トワノクウ
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トワノクウ
最終夜 永遠の空(一)
全ての裁きの日は、唐突に訪れた。
否。くうにとっては唐突に感じられただけで、彼女はずっとその日を終わりの日と定めていたのだろう。
彼女の体感からすれば何年、何十年という長い歳月が過ぎるまで。
くうはドレスをたくし上げ、尼衣装に帯刀した朽葉の全力で後ろを走っていた。
朽葉に向けて陰陽寮から折り鶴の報せがあったのだ。
不忍池に夜行――告天が現れた、と。
蓮池の縁に立ったくうは、不忍池上空の中央に浮く明を見つけた。
「明おばさんっ」
「来たわね、この場の主役。これでようやく終わりにできる。――長く長かった今日までを」
明の顔に浮かぶ笑みは、安堵によるものに、見えた。
明は下り立って不忍池の水面に手を手首まで沈めた。
「開け、黄泉比良坂。今ここに告天の権限をもって、地獄の解放を承認する」
明の手元からぶわっ! と闇が沸騰した。
「朽葉さん、掴まって!」
朽葉が飛びつくや、くうは翼を展開して天高く飛翔した。
不忍池の全景を見下ろせる高度まで来て、彼女たちは異様な光景を目の当たりにする。
池の蓮が黒い泥に浸食されて一斉に枯れてゆく。代わりに水面に咲くは、骨。
「な、んだ、これは――」
朽葉の呆然とした声は、まさにくうの心情だった。
人の手。獣の前足。ありとあらゆる形の骨が織りなす、骨の曼荼羅。
くうが思い出したのは銀朱の死に様だった。
肉塊に潰され死んだ彼の手が、まるで白い曼珠沙華のようで。今の光景はそれを何百倍にも濃くしたようで。
くうは骨が咲く不忍池を見守り、目を限界まで見開いた。
「うそ――」
白いドームらしきものが池から浮かび上がった。明は優雅に白いドームに足を着けた。
さらなる浮上で、ドームは巨大なしゃれこうべだったと分かった。頭に留まらない。首、肋骨、腕の骨、尾てい骨。最後に膝の皿の骨が現れたところで、それが骸骨の巨人だと分かった。
このようなモノが現れて、人が、妖が、集まらないわけがない。
池の外周はいつのまにか種を問わない見物客でいっぱいだった。
「! あいつら――」
朽葉が低く呟いた。くうも朽葉が向く方向を向く。彼女が目に留めたのは、弁天堂の屋根に立つ人々らしかった。
「すまん、くう、あそこに降りてくれ」
「はいですっ」
くうは慎重に降下した。
近くまで行ってようやく彼らが陰陽寮の人間だと分かった。
くうが直接知った顔は黒鳶と萱草だけだったが、彼らと並んでいる残る二人――目を包帯で覆った老女と、番傘を持った優男は覚えがない。彼らもまた陰陽衆で高い地位にある者たちなのだろう。
朽葉はくうの腕から降りると、まず萱草に詰め寄った。
「何故こんなに近くまで来た! 様子を窺うだけなら池の外からでもできるだろう。それも陰陽寮の主だった者全員でなど」
「全員で来ないと何かあった時に攻勢にせよ守勢にせよ転じにくい部分が出る。それに佐々木様と紅は残っている」
「当然だ! ……もうっ」
「まあまあ朽葉さん、そう怒らないであげてくださいな」
朽葉を諌めたのは番傘の男だった。
「一応これは佐々木様のご命令を受けて、我々で最善と判断した面子なんです」
「藍鼠……しかし」
「藍さんの言う通りですよー。心配してくださるのは嬉しいですが、我々も仕事ですから」
黒鳶にまで助勢されて、朽葉はむっつりと黙った。
さすがにこうなって空気が読めないくうではない。空気を変えるべく声を上げた。
「あれって、がしゃどくろって妖怪ですよね? がしゃどくろって創作妖怪じゃないんですか?」
しかも現代における創作妖怪だ。民俗学の大御所、柳田國男の著書にさえ言及がない。
「世間に流布しているがしゃどくろは確かに海千山千だが、これ自体は実在する妖だ」
解説を引き取ったのは老女だった。
「山東京伝『善知烏安方忠義伝』にて滝夜叉姫が妖術で呼び出したのがこんな感じだの。もっとも原作では骸骨の群れを呼び出すところを、歌川国芳は『相馬の古内裏』にて巨大な一体の骸骨で表現した。そういう意味では創作と言うても間違いではないが」
「ですよね……あっ」
花園稲荷神社の鳥居から飛び出して来た巫女の集団。通行証で、坂守神社から最寄りのあの神社の鳥居へ道を繋げたのだろう。
率いているのは、戦巫女たちよりはいくらか瀟洒な装束の巫女だった。
「朽葉さん、ちょっとごめんなさい!」
くうは再び翼を広げて、巫女勢のほうへ翔けた。
巫女たちの何人かが気づいてくうへ矢を射ようとしたが、それは新しい〈銀朱〉――菖蒲が止めてくれたので、くうはすぐさま菖蒲の前に降り立った。
「菖蒲先生っ」
「くうさん。貴女もやはり来てましたか」
「はい。朽葉さんと一緒に。――あの妖、何なんですか? がしゃどくろは創作妖怪って陰陽寮の人達も言ってたのに」
「ここは人の心が妖を生む世界です。あれが何の念に由来するものかは分かりませんが、元となる負の念が膨大になれば、あのような大妖になることも、ないとは言い切れません」
「妖、で、いいんです、よね?」
妖の生まれるカラクリを知る菖蒲相手だから、言えた。
「なんかこう、無機質な感じっていうか。ただの骨格標本みたいで」
「だーいせーかーい!」
はっと、がしゃどくろの頭の上に座っている明を見上げた。
くうは翼を駆り、思いきって明と同じ高さまで翔け上がろうとした。
「くう!」
朽葉がくうを呼んだ。それだけで朽葉の意図は察せた。
くうは方向転換し、弁天堂へと飛んだ。
くうが近づいた瞬間、朽葉は屋根を蹴って宙へ身を投げた。くうは跳んだ朽葉をキャッチし、二人で明のいる高さまで翔けた。
「やあ、来たの」
「明おばさん! これってどういうことですか。全然意味分かんないですよ!」
「これはね、人でも、妖ですらないよ。これは神様への呪い。人と妖、両方の呪いの念が詰まった兵器。空を割って天へ至るための梯子」
「天へ……至って何を、どうしようっていうんですか」
「鴇を排して自身が帝天になろうという腹積もりか? もしそうなら」
朽葉が仕込み刀の鯉口を片手で切った。
「神様になんかなりたくないよ? 私。あまつきの帝天は鴇時さんじゃん」
何を馬鹿なことを、と言わんばかりの明の答え。
がしゃどくろが蹲る。明が立つがしゃどくろの頭も低い位置になる。くうは慌てて追った。
「君達ってほんっと短絡的! 六年前もそう!」
明は声を張った。集まった皆々、特に鴇に関係する者に聴こえるようにしたように見えた。
「せっかく夜行が〝共通の敵〟になって、あんなに暴れ回ってあげたのに。結局、空芒が人のせいか妖のせいかで揉めて、決着もつけないまま、萌黄さんから鴇時さんに帝天にすげ替えただけ。もー付き合ってらんない。二度も嫌われ者の悪役になってあげるほど、私は優しくない。異種族同士で結束できるような試練も状況ももう用意してあげない」
明はがしゃどくろの頭の上に立ち上がった。
「告天として最後の〝宣告〟よ。――神は今日死んだ。この世には人と妖しかいない。最後の一人まで殺し合って、勝ったほうがあまつきを支配しなさい」
告天が手をかざした瞬間、不忍池の湖面に留まっていた瘴気が、瞬きの間に、池と土の境界を跨いで東京の町に広がった。
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