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トワノクウ

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トワノクウ
  最終夜 永遠の空(六)

 
前書き
 星 の かけら 

 
 かつて己の想い一つで天の改竄を免れた女性がいた。
 ――鶴梅。
 菖蒲への敬愛で菖蒲に関する記憶の再設定を破った人。

 神であろうが人の想いはなかったことにはできないと、仮想の住人でも現実の支配を逃れて独立しうると、鴇時に示した存在だ。

 あまつきの住人は誰しも、鶴梅のように一個の存在としてこの仮想世界に生きられる。
 では、そのためには何が必要か。

 強い想い。天を、帝天を、神を否定するほどの、心だ。

 それが強くなった今こそが、鴇時が神でなくなる最大にして最後のチャンス。


「うちの姪に唆されたとはいえ、鴇さんも大胆なことしますねえ」

 花畑を踏んで歩いてくるのは夜行――篠ノ女明だった。

「帝天たる貴方自身を(しん)と例えるなら、雨夜之月が帝天の(たい)。その(たい)に別の(しん)を入れようっていうんだから、(たい)を失った貴方の意識は霧散します。彼岸にバックアップがあれば別だけどありませんし、そのまま消えてしまうでしょうね」
「うん。そうだな。それでもいいと思ってる」
「何でです? 貴方は前途ある若者だったじゃないですか。『鴇さん』は青春も終わって人生の下り坂ですけど、だからといってやり直せないほど歳をとってるわけでもないですし。そうでなくても、雨夜之月で築き上げた関係を考えると、未練は多いんじゃないですか?」

 思い出すのは、自分が初めてこの世界で出会った少女。
 刺々しくて意地っ張りで。でも自分を愛してほしいと全身で訴えていた、かわいい女の子。
 ――今ではあんなに大人になった。女らしくなった。人の輪の中で、笑えるようになった。

「――それでも、だよ。俺は俺が昔できなかったことを、今度こそやり遂げたい」

 今日まで、天網はなくなっても、鴇時自身が彼らを縛る天網になってた。だから、鴇時がいなくなることが、最後に必要な手立て。

 彼らに自由を。
 定まらない明日へ、己だけで選んだ未来へ、踏み出す権利を。

「――優しい天網(みらい)を約束しなかった時点で、この結末は貴方にとって決まりきってたってわけですか」

 皮肉げに肩を竦める明の身体が少しずつ透けていく。
 彼女にも解放の時が来たのだ。

「んじゃ、私、先に逝きます。この電子の海にあの世があるかは分からないけど」
「あるさ、絶対」

 明はこれまた血の通った笑みを刷き、鴇時に背を向けて歩いて行った。
 数歩行った頃には、すでに明は消失していた。

 不幸な事故から、ただ「ヒトはヒトを助ける」という善性を信じて、夜行の主人格まで昇り詰め、誰からも嫌われようと奔走した、小さな勇者。

 その最期を、鴇時は目と胸にしかと刻んだ。






 朽葉は一つでも多く人と妖の無差別な殺し合いを止めるため、刀を揮っては争う者たちの間に入り、このような行為は無意味だと訴えた。

 だが、朽葉自身もまた、憑き物筋という重石を負っている。

 不忍池から湧いた瘴気の地面に立っているだけで、犬神の凶暴な衝動に、自分の理性が徐々に塗り潰されていくのを自覚していた。

(犬神に身を委ねれば楽になれるんだろう。だが、そうなれば私も、妖として人を虐殺してしまう。それだけはだめだ。そうなったら――鴇が、悲しむ)

 朽葉の顔色の悪さが気取られたのか、猿の妖が朽葉に飛びかかってきた。

「伏せろ!」

 朽葉が行動するより速く、萱草が篭手の仕込み刃で猿の妖を斬って捨てた。

「萱草……すまない」
「安心しろ。急所は外した」

 事も無げに言っているが、萱草とてこの瘴気に汚染された地面に立っているのだ。いつ意識が闇に呑まれてもおかしくない。

 くうと鴇時はがしゃどくろに飲み込まれ、前後左右は無差別な殺し合いの光景。
 それらを突きつけられても、朽葉は折れていられない。

(鴇だったら折れない。絶対に。だから私だって、この心を曲げない)

 一時の熱病に浮かされて全面戦争などという事態を、朽葉は決して許さない。

(沙門様の教えを思い出せ。禅の境地を思い出せ。心静かに。決して穢れに身を委ねない意思を持って、研ぎ澄まされた一本の剣で在れ)

 朽葉は瘴気に意識を持って行かれまいと、心を保てそうなものを片っ端から頭に描き、再び乱戦の中に飛び込もうとした。


〝もういいよ〟


 ――その声は、天から降ってきたものに聞こえた。


〝悪い夢はおしまいにして、みんな、おうちに帰りましょう?〟


 朽葉が天を仰いだ時だった。

 不忍池に屈んで彫像のように動かなかったがしゃどくろが、内側から割れて粉々になった。

 呆然と空一面に広がる骨片を見上げるしかなかった。

「落ちて、来ない?」

 そう。砕け散ったがしゃどくろの骨片は、一つも地に落ちることなく滞空している。それがありえない光景であることくらいは朽葉にも理解できる。

 ありえない光景の中心に、もっとありえない人物を、朽葉は見つけた。

「くう!!」

 両目を閉じ、受け入れるように両腕を広げているのは、白い翼で滞空しているくうだった。

 骨片は落ちるどころか、淡く光り、空へ向かうくうに導かれるように空へと昇っていく。

 やがて全ての骨片が天頂に至った時、世界は闇に包まれた。

 藍色の空と、そこに輝く星々。
 時間の法則を軽々しく無視して、世界は夜になったのだ。

 呆気に取られて夜空を見上げていると、星の一つが煌き、流れた。

 そうすると、満天の星は次々と流れ始め、流星群となる。
 ちょうど朽葉の近くにも流星は落ちた。

 すると、地面から瘴気が浄化され、元のただの水に戻った。

 朽葉たちの前だけではない。流星は次々と不忍池とその外縁に落ちては、瘴気に冒された水や土を浄化し、元あった姿へと還していく。


 不忍池一帯の浄化が終わっても、流星群は止まらない。

 今度の流星は、その場に立つ人と妖の全てに等しく降り注いだ。比喩でも何でもなく、星は真実胸に落ち、染みたのだ。

 星を胸に受け止めた朽葉の中から、犬神の頸木を外そうとしていた穢れが消えた。

 朽葉は胸に手を当てた。――あたたかかった。

(ああ。お前のしわざなんだな。鴇)

 目尻に滲む涙もそのままに、朽葉は星降る夜空を見上げ、微笑んだ。 
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