真・恋姫†無双 劉ヨウ伝
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第156話 張允
正宗が伊斗香と面会した三日後、榮奈は正宗軍先発隊三万を引き連れ南陽郡に到着した。彼女は直ぐに正宗に伝令を送り指示を仰いできた。
正宗は朱里と伊斗香の献策に従い、襄陽県に近い南郡と南陽郡の郡境に三万の兵を配した。これは襄陽県が南陽郡に面しているためと大軍による威圧の効果を狙ったものだった。
宛城の城下は慌ただしかった。荊州各地の豪族達の使者が荷馬車に兵糧を乗せてやってきていた。彼らに共通するのは兵糧は供出するが兵を出さないという点だった。兵を供出してきた豪族達は蔡一族に粛清され細々と暮らしていた者達が多かった。正宗は元々豪族達の兵力は頼みにしていなかった。荊州中の豪族達から兵を供出させ、荊州の主であることを示威するためのものと考えていたからだ。その目論見は現在のところ上手くいっていない。
豪族にしてみれば正宗と蔡一族の争いに下手に巻こまれ災禍に遭うくらいなら兵糧のみを供出する方が楽なのだろう。また、正宗軍の実力を噂でしか知らない豪族達にとっては正宗と蔡一族と一定の距離を保ち様子を伺いたいという気持ちの表れともとれた。
そんな中、宛城に朝廷の使者・荀爽が訪れ、正宗に面会を求めてきた。彼女は劉表から正宗との仲立ちを頼まれていたが、彼女が正宗の元を訪ねた本当の理由は劉弁からの勅を渡すためだった。その勅は蔡徳珪討伐の命令であった。正宗は勅を荀爽から預かり丁寧に小箱に仕舞いこんだ。
この場には正宗以外に朱里と泉と伊斗香、それに桂花も同席していた。伊斗香は蔡徳珪討伐の勅の内容を荀爽が読み上げる間、正宗のことを驚いた表情で見つめていた。その後、荀爽のことを訝しんでいた。少人数それも馬で移動した荀爽が正宗の元を訪ねるのが自分より遅いことをおかしく思っているのだろう。荀爽は正宗の元に来る前に荊州内の動向を探っていたのかもしれない。
「荀侍中、よく来てくれた。これで心置き無く蔡徳珪を討伐できる」
正宗は荀爽に笑顔で労をねぎらった。荀爽は拱手して正宗に頭を下げた。
「車騎将軍、この度は大変な目にお遭いになられご心労お察しいたします」
「蔡徳珪には困ったものだ」
正宗はあまり困った雰囲気ではなかった。
「車騎将軍、皇帝陛下は荊州を速やかに収めることをお望みにございます」
荀爽は正宗を見つめた後、徐に勅に書かれていない劉弁の考えを伝えた。
「皇帝陛下はそう申されていたのか?」
正宗は神妙な表情で聞いた。荀爽は深く頷いた。
「皇帝陛下の御下命とあらば否とはいえない。皇帝陛下のご期待に添うために働くことを約束しよう」
「車騎将軍、お言葉をお聞きになれば皇帝陛下はさぞお喜びなれることでしょう。皇帝陛下は先頃の人心の乱れに心を痛められております。皇帝陛下が今回の討伐で関係ない無辜な民が大勢死ぬことを危惧されたからこそ、車騎将軍に御下命したことゆめゆめお忘れ無きいただきたく存じます」
正宗は荀爽の話を聞き終わると強く頷いた。朱里と伊斗香は冷めた視線を荀爽に向けていた。荀爽は劉弁の言葉を借りて、正宗の行動を牽制したのだ。荀爽の主人である王允の命令だろう。王允は正宗が荊州の政情が不安定になるような真似をしないと信じているが万が一を考えてまわりくどい伝え方をしているのだろう。
「皇帝陛下の民を慈しむ心に私は感動した。余も皇帝陛下と同じ想いだ」
正宗も荀爽の話から意図は読み取ったのか荀爽に意味深な笑みを返した。その表情に荀爽は一瞬苦笑いし平静を装った。彼女は正宗が自分の意を理解してくれたと思ったのだろう。少し安堵していた。
「筍侍中、この後はどうされるつもりだ?」
正宗は徐に荀爽に聞いた。
「できれば車騎将軍にご同行させていただきたく存じます」
正宗は両目を大きくして荀爽を見た。それは朱里、伊斗香、桂花三人とも同じだった。荀爽は戦場とは縁遠そうな雰囲気を放っていたからだ。それにこれから蔡一族を根切りにするために出陣するのだ。免疫のない荀爽に有る事無い事王允に報告されては困ると思ったのか正宗と他三人の表情は困惑していた。
「筍侍中、本気で付いてくるのか?」
「はい」
荀爽は正宗を見て言った。
「正直気分の良いものではないぞ。特に今回はな」
正宗は表情を暗くした。荀爽は正宗の様子を見て何か察したのか言葉を選び正宗に聞いた。
「何か問題でも?」
荀爽の表情は剣呑としていた。
「問題はない。ただな。豪族の動きが問題なのだ。私が檄文を発したが荊州の豪族からの返事が芳しくない。特に北荊州はな。皆、兵の供出でなく兵糧の供出を申し出ている。多分、蔡一族を恐れてのことと私の器量を計りかねて様子見をしているのだろう。もしくは私が蔡瑁一人の首で満足すると考え、私が荊州を去った後のことを考えているのかもしれん。だから日和見の輩に私の意志を示す」
荀爽は正宗が続きを話すのを待っていた。
「余は蔡一族を一人残らず根絶やしにする。手始めに襄陽県の周辺に居を構える蔡一族の村々を襲撃するつもりだ。勿論、蔡一族以外に手をかけるつもりはない。蔡一族以外の者に投降を呼びかけ、それでも投降の意志がないのであれば蔡一族問わず粛清することになるだろう。そなたはそれに耐えられるか?」
正宗は重い口を開きゆっくりと話した。彼の表情は優れなかった。荀爽は彼が本気であることを察した。同時に気乗りしていないことも。
「お考え直しなさる余地はございませんでしょうか?」
荀爽は困った様子で正宗に言った。
「荀侍中、恐れながら申し上げさせていただきます。荊州の豪族達の態度を見る限り、このまま蔡一族を残すことの方が危険です」
朱里が荀爽の提案を一蹴し拒絶した。荀爽は正宗と朱里の方を見て困った表情を浮かべていた。荀爽は王允の命令を受けて、蔡一族を族滅を避けるために動いているのだろう。もしかすると荀爽が正宗の元を訪れるのが遅くなったのは蔡瑁以外の蔡一族の重要人物を訪ねて交渉していたのかもしれない。
「荀侍中、お前に蔡徳珪以外の蔡一族を説得し、私に恭順の意を示すことができるのか?」
荀爽は言葉に窮していた。彼女の中では蔡一族を説得する自信がないのだろう。もしくは蔡一族の存念を既に知っているのかもしれない。それは正宗が到底飲むことができない内容なのかもしれない。
「荀侍中、蔡一族の正宗様への非礼は見過ごすことはできません。それに。蔡一族は檄文への返答を一切しておりません。これは車騎将軍の地位を軽んずる行為に他なりません。ひいては皇帝陛下を軽んずる行為と同じです。ここまでの非礼を容認しては朝廷の威光に関わります」
朱里は荀爽に詰め寄った。
「車騎将軍、つい先日長沙太守・孫文台殿といざこざを起こされたと聞いております」
荀爽は申し訳無さそうに正宗を見た。正宗は荀爽を訝しむ。朱里と泉と桂花は荀爽の話に表情をしかめた。
「聞けば孫文台は正宗様を侮辱されたとのことですが、車騎将軍は寛大にもお許しになられたとか。朝廷の威光をお考えならば、孫文台を拘束し詮議した後に最低でも太守の地位を解官なさるべきと存じます」
荀爽は額に冷や汗をかきながら正宗に言った。彼女を見る正宗の双眸は鋭くなっていた。
「孫文台の件は問題ない」
「何故でしょうか?」
「孫文台は蔡徳珪を討伐する上で重要な手駒となるからだ。朝廷が孫文台を長沙郡の太守につけた理由は軍閥としての武力を買われてのこと。粗暴な女だが、その武勇は認めるものがある。皇帝陛下は蔡徳珪討伐を迅速に進めることをお望みである」
「ご自分の面子を軽んずるのでございますか?」
「孫文台には先陣を申し付けるつもりだ。冀州軍が蔡一族を皆殺しにした後でな」
正宗は荀爽に微笑んだ。正宗の話を聞いた荀爽は正宗の考えを理解したのか諦めの色が現れていた。
「襄陽城に逃げ込んだ蔡一族は死ぬ物狂いで抵抗してくるであろうな。孫文台は私への贖罪の機会を戦場に求めてきた。襄陽城への一番槍を持って私への贖罪とする。私の面子を保つには十分であろう」
荀爽は正宗の話を聞き終わると沈黙した。先陣は戦では名誉なことである。同時に戦場において一番危険な場所でもある。敵味方両軍の兵が衝突し入り乱れる場所であるため、孫文台の働き如何で戦局が大きく関わってくる。孫文台の責任は重大になる。その上、正宗が蔡一族を虐殺した後となれば抵抗はどれほど激しいかわからない。
正宗に恭順の意を示し兵を供出した豪族達は必死に先陣の役目を避けようとするだろう。その危険な役目を孫堅が自ら買うというなら正宗への贖罪としては最低限果たすことになる。
「孫文台は先陣の役目を了承しているのでしょうか?」
荀爽は正宗の返答を予想しているのか芳しくない表情だった。
「武勇誉れ高き孫文台が臆病風に吹かれるわけがあるまい。孫文台が無事に任を全うできれば、私は孫文台に私への償いとは別に相応の褒美を取らすつもりでいる」
正宗は孫堅を誉めた。荀爽は孫堅と面識がないが、孫堅が正宗に贖罪する機会を戦場に求めたなら、正宗の申し出を断ることなどできないことは理解できた。朱里は満足そうな表情で正宗を見ていた。蔡瑁と孫堅が互いに潰し合えば、損耗した孫堅を正宗の配下に組み入れることもやりやすくなるということだろう。
「そうですか」
荀爽は小さく苦笑いをすると桂花に助け船を求めるように視線を向けた。しかし、桂花は両目を瞑り、叔母の視線を無視した。荀爽は桂花の態度に衝撃を受けたような表情で桂花を凝視していた。
「荀侍中、孫文台は自らけじめをつけるのだ。その者と余の檄文を無視し続ける蔡一族を同列に扱うのは筋違いだ」
正宗は珍しく孫堅のことを擁護した。荀爽は正宗に視線を向けると言葉に窮していた。正宗は「今更、私に恭順するのであれば兵を率いて前線で戦い蔡瑁を討ち取るために戦え」と言っているのだ。
荀爽は顔を少し下に向けると小さく左右に振った。
「車騎将軍、孫文台殿と蔡一族の件は理解いたしました。その上で討伐軍への同行をお許しください」
「それは朝廷の使者としてか?」
正宗は鋭い視線で荀爽を見つめた。
「いえ、私は監軍使者(軍事の監察を行う官職)の役目を負っておりません。使者としてではなく荀慈明として同行させてください。私は使者とはいえ、蔡徳珪討伐の始末を知っておきたいのです」
荀爽は正宗に頭を垂れ拱手して願いを述べた。正宗が桂花に視線を送ると、彼女はご随意にと頷いた。
「荀侍中、わかった。共に同行してくれ。気が進まなくなった時はいつでも言ってくれ」
「車騎将軍、お気遣いありがとうございます」
荀爽は礼を述べると伊斗香に視線を向けた。視線を向けられた伊斗香が名を名乗ると荀爽はギョッとした表情で伊斗香を見た。
「荊州牧のご配下がここにいらしたのですね」
荀爽は一瞬たじろいでいたがホッとした様子だった。彼女は伊斗香がここにいることを劉表が正宗に渡りをつけることが出来たと勘違いしているのかもしれない。
「荀侍中、私は先日正宗様の配下となりましたので、劉景升様の配下ではありません」
荀爽は伊斗香の告白を聞くと驚いた表情で正宗と伊斗香を交互に見た。
「劉景升様は私に勝手にしろと申されました。だから私は正宗様の元にいるのです」
伊斗香は笑顔で荀爽に言った。荀爽の表情は劉表と伊斗香の間で何があったんだろうという表情だった。伊斗香は劉表にとって蔡瑁と並んで側近だったからだ。
「蒯異度殿、蔡一族討伐には参加されるのですか?」
「蔡一族討伐は私の献策ですので参加します」
「貴方が献策されたのですか!?」
荀爽は伊斗香のことを引きつった表情で見つめた。昨日まで同僚だった者とその一族を皆殺しにすることを正宗に献策する伊斗香の苛烈さに驚いている様子だった。
荀爽が疲れた表情で俯いていると正宗の近衛が部屋に入ってきた。近衛は荀爽の姿を確認すると深々と頭を下げた後、正宗の元に進み片膝をついて拱手した。
「清河王、蔡徳珪からの使者が三人参っております」
その場にいる皆が驚いた表情をしていた。ここに至って蔡瑁が命乞いなどする訳がないと思っていたからだ。
「使者は何と言っている。蔡徳珪から預かった文を直々にお渡ししたいと申しております」
「使者の名は?」
正宗が近衛に尋ねた。
「名は張允と申しております。顔を布で隠しており怪しい風体でした。布を外して顔を見せろと申しましたが全く耳を貸しませんでした。追い返しいたしましょうか?」
近衛は正宗に使者のことを説明した。覆面をした使者など聞いたことがない。蔡瑁の寄越した文に正宗は興味を持ったのか近衛に中に通せと言った。ここに朝廷の使者である荀爽がいることも大きかったのかもしれない。蔡瑁の文がまともな内容であるわけがない。それを荀爽に見せれば王允も蔡一族族滅も致し方なしと一定の理解を示すと思ったからだろう。
正宗の前に現れた三人の使者は異様だった。覆面をした張允が拱手した状態で最前面に。彼女の後ろに屈強な体躯をした男二人が片膝を突き拱手していた。この二人は帯剣していた。正宗が許したからだ。正宗はこの二人が刃傷沙汰を起こすことを期待しているのかもしれない。正宗以外は使者を厳しい目で見ていた。
正宗は覆面をした張允の足元から頭まで見て、顔のところで視線を止め凝視していた。急に訝しんだ表情で張允のことを見ていた。その様子に張允は体を固くさせていた。彼女は顔を見られるのが嫌なようだ。蔡瑁に鼻を切り落とされているので当然だろう。
張允は伊斗香に視線に捉えると何か言いたげに目で訴えるも、後ろの男二人に視線を一瞬向け諦めたように正宗に視線を戻した。伊斗香は張允から視線を向けられるも視線を逸らした。張允と知り合いにも関わらず関わる気がなさそうだった。
張允は諦めたように両手を地面につけ正宗に対して平伏した。
「りゅ劉し車騎し将軍、ここのた度はおめ目どど通りいたただきか感しゃ謝いたしします。おお叔ば母・ささ蔡徳珪からああ預かりしふふ文をおと届けにまま参りまました」
張允はまともに喋れずにいた。張允は声と体を震わせながら懐から竹巻を取り出すと顔を伏せ、その竹巻を正宗の方に向けて差し出した。竹巻を支える彼女の両の手は震えていた。しかし、彼女の後ろに控える二人の男は整然と頭を下げていた。正宗は張允から視線を移し、二人の男に視線を向けると一瞬鋭い視線で見つめた。
「張允、そのように怯えてどうしたのだ? 余はお前を取って食うことはせん。落ち着いて話せ」
「は、はい。おお気遣いありがとうございます」
張允の喋る声は未だ震えていた。
「張允、蔡瑁からの文を読み上げてみよ」
正宗は張允に言った。張允は体を硬直させ更に震わせていた。彼女は文の内容を知っているだろう。周囲の者は理解した。ここまで彼女が恐怖するということは正宗を痛烈に侮辱する内容なのは間違いない。
「張允、その文を読み聞かせよ」
正宗はもう一度言った。張允は体を震わせるだけで正宗に何も答えることができずにいた。
「張允殿、使者としての役目を果たされてはいかがか」
泉も張允に注意した。すると張允は震える手で文を開いていく。張允は震える声で文の内容を読み上げた。
劉正礼は荊州を私し簒奪せんとする大逆の奸臣である。
罪を捏造し私に擦りつけて私を賊に貶め誅殺しようと謀を弄している。
劉正礼の本当の狙いは私に非ず。
劉正礼の本当の狙いは義姉の劉荊州牧である。
劉正礼は劉荊州牧を失脚させ荊州を我が物することであろう。
劉荊州牧が失脚すれば次は荊州の諸豪族達へその歯牙が向くであろう。
このまま劉正礼を見逃し、劉正礼に荊州を奪われれば天下を我が物にせんと天朝に弓を弾くのは明白である。
悪辣な知恵で荊州を狙う奸臣劉正礼を見逃すことはできない。
私は荊州豪族の意地を劉正礼に見せ天朝のために兵をあげる。
狡猾な劉正礼率いる軍を蹴散らしたあかつきは劉正礼の面前で袁本初と袁公路の両名にこの世生まれたを悔いるほどの恥辱を味あわせ処刑し、その屍は朽ちるに任せ野に打ち捨ててくれる。
大逆の奸臣である劉正礼は私が討つ。
大義は私にあり。
劉正礼の首を落とし蔡一族の威光を荊州に知らしめる。
劉正礼よ。
その首を洗って待っているがいい。
荀爽は張允を唖然とした表情で見つめていた。朱里、伊斗香、桂花の三名は張允を憐れむような視線を向けていた。
泉は険しい表情で張允を睨んだ。そして、張允は竹巻を地面に落とし体を震わせていた。
正宗は無表情に変わり張允と後ろの男二人の様子を伺うように凝視していた。
「安い挑発文だな」
正宗は酷薄な笑みを浮かべ張允に鋭い視線を向けた。彼の声に反応するように張允は体を固まらせた。
正宗は悠然と立ち上がると張允にゆっくりと近づいていく、そして張允の左横に立つと彼女を見下ろすように視線を向けた。
その時だった。
張允の後ろに片膝を着き控えていた男二人が剣を抜き放ち正宗の命を奪わんと剣を振り下ろした。正宗は迫りくる剣の刃を避けることなく冷めた目で見つめていた。泉と伊斗香は慌てて自らの獲物である槍と剣で二人を取り押さえようと近づくも時既に遅く正宗に刃は届いていた。男二人の表情は正宗を殺したことえの達成感に満ちていた。だが、すぐに表情を凍りつかせて正宗に再び剣を振り下ろそうとした。
しかし、その剣は振り下ろされることはなかった。正宗が剣を抜き放ち男二人の腕を切り落としたからだ。右側の男は咄嗟の出来事にたじろぎ後ろに下がるが、背後から迫る伊斗香に胸を剣で一突きされ口から血を吹き出し絶命した。
左側の男は正宗によって袈裟斬りにされた上に首を刎ねられた。地面に転がった首の表情は動揺したままだった。伊斗香は首の表情を見て正宗の剣さばきの凄さに驚いているようだった。
謁見の場はあたりに血しぶきが飛び血臭と相まり酷い状況になった。朱里は直ぐに部屋の外に控える近衛に命令するために動き出した。正宗は血しぶきを浴びた状態で張允に視線を向ける。張允は彼の横ではなく、足をばたつかせながら正宗の玉座に向かって下がっていた。彼女は正宗の視線に気づくと体を震わせ必死に這い逃げようとした。しかし、彼女の行く手を塞ぐように泉が立っていた。
「正宗様、張允をいかがいたしますか?」
泉は張允を呼び捨てにした。彼女の中では張允は既に殺す存在なのだろう。
「何もせん」
「何をおっしゃているのです!?」
泉が正宗に言うと部屋の中に正宗の近衛が入ってきた。部屋の中の惨状を見ると皆絶句していたが、朱里に命令され屍体を運び出す準備をはじめた。
「張允、その方は顔に大怪我を負っているな。その怪我は誰にやられたのだ? 先程の二人組か?」
泉と荀爽と伊斗香と桂花は張允に視線を向けた。張允は正宗の言葉に堰を切ったよう嗚咽しながら泣き始めた。彼女の鳴き声はくぐもったものだった。明らかに鳴き声が普通ではない。泉は張允と面識があるため、彼女の声を聞いたことがあるだけに張允の声の変化を感じとっているようだ。泉は張允が恐怖に震えて声が変わっていると思っていたのかもしれない。それで気づくのに遅れたのだろう。
正宗は手に持った剣を投げ捨てると血に汚れた衣を脱ぎ、自分の手についた血の汚れを衣で拭き捨てた。そして腰をつき咽び泣く張允の元に近づき膝をついた。
「朱里、兵達を一旦下がらせろ。私は張允と話がある」
正宗は背中越しに朱里に命令を出した。片付けの指図をしていた朱里は近衛に命令を出し部屋から下がらせた。
近衛が全て退出し終わると正宗は張允を見て口を開いた。
「張允、この私に全て申してみよ。私ならばお前の力になれる」
正宗は張允に断言した。すると泣きはらした目で張允は正宗のことを見た。
「本当にお助けくださるのですか?」
張允は両目に涙を溢れさせ正宗に縋るように見つめた。
「助けよう。お前の怪我も治療してやるから安心するのだ」
張允は両目に涙を溢れさせると頭を左右に振った。
「む無理にございます。いかな名医と言えど私の傷を治せる訳がありません」
張允は正宗から視線をそらすと嗚咽し涙を止めどなく流していた。泣きじゃくる彼女の姿に部屋いる者達は戸惑っている様子だった。伊斗香は張允のことを冷静な目で見つめていた。
「張允、私を信じて欲しい」
正宗は張允に更に近づくと彼女の両肩を握り自分の方を向かせた。しかし、張允は正宗から顔を逸らし嗚咽していた。
「私は医術の心得がある。私の将兵の傷も治してきた。腕が無くなろうが死なぬ限り命を救うことが出来る」
正宗の言葉を聞いていた荀爽、伊斗香、桂花は正宗が慰めの言葉をかけていると思っているようだった。張允の様子から余程酷い傷であることは間違いない思っているのだろう。ならば傷を治療したところで傷跡は残る。
しかし、張允にとって正宗の言葉は藁をも縋る想いなのだろう。正宗の話を聞くと縋るような目つきで見つめてきた。彼女の瞳は泣き腫らして赤くなっていた。
「私と張允だけにしてもらえるか?」
「出来ません」
正宗の言葉に朱里が異を唱えた。
「その者が賊でない証拠がございません」
「死んだ二人は殺気を押し殺していたが、張允は終始私に恐怖していた」
「それでは証拠として弱いです。正宗様がその者の治療を行う最中にお命を狙う可能性もあります」
「劉車騎将軍、私は傷を治していただけるなら構いません」
張允は力ない声で正宗に声をかけてきた。だが、その声には躊躇いが感じられた。傷を見せることに抵抗があるのだろう。張允の気持ちを察したのか、正宗は目を泣き腫らした張允を見つめ逡巡していた。
「張允、許せ」
正宗は彼女に謝り、彼女の顔を覆う布に手をかけた。その瞬間、張允は体を固くした。正宗はゆっくりと張允の布を外していった。彼女の顔が露わになると彼女は体を震わせ再び泣き出した。正宗は彼女から目を逸らさながったが、周囲の者達は彼女の顔を見て視線を逸らした。荀爽は傷の酷さに口に手を当て視線をそらしていた。
「惨い」
正宗は力なく短く答えた。周囲の者達の気持ちも同様であったろう。
「朱里、もう気が済んだだろう。私と張允以外は治療が終わるまで部屋を出ていてくれ」
正宗に言うと彼と張允以外は部屋からおとなしく出て行った。皆張允の傷を見て動揺しているようだった。
正宗は皆が退出するのを確認すると張允の切り取られた鼻の切断面の近くに手をかざした。すると彼の手が金色に輝き始め、張允の失った鼻が逆再生のようにゆっくり復元していった。
「張允、目を開けてみろ。もう傷は治ったぞ」
正宗は優しい笑みで張允を見つめた。張允は恐る恐る両目を開いた。そして自分の鼻があった場所に手をやる。すると彼女は復元した鼻を何度も触りはじめた。彼女の表情は歓喜すると同時に信じられないという様子だった。しばらくして張允は正宗に視線向けた。その両目は正宗を畏敬の対象として見ていた。
「劉車騎将軍、貴方様は一体?」
「何者でも良いではないか? 困っている者を見過ごせないだけだ」
正宗は張允の肩に手をやり優しく微笑んだ。張允の頰が薄い桜に染まった。
張允は正宗に全てを話した。彼女の鼻を切り落とした者が蔡瑁であることも。
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