宗の申し出は受け入れる以外に選択肢を見いだすことができないだろう。
「本人もこう申しております。次の戦では蔡平を使いましょう。正宗様、よろしいでしょうか?」
伊斗香は正宗に確認してきた。正宗は頷いた。
「蔡平、稽古は終わりだ。数刻後には進軍開始する。準備をしておけ」
正宗は蔡平に声をかけると蔡平はぎこちなく拱手した。その様を見て彼は微笑ましい表情をした。正宗は伊斗香から蔡平の年を教えられたが、彼女と正宗の年の差は五歳も離れていることを後で知った。その時の正宗の驚きは凄かった。蔡平の見た目はせいぜい年の差は一歳前後に見えるため彼の驚きは幾ばくのことだったろうか。
正宗と伊斗香は蔡平を残し去って行った。少し歩くと正宗は徐に口を開く。
「伊斗香、蔡平に入れ込む理由は何だ?」
正宗は伊斗香に視線だけ向けた。
「使える者は使うべきと思ったまでです。それに蔡平は鍛えれば正宗様の有能である忠臣になり得る存在です。忠臣とは得ようとしても得難きものでございます」
「蔡平が身よりがないからか? あまり言い気分はせんな」
正宗は人の弱みを利用しようという伊斗香の姿勢に気分を害している様子だった。伊斗香は正宗の変化を気にする様子は無かった。
「利用するとは存外でございます。今後、蔡平も身を立てる必要がございましょう。そして、正宗様は有能な家臣を所望されているはず。その家臣が忠臣であればなお良いはず。正宗様と蔡平の出会いは天の配剤だとおもっております」
「私と蔡平を巡り合わせたのはお前であろう」
正宗は伊斗香を見て苦笑した。
「蔡平にご不満がございましたか?」
「蔡平は私が直々に仕官の誘いをするほどに教養を有しているわけではない。だが、惜しい人材ではある。剣の筋はお前の言う通り悪くはない。師匠に師事する機会も無かったのだろう。もし、蔡平が復讐を成した後、蔡平がやる気があれば化ける可能性は確かにある。私は蔡平に成長の場を与えてやることが出来る。将来のことを見据えれば人材は漁るだけでなく、育てることも必要だからな」
伊斗香は正宗の人材への考えを聞き感慨深げにしていた。
翌日、蔡平の住んでいた村を襲撃した。蔡平の手引きのより蔡一族は悉く拘束され、蔡一族の外戚関係にある者達も全て拘束された。元村の住人である蔡平が正宗側に居たために出来たことだろう。
正宗は蔡平の功績を表し略式だが彼女を朗官に任官したのだった。
正宗は本陣の最奥で椅子に座していた。彼の周囲には朱里、伊斗香、桂花、紗耶夏、慈黄、荀爽の五人がいた。拘束され正宗のいる本陣に連行された蔡一族の者達は正宗に怒りと不満の表情を向けた。だが、圧倒的な武力を率いる正宗に逆らっても無意味と自覚しているのか不満を口にせず押し黙っているようだった。
「蔡平!」
正宗が蔡平の名を呼ぶと本人がゆっくりとした足取りで本陣に現れた。蔡伯節以下他の蔡一族は見知った人物の名が呼ばれ表情を強張らせ視線のみを後ろに向けた。蔡平の姿を捉えた蔡仲節の表情は一際驚愕の色を見せていた。
蔡平はみすぼらしい格好ではなく深紅の生地の朗官の服装に身を包んでいたからだろう。彼女の腰には朗官に相応しい片手剣を差していた。全て正宗が彼女に与えたものだろう。
「清河王、お呼びでしょうか?」
蔡平はぎこちない所作ながら正宗に拱手し頭を下げた。目の前で正宗に片膝をつき拱手する蔡平を見る蔡一族の表情は困惑している様子だった。
「蔡平、天下の逆賊・蔡瑁の一族である蔡伯節とそれに連なる者をこの場で処刑しろ」
正宗は淡々と蔡平に命令した。蔡平は片膝をつきながら腰の剣に手をかけた。彼女の様子は微塵も戸惑いが感じられなかった。純粋な殺意を感じさせる視線を後ろ手に縛られる蔡一族達に向けていた。
拘束される者達の中には子供もいたが表情を青くさせ体を震わせていた。蔡平の憎悪に満ちた視線から、自らがどんな目に遭わされるか幼心に理解できたのかもしれない。または、蔡一族の出身であることを理由に蔡平へ嫌がらせをしていたのかもしれない。大人達は子供達と違い蔡平に怒りを覚えている様子だった。今まで格下と思っていた相手が自らの上位にあることを受け入れることができないのだろう。
「車騎将軍、この者がどのような者なのかご存じなのか?」
蔡伯節は蔡平を見下した視線で一瞥すると正宗に意見した。これから処刑される立場の者の態度とは思えなかった。彼は命乞いより蔡平に対する正宗の扱いが気に入らない様子だ。現状認識のできない愚かな彼を正宗は冷めた目で見ていた。感情を感じさせない冷徹な視線を送った。
蔡伯節は自分に対して冷然な正宗に語気を弱めていた。彼の様子から今まで蔡一族が荊州でいかに隆盛を極めていたのかが推察できた。同時に蔡一族を生かす選択などないことが正宗にもよく理解できただろう。
「全て承知している。蔡伯節、余が蔡平を仕官させることに何の問題があるのだ」
正宗は蔡伯節を見た。相手に意見を許す気はないと彼の表情は語っていた。
「そ、そうですか」
蔡伯節は正宗が放ついい知れない覇気に怖じけづいているのか語尾が消え入りそうにな声で答えた。所詮、戦場を知らない資産家と戦場を潜り抜けてきた正宗では場数が違いすぎる。蔡伯節は腰砕けになり正宗から視線を逸らした。
「蔡平は此度の戦で功績を挙げた。朝敵であるおまえ達の住む村を攻めるに当たり、余に情報をもたらした。おかげで難なくおまえ達を拘束できた。この私の直臣にして、何ら不都合はない。おまえ達は余の発した檄文を無視し、降伏勧告すら無視した。おまえ達は万死に値する」
正宗は淡々と蔡伯節に対して罪状を述べると蔡平に目で合図した。
「車騎将軍、親を売るような此奴に直臣に取り立てるとは正気ではありませんな。此奴も蔡一族の血が流れているのですぞ!」
蔡忠節は正宗に意見した。彼は自ら処刑されると理解し、蔡平も道連れにしようとしているのだろう。正宗は彼の言葉に口角を上げ目を細め冷酷な笑みを浮かべた。
「お前が言うのか? 貴様達は県令を抱き込み殺人の罪を握りつぶしたな」
正宗は蔡忠節を睨んだ。蔡忠節は心臓を掴まれたような驚きの表情を浮かべ正宗を凝視した。蔡伯節も怯えた表情を浮かべた。
「お前は朝敵以前に死罪になる身だ。凌遅刑に処すところを、この者の手で処刑させるというのだ異論あるまい。だが貴様が望むなら凌遅刑にて処刑してやろう。地獄の苦しみを味わいながら死ぬがいい。安心しろ。県令は不正を告発し処刑する。朝敵に組みした官吏は天下に必要はない」
正宗の言葉に蔡忠節は脱力したように崩れ落ちた。
「蔡伯節、お前は余の檄文を無視し皇帝陛下の勅に服すことなく大罪人! 死して皇帝陛下に詫びるがいい! この者を取り押さえろ!」
正宗は烈火の如き表情で蔡伯節をなじった。彼の言葉を発すると、近衛の兵士達が蔡伯節を乱暴に立たせて、正宗の面前に引き立てた。蔡伯節は死を間近に感じ、取り押さえる兵士達の拘束から逃れようとと無駄な抵抗をした。しかし、彼は為す術もなく正宗の前に突き出された。他の蔡一族は体を震わせ、蔡伯節のことを凝視していた。
「何故だ! 何故私がこんな目に遭わねばいけないのですか!?」
蔡伯節は事態を漸く認知したのか半狂乱になりながら正宗に慈悲を得ようと叫んだ。
「何故だと? 自らが招いた災厄と理解できないのか?」
正宗は無表情で酷薄な声音で蔡伯節に言った。
「私が車騎将軍に何をしたというのです? 静陽殿が車騎将軍のお命を狙ったのではございませんか? この私は委細知らなかったことでございます」
蔡伯節は情けない表情で必死に正宗に縋った。正宗は彼を蔑んだ目で見た。
「人とは窮地に立った時、こうまで差が出ようとはな」
正宗の目に憤怒の炎が燃えさかった。彼は薄汚いものを見るように蔡伯節を凝視した。
「黄承彦は蔡一族に連なる夫と我が子を守るため、彼らの両目を潰し両足の腱を切った。そして、蔡一族討伐に自ら参加して、己の手を血で汚した。夫から恨まれるやもしれんと理解しながらな」
正宗は淡々と話し出した。
「そして、蔡瑁の実妹は余の暗殺に失敗しようとも生き恥を晒すことを選ばず死ぬことを選んだ。命が惜しいなら、何故に私の檄文に呼応しなかった!」
正宗は哀しさと蔡伯節への怒りがない交ぜになった目で蔡伯節を睨んだ。
「蔡平! 蔡伯節を殺せ!」
正宗は怒りを抑えた声で蔡平に命令した。蔡平は剣を抜き放ち、蔡伯節の近づいた。
蔡平は剣を力一杯振りかぶり暴れる蔡伯節に切りつけた。だが、蔡伯節は即死することはなかった。蔡平の剣の技量では首を一太刀で切り落とすことは無理だったからだ。蔡平の一撃で中途半端に切りつけたことで蔡伯節は目を向きだしに悲鳴を上げ暴れ出した。しかし、彼を押さえ込む兵士達に抗うことができず苦悶の表情で身動き出来ずにいた。その光景を見ていた蔡忠節以下、蔡一族は恐怖の表情を浮かべ逃げようと暴れ出した。
「放せ! こんな真似をしてただで済むと思っているか!」
蔡忠節は焦った表情で叫び声を上げた。
「蔡平、どうした」
正宗が蔡平に声をかけた。
蔡平ははじめて人を斬ったことで動揺したのか苦しみもがく蔡伯節の姿を凝視していた。剣を握る手が震えていた。
「あの。あの」
蔡平は声を震わせていた。
「蔡平、これがお前の望みではなかったのか?」
正宗は神妙な表情で蔡平を凝視した。
「蔡平、蔡伯節をそのまま放置するつもりか?」
蔡伯節は白目を剥き歯を食いしばり口から泡を吹き体を痙攣をさせていた。彼に正宗は視線を向けた。
「どうすれば」
蔡平は蔡伯節に視線を向けると顔を上げ正宗に縋るような視線を向けてきた。彼女は人を一度も殺めたことがないのだろう。動転している様子だった。
「蔡平、やりたくなければやらなくてもいい。だが、後悔するような真似だけはするな」
正宗は蔡平に言った。彼は蔡平の復讐のために十分すぎるお膳立てを用意した。私人に蔡一族の処刑を担当させるわけにいかないため、蔡平を内々に自らの朗官に取り立てた。しかし、彼の表情はすぐれなかった。蔡平に非道い身内とはいえ、彼女の手を血で汚させることにを忍びないと思っているように見えた。
「死ね――!」
蔡平は正宗に諭されるとしばし逡巡した様子で蔡伯節を見ていたが、意を決したのか蔡伯節の首に剣を振り下ろした。二度三度と蔡平は剣を振り下ろした。
蔡伯節は身動きしなくなった。蔡平は肩で息をし、動かなくなった彼を凝視した。彼女の頬は蔡伯節の血で汚れていた。彼女は血を拭うことなくゆっくりと蔡忠節に視線を向けた。彼女の視線に気づいた蔡忠節は表情を引きつらせて必死に暴れた。
「貴様――! 父親を殺す気か!」
声を震わせながら蔡忠節は罵声を上げる。それを余所に兵士達は蔡伯節の遺体を横にどかす。その場所に無理矢理に蔡忠節が移動させられる。蔡忠節は頭を押さえつけられ、兵士達に押さえつけられる。彼は半狂乱になりながらもがく。
「車騎将軍様! どうかお慈悲を! こんな阿婆擦れに嬲り殺しにされる位なら楽に処刑してください!」
蔡忠節の正妻が正宗に哀願する。正宗は怜悧な瞳を向けた。
「殺人を犯し県令を籠絡し法を曲げた罪。蔡徳珪討伐の檄文を無視した罪。朝廷の勅を無視した罪。楽に死ねるとお前は思えるのか? 自らの悪行が招いた業と心得、この男は甘んじて苦痛を受けるべきであろう」
「蔡平は夫を殺そうとしたのです。その罪を何故問わないのでございます!」
蔡忠節の正妻は必死な形相で正宗に抗議した。
「蔡平は蔡忠節に返り討ちに遭い半殺しの目となった。深い傷跡が残るほどにな」
「それが何だというのです!」
蔡忠節の正妻は正宗の言葉を理解できないという表情で文句を口にした。彼女にとって蔡平など炉端の石程度なのだろう。彼女の発言から蔡平が村の蔡一族からどのような扱いを受けていたか容易に理解できた。
「蔡平が蔡忠節を殺そうとしたことは罪だ。しかし、情状酌量の余地がある。それに報いは十分に受けたであろう。蔡平は重傷を負い、養い親を目の前で殺されたのだからな」
正宗は淡々と言った。
「あんな生意気で貧乏な老いぼれ二人を殺して何故私の夫が苦しんで死ななければならないのです! 夫は被害者です!」
「被害者? 加害者の間違いであろう」
正宗は侮蔑に満ちた瞳で蔡忠節の正妻を見た。彼の瞳には怒りが籠もっていた。その迫力に気圧され、蔡忠節の正妻は押し黙ってしまった。
「蔡平、殺れ」
正宗は短く命令した。
「清河王、蔡忠節と一対一の勝負をさせてください!」
蔡平は正宗に拱手して蔡忠節との勝負を申し出てきた。
「死罪になる者と一対一の勝負を望むか?」
正宗は静かに蔡平に質問した。
「はい!」
蔡平の瞳には強い憎しみに支配された復讐の炎が映っていった。理屈ではどうにも出来ない感情なのだろう。彼女は母を結果的に見殺しにし、自らの愚かな行動で養い親を死なせてしまった。憎しみの矛先を蔡忠節へ向けることで彼女は生きる理由を見いだしたのだろう。無抵抗な状態で蔡忠節を殺すではなく、正々堂々と討ち果たすことに拘るのが何よりの証拠だった。彼女は蔡忠節を殺すことでしか、前に進めないのだろう。
しかし、いくら死罪になる者とはいえ、蔡忠節との一対一の勝負を容認していいものではない。処刑は厳かに行わなければならない。命を弄ぶような決闘をもって処刑とすることに正宗は悩んだいる様子だった。
正宗は瞑目した。
「駄目だ」
正宗はきっぱりと答えた。
「何故ですか!」
蔡平は目を見開き正宗を周囲の目を憚ることなく睨んだ。
「余が命じたのは処刑だ。決闘ではない」
「こいつを殺させてやると言ったではないですか!」
蔡平は蔡忠節を見ながら正宗に叫んだ。
「確かに言った。しかし、決闘させるとは約束していない。残りの者の処刑は明日に延期する」
正宗はそう言うと立ち上がった。
「待ってください!」
蔡平は正宗を静止したが、正宗は立ち止まることはなかった。
「いかがなさるおつもりでございますか?」
伊斗香が正宗に声をかけてきた。
「蔡平との約束は守るつもりだ」
正宗は歩きながら伊斗香にだけ聞こえるように言った。
「決闘をお認めになると?」
伊斗香は難しい表情をした。死罪になる者を決闘にて処刑すれば、正宗の風聞に傷がつくと感じているのだろう。
「決闘は認めん」
「蔡平は決闘を望んでいるようです。それ以外は納得しないかと」
伊斗香は正宗の考えを探るような視線を送った。
「逃亡者なら問題あるまい」
伊斗香は得心した様子だった。正宗は蔡一族をわざと逃亡させ蔡平に決闘の場所を用意してやる腹づもりなのだろう。
「正宗様、かしこまりました。万事私めにお任せください。今夜にでも手はずを整えいたします」
伊斗香は艶然とし正宗に拱手した。
「後で蔡平を私の元に呼べ」
「かしこまりました。追撃隊は私が隊長を務めさせていただきます」
伊斗香は拱手したまま正宗に深々とお辞儀すると去って行った。
「お呼びですか?」
蔡平は正宗の陣所にやってきた。彼女は陣所の陣幕を潜ると中に入ってきた。彼女は正宗に対して片膝をつき拱手した。
蔡平は表情を平静を装っていたが声音の雰囲気から正宗への不服があることを察することができた。不服の理由は正宗が決闘を認めなかったことだろう。
「蔡平、蔡忠節を殺す機会を与えてやる」
正宗は徐に蔡平に言った。
「わかりました」
蔡平は正宗の命令に素直に従った。しかし、彼女は拳を強く握りしめていた。彼女の望む決闘ではなく処刑でも、蔡忠節を誰かに処刑されるくらいなら自分で殺したい。彼女は正宗の命令に大人しく従うしかないと考えているだろう。
「今夜、伊斗香の手で蔡一族が逃亡する手はずとなっている。お前は追撃隊に加わり一人残らず殺せ。一人でも見逃せばお前の命はないと思え」
正宗は片膝をつく蔡平に言った。彼の話を聞いた蔡平は顔を上げ、彼の顔を仰ぎ見た。
「一対一の勝負が出来るんですか?」
「伊斗香が全て取りはからってくれるだろう。この私を失望させるなよ。必ず生きて帰ってこい」
正宗は蔡平を見た。彼の「必ず生きて帰ってこい」という言葉は実戦を幾度となく経験しているからこその言葉だろう。生死を賭けて戦う戦場に死はつきものだからだ。特に蔡平は人を殺した経験が浅い。一時の気の迷いで死ぬ可能性は往々にある。
「蔡平、私はお前に短い間だったが剣を指導した。師匠面をするつもりはない。だが一つだけ忠告しておく」
蔡平は正宗が自分のことを本当に心配してくれていることを感じたのだろう。彼女は神妙な様子で正宗の言葉を聞いていた。
「お前は蔡伯節を処刑する時、迷いを抱いたな。蔡平、その感情は戦場では死を招く。戦場では自らの命を狙う者は全て敵だ。迷わず斬れ! 斬ったことを迷うなら敵を滅ぼした後に考えればいいのだ。いいな?」
正宗の方が年端は下であったが、蔡平は正宗のことを自分よりずっと年上の人物を見るような視線を送っていた。
「清河王、ありがとうございます」
蔡平は正宗に拱手して立ち去っていった。それを正宗は見送った。
「復讐をしたところで死んだ者は生き返りなどしない。だが、人は復讐せずにはいられないのだろうな」
正宗は先ほどまで蔡平が居た場所を見ながらつぶやいた。彼には蔡平が復讐を果たしても救われることは無いと感じているようだった。だが、それでも機会を与えることで、蔡平が立ち直る切欠となれば良いと考えたのだろう。
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