ああっ女神さまっ ~明日への翼~
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明日への翼
01 RAIN OF LOVE
それはあまりにも突然だった。
「はぁ~い、はぁい」
一本の電話。
他力本願寺で受けたのはウルドだった。
「はい、森里です」
『あ、ウルドさん?恵です』
「ああ、恵ちゃんね。お久しぶり。ここのとこ顔見せないけど元気してた?」
しばらくの沈黙。
ウルドは沈黙の重さにただならぬものを感じた。
『落ち着いてよく聞いてね』
涙声の恵。
「どうしたの?なにがあったの?」
『螢ちゃんが……けいちゃんが……』
電話口でしゃくりあげている。
『死んだの』
やっと聞こえるかの小さな声。
「えっ!」
ウルドは、恵のあまりの意外な言葉に、自分の耳を疑った。
「うっ、嘘。冗談でしょ」
『嘘や冗談でこんな事言えると思う?猫実市の中央病院。すぐに来て』
それだけを伝えるのがやっとだったに違いない。
電話はぷっつりと切れた。
確かに冗談にしては性質が悪い。
螢一は、今朝ベルダンディーと一緒にワールウインドに出勤して行った。
何も変わらぬ朝。
いつもとかわらぬ日常。
あたり前のように出掛けていく二人を正面の山門の所で見送った。
そうだ、スクルドは……
玄関先から宙を飛んで、「スクルド研究所」と書かれたプレートが下がっている障子を開ける。
スクルドはドライバーと機械の部品を手にしていた。
何やらまた新しい物を作っているらしい。
「あら、ウルド。どうしたの?誰から電話?」
「誰からって、落ち着いてよく聞きなよ」
ウルドは彼女の両肩を両手で掴んだ。
ただならぬ様子にスクルドは面食らって硬直していた。
「いま、恵ちゃんから連絡があった……螢一が死んだって」
スクルドの顔色が蒼白となった。
「う、う……嘘。冗談でしょ。ふざけているのよね。ねえ、ウルド!」
震える声が次第に叫びになった。
両手でウルドの衣装の襟を掴んでいた。
「それをいまから確かめに行くのよ。冗談にしては笑えないし性質が悪過ぎるわ」
冗談や嘘であって欲しい。
二人共思いは同じだ。
転送術で猫実市中央病院の玄関に飛ぶ。
受付に走る。
「あのう、森里螢一の家族のものですが」
ショートカットの色白で眼の大きな女性が座っている。
「森里…」
彼女はパソコンのキーボードに手を走らせて。
表情を曇らせ立ち上がると優雅に一礼をした。
「この度は御愁傷様です。御遺体はこの突き当りのエレベターを地下二階に降りて正面の部屋です」
病室じゃない。
御遺体……。
ウルドの膝から力が抜けた。
走るに近い早さでエレベーターに向かう。
人目があるのでさすがに飛ぶのは堪えた。
スクルドは既にエレベーターの前でもどかしげに降りてくるのを待っている。
降りて正面の部屋。
十畳ぐらいの簡素な部屋だ。天上の蛍光灯が冷たい光を投げていた。中央にベッドかひとつ。左の壁には背もたれのない長い椅子。
ベッドの上掛けが人の形にもりあがっている。
顔に白い布。
室内には恵ともう一人女性が立っていた。
三嶋沙夜子だった。彼女は額に包帯を巻いている。
泣いている。涙が頬を流れ落ちていた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
小さく呟くような声。
ウルドはその人物の意外さよりも目の前のベッドに引きつけられていた。
「ほんとうに……螢一なの……」
間違いであって欲しい。
最後の望みは恵の手で破られた。
取り除かれた白い布の下の顔は。
「螢一……」
歩み寄ったスクルドが上掛けの上から彼の身体をゆすった。
「なにふざけているのよ!馬鹿な事やっているんじゃないわよっ、冗談にも程があるわ!怒るからね!」
喚き散らし、螢一の身体をゆする。
肩をウルドがそっと押さえた。
「ウルド……」
見上げる彼女は首を振った。
弾けるように泣き声が部屋の中に響いた。
人の命の脆さをウルドはよく知っている。
だが、あまりにも突然ではないか。
たった数時間前まで彼は元気にしていたのだ。
幸せそうに笑う妹の傍には常に螢一がいた。
「……説明して欲しいわね」
ウルドはやっとの事で咽の奥から言葉を搾り出した。
握りしめた拳が震えている。
「森里君!」
螢一の勤めるワールウインドのオーナー、千尋が部屋の中に飛び込んできた。
肩で息を切らしている。
千尋はベットの上の螢一を一目見るなり硬直してしまった。
「本当なんだ……なんてこと、こんな……」
普段の彼女を知っている者が見たら眼を疑うほど取り乱している。
ポツリ、ぽつりと恵が話し始めた。
「私……バイトに行くために家の出たの。走っているうちに咽が渇いてきたから、コンビニに寄ったのね。前の駐車場にワールウインドの軽トラが停まっていたから、ああ、螢ちゃんとベルダンディーも来ているんだなって、思ったの。でも、店の中から出てきたのは螢ちゃん一人だった」
「仕方なかったのよ。お店忙しかったし、簡単な配達だけの仕事だったから森里君だけでもいいと思って。私、ついでに今月のモータースポーツの雑誌買ってきてって言いつけたの。たぶん森里君は雑誌を買う為にコンビニに寄ったんだと思う」
声を詰まらせる千尋。
恵が続ける。
「螢ちゃん、どうしたの?今日は一人?」
「いつも二人ってわけじゃないよ」
「うふ……そうね、でもいつも二人でいる所を見ているから、螢ちゃん一人だとなんか物足りないな」
「おいおい、どういう意味だよそりゃ」
「あ、ごめん。べつに螢ちゃんが魅力ないとかベルダンディーが美人過ぎるとかそんな事言ってないのよ」
「言ってるじゃないか」
「なん……て言ったらいいのかな。二人を見ていると安心するの」
「うん?」
「写真部に「野上」っていう人いるでしょ」
「?…あーっ、この間の」
「そう、螢ちゃん達が頼み込まれてモデルになってあげた人」
「彼が何か?」
「あの時取った写真でね、彼、コンクールの大賞をとったそうよ」
「そう言えば、お礼の手紙が来てたな」
「呑気ね、相変わらず。後で電話で話したんだけどさ「あれは俺の腕じゃない、モデルに恵まれただけだ。あの絵は二人のどちらが欠けても撮れなかった」って不満そうだったわ」
「ふーん」
「なによ。気のない返事をして。……ベルダンディーとはどうなの?」
「どうって?」
「もう抱いたの?ベルダンディーを」
「お前な、往来の真ん中でそんな話をするなよな」
「いいじゃない別に。人目を憚る仲じゃあるまいし。でも避妊はちゃんとしてあげてね」
「そこまで話した時だった。螢ちゃん、突然交差点に走り出したの。倒れている三嶋さんが立ち上がるところだった。車が走ってきて……螢ちゃんは…三嶋さんを突き飛ばして……」
沙夜子がしゃくりあげながら続ける。
「ヒールの踵が折れたのよ。痛くてやっと立ち上がったところに……」
打ち所が悪かったのか、救急車と彼の異変を感じ取ったベルダンディーが現場に来たときには、もう息を引き取っていた。
運転していた男は軽症でいまは警察で事情聴取を受けているらしい。
後になって知ったことだが、居睡り運転だったそうだ。
事故だ。
だが、その一言で終らせてしまうにはあまりにも。
「ベルダンディーは、あの娘はどうしたの?いないけど」
「ほんのついさっき出て行ったわよ。あわなかった?」
ウルドは廊下へ駆け出した。
ややあって、千尋が口を開いた。
「三嶋さん、今日はもう帰って。いまはみんな取り乱しているから何を言われても無駄よ……早くしなさいっ、私、あなたを殴りたいのを必死で押さえてるんだから!」
沙夜子は暗い眼をして背を向けた。
足を引き摺りながら出て行こうとする。
「ひとつだけ言っておくわよ。森里君はあなただから助けたわけじゃない。他の誰かでもそうした。これだけは忘れない事ね」
廊下に出たウルドはベルダンディーの波動を探った。
遥か上。屋上か。
転移術で病院の屋上に飛ぶ。
冷たい風が頬を打つ。
どんよりと曇った空。いまにも雨が降り出しそうだ。
無愛想なコンクリートの床。貯水システムや浄化装置、その向こうにぽっかりと広場のような空間が広がっている。
ぽつん、と、まるで置き忘れ去られた人形のように立つ人影。
「ベルダンディー……」
掛ける言葉がなかった。
目の前にいるのはベルダンディーの形をした抜け殻だ。目は開けているが何も見ていない。
風にポニーテールが揺れていた。
「……泣いていいんだよ。いま泣いておかないと後でもっと辛くなるよ」
「姉さん、私ね……螢一さんと……約束していたんです」
「約束?」
「いつかこんな日が来る。お別れの日が来るって。……でも、さよならじゃないから。またいつかきっと会えるから。その時は顔も名前も違うけど、きっと今の記憶もないけど、魂は……魂に刻み付けた記憶だけは……ずっと……だから泣かないって」
ウルドは言葉を捜すが何も思いつかなかった。
妹の肩をそっと抱いてやる。
「……でも、ごめんなさい。螢一さん。約束、守れなかった……」
雨が降ってきた。
叩き付けるような土砂降りの中で、抱きあったまま、二人の女神が泣いていた。
ウルドは、泣きじゃくるベルダンディーの肩を抱いていたが、やがて彼女の身体に異変を感じた。
こんな簡単な事はじめに気がつくべきだったかも知れない。
だが気がつかなかったとしても誰も責める者はいないだろう。
ベルダンディーの下腹部に小さな神気の乱れ。
「あなた、まさか!」
姉の驚きに満ちた問いかけにベルダンディーは頷いた。
「螢一は知っていたの?」
「今夜、お話しするつもりでした」
「そう……」
ウルドは目を伏せた。
知らせを聞いて釧路から彼の両親が飛んできた。
葬儀が執り行われた。
喪主はベルダンディーが勤めた。
鷹乃と桂馬に気を使って、ベルダンディーははじめ躊躇していたが、二人にどうしてもと言われれば断わる術はなかった。
女神が喪主をする葬儀なんて人類史上始めてだろう。
「お姉さまどうするつもりかしら」
スクルドは告別式を抜け出して裏庭の池のほとりに佇んでいた。
螢一がいなくなってしまった以上、地上界に留まる理由は何もないのだ。
「スクルド」
「あれ、帰ったんじゃなかったの?」
随分な御挨拶だが仙太郎は気にも止めなかった。
「うん、どうしても気になる事があって、戻ってきたんだ」
彼は何時になく歯切れが悪い。
「なあに?気になる事って」
「お兄さんが死んじゃってベルダンディーお姉さんはどうするのかなって」
「判んないわよ」
「もしかしたら、僕の知らない外国に帰っちゃうんじゃないかな」
「判んないったら!」
「そしたら、スクルドも一緒に帰っちゃうの……かな」
スクルドの瞳が涙で潤んでいる。
「仙太郎。どんなに遠く離れても生きていればまた会う事だって出来るわ。でも、死んじゃったらもう会えないんだよ」
大粒の涙が頬を流れ落ちていた。
「ごめん」
「ううん、謝らなくちゃいけないのはあたしの方」
翌日の事だ。
夜も更けて日付がもう少しで変わる時間。
小洒落たバーのカウンターで紗夜子が酒を飲んでいた。
かなり出来上がっている。
「もう一杯…」
黙って差し出されたグラスの中を焦点の定まらない目でぼんやりと見ている。
「あらあら、三嶋財閥の御令嬢がこんな所で飲んだくれてていいのかしら」
振り返ると、螢一の勤めていたワークショップのオーナー藤見千尋が立っていた。フォーマルなドレスを寸分の隙も無く着こなし、「口説いてもいいけど手強いわよ」という雰囲気だ。
「誰かと思えば藤見家のお譲様じゃない。そんなのあたしの勝手だわ」
この人と同じ物を。
千尋は紗夜子の隣に腰をおろした。
「……勝てなかった……」
呟く、と言うよりも搾り出すような紗夜子の声。
「最後まであたしあの娘に、ベルダンディーに勝てなかった……見たのよ、あの時。森里君の唇が動くのを。…声は聞こえなかったけれど。……ベルダンディーって、たぶん最後の力だったんでしょうね」
涙が頬を流れて落ちた。
「どうしてよっ。命がけで飛び込んで来たのなら、どうして私の名前じゃないの!」
「言ったでしょう。森里君はあなただから助けたわけじゃないって」
琥珀色の液体が千尋の咽の奥に消える。氷が硬い音をたてた。
「わかっているわよそんなこと!私だって女よ、あの娘がどれだけ森里君のことが好きなのかわかるもの……だから、……でも……」
店内のBGMにしゃくりあげる声が重なる。
「私もね、片腕斬りおとされたような気分。いい腕してたわ彼。私と気が合ってもいたし。仕事の上での最高のパートナーだった。恋人にはなれなかったけどね──紗夜子さん、天命って言葉信じる?」
「残酷な言葉よね」
「でも、そう思うしか……おもう……しか……ないわよ」
俯いている千尋の肩が震えていた。
「彼の一生は幸せだったのでしょうなあ」
バーテンが口を開いた。
「……私の父と言うのは酷い金の亡者でしてね。一代で財を築きあげた。もちろん、真っ当な手じゃありません。その影でたくさんの人が泣いた。子供は私を含めてたくさんいたけど、家族の中はバラバラだった。もう十年になるかな。その父があっけなく逝ったんですよ。葬式の時参列者は多かったけど涙を流しているのは一人もいませんでした。身内なぞは遺産相続のことで頭がいっぱいでしたよ。死んだ時に涙を流して泣いてくれる人がいる。これぐらい幸せなことはありません──いえ、ただの独り言です、聞き流してください」
「そうね……でも、本当に辛いのは私達じゃないわ」
千尋は残っていたグラスの酒を咽に流し込んだ。
螢一の遺骨は釧路の大地に葬られる事となった。
ごめんなさい。
本当に申し訳なさそうな鷹乃。
いいえ、お父様とお母様の傍が螢一さんも安心でしょうから。
ベルダンディーの傍目からも無理していると判る笑顔。
時間は待ってくれない。
瞬く間に一週間が過ぎた。
あれほど騒がしかった他力本願寺もここ一週間は静かなものだった。
スクルドもウルドも身体の芯から何かが抜け落ちたかのようにおとなしかった。定番の喧嘩もなりを潜めている。
電話が鳴っていた。
ベルダンディーが受話器を上げる。
「はい、森里です……えっ、神様ですか!……ええっ!ですが……いえ、そのような事は……判りました」
スクルドとウルドはベルダンディーに茶の間へ呼び出された。
「先程、神様から通達がありました。本日十二時を持って全員地上界より退去。天上界に戻ってくるようにとの事です」
「そんなっ、あたし達の気持ちも考えないであまりに一方的じゃない!」
スクルドの抗議。
「あなたは本当にそれで良いのかい」
ウルドは辛そうな目でベルダンディーを見ていた。
「神様の命令には逆らえません」
瞳を伏せた。
唇を噛むスクルド。
「……仙太郎にお別れをしてきなさい」
「……うん」
スクルドはウルドに素直に頷いて席を立った。
「私も千尋さんと恵さんの所に行ってきます」
話を聞いた千尋は落胆の色を隠せないでいた。
「森里君がいなくなって、ただでさえ痛いのに、ベルちゃんも辞めちゃうのね」
「本当に勝手を言って申し訳ありません」
「いいのよ。あなたの人生だもの」
寂びしそうに笑う千尋。
「早く忘れちゃいなさい。私が言える事はこれだけ」
「いいえ、忘れません。螢一さんと、皆さんと過ごした時間は私の宝物ですから」
恵は予期していたかのようだった。
「寂しくなるわね」
「ごめんなさい……」
頭を下げるベルダンディー。
「そっかー。あのお寺、空になっちゃうのか……あたしあそこに引っ越そうかな。家賃もいらないし。人が住まないとどうしても荒れるしね。──よし、決めた!あたしこれから手続きしてくる!」
即断即決。こうなると恵はやる事が早い。
「ベルダンディー!何時でも戻って来てねっ!あたし待ってるから!」
愛車に跨って手を振る恵だった。
「ありがとうございます」
ベルダンディーの胸は恵への感謝の気持ちでいっぱいになった。
大切な想い出が宿る土地を守ってくれる人がいる。
女神の彼女は、簡単に約束を交わしたり出来ないが、もし許されたなら、もう一度ここに戻ってこよう。愛しい人と過し記憶を刻みつけたこの町に。
いつかもう一度。
彼女はそうなるよう強く願った。
螢一の部屋は彼が生きていた時と少しも変わっていない。
まるでちょっと買い物に出かけた、とでも言うように。
机も本棚も愛用のヘルメットも変わらずそこにある。
だけど持ち主は永遠に戻ってこない。
ベルダンディーは螢一の部屋で時間までをただ静かに待った。
部屋の中央に正座して微動だにしない。
時折彼にしてあげた膝枕。
膝がまだあの時の重さを憶えている。
忘れることはないだろう。
涙は流しつくした。
「ずっとそばにいて欲しい」
いつか自分の願いになっていた。
叶わぬ事であると知りながら。
でも。
これで終わりではないと思った。
螢一への思いは、記憶は、いま確かに胸の内にある。小さな宝石となって奥底に沈み、これからの長い時をずっと支え続けてくれるだろう。
いまはただ、この愛しい人の思い出を胸に天上界に戻ろう。
さよならじゃありません。またいつか会えます。
──それに。
「お姉さま」
「ベルダンディー」
障子の向こうから声がした。
立ちあがって衣装を天衣に変化させた。
障子を開けると沈んだ面持ちの二人がいた。
「いきましょう」
静かな微笑だった。
二人の間を抜けて庭へ下りた。
時が来て天井界へのゲートが開いた。
女神服に着替えた三神が天に昇っていく。
さよなら。
大好きだった町。
優しい思い出がたくさん詰まった町。
いつかまたもう一度。
「お帰りなさい」
天上界に戻るとペイオースが三人を出迎えた。
「ただいま、久しぶりね」
「元気そうで何よりだわ」
ペイオースは、スクルドとウルドの返事も気がつかないかのように、女神服のベルダンディーを見詰めていた。
片膝を折って胸に手を当て頭を垂れた。
「一級神二種非限定女神ベルダンディー、よく戻られました。大天界長がお呼びですわ」
「判りました。ありがとう」
静かに歩み去る姿。
見送って、はじめて気がついたかのように、ペイオースは茫然と呟いた。
「あたくし……いま、どうして膝を……?」
「それだけあの娘が成長したってことよ」
一級神の中でもプライドの高い女神はめったに膝を折ることはしないのに。今まで頭を垂れるのは大天界長だけだったのに。
ウルドの声も何処か遠いことのように聞こえた。
大天界長との謁見室の中で、ベルダンディーは一人、膝をついていた。
任務から戻った女神が大天界長に呼び出されるなど聞いた事がない。
たとえば、任務を達成する上で大きなミスや手違いがあったとしても、直属の上司から叱責を受けるのが、通例となっている。
何の用なのか……。
彼女には大天界長の意図がわからないでいた。
大天界長が玉座に姿を現した。
「一級神二種非限定女神ベルダンディー、これに」
膝をついたまま頭を下げる。
「立ちなさい。楽にしていいよ」
応じて立ち上がる。
「長い間の地上界での任務ご苦労だった。──さて、ベルダンディー。君はひとつ困った事をしてくれた」
彼女の柳眉が動いた。
「君は森里螢一と約束をしていたのではないかね。彼が死んでも絶対に泣かないと」
ベルダンディーは言葉を返せないでいた。
確かに約束をした。
「約束を破り君は彼を思って泣いた。──約束を破る。一級神にあるまじき行為だね。そこでペナルティーを受けてもらおうと思う」
何か言い返したいのだが言葉が見つからない。
ただ、あの時声を上げて泣いた事を少しも後悔していなかった。
自分の命を、世界の全てと引き換えにしても守りたいと思った最愛の人が死んだのだ、
螢一の為に泣いたのだ。
少しも恥じる事はない。
その為に受ける処罰なら甘んじて受けよう。
ベルダンディーは姿勢を正し胸を張った。
「……いかような処置でも。ですが、これだけは言わせてください。螢一さんは……わたしの……私の生涯最愛の人です」
声を詰まらせた。
大天界長の慈愛に満ちた微笑。
「実はなこの間地上界から解脱して天上界に昇ってきた──まあ、なりたての神だな──者がいるんだ。彼にはユグドラシルのハード面での管理をしてもらおうと思っている。そっちの方面での教育は管理神達に任せるとして、問題はここでの暮らしだ。地上界と天上界ではいろいろと生活習慣が違うからな。慣れるまで面倒を見てやって欲しい」
大天界長に促されて室内に人影が入ってきた。
神衣を身に纏い大天界長とベルダンディーの間に立つ人影。
「えっ……」
驚きに見開かれる蒼い双眸。
「嘘、そんな……」
膝が震えていた。脚に力が入らない。
何か言わないと。
でも、
「あ……あ…」
なんて。
この驚きと嬉しさをどう表現いたらいいのだろう。
夢ならば。
女神が夢に逃げるなど許されないことだけど。
夢ならば覚めないで欲しい。
「また会えたね」
驚きのあまり声も出ない彼女に彼はやさしく微笑み掛けた。
スポーツ刈りの黒髪。
優しそうな黒い瞳。
「螢一さん!」
腕の中に女神は飛び込んでいった。
ぬくもりと鼓動。
夢じゃない。
確かに螢一は、大切な人はここにいる。
「早速だけど女神さまっ、お願いを聞いて欲しいんだ」
ベルダンディーにとって彼の優しい声は何よりの安らぎだった。
「……はい、どんな願いでもひとつだけかなえて差し上げます」
「君のような女神にずっとそばにいて欲しい」
「私は……」
頬を涙が一滴流れて落ちた。
「私はあなたの為にここにいます。けっして離れることはありません」
「また四人で一緒に暮らせるね」
「いいえ、五人ですよ」
お腹を押さえている彼女に螢一の瞳は大きく見開かれた。
やったぁ、凄いぞ!
歓声をあげてベルダンディーを抱えあげた。
大天界長の咳払いで我にかえった二人は佇まいを直した。
やがて天上界で力をつけ、一級神を拝命したスクルドが仙太郎の元に降臨することになる。
人と女神の新しい物語が始まる。
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