トワノクウ
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トワノクウ
最終夜 永遠の空(七)
前書き
最 果 て
(よかった。上手く行った)
暗い水面に立って地上を見下ろしていたくうは、大きな喜びと一抹の寂しさを同時に感じた。
一人一人の想いでは、機械と電脳の夢の身から逃れられないというなら、その想いを外から足してやればいい。
がしゃどくろの骨片を、妖と成る前の〝人の想念〟の状態まで戻し、人と妖に等しく還元する。
「ありがとうございます。鴇先生」
くうはドレスの裳裾を広げて膝を突き、暗く透明な水の中で、無数のコードに繋がれて眠る鴇の、輪郭をなぞった。
がしゃどくろの腹の中にいた時のように、直接触れることは、もうできない。
神が実体として意思をもって現世に干渉することをずっと避けてきた鴇時が、くうなどの拙い案を実現してくれた。
だから、朽葉や梵天たちはアバターではなくオリジナルになれた。
ただ一人、六合鴇時自身を除いて。
六年前の事変に直接関わった唯一の〈彼岸人〉である自分が消えるのが、あまつきを解放するためには一番正しいと、信じて。
この水の中の鴇時は心だけの、いわば意識体。いや、帝天になった時から、すでに鴇は体を捨てていた。あまつきの〈管理人〉になるためには、心だけでなくてはならなかったから。
くうがこの空間に、実体を持って存在していることがそもそもおかしいのだ。
だが、まだ見逃されている、このわずかな矛盾こそが今は必要。
ぱしゃ、と第三者が水面を踏んで歩いてくる音がした。
「お待ちしてました。梵天さん」
「――やっと鴇時からお呼びがかかったと思えば。あれは君が設定した合成音声か」
「急ごしらえでしたから。見破られなくてよかったです」
「唯一の主の呼び出しに応えないわけにはいかなかったからね。妖はその辺、律儀に出来てるんだよ。――で? この俺を騙してまで〝天〟に招き入れたのはどういう目論見だい?」
そう。ここはあまつきの民が〝天〟と呼ぶ、天座よりいと高き神の御座所にして、幽閉の間。
くうは立ち上がり、梵天の正面に歩み寄った。
「くうの体に鴇先生の心を移植してください。梵天さんならできるでしょう?」
梵天はやはり蒼白になった。
「――、俺にやれと? 菖蒲と白緑で散々辛酸を舐めた俺に、よく提案できたものだね」
「今あるカラッポの器はこれだけです。この体は元々くうが産んだ鳳です。性別はくうの心に合わせて作られたはず。ですから、くうを分離すれば無性体になるでしょう。鴇先生の器にするのに支障はありません」
「不死の呪いは残るよ。君と同じ苦しみを鴇時に背負わせて、君は平気でいられるのかい」
「その問いに答える前に一つ。鳳は寿命で死にますか?」
「――どんな妖でも時の流れには逆らえない」
「不死の呪いが永劫の責め苦でないのでしたら、鴇先生は受け入れてくださいます」
復活した鴇時は朽葉のもとへ帰る。背負ったものに苦しみはしても恨む人ではない。朽葉と同じものを負うことで彼女に少しでも近づける、とポジティブに解釈できる強さを持つ人だ。
そういう人だとくうは知っている。くうは鴇時の教え子だから。
信念も情愛も、鴇時から貰ったものでこの身は成されているから。
梵天は動かない。当然だ。彼からすれば二度目のトラウマともなりかねない。救済の裏側を梵天はこの世の誰よりも知っている。
なればこそ、くうは残酷な最後の後押しをする。
「くうは、忘れたいんです」
彼に己を責めてほしくないから。
「くうが体を譲ればくうはあまつきで死亡扱いになります。そうなれば、お父さんのようにセーブデータのないくうです、ここでの記憶を持ち越して現実に帰ることはできません」
「そうだろうね」
「私は忘れたい。薫ちゃんと潤君が私を殺したことを。立場を守るために殺してもいいと思ったことを。でなきゃ私一人が苦しいじゃないですかっ!」
本心のカケラを何十倍にも肥大させ、目尻に涙さえ浮かべて、くうは語った――騙った。
優しい鳥がこれ以上苦しまなくていいように。
この世で生きるチャンスをくれた彼の心が晴れるように。
「何にも覚えてなくて、何もかもなかったことにして友達面する薫ちゃんと潤君と、これから何年も付き合ってくんですよ!? あんまりですよ! 私にも忘れさせてくださいよ!」
くうはいつかのように梵天の胸に縋った。
「くうを薫ちゃんと潤君のとこに、友達と幸せでいられた毎日に、帰して……!」
――やがて背中と頭に、体温の高い手が添えられる感触があった。
「君は本当にどうしようもない子だね」
「ごめんなさい」
「いいさ。姉さんに比べれば駄々もまだ愛嬌があるほうだ」
声が温かい。寄せた胸板が温かい。凍えるくうをいつもぽかぽかにしてくれた梵天の体温も、これが最後。
「くうの叔父さんが梵天さんでよかった」
「今さら褒められてもうれしくないよ」
「はぅ」
「――くう」
「はい」
「抱きしめていい?」
「え、ど、どうぞ」
梵天の腕に力がこもる。今までの慰めの抱擁とは異なる、情からの束縛。
「――走狗だった頃、俺は姉さんに指一本触れなかった。姉さんから俺に触れることもなかった」
切なくなる。己を過酷な運命に追い込んだ母を許せなかったのは分かる。くうにとって母親であっても、梵天には絶望を与えた姉で――そんな姉への情を断ち切れない彼自身を、彼は決して許さなかった。
「かつて姉さんにこうできていたら、何かが変わったんだろうか」
「梵天さん――」
もしこうしていたら。
その問いは神にもどうにもできないと、答えた彼こそが、最もその問いに囚われていた。
「変わりませんよ」
だからくうは、出来のいい生徒として、かつて梵天が教えてくれた通りに答えた。
「神様にだって変えられません。だからね、そーゆーのは考えなくていいんですよ」
「――、そうか。考えてもしょうがないのか」
くうは答えず、梵天の背中に腕を回し返した。
やがて彼らはどちらともなく離れた。
「やるよ」
「お願いします」
梵天が左腕をくうの胸に伸ばす。彼の左目の下と瞼には咒字が浮かび上がっている。ちゃんとやってくれるらしい。
くうは胸を張り、受け入れる態勢を取った。
梵天の手が、くうの胸に、入り込んで――――
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