真・恋姫†無双 劉ヨウ伝
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第145話 電光石火
暗殺を免れた正宗は宛城の美羽の邸宅に戻ると体の汚れを洗い落とすために水浴びしに邸内の井戸に向かった。正宗が水浴びをしていると泉が現れ、節目がちに拱手し膝をついた。正宗の泉の間には竹製の衝立が立っている。それには侍女が用意した正宗の着替えと手拭いがかかっていた。正宗は泉の気配を感じたのか衝立の方に視線を向けた。
「泉か」
「はい。正宗様、お出迎えできず申し訳ございませんでした」
泉は衝立腰に正宗に対して申し訳なさそうに謝罪した。泉は午後からの昼餉をとる店の手配で外出していた。
「気にするな。店の手配は問題なかったか?」
「問題ございませんでした。店の店主は正宗が来店することを末代までの光栄と申しておりました」
「泉、無理強いはしていないだろうな」
「いいえ、客の予約状況を確認した上で話を持込ましたので無理強いの心配はございません」
「そうか。ならよい」
正宗は一瞬沈黙した。泉は正宗が沈黙したことを変に思ったのか伏していた目を衝立に向けた。
「正宗様?」
「泉、燕璃との手合わせ後に大変な目にあった」
正宗は徐ろに口を開くと、衝立にかけられた手ぬぐいを取り体を拭くとそそくさと着替えをはじめた。
「燕璃がまた正宗様に何か粗相迷をしたのでしょうか?」
「違う。暗殺者に襲撃された。今回は私が標的の様だ」
衝立越しの正宗の声は淡々としていた。命を狙われたことに不安を覚えている様子は全く感じられなかった。
「な!?」
正宗とは対照的に泉は驚愕しているようだった。彼女は狼狽えた様子で片膝をつく姿勢を崩し立ち上がった。
美羽襲撃から一ヶ月経過している。あの襲撃から大して間を置かずに正宗に襲撃を仕掛ければ疑いは否が応でもなく蔡瑁に向く。泉は蔡瑁のあまりの愚行に呆れと怒りがないまぜになった表情をしていた。
「安心しろ。燕璃のお陰で無事に撃退できた」
正宗はそれとなく燕璃を擁護した。泉の燕璃への感情を少しでも解きほぐそうという彼の気遣いだろう。
「そうですか。本当にご無事でよかったです」
泉は安堵のため息をつきながら、姿勢を元に戻した。
「正宗様、お怪我はありませんでしたでしょうか? 傷があるのであれば直ぐにでも治療を」
泉は心配そうに衝立の向こうにいる正宗に言った。
「怪我はない。私の力は知っているだろう」
「正宗様、過信は禁物にございます。いついかなる時に虚を突かれるかわかりません」
泉は正宗の武人としての力量を知りながらも真剣な表情で正宗を諌めた。彼女は日頃正宗に苦言を言うことは殆ど無い。その彼女が敢えていうことのは正宗の身を本当に案じているのだろう。
「そうだな。心得ておこう」
正宗は泉の言葉を噛みしめるように答えた。もし、彼が体を気で硬質化していない無防備な状態を狙われれば、彼は間違いなく死んでいた。正宗は深刻そうな表情を浮かべていた。
「泉、襲撃は難なく撃退できたが暗殺者に逃げられてしまった」
「暗殺者の人相や背格好は覚えておいででございますか?」
「見ていない」
正宗の言葉に泉は訝しんだ。
「どういうことでございますか?」
「暗殺者達は直接の襲撃を避け、遠方から弓を使用して正確無比の投射をしてきた。暗殺者の残した痕跡から最低でも約一市里(五百メートル)の距離はあった。それも視界の悪い森のかなり奥からな」
「そのような芸当ができる者がいるのでしょうか?」
泉は正宗の話に驚きを隠せずにいた。弓の名手を暗殺者として送り込む。これは相手が正宗の強さを知り、確実に正宗を暗殺するために用意周到に準備していたといえる。これで正宗を襲撃した暗殺者達の黒幕は蔡瑁である可能性が更に高くなっていた。そのためか泉の表情は更に険しくなった。
「暗殺者が弓の名手なのは間違いない。その上、襲撃に使用された鏃には毒のような液体が塗付していた。毒であるかは調べねばわからないが、わざわざ距離を取り殺気を気取られないようにする念の入れようだ。毒で間違いないであろう」
「真にございますか!?」
泉は新たな正宗の証言に更に驚く。
「弓の名手と毒を塗った鏃。暗殺者達を放った者は私を本気で亡き者にする気だな。泉、矢は全て回収して持ち帰っている。後で冥琳に渡して調べてもらってくれ」
「畏まりました」
泉は正宗への襲撃に動揺気味であったが、彼の命令があると平静を取り戻し返事した。
正宗は着替えを終えると衝立から姿を表した。彼は水浴びし服を着替えたことから話の内容とは対象的にすっきりした表情をしていた。彼は内心暗殺のことで心配であろうが、彼も一廉の戦場を渡り歩いた武人。部下に情けない表情を見せないように気を張っているのだろう。
「正宗様、暗殺者は蔡徳珪の手の者では?」
泉の表情は確信している表情をしていた。正宗も泉と同意なのか肯定するように軽く頷いた。
「確たる証拠はないが可能性は高いな」
蔡瑁には美羽の暗殺未遂の前科がある。暗殺の襲撃に際しての用意周到な準備。そして毒矢。二人の中では暗殺の黒幕は蔡瑁で固まっているに違いない。たが、確証がないため正宗は明言を避けた。
「黒幕が蔡徳珪であれば、今回の襲撃は奴の縁者を私が手に掛けた報復といったところか」
「それは逆恨みというもの。正宗様が恨まれる道理はないはず。はじめに仕掛けたのは蔡徳珪でございませんか」
「蔡徳珪にはそうでないのであろう。仮に非が自分にあったとしても肉親を殺されれば、相手を恨むが人の性というものだ」
正宗は憂いのある表情で虚空を見つめた。彼が手に掛けた蔡瑁の妹のことを思い出したのかもしれない。彼は蔡瑁の妹・蔡勲の毅然とした態度に惚れ込み士官を条件に助命することを約束した。彼の提案は彼女に拒否された。その結果、彼は彼女を賊として斬らざる終えなかった。彼の表情からは未だに彼女を斬ったことを惜しんでいることが伺えた。
「多くの戦場を巡り多くの人死を目にしてきたが、殺し合いは憎しみの応酬しか産まない。そうは分かっていても人は殺しあう。自らの守るべきもののためにな」
「正宗様が気負いなさる必要はございません。振りかかる火の粉は払わねばなりません」
泉は正宗を擁護するように真剣な表情で言った。
「私も子供ではない。殺らねば殺られるなら相手を迷わず殺す。つい感傷的になっただけだ。泉、心配するな」
正宗は笑みを浮かべて泉に言った。泉の表情はまだ晴れていなかった。
「蔡徳珪をいかに処断されますか?」
泉は確定事項のように正宗に言った。正宗は為政者として成長してきたが時々甘さがでる時がある。だから泉は敢えて正宗の背中を押すように進言したのだろう。
泉の言葉に正宗は瞑目し沈黙した。
正宗は活目すると泉を見た。
「蔡徳珪は一線を越えた。奴には死んでもらう」
正宗の表情はいつもの美羽に見せる優しい兄の表情と違い、政のために命を切り捨てる冷徹な為政者のそれに変わった。泉は神妙な表情で正宗が続きを話し始めるのを待つ。
「劉景升に蔡徳珪を切り捨てさせる」
「劉景升とことを構えるのでございますか?」
泉は正宗の話に全く動じていなかった。蔡瑁と事を構えれば自動的に劉表と事を構えることになる。敢えて泉が正宗に問うたのは美羽が劉表と争うことは避けたがっていたからだろう。彼女は美羽の意向を無視して劉表と争う覚悟が正宗にあるか問うたのだ。
「このままでは美羽の身が危険になる。今回のような襲撃を美羽が撃退できるとは到底思えない。私が荊州を去る前に蔡瑁を殺す」
正宗は最後の辺りの言葉を泉にしか聞こえないような低い声音で言った。彼は蔡瑁を殺すことを覚悟した。泉も正宗の覚悟を察したようだった。
「私は正宗様の考えに賛同いたします。蔡瑁は斬らねばなりません。冀州より兵を呼び寄せてはいかがでしょうか? 騎馬のみなら強行軍をやれば半月後には豫州までこれましょう。美羽様が南陽郡に下向されたおり同卒された榮奈様であれば地の利があり荊州入りも難なく成せるかと。また、榮奈殿の軍師として雛里様にも道々していただけば心強いかと思います」
泉は正宗に献策した。正宗は考え込む。
「泉、お前の献策を採用する。先ほどの献策を冥琳に持って行き調整せよ。美羽には私から説明する」
「畏まりました!」
泉は正宗の自らの献策を採用されたことが嬉しかったのかやる気に満ちた表情だった。
「冥琳に申しておけ。洛陽市中に流言を流し、それが十分流布した後に劉景升を弾劾する上奏文を奏上しろ。洛陽で動く際、賈文和の動きには注意せよ」
正宗の考えた流言の内容は、
――清河王が蔡徳珪に二度も襲撃された。蔡徳珪の後ろで糸を引くのは劉荊州牧らしい。
「流言には尾ひれが付いていく」
正宗は狡猾な笑みを浮かべていた。市井に広まった噂は朝廷にまで自然と届く。正宗は朝廷工作を行う前の地ならしをした後、満を持して劉表の弾劾を行うつもりのようだ。
「劉景升は一笑に伏し否定するのではございませんか?」
泉は正宗の考えに疑問を抱いているようだ。
「事実であるかないかは重要ではない。劉景升の統治下の荊州にて王が暗殺されかけた事実が重要なのだ。この事実を百官居並ぶ朝議の席上で暗殺に使用された毒矢を添えて王暗殺未遂を強調すればいいのだ。後は百官が真偽を正すためにきっと劉景升を召還する。召還状を拒否すれば劉景升は終わる。劉景升は望む望まない関わらず上洛せざるおえない」
「召喚をしない可能性もございます。朝廷には董仲穎一派がございます。上洛を予定している正宗様の暗殺は喜ばしいことと思うのでは? 荊州に正宗様が釘付けされれるのは彼らの望むところかと」
泉は神妙な表情で自論を述べた。
「もし、そうなれば王司徒が黙っていまい。王司徒は私の上洛を期待している。董仲穎一派が邪魔すれば邪魔するほど対立が激化し、劉景升を召還するしか事態の収拾がつかなくなるだろう」
正宗の説明に泉は納得したのか何かを考える表情に変わった。
泉は考えがまとまったのか正宗を真っ直ぐに見た。
「劉景升の留守を狙い蔡徳珪を殺すということでしょうか?」
泉は周囲を気にするように正宗に言った。対して正宗は肯定するように頷いた。
「奏上の役目は冥琳に任せる。冥琳は官職もあり、私の名代として赴けば直に皇帝陛下に奏上できる。清河国に居られるお爺様と袁叔父上の協力も得よう。流言の件は揚羽一任した方がいいかもしれんな。冥琳の元を訪ね仔細を話し冀州へ早馬を出せ。それと並行して調べておきたいことがある。実は今回の暗殺の実行犯に心当たりがあるのだ」
「お心当たりの人物とは?」
泉は神妙な雰囲気で小さい声で正宗に尋ねた。
「黄漢升だ」
「黄漢升にございますか? どういう人物でしょうか?」
泉は荊州の事情に詳しくないためか黄忠のことを知らないようだった。
「弓の使い手なら大勢いるだろうが名手となれば話は別だ。そして、黄漢升は荊州では名の知れた弓の名手。荊州で弓の名手は黄漢升以外にいない。黄漢升は劉景升の配下で、黄承彦を介して蔡徳珪とは遠縁ではあるが親類の間柄だ」
「蔡徳珪が親類のつてを使い黄漢升に暗殺を依頼したということでしょうか?」
「黄漢升は王殺しを進んでやるほど思慮が足りないとは思えないがな」
正宗は泉の答えを否定した。
「では黄漢升は蔡徳珪に頼みを聞かねばならない事情があるということでしょうか?」
泉の問いに正宗は頷いた。
「黄漢升には一人娘がいる。それを質に取られているのやもしれん。あくまで推測だがな」
「そんな真似をすれば蔡一族と黄一族に亀裂を入れることになるのでありませんか?」
「黄承彦が既知のことであっても確たる証拠がないなら動ぐに動けんだろう。もしくは知らないかだ。前回と此度の襲撃を見てみよ。蔡徳珪は確たる証拠は残さない。前回は私が鎌をかけ上手く馬脚を露わにさせることができただけだ。黄承彦も漢中の名士であり蔡徳珪の親族とはいえ、荊州牧という後ろ盾のいる蔡徳珪に対して、私と同じことはできまい」
泉は正宗の言葉に拳を握りしめた。蔡徳珪の卑劣さに今更ながら義憤に駆られているようだった。
「泉に頼みたいことがある。暗殺の手際から暗殺者は宛城内に潜伏している可能性が高い。まず、早朝私が城門を出た時刻の前後に城門を通った者を一人残らず調べあげよ。その際、城門を出た者が黄漢升だったかも確認するのだ。渚に仔細を話て協力を得よ」
「畏まりました。もし、城門を出た者達の中に黄漢升がいた場合はどのように対処いたしましょうか?」
「黄漢升とその娘の居場所を特定しろ。この任は七乃に依頼し、人選は七乃の暗兵だけで構成するように念押ししておけ」
「七乃殿にございますか?」
「そうだ。劉景升の存在を気負うことなく動ける人材に任す必要がある。その点で七乃は適役だ」
泉は明らかに剣呑な表情になった。
「七乃殿が大人しく私の頼みを聞いてくれるでしょうか?」
七乃が変人と知っている泉は正宗の命に難色を示した。正宗は泉を笑みを浮かべた。
「蛋の作り方を教えてやると言えば快諾するはずだ」
「蛋でございますか? ああ、正宗様が作られる甘い菓子ですね。美味ですが七乃殿が納得するとは」
泉は思い出すように喜色な笑みを浮かべていたが、直ぐに思案顔に顔に変わった。泉には腹黒の七乃が菓子如きで虎の子を貸すとは思えないだろう。
「いいや貸す。蛋は美羽の好物なのだ。それでも駄目と言うなら美羽の命に関わると言えばいい。七乃は美羽の身が第一。ある意味は誰よりも信用できる美羽の忠臣だからな」
正宗は七乃のことを意味有りげに評した。
「畏まりました。では七乃殿に協力をお願いしてみます」
「頼んだぞ。調査の手配は今直ぐに動いてくれ」
「私は美羽に仔細を説明しに行ってくる」
正宗は泉と別れ美羽の元を訪ねるために、その場を後にしようとした。
「正宗様、本日のご予定は中止でよろしいでしょうか?」
泉は立ち去ろうとする正宗に言った。正宗は泉の方を振り向いた。
「いいや。孫仲謀との昼餉は予定通りに行う。一時間程遅れて行くと使いを出しておいてくれ」
「何を言っておいでなのです!? 未遂とはいえ暗殺されかけたのです。また襲撃されないとも限りません。ご自重ください」
「今回の暗殺の失敗は黒幕と実行犯共に痛いはず。難易度の高い投射をやってのける『弓の名手』を使ったのだからな。次は間を開けずに襲撃するはず。それが出来ねば暗殺の証拠を消すかもしれん。私の言いたいことは分かるな?」
正宗は真剣な視線を泉に向けた。彼は暗に「もし、実行犯に黄漢升がいれば口封じの危険がある」と言っているのだ。泉は悩ましい表情になった。
「事情はわかりますが、正宗様の御身が第一です。どうからお考え直しください。あまりに危険でございます」
泉は正宗に今日の予定を取りやめるよう諫言した。
「泉、『死地に活路を開く』という言葉もある」
「詭弁にございます」
「私は襲撃を受け暗殺されかけたのだ。ある意味窮地に立っていると言えなくもない。違うか?」
正宗の言葉に泉は窮した。
「亀のように籠ったところでいずれは荊州を去らなければならない。その時の後顧の憂を消しておく必要があるとは思わぬか?」
「分かりました。ですが護衛を付けさせていただきます。承知してくださいますね?」
泉の申し出に正宗は素直に頷いた。彼はここが泉との落としどころと思ったのだろう。二人は別れて、それぞれ美羽と冥琳の元を話をするために向かった。話を持ち込まれた二人は晴天の霹靂だった。特に美羽は実の兄と慕う正宗が矢で射殺されかけたことに動揺しきっていた。正宗は動揺した美羽を落ち着かせ、今後のことを説明した。美羽は劉表とことを構えることに苦悩するも条件付きで了承した。蔡瑁を誅殺した後、劉表との対立を最小限にするために彼女に助け舟を出して欲しいというものだった。
美羽の情報では劉表の弱みは彼女の長女である劉琦で、劉表は蔡氏の手前大っぴらに口にはしないが、自分の後継者を劉琦にしたいと考えているらしい。だが、劉琦を支える後ろ盾となる人材がいないため劉表は苦悩しているとのことだった。もし、正宗が劉琦の後援を引き受けることを内々にでも申し出ておけば劉表は正宗への遺恨を水に流す可能性があると言っていた。正宗はこれを聞き劉琦と接触を試みるのだが、それはもう少し後の話となる。
正宗と泉は屋敷を出て大通りを護衛の兵を引き連れ馬で移動していた。正宗の服装は普段の庶民の服装と違い、身分の高い貴族が着る絹地の上等な服を身にまとっていた。腰には片手剣を携え、正宗の直ぐ横を歩く兵は自らの武器とは別に長弓を持っていた。その長弓は正宗のものだ。泉は武人らしく動きやすさと上品さを両立した服装で普段来ている服より上等な服を着ていた。
現在、日を真上から少し降りていた。通りには人が雑多し賑やかな往来を形成していた。
「正宗様、もう少し先を左折し真っ直ぐいけば店に着きます」
「ここまで何もないな」
正宗と泉がたわいも無い会話をしていると通りの向こうで此方を凝視して口を動かす女がいた。泉がその者に視線を向けると何も言わずに去っていった。正宗は奇妙な行動をとった女を訝しんでいると泉が少し遅れて声を掛けてきた。
「黄漢升は宛城に滞在し、早朝城門を出入りしたとのことです。既に宛城内に戻っています。暗兵達は一人娘の所在を探索するとのことです」
泉は正宗以外には聞こえないような小さな声で呟いてきた。正宗は泉の話を黙ってきいていた。
「黄漢升の所在は特定したとのことだな」
「はい。正宗様の読み通りかと。後は一人娘の居場所を特定すれば。質に取られているか結論づけられるかと」
泉は視線を変えず小さい声で正宗に呟いた。
「ところで先程の者は七乃の手の者か?」
正宗も視線を変えず小さい声で泉に呟いた。
「はい。あの者が口を動かしていたのは口の動きで私に報告をするためです」
「読唇術か?」
「はい。ただ口の動きが喋り言葉ではなく暗号化されているため、暗兵だけが内々で共有している暗号表がないと意味はわからないらしいです。私は事前に簡単な答えを幾通りか教えてもらっていたのでわかりました」
泉は周囲を気にしながら正宗にか細い声で説明した。その話を正宗は感心したように頷いていた。この時のことを切欠に七乃の考案を正宗は自分の諜報部隊に採用することになる。
正宗達は暗殺者の襲撃を受けることなく店に到着した。流石に人目につく日中の大通りで襲撃するような目立つ行為は避けたのだろう。しかし、黄忠が暗殺者であると分かった以上、再度襲撃を試みる可能性があった。正宗は店に来るまでの道のりで周囲を眺め弓で自分を狙うのに最適そうな家屋がないか見ていた。その甲斐もあり正宗は目ぼしい家屋に辺りをつけていた。
「これは。これは。清河王様、当店をご利用いただき感謝の極みにございます」
正宗が店に到着する前から店の主だった店員が店の前で正宗が来るのを待っていた。今、正宗に頭を下げているのは店の店主である。店主は肥満気味な人の良さそうな中年の男だった。正宗は店の作りを見渡す。正宗が働いている海陵酒家と違い贅を凝らした造りだった。誰の目から見ても一級の高級酒家であることは間違いなかった。正宗は泉に視線を向けた。泉は正宗が視線を向けると「ご満足いただけましたでしょうか?」と目で訴えかけてきた。正宗は泉に分からないように小さいため息をついた。
「出迎えご苦労。世話になるぞ」
正宗は気を取り直して店主に笑みを浮かべた。店主は正宗の態度に店を気に入ってもらえたと思い喜んだ表情になった。泉も同じ様子だった。
「ささ、清河王様とお連れ様、どうぞ店内へお入りくださいませ。他のお連れ様は既に中にてお待ちになっております」
正宗と泉は護衛を残し店内に入っていた。店内も店構えと同じく贅を凝らしていた。正宗は食傷気味な表情に変わるが店主や泉にわからないように直ぐに平静を装った。
「清河王様、ここが当店一番の貴賓室にございます」
店主は手を叩き艶やかなな朱色のチャイナドレスに身を包んだ給仕の女に両開きの扉を開かせた。店主は部屋に先に入ると正宗に奥に進むように促した。正宗は促されるまま部屋に入った。泉も彼の後を追う。
正宗が部屋の中を見渡すと彼の想像通り豪奢な調度品が上品に並べられた部屋だった。そして、部屋の中央に円卓の代が鎮座し、その周囲を囲むように彫刻が施された椅子が配置されていた。その椅子には先客である愛紗、孫権、甘寧がそわそわしながら座っていた。正宗に気づくと驚くように立ち上がった。彼女達はいつもの普段着だった。場違いな服装なので気後れしている様に見えた。
「正宗様、過分のお計らい恐縮いたします」
愛紗は立ち上がりそわそわしながら正宗に礼を述べた。それに続くように孫権と甘寧が立ち上がった。
「先輩、この度はこのような良い店に誘っていただきありがとうございます」
孫権は正宗に恐縮するように礼を述べ頭を下げた。甘寧も孫権に習い礼を述べ頭を下げる。店主は孫権と甘寧が正宗のことを「先輩」と呼んだことに首を傾げていた。
「こちらが誘ったのだ気にするな。店主、料理を頼む」
正宗は三人に笑顔で答えると店主の方を向いて言った。店主は恭しく頭を下げ部屋を後にした。正宗は扉の方を凝視した後、空いている上座の席に座った。泉は正宗の隣の席に座ると彼女に倣い三人も各々の席に座った。
「先輩、私と思春浮いていませんか?」
孫権は席に着くと躊躇いがちに聞いてきた。甘寧の表情も孫権のそれと同じだった。
「落ち着いてくつろげる店が良いと言ったがここまで高級店だったとはな」
正宗は孫権の言葉につい本音が漏れた。泉は正宗の言葉にショックを受けた表情に変わった。
「正宗様、お気に召してませんでしたでしょうか!?」
「泉、そうではない。想像していた店より豪華であったので少し驚いただけだ。お前の趣味は良いと思うぞ。王たる私に相応しい店だ」
正宗は笑顔で泉に答えた。泉は正宗の言葉に安堵の表情を浮かべた。
「料理が来るまで少し時間があるな。先に本題を済ませるとするか」
正宗は孫権と甘寧を交互に見た。正宗の態度に二人はただ食事に誘われた訳でないと理解する。ただ二人ともあまり動じている様子はなかった。誘われた時に何かあるとは察していたのだろう。
「実はな。孫仲謀、しばらく私の元で客将として務めぬか? 無理強いする気はない。断ってくれても構わない」
正宗の申し出に孫権は驚いた表情になった。甘寧は正宗の真意を測りかねているのか訝しむような視線を正宗に送っていた。
「先輩、申し出は真にありがたいです。長沙郡の統治が大変なので客将の話はお受けできません」
孫権は即答した。
「そうか。では人材の件はなかったことになるな。お前を私の元で客将として招き、私の信頼を勝ち得る機会を設けようと思ったのだがな。余計な世話であった。客将の話は忘れてくれ」
正宗は薄い笑みを浮かべると孫権に言った。
「ちょっと待ってください!」
正宗の話が終わると同時に孫権は立ち上がると大声を出した。彼女以外の者達は孫権のいきなりの行動に驚いた。
「正宗様、客将になる期限をお聞かせ願えませんでしょうか?」
孫権は笑みを浮かべ正宗に言ったが目が笑っていなかった。正宗は孫権の豹変振りに覚めた視線を送った。だが孫権は正宗の態度に動ずることなく奇妙な笑顔で応じていた。
「期限? そんなものはない。私がお前を信頼するまでだ。信頼を得ることができるまでの期限などあるわけがないだろう。安心しろ。客将が嫌になったら好きな時に出て行ってくれて構わない」
正宗は飄々と悪意を感じさせない笑みを浮かべ孫権に答えた。しかし、孫権と甘寧は正宗から悪意を感じたのか一瞬覚めた視線を送ってきた。
「正宗様、二人も急な話で驚いているのだと思います。二人をどうして客将にしようと思われたのです?」
愛紗は正宗と孫権と甘寧の間に割って入るように話し始めた。
「孫仲謀が人材を紹介して欲しいと私に頼んできたので人となりを知りたいと思ってな」
正宗は愛紗に無難に答えを返した。
「人材紹介ですか。確かにおいそれとできませんね。ははは」
愛紗は苦笑いを正宗に返した。
「先輩、返事は今しなくてはいけないでしょうか?」
孫権は少し悩んだ表情を浮かべた後、徐ろに口を開いた。
「一週間後でどうだ。その後、私はしばらく南陽郡から離れる」
「南陽郡を去られるのでございますか?」
孫権は驚いた表情を浮かべた。
「正確には宛県を離れるといったところだ。南陽郡内を視察しようと思っていてな。視察が終われば上洛する」
正宗は途中を端折って本当のことは話さなかった。
「都に行かれるのですか!?」
孫権の両瞳は羨ましそうに輝いていた。彼女は洛陽に憧れている様子だった。都会に憧れる若い女の子の心境なのかもしれない。
「そなた。都に行ったことがないのか?」
「はい。私は長沙郡に来るまでは、ずっと揚州呉郡で生活していました」
正宗は孫権に都の話をさせられる羽目になった。正宗が少し表情に疲れが現れた頃、出来たて料理が運ばれ、付き次に円卓のテーブルに並べられていった。料理からは鼻腔をくすぐる美味な香りが部屋に漂う。正宗達は料理に視線を向け興味津々の様子だった。
配膳係である給仕達は仕事を終えると正宗に丁寧にお辞儀をして退出していった。それを皮切りに正宗達は料理の味に舌鼓をうった。一口二口料理を口にすると、彼らは表情を綻ばせた。
「新鮮な食材を使っているようだな。世辞抜きに上手い」
「真にございます」
泉が正宗の言葉に相槌を打った。残りの三人も笑みを浮かべ同じように同意した。甘寧だけはぎこちない笑みだった。無理に場の雰囲気に合わせようと頑張っているのが分かった。
「甘興覇、無理して愛想笑いをしなくてもいい」
「いいえ、そんなことは」
「お前が不機嫌と思っているわけでない。無愛想というか。人付き合いの苦手な人間は幾らでもいる。わざわざ無理して愛想笑いをされても私の肩が凝る。自然体でいい。その程度のことで機嫌を害すほど私は狭量でない」
正宗は甘寧に優しく言った。彼の言葉に甘寧は驚いていた。いつも無愛想な彼が自分を気遣うことを掛けたことが衝撃的だったのだろう。孫権も同じく驚いている様子だったが、表情に出たのは一瞬だった。
「申し訳ありません」
甘寧は恐縮するように頭を下げた。彼女が謝ると正宗は困った表情になった。その様子を孫権は微笑ましそうに見つめていた。孫権は正宗の素の姿は見た気がしたのだろう。正宗は普段の自分の態度に問題があったかもしれないと自省するように少しの間瞑目していた。
「甘興覇、料理が冷めてしまう。食事に集中しようではないか」
「はい」
孫権はばつが悪そうな正宗が料理を食べる姿を微笑んで見ていた。
正宗達は食事を取ることに集中したせいもあってか、あっという間に皿が空になっていた。
食事が終わる頃合いになると、扉を開けて給仕が部屋に入室してきた。そして、給仕は淹れたての茶を一人一人に丁寧に配膳していった。その茶を正宗達が飲んで人心地していると店主が姿を現してきた。
「清河王様、当店の料理いかがでございましたでしょうか?」
店主は恭しく拱手をして正宗に開口一番料理の評価を聞いてきた。
「美味であった」
正宗は笑みを浮かべ短く答えた。店主は正宗の表情から料理を気に入って貰えたと受け取ったのか満面の笑みを浮かべた。
「それは良うございました。これを気に南陽郡に来訪された折には当店をご贔屓にしてくださいますようよろしくお願いいたします」
「そうだな。考えて置こう」
「店主、先に精算をしておきたい」
正宗と店主の会話が終わるのを見計らい泉が店主に声をかけた。
「畏まりました。ではこちらへ。清河王様はごゆるりと」
店主は正宗に深々とお辞儀をすると、泉に笑顔で応対し彼女と共に部屋を後にした。しばらくして精算を終えた泉が戻ってきた。正宗達が店の外に出ると少し日の光が橙色になっていた。彼らは店主と店員達に見送られて店を後にした。その後、正宗と泉は馬を護衛の兵に預け、歩きながら孫権と甘寧と少し話した。夕方になろうということもあり、人通りは減っていた。それでも大通りということもあり人の流れはあった。皆住宅街の方向に向かっているので家路につこうとしているのだろう。
一刻位(三十分位)歩いた後、曲がり角に差し掛かった。
「今日はわざわざ済まなかったな」
「いえ、本当にごちそうさまでした」
愛紗と孫権と甘寧は正宗に礼を述べた。
「私と泉はこのまま屋敷に帰ろうと思う。愛紗と孫仲謀達はどうするのだ?」
「私はこれから稽古しに戻ろうと思っています」
「久しぶりの休みですので少し街を回ってから宿に帰ろうと思います」
「そうか。じゃあ。また明日な」
「また明日」
正宗は三人と別れの挨拶を交わし、護衛の兵から馬の手綱を受け取り馬に乗ろうとした。その時、正宗は徐々に大きくなる空気を裂くような音を捉えた。正宗は咄嗟に手で迫る何かを掴みとった。正宗の手に握られたそれは矢だった。正宗の表情は憤怒の表情だった。
「長弓を持てっこい!」
正宗は馬に勢いよく跨るなり長弓を持つ兵に叫んだ。兵は正宗の突然の命令に駆け足で長弓を正宗に渡した。護衛の兵は正宗と泉を守るように展開した。孫権、甘寧は何が何だかわからない表情を浮かべていた。愛紗は只ならぬ空気を察して、正宗が睨む方向である泉の近くに移動して青龍偃月刀を持って構えた。泉は愛紗のことより襲撃者の攻撃に警戒している前方を鋭い目つきで睨んでいた。
正宗が颯爽と馬に跨る頃、二射目の矢が彼に迫っていた。しかし、その矢は正宗に到達することはなかった。泉が槍で叩き落としたのだった。
「正宗様、この場は私にお任せください。早くこの場を立ち去ってください」
「引かぬ! これぞ好機ぞ! 蔡徳珪、お前はもう終わりだ」
泉の言葉を無視して正宗は瞑目して敵の気配を読んだ。その時、三射目の矢が放たれた。その矢は先ほどまでの投射より更に威力と速度が増しているようだった。だが、それが敵の誤算だった。
「捉えたぞ! 泉、愛紗、先ほど放たれた矢を必ず叩き落とせ!」
正宗は活目して泉と愛紗に叫ぶなり手に握る矢を長弓にかけ狙いを定め勢いよく放った。正宗の放った矢は異常な速度で真っ直ぐに飛んでいった。彼によって放たれた矢と長弓は彼の気で強化されていたのだ。正宗は矢を投射して少しして口角を上げ笑みを浮かべた。
「獲った! 蔡徳珪が清河王である余に放った賊はあそこだ! 兵達よ! 賊は己の放った毒矢で瀕死の状態のはずだ! 手負いで逃げ切れはせん。決して逃すでない! 朝廷に仇なす逆賊・蔡徳珪の罪の証拠である。必ず生きて拘束せよ!」
泉は矢を槍で寸でのところで叩き落とすことに成功していた。そして、正宗の指差す方向見る。半市里位(二百五十メートル位)先にある家屋の二階部分を指していた。泉は兵から馬を奪いとり騎乗すると護衛の兵達に声をかけ一目散に駆けていった。
正宗の電光石火の攻防に庶民は動揺していた。馬に跨る貴族と思われる男が弓で狙われた。その貴族が逆に弓を射て「賊を打ちとった」と叫び、「毒矢」や彼の命を狙ったのは「蔡徳珪」と叫んでいる。仕事に疲れ帰宅の途にあった庶民達は正宗の周囲に輪を作っていった。正宗がわざと聞こえるように叫んでいるのは用意に推測できたが、人は分かりやすい事実を信じるもの。
正宗は蔡徳珪の首に刃を添えた。こうして二人の争いの火蓋が開かれた。
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