【短編集】現実だってファンタジー
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R.O.M -数字喰い虫- 3/4
「貴方を苦しめている『数字喰い虫』は、実体であって、幻でもある」
凛とした透き通る声が耳を擽る。
少女――メリーの声は、どこか信託のような神聖な響きがあった。
閉塞し、虫によって閉ざされた世界に舞い降りた希望。少なくとも美咲はそう思った。
だからこそ、その言葉に食い入るように耳を傾ける。
「貴方が見たノートは、幻でも非現実的な存在でもなく確かに存在する技術的なもの。あれは、純粋に見た者の精神構造や脳内記号を視覚を通して書き換える効果を持った科学的な文様。貴方が見ている芋虫も、撒き散らされる極彩色の体液も、全ては貴方の認識する事実が書き換えられているから」
無言で頷く。自分でも驚くほどに従順だった。
見るだけで精神に変調をきたすなど常識では考えられない。でも、そもそも今置かれている状況が常識的ではないのだから、信じてもおかしくはないのかもしれない。
「でも、それなら芋虫は存在しない、ってことだよね。なら、幻であっても実態は伴わないんじゃ……わたしはずっと存在しない物に……」
「科学的に実体があるかどうかという分析に意味はないわ。科学は科学、精神は精神でしかない。世界を認識するのが精神ならば、精神が『それがある』と思えばそれはある。ただ、それが周囲に認識できていないというだけ。だから、貴方の『いつか虫に喰われるかもしれない』というイメージがあれば、その芋虫は現実を喰らって膨張し、貴方を喰らう。それは貴方にとっての事実たりうる」
「私の心が死ぬから、現実で死んでいるかどうかは認識できない?」
「現実という認識に意味がない、と言っている。何故なら、貴方の見る世界も周囲の見る世界も、完璧な世界にはなりえないのだから。どちらが虚偽でどちらが真実という認識を受け入れられないのなら、貴方の言う論理づけでも構わない。それも真実ではないけど、虚偽ともなりきれないから」
数字を喰らう芋虫たちの存在を認識したうえで言葉を紡ぐ目の前の少女に、美咲は懇願した。
「なら……芋虫を虚偽にすることは出来ないの?わたし……わたし、もうこんな世界に耐えられない。芋虫に塗れて、いつ自分が芋虫に溺れるとも知れないこんな世界を、変える事は出来ないの?忘れ去ることは出来ないの!?」
誰が、何のために私をこんな目にあわせたのかは分からない。これが神罰だというのなら神に問い、悪魔の計略だというのならその悪魔にも問いたい。私はどうあれば解放されるのかを。それさえ叶うならば、今はもう他に何もいらない。
命を懸けてでも求めている恐怖からの解放を実行する術を、美咲はメリーに求めた。
そして、メリーは答えを持っていた。
「貴方の認識の全てを書き換えたその世界を変えるには、簡単な方法があるわ」
「本当!?お願い……お願いします!教えてください……私はもうここで怯えるのは嫌なのッ!!」
美咲は、メリーに縋りついた。メリーはそんな彼女を感情も熱も籠らない人形のような瞳で一瞥した。
「知りたい?」
「はい!」
「世界を変えるためなら、何でもする?」
「私が出来る事ならば、何だって!!」
「――それが、『美咲という世界』を消すことだとしても?」
「え――?それって、どういう――」
「精神の感じる貴方の世界。精神世界。認識世界。あなたがあなたでいる世界」
美咲は、言葉の意味が分からずに絶句した。
美咲という世界を消すとは、どういうことなのか。
何が消えるのか、完全に理解する事が出来なかった。
ただ、心のどこかでその言葉が、何か恐ろしい意味を秘めているような、そんな外れてほしい予想が脳裏をよぎった。
だが、人が想像しうることは、おしなべて実現しうる。
今日のこの瞬間に、その受け入れがたい現実には訪れてほしくない。
そんな願いは意味がないと、分かってはいたのに。
「あの数式は貴方の認識を過去から現在に至るまで書き換えているわ。貴方は最近の出来事が衝撃的すぎて気付いていないようだけど、貴方が記憶する過去の映像でも虫は数字を喰っている。だから、貴方がこれまで認識してきた全ての世界が既に虫の温床となっている」
つまり、それを消すという事は――過去から見たいに至るまでの記憶を――記憶が構築した世界そのものを――病巣を取り除くのと同じように、切除する。
「記憶を、消す?今までにあった全てを?学校の思い出を、家族の思い出を、友達と過ごしたすべての時間を――消す?」
「そうよ」
まるでふとした疑問に答えるように、あっさりと。
がらがらと音を立てて、希望が崩れ去っていく。
「……………………う、そ」
ずるずると、美咲は床へ崩れ落ちた。
やっと手にしたと思っていた希望。未来への光。
その祝福を受けるために払う代償は、彼女を構成する記憶そのもの。
美咲を構成する世界。両親の顔、親友との出会い、好きな食べ物、将来の夢、希望、後悔、恋、その一切合財を喪うことでしか――
「そんなのって、ないよ。酷いよぉ……私ばかり何でこんな……っ、ぅああ……あぁぁぁぁ……!!」
「泣いたっていいし、苦しんでもいい。けど選べる選択は2つしかないから、よく考えるといいわ」
それが、メリーの結論づけた最適解だった。
= =
「今頃、美咲ちゃんはメリーが相手をしているよ。君の仕掛けた悪辣ないたずらから彼女を解放するには、俺としてもメリーに頼らざるを得ない」
「美咲ちゃん……美咲ちゃんは助かるんですかッ!?」
先ほどまでの怯えようとは打って変わって、春歌は掴みかかるように林太の服を掴んで揺さぶった。
見た目の細見とは思えない膂力に一瞬バランスを崩しかけるが、林太は焦らない。
「――憶測だけど、何の代償も無しに解放されることはないだろう。だが、逆を言えば代償を払えば人並には戻れるんじゃないかな?」
「代、償………でも、それでも……今のままでいさせるぐらいなら、その方がいいのかもしれない」
自分に言い聞かせるように春歌は呟いた。その顔には偽りのない葛藤と不安が渦巻いている。そして、その感情が向く先は自ら友人を名乗り、自らが貶めた一人の少女。彼女は、どうやら本気で美咲のことを慮り、心配しているらしい。そこに打算的な感情や演技は見受けられないのを直感的に感じる。
だが、そうだとしたら余計に分からない。何故彼女は美咲を自分で追い詰めていながらも彼女を治そうとしないのか。それとも美咲にあれを見られたのは不慮の事故なのか。或いはあれは永続的な効果があるのか。
取り留めもなく考え続けるのは時間の浪費でもある。林太は確認したいことから端的に問い詰める事にした。
「このノートに描かれた『数学の繭』は、現人類の理論では提唱もされていなければ発見もされていない。そんなものを、君はどこから持ち出してきた?それともこれは、君自身が書いたのかい?」
「………それは、言えません」
「それは君自身がヨクジンだからかな?」
「う………っ、ち、ちがう。私は、ヨクジンじゃない」
「だが、これはヨクジンの作ったものだと俺は考えている。何故かって?それは、今まで追い続けてきたヨクジンの気配が在るものは、悉く人間の精神に干渉する物だったからさ。まるで実験を繰り返しているように、ヨクジンの影は人の心を揺るがしていた」
マヌタラに始まる正体不明の禁止薬物。訪問販売や音楽、果てはネットゲームまで、林太とメリーが追い続けたヨクジンの影には、常に精神に干渉するなにかが存在していた。つまり、ヨクジンは少なくともそのような催眠的技術を擁した存在ということが推測された。
彼女もまた、どこかでそれに連なっている筈だ。
「質問を変えようか。君自身がこれを書いたかという質問に答えられない、その理由は?」
「言えば……殺されるかもしれないから。貴方に」
「俺に、かい?」
「貴方がどこまでヨクジンについて知っていて、ヨクジンをどうしようとしているのかは分からない。でも貴方はヨクジンの情報を知りたがっているのは分かった。だから言えない。私の生命に保険がない今は決して言えない。貴方も情報源である可能性の高い私に下手な真似は出来ない筈でしょ?」
不安を隠しきれないながらも、鋭い目で牽制するように言い放った。
ここでこれ以上追及しても得られる情報はなさそうだ。一旦後に回すべきだろう。
「学生のくせに意外と頭が回るな。なら、また話を変えよう。ずっと気になってはいたんだが、君は何故彼女をあんな目に遭わせているんだ?」
「あ………そ、それは……」
春歌の態度がまた一転した。彼女は頭は回るが、感情が表に出やすいらしい。口元を抑えて言葉に詰まっている。
「見たところ友達意識がないわけでもないようだが、そこが分からないな。彼女を苦しめるために害意を以ってこの数列を見せるよう仕向けたんだろう?心配するくらいなら解除してやるなり何なり出来たんじゃないのか、君は?」
「――やめて、ください」
虫のさざめきよりも静かな、消え入るような声だった。
彼女は両目を充血させ、静かな涙を流していた。
「私だって。私だって……あんな風にまでなってしまうなんて、思わなかったんです」
「――ほう?では不慮の事故だったとでも言い張るかい?」
「ち、ちが……私はっ!!……た、ただ……美咲にちょっとは懲りてほしかったからあれを……あんな風になるなんて、知らなかったんです……!!」
「君が用意したのにかい?彼女の嫌いな数学のノートに、君が最も嫌いな芋虫が見えるよう仕組んで?」
春歌の涙がどんどん大粒になり、呼吸が乱れていく。激しく動揺したように目がぶれ、認めたくない己の罪を突きつけられているこの状況に心底狼狽していた。
意識的な行為と、激しい後悔。突発的な行動と無計画の結果。林太には彼女の行動がそのような、癇癪的なものに思えてきた。ある種で人間らしく年相応で、しかし導く結果が余りにも歪すぎる。
その感情の矛盾の理由を考えた林太は、ひとつの仮説が浮かび上がった。
「君は、ヨクジン固有の何らかの力、若しくは知識持ちながらも使いこなせてないない。だから、本当は軽く脅すつもりで仕掛けたはいいが解除の方法が分からなくなった――俺の仮説はどうだ?」
「――、…………………合って、ます」
「認めるんだな」
「貴方からは逃げられない。そう、思ってしまったから……それに、美咲が助かるのなら、それも贖罪になるから……」
親友を追い詰めて尚も隠し続けることに疲れ果てたのかもしれない。
諦めたのに、どこか未練をも断てたことに安堵するような溜息を漏らした春歌は、乱れた呼吸を整え、目元を赤く腫らしたままの顔で林太に告げた。
「私は、詳しい事までは知りません。ただ、貴方の言う『ヨクジン』の技術を………ほんの少しだけ保有しています。基礎が理解できるだけでコントロールなどできてもいませんが」
悔しそうに歯を食いしばりながら、彼女は真実の一端を語りだす。
林太が待ち望んでいた、「ヨクジン」を。
「ヨクジンとは、なんだ。人なのか?そうでないのか?集団なのか?それとも普遍的個体なのか?」
「詳しいことは分かりません。私もおじいちゃんの日記でしか情報を得る事は出来ませんでした」
「――なんだって?日記……ということは、君のおじいちゃんがヨクジンだって言うのか?」
春歌は静かに首を横に振って、分かりません、と答えた。
彼女のおじいさんは随分前に老衰で亡くなってしまったそうで、日記は死後発見されたという。
「ただ――ヨクジンは、少なくとも日本では大和朝廷が成立する以前から存在していた、一族か、血統の繋がりのような存在……らしいです。おじいちゃんがそのヨクジンなのか、それともその手下のような存在だったのか……ヨクジンという言葉は断片的にしか登場しなかったので、その辺りははっきりしませんでした。そもそもその日記も40年前の火事で半分ほど燃えていて、詳しいことを知る術はありませんでした」
「曖昧だな。人なのかどうかも確認が取れないが……目的は?主義とか宗教とか、何か分からないのか?」
「秘匿とか干渉をしないとか、守秘的な考え方があったみたいで……日記にも殆どその辺は書いてませんでした。ただ……やり方について行けないとか、使命が歪んだとか……とにかくおじいちゃんはヨクジンから離れたかったんだと思います」
彼女の目を見る限りでは嘘をついている様子はなく、必死に自分の持つ情報を思い出してるように見えた。ただ、未だ彼女自身がヨクジンである可能性や、隠し事をしている可能性は拭えない。
「それで――美咲ちゃんに見せたあれは、何?」
今はもう都市伝説の一つとして社会に急速に拡散しつつある『数字喰い虫』の源、『数学の繭』。
あれは既に概念化し、彼女の使ったオリジナルとは本質が変容した都市伝説だ。人から人へと語る継がれるうちに形を変え、あれはその辺に転がる都市伝説と同じレベルの存在となった。
その原点となったあの模様の正体は一体何なのか。あれはヨクジンの何なのか。
「あれは………あれは、おじいちゃんの日記の最後のページにあったんです。そこだけは燃えずにはっきり残ってて、なんとなくだけど見ていて理解できたんです。これは、人の心に干渉するものなんだって。多分だけど、本当はヨクジン以外が見れば記憶を消すようなセキュリティの意味があったんだと思います」
「……では、君も?」
「多分、ですけど。私はおじいちゃんの持っていた因子のようなものを強く受け継いで生まれたんだと思います。家族はみんなこれを見ると日記の存在そのものを忘れてしまいました。でも私だけは……これの意味が分かりました」
「なら何で『数字喰い虫』なんてものが彼女の頭に現れた?」
ノートの図形が日記のものと一緒なら、彼女は精々勉強内容をすっからかんに忘却するだけで済んだはずだ。それならばまだ、今ほど深刻な問題にはならなかった筈だ。しかし、春歌は首を横に振った。
「……全く同じものじゃ、ないんです」
「なるほど、書き換えたのか」
春歌は無言で懐から焦げた日記を取出し、その最後のページを見せた。
……ノートと見比べると、確かにほんの一部の数字が僅かながら変わっていた。
林太が顔をあげると、春歌は顔色を悪くしながら、やっぱり、と呟いた。
「稜尋さんは……やっぱり、平気なんですね。あのノートを持っている時点でそうかもしれないって思ってたけど。芋虫も見えていないし、記憶も消えていない」
「ン……あ、俺が影響を受けるかどうか試したね?意外と手癖悪いなぁ君も」
「ひぇ……ごめんなさい!ご、誤魔化そうとしたわけじゃ……!」
口元を抑えて後ずさる春歌の態度は、完全に脅された人間のそれだ。それ程怖がらなくともいいだろうに、と少し傷ついたが、同時にもしかしたら、とその態度の正体に思い至る。
彼女もまた、俺がヨクジンであることを疑っているのではないだろうか。もしくはヨクジンを追う得体の知れない何かだと考え、恐怖しているのだ。何せ普通の人間ならこれを見れば一発で術中に嵌まるようだから、それを見て尚平然としている林太の態度を見てそう勘違いするのも無理らしからぬことだ。
そう言えば、自分は何故平気なのだろうか。
そもそもこのノートは今日、メリーに回収させたものだ。ペラペラと調べた様な事を言ってみたが、あの情報もメリーが読み取ったものを述べただけに過ぎない。ならば本当にあの図形を見る事で記憶を消され、或いは『数字喰い虫』に囚われていたのかもしれない。
何故、その事に思い至って危機を抱かなかったのだろうか。
まあいい、そのことには『今はあまり興味がない』。
「ああ、別に取って食おうって訳じゃないんだから。それに俺の所にはメリーがいる。仮に今から逃げたって、メリーさんはもう君を補足しているから、『貴方の後ろにいるの』で一発だよ」
「メリー……お人形さんみたいな……後ろ……もしかして、都市伝説の!?」
「そゆコト。さ、正直に答えてほしんだが、何でそんなことをしたんだい」
「あり得ない……あり得ないよ、こんなの」
都市伝説と共に行動し、人間ならば正気を失うはずのものを平然と見つめ、なお不敵な笑みを浮かべる存在。それは確かに彼女にとっては余りにも得体の知れない、非現実的存在なのかもしれない。
「だけど、今更君がそれを言うかい?人の心を弄ぶ悪魔の数式なんて、物語の世界だろう?現実だって十分ファンタジーなのさ、この世界は」
「……そんなの、頭では分かってますよ。頭以外が付いていけないから、信じられなかったんです……でも、もう信じるしかないんですね」
「ああ、もう君も俺も引き返せない世界に足を突っ込んでしまった」
それっきり彼女は黙り込んでしまった。
ならば、こちらから聞きだそう。差し当たっては、その交友関係などはどうだろう。
「嫌いだったのかい?彼女の事を」
「それは………確かに美咲は友達だけど!友達だって腹が立つことはあるでしょ!?」
「うおっ!?な、何だ突然!」
彼女はどうも親友のことが絡むと途端に積極的になるきらいがあるらしい。それほどあの少女が彼女の心にとって重要なウェイトを占めているということだろう。両手を振り下ろして不満を露わにする彼女の姿はまさに年相応で――だからこそ、続く言葉に林太は固まった。
「だって美咲はいつも芋虫のことで私をからかって来るからっ!一回くらい芋虫で苦しめばいいんだと思って……図形をそういう風に改変したんです。なんとなく、やり方は分かったから。日記と同じで永続的な効果はないと思って……」
「つまり、アレかい。君、個人的なイタズラのためだけにこんな物騒なモノを………?」
「物騒じゃない、筈だったんです……でも、やって初めて間違いに気付いて……!!何度も書き直そうとしたんですけど、脳の根底部分に刻まれちゃったから今更取り除く方法が分からなくて……!!」
ぞっとした。そんな、子供のいたずらのような感覚で、都市伝説の原型にまでなる悪魔の数式を作り上げた少女に。林太は心底恐れると共に、彼女が本当に困っていたことを理解し――そのうえで、言葉に形容できない感情を彼女へと抱いた。
それは憤りなのか、憐れみなのか、同情なのか、切なさなのか、ごちゃ混ぜになった感情はしかし、自分の中で言語に表す必要のない一筋の想いへと編みこまれていった。
本当に取り返しのつかないことを、ほんの些細な理由で実行してしまった。
彼女はそのことを確かに深く反省し、それを償おうとしているのだろう。
だが、この世界は全て『虫』のいいように事は運ばず、捻じれた運命は拗れた顛末を引きずり出す。そのことを、彼女はまだ本当の意味で理解できていない。
「――分かっているのか、美咲ちゃん。俺は確かにメリーに任せれば助かるとは言った。だが、代償が伴うとも言った筈だ」
「え……でもその代償さえ払えば芋虫の幻覚は消えるんですよね?」
「ああ、消えるだろうさ。――でも、メリーは神じゃないし、都合のいい存在であっても万能の存在にはなれない。だから、『もう取り返しがつかない』ことはしっかり理解しておくんだな」
春歌はまだ理解しきれていない顔をしている。目の前の希望の意味を理解せずに、それに手を伸ばせば自分の罪が消えるとどこかで考えている。だから未だに美咲の事であれほど饒舌になれるのだ。
代償を払えば助かるというのは、既に喪うことが決まっているということだ。
喪ったものは、決して戻ることはないのだ。
それとも、彼女もまた喪わなければ気付けないのかもしれない。
両親と何も分かり合えないままに喪った林太自身と同じように。
自分と同じような後悔を、今度は見せつける側に立っている。
因果だな――と呟きながら、林太は美咲とメリーのいる部屋の方へ向かった。
「君の話は大体わかった。それじゃ、これから確認しようか。君の犯した罪の形を――覚悟は、どうせ出来ていないだろうけどね」
「……………………」
鍵がかかっていた筈のドアノブを捻ると、あっさりと扉は開いた。
= =
『――ねえねえ!春歌ちゃんっているも一人でいるよね。退屈じゃないの?』
無表情にも見えた彼女からは、何故か寂しさのようなものを感じた。
中学に入学したその頃からそれが気になっていて、その日に私は春歌に声をかけた。
『……わたし、みんなとあんまり話が合わないから。本を読んでたほうが、落ち着く』
本のページに視線を落としたまま、彼女はこっちを見もしなかった。
感じが悪いな、と内心でちょっと思ったけど、それだけで話を止めるほど諦めのいい性格じゃなかった私は、そのまま望まれてもない会話を続行した。
『フーン。まぁいいや!ねえねえ、一緒にご飯食べない?なんか中学になってから派閥みたいなのが生まれてみんな付き合い悪いんだよねー』
『……私なんかと一緒にいたって、美咲ちゃんもつまらないと思うよ』
『詰まらなかったらその時はその時!さあさあお弁当出して!机くっつけて!』
『ちょ、ちょっと……?』
自分の意見を聞いていなかったのか、と戸惑う彼女の顔はちょっとだけ可愛らしくて、くすっと笑った。
『今ちょっと可愛い顔してた!』
『へ……?………へっ!?』
『なぁんだ、最初はネクラなのかと思ってたけど、辛気臭い顔の所為だったんだ!春歌ちゃんもうちょっと笑ったりした方がいいよ!その方がモテるって!』
『も、も、も……わわわ私は別に男子の目とか気にしてないしっ!』
『あははははっ!顔真赤!!おもしろーい!!』
『も、もう!何なのよ急に話しかけて来たと思ったら!!』
怒ったようにぷいっと顔を逸らしたが、その態度はそこかまんざらでもなさそうに見えた。
そのままご飯を食べて、彼女の小難しい話を聞いて、全く分からなかったから気ままに喋って、強引すぎると怒られて――気が付いたら、性格は全然違うのに、一緒にいるのが楽しかった。
『……次のご飯も、一緒に食べて……いい?』
『お?デレ期?デレ期なのかなぁ?』
『か、からかわないで!………だめ?』
『だめも何も、私達もう友達じゃない?なら許可なんて取らなくてもいいじゃん?』
今になって思えばなんと馴れ馴れしくて図々しい女だったのか。
会って喋れば友達なんて、今時そんなことを言う人間が何人いるんだろう。
でも、その言葉を聞いた春歌はパァッと顔を輝かせて、それがまた面白くて可愛らしかった。
しかし、ああ。
もうすぐここも崩れて消え去ってしまうんだ、と自覚する自分がいた。
陽だまりのように暖かいセピア色の思い出も、もうすぐ崩れ去る。
暖かさも柔らかさも、懐かしさでさえも、もうすぐ胸の内から全て消えてしまう。
わかるのだ。頭の中が、段々と空っぽになっていく。
十数年間の間に溜めこんだ記憶が、パズルが崩れるようにぱらぱらと虚空を流れていく。
もう二度と、手を伸ばしても届くことはない。
いや、直ぐに失ったという事実さえ私の中ではなかったことになるだろう。
これが私という世界の消滅なんだ、と、胸の奥が締め付けられた。
気が付くと、涙がぽろぽろと落ち、身体が震える。
ああ、そうか。私は怖いのか。
今更、『今まで』が無くなってしまう事が急に怖くなったんだ。
だって、自分の世界が消えるってことは自分が自分でなくなることだから。
記憶をすべて喪った時、私の意識はこの世から消滅してしまうのだから。
それはつまり、本質的には、『死』と同じ認識なのだから。
「ごめんね」
気が付いたら、そんな言葉が漏れていた。
ごめん、お父さん。あまり親孝行は出来なかったよね。
下着を別々に洗ってとか、臭いとか、嫌な事をたくさん言ってごめんね。
反抗的な子のままでごめんね
ごめん、お母さん。家事手伝い、ほとんど全部押し付けちゃった。
もっと手伝ってあげればお母さんが腰を悪くすることなんてなかったのに。
気が利かない子のままでごめんね。
そして――
「ごめんね、春歌ぁ……えっぐ、わたし、わたし……ずっ心配してくれてたのに、結局数字を食べる芋虫が怖くて………思い出よりも、消してしまいたいって思いが……っ、勝っちゃっ、た………!!」
私はもう、生きていることが辛いから。
こんな暖かい想いでさえも捨てる事で助かるのなら、と――思い出と天秤にかけて、捨てることを決めた。決めてしまった。
もう、『私』はあなたとお話も出来ない。
過去を振り返ることも、共に歩むことも。
なぜなら、私の世界はもうすぐなくなってしまうから。
「――美咲?」
教室の椅子に座る春歌と、部屋の入り口から私を見つめる春歌が、重なった。
本当なら伝える事は沢山あったのかもしれないけれど。
最期に春歌の顔が見れたんなら、それもいいかなって。
「バイバイ、春歌。わたしの大好きな友達――」
ぶつり、と何かが切れる音がする。
ああ、これで私は――やっと、解放される。
やっと―――。
―――――――。
――――――――。
―――――――――、…………あれ?
私は、今まで何を考えて泣いていたのか。瞳の下をなぞる涙に、ふと疑問を抱いて困惑した。
頭を捻って考える。ううんうんうなって考える。だが、答えは出なかった。
ふと気が付くとそこは見覚えのない部屋で、目の前には『見知らぬ女の子』が立ち尽くしてた。
「えーっと………誰ですかあなた?」
「美咲……?私の事、分からないの?」
「えっ……みさきって、ひょっとして私の事?」
果たして自分は本当にそんな名前だったろうか?全く思い出せなかった。
いや、そもそも私の名前は、パーソナルネームとは何だ?親に貰った名前は何だったか?
考えるが、やはり思い出すことは出来なかった。
「うそ……うそよね、美咲。だって、さっきまで私の事覚えてたじゃない」
「さっきって言われても、さっきっていつさ?というかここ何所?なんか窓も閉めきって陰気くさいとこだね?」
「信じない。からかってるんでしょ?ノートを勝手に持って行ったあの時みたいに、嘘ついてるんだよね?もう、こんな時に悪ふざけは止めてよね!」
「ノート?……っていうかちょっと待って。マジで分からないんだってば!」
女の子の顔からみるみる血の気が引き、蒼白になっていく。
しかし、何がそんなに恐ろしいんだろうか。馴れ馴れしい砕けた口調だが、彼女は本当に私の友達なんだろうか。……そもそも友達がいたかもよく思い出せない。
記憶喪失。そんな言葉が脳裏をよぎった。
「………ねぇ、美咲。約束したよね……からだが良くなったら一緒にクレープ屋にいこうってさ。覚えてるよね?覚えてるって言って……!!」
縋るようなか細い声だった。放っておけばそのまま折れてしまう、硝子細工のような脆さを内包していた。でも、そう言われても今の私には彼女を満足させる答えを持ち合わせていない。
首をひねる私に目の前の少女は、もしかしたら、という淡い期待を抱いていた。
だが、そうでないのは私自身が良く知っている。
「……ゴメン。全然覚えてないみたい」
少女の顔が、絶望と悲嘆に崩れる。嗚咽を漏らして膝を床に付く。
「うそだ………こんな………嘘だぁあああああああああああああああああああああああッ!!!」
何か、決定的な何かが潰えるような慟哭。二度と赦されることのない罪を嘆くようにも、二度と会い見えることのない誰かを呼び止めるようにも、それは聞こえた。
なんで目の前の女の子は泣いているのか、そんなことも今の私には理解できなかった。
理由は簡単だ。『知らない人間が知らない事で嘆いている』のを見せられても、困惑するほかない。
例え彼女がどれほど悲しんでいても、私にとってそれはどこまでも他人事でしかない。
彼女を心配したり同情する感情より、小さな不審感の方が上回る。
訳が分からないまま、とりあえず泣いている女の子を避けて部屋の外に出ると、何やら物が雑多に置かれていた。何とはなしにその一つを拾い上げ――ふと気づく。
「あれ、この時計……デザインは可愛いけど壊れてる。何で壊れてるんだろ……?」
自分の名前は思い出せないのに数字は分かるのか、と、不思議な気分になった。
他に特別な感情や感慨は、何も感じなかった。
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