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ああっ女神さまっ ~明日への翼~

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明日への翼
  02 BEYOND THE RAIN

 六月。灰色の雨。
 梅雨前線がその役目を律儀にはたして、街は煙るような雨の中。
 川西仙太郎は繁華街の喫茶店にいた。
 高校二年生、スポーツマンタイプのがっしりとした体格の上にまだあどけなさの残る顔が乗っかっている。
 半年前から付き合っている洋子にいきなり呼び出されたのである。
 気まぐれな彼女だった。まるで猫の目のようにくるくると気分が変わる。
 押しの弱い性格から強く出られない仙太郎だった。
 だから「これもいつものこと」と諦めと苦笑をまぜて彼女からの電話を終えたものだ。むしろ達観、かもしれない。
 約束の時間に十分ほど遅れて店のドアを洋子が開けた。
 呼び出したくせに遅れるなんて、考えられないことなんだが。
 仙太郎の先輩いわく「それが今の女の子って奴さ」
 先輩の言葉を忠実に守った彼女は、仙太郎の向かいの席に腰を下ろした。
 校則にあわせたショートカットの黒髪と快活そうな瞳。気が強そうで少し小生意気な雰囲気は隠せないが、それを補って有り余る美貌。文化祭で三年生たちを押しのけミスコン優勝は伊達ではない。
「ごめん、待った?」
 少しも悪びれずに。
 ここでの受け答えは慎重にしなければならない。後の会話でどちらが優位に立てるか、少なからず決まってしまうものだ。
 仙太郎の答えは正直なものだった。
「うん……すこしね」
 会話の駆け引きとかにはまだまだ疎い年頃であった。
 洋子はウェイトレスにモンブランのケーキとアメリカンコーヒーを注文すると、おもむろに切り出した。
「別れようか」
「え?」
 いきなりそんな話が出るとは思ってもみなかった。
 少なからず動揺している仙太郎に。
「あなた、付き合っててつまんないんだもの。半年も過ぎているのに肩を抱くわけでもなし手を握るわけでもなし。小学生じゃないのよ、私達」
 確かに、彼女とはまだ何もないけれど。
「それにあたしももう遊んでられないし──受験の準備をしないとね」
「大学受験?」
「何言ってんのよ」
 洋子は少しうんざりしたような顔で彼を見ている。
「一年からしっかり目標校をきめて勉強している子だって少なくないのよ。いまさら遅いぐらいだわ」
 仙太郎はそんなものかと喉の奥で小さく唸った。
 受験なんてまだ先の話だと思ってた。
「仙太郎は就職するの?」
「いや……」
「何だ、それすら決めてないんだ」
 軽く溜息を吐く。
「まあいいわ、あたしの人生じゃなし──ともかくあたしたちはもうおしまい」
「ずいぶん一方的なんだな」
「あら、あなたあたしに未練があるの?」
 面と向かって聞かれると、さてどうだろうと首をかしげる。
 大体、「あたしと付き合いなさい」と一方的に迫ってきたのは彼女のほうだし、「仙太郎はあたしの彼よ!」と公言してはばからなかったのも彼女だ。
 確かに洋子は彼女として申し分ない。頭脳明晰で容姿も人並みはずれて可愛いし、運動神経もよくて、ほとんどのことをそつなくこなす。欠点といえば、わがままで気分屋ってことだ。少々「お高くとまっている」感じはするがそれもまたいいと男生徒の人気も上々だ。
 だけどこのまま付き合って行きたいかと改めて問われると。
「ほらみなさい」
 勝ち誇ったような瞳。
 それがすぐに憂いの色に染まる。
「……仙太郎、あたしを見ていないもの」
 奇妙な間が空いた。
「あたしの向こうに、あたしの知らない誰かを探してる。あたしを通して他の誰かを見てる。女の子ってね、そんなことには敏感なのよ──そして、そんな相手と付き合うことぐらい苦痛なことはないわ」
 泣き笑いの表情。
 洋子は席を立った。
「大丈夫、仙太郎ならすぐに素敵な彼女が見つかるわよ。もてるんだから……さ」
 背中を向けて片手を振った。
 じゃあね。
 後は振り返りもしなかった。喫茶店を出て行く。
 仙太郎は不思議と追いかけようとは思わなかった。
 ほんの少しの寂しさと、どこか納得している自分。
『あたしの向こうに、あたしの知らない誰かを探してる』
 確かにそうかもしれない。
 洋子には申し訳ないが。
 小学校の頃、よく遊んだ女の子。
 綺麗な長い黒髪ときらきら光る黒曜石のような瞳。額の紋章。
 スクルド。
 川原で出会った女の子。
 快活で天真爛漫を絵に描いたような笑顔。
 街の北側にある古いお寺にいつの間にか住み着いた三姉妹の末っ子。
 今となっては遠いことのように思える。
 彼女の姉の恋人の突然の死は、ずっと一緒にいられると思っていた二人の間に、別れの時をもたらした。
 楽しかった時間の終わり。
 突然の別れ。
 いなくなってしまった友達。
 消えてしまった日常。
 寂しさとせつなさと。
 以来、彼の中にずっとある違和感。
 まるで、間違った時間の中を歩いているような。
 色を失った時間。
 違うんだって感じてた。
 こんなことは正しくない。
 では、何が正しいのか。
 答えられなかった。
 そして、仙太郎にとっての現実は時を刻み、彼を中学校にあげて高校生にした。
 不思議なことなど何も起こらないあたり前の日常。
 このまま社会に出て結婚して──幸せになって。
 でも、本当にそれでいいのだろうか。
 自分が望んでいたのはこんな事なんだろうか。
 喫茶店を出ると雨はまだ降っていた。
 歩き出した。
 どこかに行こうってわけではなく、なんとなくだ。あてなどない。
 グレーの傘をさして人ごみの間を抜けていく。
 雨。
 灰色の時間。
 灰色の午後。
 すれ違う人の姿もどこか現実味を失って遠く影絵のようだ。
 交差点で立ち止まった。
 信号待ちだ。
 雨に煙るビル街が遠くに見えた。
 雨音。
 都会の喧騒。
 店先からこぼれるBGM。
 自動車のタイヤが濡れた路面を喰む。エンジンの音、クラクションと排気音。
 靴音。
 人の話し声。
 もっとも、声だとわかるだけでよく聞き取れない。
 耳を傾ける気にもなれないけれど。
 でも、
 雨音の向こうからの声。
「おにいちゃん、おにいちゃん」
 鈴を転がすような声だけは仙太郎の耳に届いた。
 振り返ると、五、六歳ぐらいの女の子が真紅の傘をさして立っていた。蒼と白の可愛らしいワンピース。白い長靴。艶やかな漆黒の髪を細く赤いリボンでツインテールにまとめていた。
「やっと気がついた。何度呼んでも振り向かないんだもの」
「ごめん」
 愛想笑いで答えてやると、少女は黒曜石のような瞳でこちらを見ていた。
「おにいちゃん、川西仙太郎さんでしょ?」
「そうだけど……お譲ちゃんは?」
 面識はない。はじめてみる顔だ。けれど、なぜか何処かで見たような気がした。
 なぜ自分の名前を知っているのだろう。
 問いには答えず、少女は片手を口元にあてて可笑しそうにクスクス笑っていた。
 笑われたことよりも、変な娘だなって印象が強かった。
「仙太郎おにいちゃん、もし──どんなことでも一つだけ願いが叶うとしたら、なにをお願いする?」
 首をかしげたしぐさが飛び切り可愛い。
「え?」
 どきん、と胸が高鳴った。
 頭の隅に一人の少女の面影が奔る。
「大事なことだよ、考えておいてね」
 少女は駆けていく。
 白い長靴が水飛沫を蹴って。
 雨の向こうに腰まである長い亜麻色のポニーテールの人影を見たような気がして、仙太郎は思わず眼をこすった。
 もう一度眼をむけた時には、少女の姿も、見えたと思った影もみあたらなかった。
 ……錯覚だったのかな。
 家路の途中で本屋さんに寄った。
 中学からなじみの本屋だがもっぱら買うのは漫画と伝奇小説ばかりだ。
「あ──菊池秀行(しゅうこう)さんの新刊」
 好きな作家の物なので迷わずレジに持っていった。
 住宅街の中にある庭付きの一戸建て。
「ただいま」
 家の玄関を開けて挨拶をすが答えるものはなかった。
 両親は不在なのだ。
 二泊三日の夫婦だけの旅行。一人息子を残して心配ではないのだろうか。
『ちょっと待てよっ、俺はどうなるんだよ』
『なに言ってるのよ高校生にもなって』
 にこやかに、母親。
 来年にはお兄ちゃんかもね。
 あまりにもオープンな親である。
 食事の用意も朝も一人で起きなくてはならない。
 自分でご飯を炊いておかずはコンビニで買ってきた。
 お風呂を沸かして入った。
「変な子だったな」
 雨の街中で声を掛けてきた見覚えのない少女。
 いや……違う。どこかで見たことがある。
 何処だったか。
 思い出せない。
「あ……そうか」
 スクルドに似てるんだ。
 そっくりってわけじゃないけど、どこか。
 でも。なんでだろう。
 馬鹿馬鹿しい。他人の空似だろ。
 何か言ってたよな。
 ひとつだけ願いが叶うとしたら。
 ひとつだけ。
 うん。
 あるかもしれない。
 もし本当に叶うなら。
 でも、そんなことはないんだって、わかってるし。
 ベッドの中で広げた小説は少しも頭の中に入ってこなかった。
 翌日は日曜日。
 昼近くまで思いっきり寝坊して、さてと、おなかがすいた。
 外はまだ雨。
 遠い雨音。
 曇り空。
 灰色の世界。
「出前でも取るかな」
 いまさら作るのもめんどくさい。いや、作るのはいいのだけれど、片付けるのがめんどくさい。
 不精の見本みたいなものだな。
 キッチンの電話の子機。
 自分で出前を取ったことはあまりないので、うろおぼえの電話番号をプッシュする。
 呼び出し音。
 ……1回。
 ……2回。
 3回目で相手が出た。
『はい、こちら「お助け女神事務所」です。ご用件はそちらで伺います』
「え?」
 電話の声とともに、仙太郎が触りもしないのに、キッチンの水道のコックが全開になった。
 迸る水飛沫。
 空中で渦を巻く、人の背丈と同じぐらいに大きさになる。
 中から一人の女の子が現れた。
 年恰好は仙太郎と同じぐらいだから「女の子」では抗議が来るかもしれない。
 腰まである長い黒髪。
 桜色の唇。
 真珠のような白い歯。
 黒曜石の輝きの瞳。
 ピンクと赤の天衣。
 背の高さも仙太郎と同じぐらいになっていた。
 額の「未来」の紋章。
「こんにちは。一級神二種非限定女神、スクルドです」
 まるで彼女の登場が合図であったかのように、戸外の雨がやんだ。
 雲に切れ間が走り、見ているうちに広がっていく。
 太陽の光が世界に色彩を戻していった。
「あ……あ、あ……」
 驚きに声も出ない。
「どうしたの?久しぶりなのにそれだけ?」
 クスクスと笑う。
「驚いて声も出ないって感じね。あたしも驚いているよ。まさか初仕事の契約者が仙太郎だなんて」
 私達って赤い糸で結ばれてたりして。
 我に返ったように佇まいをなおした。
「いけない──どんな時も一級神としての矜持と品格を忘れずに──」
 空中から名詞を取り出して差し出した。
「改めまして、一級神二種非限定女神スクルドです。天上界からあなたの願いを叶えに来ました。どんな願い事でもひとつだけ叶えて差し上げます」
「どんな願い事でも?」
「そうよっ、どんな願い事でも。ただしひとつだけね」
「願い事……」
 一番の願い事は叶ってしまったのに。
 もうひとつ、だって?
 いくらなんでも贅沢じゃないだろうか。
「急に言われても」
「本当にないの。よく考えて」





 雨上がりの六月。
 青い空に虹。
 仙太郎に奇跡が舞い降りた。
 一人の女神の姿を取って。




「君のような女神にずっとそばにいてほしい」

NEXT→ ……AFTER~ 天上界にて 
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