【短編集】現実だってファンタジー
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R.O.M -数字喰い虫- 1/4
世界は、数字に溢れている。
嘗てインドで生まれ、アラビアから広まった10進記数法は、既に世界へ飛び立って久しい。
算用数字である0から9までの数字は、ありとあらゆる文化圏に於いて利用され続けている。
人は数を数えるのに数字を用い、月日をはかるのに数字を並べ、経済を回すために数字を弄ぶ。
貨幣や紙幣には数字がついている。
レシートには数字が並んでいる。
調査結果には数字が附随する。
指数、調査結果、値段、年数、果ては時代。
過去から現代を通して未来に到るまで、人類は数を用いて認識世界を押し広めてきた。
だが、同時に数字の中には「魔」が住まう。
数字は人の認識と思想を変える。
数字は人の知らぬ存在を無言で告げる。
数字は常に人を悩ませ、ジレンマやパラドックスを吐き出し続ける。
これは、そんな数に纏わる「魔」の、ほんの一部を切り取った都市伝説の一つ。
= =
「お願い!これで最後だから!ノート貸してっ!!このとーりだからっ!!」
「美咲ちゃんってばいつもその通りじゃない……もうすぐテストだって分かってるんなら何で授業中に寝てるの?」
「だって眠いし!何言ってるか分かんないもん!!」
「もう……私だって勉強したいんだから、偶には赤点取ったら?」
「そ、そんな殺生な!後生!後生でござる!!」
合掌しながら必死に頼み込む美咲だったが、それに対する春歌の反応は非常に冷ややかだった。冷たいようにも見えるが、二人の間にある事情を知っていればこの反応も無理らしからぬことである。
美咲はテストが迫ると決まってこのように春歌に頼み込んでノートを見せてもらおうとする。最初の頃こそ笑って貸してあげていた春歌だったが、それも2回3回と回数が重なり、更にテストギリギリまで借りっぱなしで返そうとしないとなると話が変わってくる。
春歌は美咲に比べれば学力は高いが、それでも自筆したノート無しに勉強するのは辛いものがある。自分が後で見直してわかりやすいように書いてるのだから、自分で復習することを前提としているノートだ。それを重要な時期ばかり借りると言いながら持って行かれてはたまったものではない。
そもそも、このような事態に陥ったのは単純に美咲が苦手な数学の授業で鼾をかきながら爆睡しているのが主たる原因である。困るのは自業自得。多少教えてあげるのは構わないが、自分で努力もせずにノートばかり借りていく美咲の勝手気ままな性格に、いい加減に春歌は辟易していた。
「だーめ!偶には自分の不始末を自力で片づけてくださいーっ!」
「むう、どうせノートなくても赤点は取らないくせに!こちとら春歌のノートなしには赤点確定なんだよ!?他に貸してくれる人もいないし……うー!」
唸りながら春歌を睨みつける美咲だったが、不意に何かを思いついたようにノートを見つめてニヤリと笑う。
「まぁそれはいいとして………春歌」
「なに?勉強教えてほしいって言うなら少しは付き合うけど――」
「そのノート、芋虫がついてるよ」
「……………え?」
一瞬の間を置いて言葉の意味を噛み締めた春歌の顔から血の気が引いていく。
ノートに、芋虫?あのブヨブヨしていて、ウゾウゾしていて、美咲がこの世で最も嫌いな――?
「……イヤァアァァァァァァアアッ!?」
美咲は恐怖に悲鳴を上げながら、1分1秒でも早く芋虫から遠ざかりたい一心でノートを放り投げた。
「……じゃ、そういうわけでこの芋虫ノートは貰っていくね?」
「へ?………あっ!?」
ノートを拾って得意げに微笑む美咲の顔を見て、春歌はようやく自分が一杯喰わされたことに気付いた。
そもそも、さっきからずっと教室内の机に置いてあったノートに芋虫などついている筈がない。つまり、あれは美咲の姑息な罠だったのだ。春歌が芋虫を毛虫に並んで大嫌いだと言う苦手意識を逆手に取った陰湿かつ卑劣な罠である。
「騙したの!?こ、この卑怯者!ばか!あほ!人でなしぃーっ!!」
「へっへーんだ!引っかかるマヌケがいけないのよっ!じゃ、借りていくから!よろしくー!!」
慌てて机から身を乗り出してノートを奪い返そうとする春歌だったが、行動も頭の回転も少しだけ美咲の方が早かった。瞬時に身を引いた美咲はしたり顔で笑いながら踵を返す。
これで今回のテストも乗り切れる。美咲はそんな矮小な達成感で胸いっぱいだった。
「………本当に、いつもいつも。どうして自分で解決しようとしないの?どうしていつも、私ばかり――」
走り去っていった彼女を、春歌が普段の冗談めかした態度とは違った憎悪のような表情を向けていることに気付かずに。
数日後、テストは自己採点では見事に赤点を免れた。
あの出来栄えならば最低でも30点……いいや、夢の50点に届くかもしれない。それでも周囲と比べると結構壊滅的な数値ではあるが、それでも赤点を突破していることには大きな価値がある。それはかつて新体操でウルトラCと呼ばれた難易度を後世の選手たちが次々に突破してきたような、限界を超えた世界。
……他人の知識を借りてという条件付きの情けない世界なのだが、それは一旦さておく。
テスト終了直後の何とも言えない柔らかさが包む教室内で、美咲は机についたままうんと伸びをした。背中の骨が小さくパキパキと鳴り、緊張状態にあった筋肉が引き伸ばされて一時的な心地よさから湿った溜息をもらす。
さて、この後に感謝と謝罪を伝えなければいけない相手がいる。
美咲が盗んだ数学ノートの――もとい、美咲にノートを貸した親友である春歌だ。
彼女は、今日は体調不良だという事で休んでいた。
珍しい、と思う。自己管理には人一倍気を配っていた彼女がテスト当日に体調を崩すなどと。
おそらく彼女のテスト得点は、「受けていたらこの程度取っただろう」という見込み点で採点されるのだろう。これは普通に受けるよりも低く見積もられることもあるので嫌だ、と春歌がぼやていたのを思い出す。
返しそびれたノートを弄びながら、先ほどの伸びで漏らした物とは違う深いため息が漏れた。
「………怒ってる、かな?風邪ひいて休みみたいだけど……それも私がノート借りたせいで夜更かししたとかが原因かもしれないし。なんか怒ってる気がしてきた。や、絶対に怒ってる……」
何とも言えない罪悪感が重く胸に落ちた。ノートをかっぱらって以来、ずっと春歌の態度が冷たかった事を考えれば、これで怒っていないと考える方が難しいというものだ。
結局死に物狂いでノートを写した結果、試験当日まで返せない事態に陥ってしまったのは確実に美咲が悪い。
加えて、もしも体調不良の遠因が美咲にあったとすればもっと悪い。
美咲とて人の子。幾ら無神経でも悪気や罪悪感ぐらいは感じることがある。
特に普段から何かと迷惑をかけ気味の春歌が相手となると、今更になって後悔が襲ってくる。
春歌は基本的には人がいいが、本気で怒らせると途轍もなく怖い。
一度本気で怒らせてしまった時の事を考えて美咲は体を震わせる。
何をして怒らせたのかは、思い出したくもないので語らない事を許してほしい。
だが、あれほど必死に土下座して許しを請うた経験は、恐らく一生忘れる事の出来ない経験だ。
あの時に春歌が許してくれなかったら、確実に絶交状態だったと美咲は確信している。
過去を振り返って肩を震わせた美咲は、ひとり深く反省した。
「謝ろう。何はともあれ謝ろう。そんでもって次回からはちゃんと数学の勉強を……いや、やっぱ自力は無理だから春歌に予め教えてもらおう」
自力で出来る事とできない事の区別はついているため、実現不可能な内容は出来ると断言しないのが美咲のチャーミングな所である。
それにしても、と美咲はノートの後ろの方をめくった。
春歌の数学ノートのびっしりと書き込みがされたエリアを通り過ぎ、まだ何も書いていない白紙のエリアを通り過ぎ、そして手は最後のページで止まる。
「この最後のページにあった図形、何なんだろう……?見た目はなんか落書きっぽいけど、春歌が落書きしてる所なんて見たことないよ」
それは、一言で言うならば「算用数字の塊」だった。
1、2、3、4、5、6、7、8、9、0。小学生でも理解が出来る10つの数字を、まるで編み物でもするかのように不規則に重ね続けた図形。
部分的に見れば数列のように規則的なのに、別の方向から見ると子供が書きなぐったように不規則で、連なっているようでいて出鱈目で、少なくとも美咲の目には、それは数字をびっしり書き重ねた塊のようにしか映らなかった。
図形と呼びはしたが、一応円を描くように書きこまれているだけであり、どちらかというと前衛アートと呼称した方がしっくりくる。この数学ノートの中で、100人が100人これだけが異質だと断言できるそれは、不思議な存在感を放っている。
これをずっと見ていると、不意に言いようのない不安感に駆られる。
どこか、これは目に映してはいけないと思わせる本能的忌避感。
でも、内面から湧き上がる誘惑は、その算用数字の塊をもっと見せろと耳の裏で囁く。
勉強中は極力にしないように心掛けてきたが、テストを通り過ぎてみると異様なまでにその図形に目を惹かれた。相反する感情を抱きながらも、好奇心はやらない事よりもやる事を後押しした。
見つめれば見つめるほどに、その数字は蠱惑的なまでの引力を感じた。
数字の羅列。数字の隙間。数字の重なり。
無意味で混沌とした数字の塊が心の奥底にあるパズルの形を勝手に組み替えていくようで、段々と思考というものが遠のいていくような――
不意に、ヴヴヴヴ、とポケットを小刻みに揺らす振動音が美咲を我に返した。
「……?あ、メール……」
見れば、それは春歌からのメールだった。
図形を見つめ続けてどれほど時間が経っただろうか。目を覚ますように頭を振って周囲を見渡すと既に教室にはほとんど人が残っておらず、日も大分傾いている。外から差し込む茜色の夕焼けが嫌に眩しかった。
メールを開いて読むと、風邪が酷くて感染したくないから見舞いには来なくていいとの旨が書きこまれていた。ノートの返却に関しては次に学校へ来たときに渡してくれればいいとあり、最後に「辛く当たってごめんなさい」と謝罪の意まで書かれていた。
まさか先に謝らせてしまうとは。
面と向かって謝罪しようと思っていたが、先に謝罪させてしまった以上、メールでもいいからこちらも謝るべきだろう。今回の件はどう考えてもこちら側に原因があるのだ。向こうもそれは分かっているのだろうが、それでも歩み寄ってきたのだ。ここで突っぱねてしまうほど美咲は意地を張った女ではなかった。
『私もごめんなさい。次からは二度とノートを取ったりしません。代わりに勉強を教えてもらうことになるかもだけど、許してね?風邪が治ったら評判のクレープ屋にでも一緒に行こうよ!』
素早く打ちこんで、送信した。
何はともあれこれできっと仲違いは終わりをつげ、次に会った時には仲直りできている筈だ。
ホッと一息ついた美咲は、そのまま家へと帰っていった。
ノートの最後のページにあった、あの謎の図形の事など忘れて。
その図形が宿すものが何なのかを理解せずに。
= =
この世界の全てを数字で表すことが出来るとしたら、世界は数字で出来ている。
もしも本当に物質を数字で構成している世界があるのならば、目の前に広がるこの光景こそがそれなのだろうか、と漠然と思う。現実味のない、どこか朧なその世界を。
見覚えがあるようで、しかし決定的に何かが違う、ホログラムで形成されたような風景の中に、私はいた。
町の壁をよく見ると、コンクリートに見えるすべては夥しいまでの数で構成されていた。大量の数字を信じられない力で圧縮して、切り出して、無理やり人工物のように押し止めているかのようだ。
それは、人類の驕った科学信仰の矛盾を風刺しているようにも見えた。
数字、数字、数字。数字で全てを推し量る世界。
私は数学など嫌いだ。わざわざややこしい方法で、導き出す必要もない謎を作り出しては解読させることに一体何の意味があるというんだろうか。真理などというあるかも分からぬ答えを追求するのは学者だけで良い。少なくとも私には必要ない。
道行く人を構成するのは、数字。
ノートを構成するのは、数字。
数字を構成するのは――
ああ、うんざりだ。
過去の賢人がアラビア数字などという便利なものを作らなければ、人はまだ無知でいられたのに。
数字なんて無くなってしまえばいいのに。或いは、ノートの最後にあったような意味を成さぬ図形として存在すればよかったのに。私は八つ当たり気味に足元にあった数字の空き缶を踏み潰した。
ぐちゅり、と生々しい水音。脚から伝わる感触は空き缶を踏み潰したそれではない。
不審に思って足の下を覗き見て――
――そこに、私の足で踏み潰されて極彩色の体液を撒き散らしながらも蠢く巨大な芋虫を見た。
「え………ひぃっ!?」
全身を逆撫でするような悪寒が襲い、生理的嫌悪感から来る悲鳴が喉から漏れた。身の毛がよだち、身体から脂汗が噴出する。
今までにただの一度も見たことがない、子供の腕程の太さはあろうかという巨大な芋虫。柔らかいものを踏み潰したような手応えが、確かにこれを自分が潰したという実感を与えてくる。
どろりと粘性が高くツンとした酸臭を腹や顔から零し続ける芋虫は、まだ生きていると主張するように足の裏でうぞうぞと動き回り、醜く悍ましい姿を見せつける。
目を逸らし、逃げ出したい。体が震える。吐き気を催すソレから一刻も早く離れたい。
靴越しに感じる言い知れない忌避感と、脚が汚されていくような恐怖。
「ああ、ああぁ……!い……いやっ………見たくない!こんな気持ち悪いもの見たくないのに……!」
なのに、瞼が、首が、身体が金縛りにあったように動かなかった。
まるで私の潰したソレから双眸を逸らすなと脅迫されるように、見つめ続けろと責め立てられるかのように。
「いやっ……お、うげっ……えほっ、えほっ……!!」
腹の底から湧き上がる吐き気と喉のえずき。それでも尚、目線は逸らされない。
やがて、虫から漏れた極彩色の体液の中に何かが蠢きはじめる。
それは、芋虫だった。巨大な芋虫の体液や腹から這い出た、数えきれないほどの芋虫だった。
虫は、私の動かない足に地を這って集まり、靴を上り、肌の上を得体の知れない芋虫が大量に這いまわる。100や200では済まない数が、一斉に。まるで同胞を踏み潰した私を許さないとでも言うかのように、ひとつの意志を持っているように。
同時に、数で構成された世界の数字たちが、一斉に蠢いた。1が、2が、3が――芋虫へと変貌していく。
足が、芋虫に沈む。
壁が、芋虫となって崩れかかる。
目に、鼻に、耳に、口に、身をよじるように入り込んでくる芋虫、芋虫、芋虫、芋虫、いもむしいもむしいもむしいもむしいもおむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもおむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもおむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもおむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもむしいもおむしいもむしいもむしいもむしいもむし――
「イヤァァッ!!来ないで!来ない……あ、がげ……ごはッ、うぶぁぁぁぁぁッ!!」
全身を這いまわり、私に雪崩かかる芋虫たちに溺れ、息ができない。
虫が、虫が。虫、が。いやだ。なんで。たすけて。いやだ。嫌だ嫌だ嫌ダイヤダイヤイダイヤダ。
喰われるのか、穢れるのか、1秒後に自分という存在がどうなっているかが想像出来ない事が、理性を食いつぶして恐怖を拡散させていく。
「イヤァァアァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
今更になって動くようになった手を振り回して芋虫を払いのける。のけた拍子に摩擦で押し潰された芋虫から極彩色の体液が撒き散らされ、腕に纏わりつき、そこからまた芋虫が大量に湧いて出た。まるで私の腕から蛆虫が湧いているかのように。
助けを求めるように暴れれば暴れるほどに全身を芋虫が覆いつくし、全身が虫の苗床となっていくように――嘘だ。
こんなのは現実じゃない。
覚めてよ、覚めて。夢なら早く覚めて。
でないと――私は――、―――、―――――。
「ハッ!?あ、げほっ!ごほっ!!はぁっ……はぁっ……」
跳ねるように身を起こした。
見覚えのある部屋の、使い慣れたベッドの上。
先ほどまで見ていたそれが全て夢であることを語るように、そこには芋虫などいない。
全身が脂汗でべたつき、下着がパジャマごとびしょびしょに濡れている。荒い息と震える体を必死に抑え込むように肩を抱き、夢は醒めたと何度も何度も繰り返しつぶやき、体を覆う緊張が段々と抜けていく。
「あれは……何?何の夢……だったっけ?」
いや、思い出さない方がいい。美咲はそう思い、頭を振った。
忘れていいものならずっと忘れていよう。それにしても今は何時だろう。早い時間ならばシャワーでも浴びて寝汗を落としたい。
ふと横のデジタル時計を見て――息が止まる
デジタル表示の液晶に這うそれが――夢から現実まで追ってきたように、芋虫がいた。
「ひぃッ!?イヤアァアァァアアアアアッ!!」
寝起きでもたつく身体を必死に動かし、まるで自分が芋虫になったように身をよじってベッドから転げ落ちた。動け、逃げろと言い聞かせるように上手く動かない足を突っ張って離れようとして、不意に冷静になる。
本当にそれは芋虫だったのか。春歌の時のように、思い込みでいると思ってしまったのではないか。
祈るような気持ちで体を起こし、時計を見る。
ほんの一瞬だけ虫のように蠢いた気がしたが、そこに芋虫は張り付いていなかった。
「……き、気のせい……だよね?寝ぼけてただけだよね……」
目を擦って改めて見れば、そこには朝の6時過ぎを示す数字が並んでいるだけだ。
美咲は、漠然とした不安を抱えながら、シャワーを浴びに部屋を出た。
部屋の机の上には、春歌のノートの最後のページに記された算用数字の塊が、彼女を見張るように開かれた状態で放置されていた。
= =
今日は、ずっと気分が悪い。
数字を見る度、あの芋虫を思い出して気が沈んでいく。段々と数字が全て芋虫に見えてきて、触ると実体化するような、潰れたら極彩色の体液をばらまくような、強迫観念のような思いが体を縛っている。
「ねーねー美咲ぃ!点数どうだった?アタシ社会の結果が最悪でさぁ!……美咲?どったのよ、なんか今日は機嫌悪いじゃん。女の子の日?」
「なんか朝から口数少ないし、本当どしたの?春歌がいなくてさびしいとか?」
「……うん。そんな、とこかな」
友達の優しさは有り難いけれど、とてもじゃないが楽しくお話をする気分ではなかった。
申し訳ないとは思いつつも、当たり障りのないことだけ言って美咲は話を適当に切った。
気分は一向に良くなる兆しを見せず、何度も頭の中で不快な感覚がリフレインされる。
頭の裏側に虫が住みついたような不快感が、少しずつ精神力を蝕んでいく。
返却されたテスト答案は赤点を免れたにもかかわらず、答案に書かれた得点をそれ以上見たくもなくて乱暴に机に突っ込んだ。数学の時間は仮病を使って保健室で寝ることにした。保険医からは「本当に顔色が悪い」と心配されたが、昨日の夢を思い出したくもなくて適当に誤魔化した。
すごく、嫌な気分だ。
友達にも心配された。春歌は今日も休んでいるが、メールで友達から聞いたのか、体調を気遣うようなメールを送ってきた。とても嬉しかったが、メールの上部にある日にちや時間帯を表示する数字を見て再び吐き気を催し、返信はしなかった。
スマホを見るのも嫌になり、電源を切って鞄に放り込む。
体温計の数字が気持ち悪い。
教科書のページ数の気味が悪い。
時計の時間を表す数字が不快に思える。
カレンダーが虫の巣窟に見える。
全てを見たくなくて、布団を頭からかぶって授業が終わるのを待った。
結局、精神を蝕む不快感は消えてはくれなかった。
ふとノートの図形を思い出す。
あれは、全てが数字で構成された塊だった。
今、あれを見たら私はどうなってしまうのだろうか。
想像するのも嫌なはずなのに意識はノートにばかり傾いていく自分が嫌になって、自分の頭を殴った。自分でも、何故あれを思い出そうとするのかが分からなかった。
「本当に大丈夫なの……?なんなら、担任に連絡して家まで送ってもいいのよ?」
「大丈夫……明日になれば、もういいから」
「そう……ならいいけど、明日も悪かったら病院に連れて行ってもらいなさいよ?」
保険医を突っぱねるように鞄を抱え、美咲は帰路についた。
明日になれば、夢の気持ち悪さなどきっと忘れる。
だってあれは夢なんだもの。夢ならいつかは醒める筈だ。
そうだ、美味しいものでも食べようか。春歌より一足先に評判のクレープ屋に行ってみよう。
好きなものを考えると気分はよく、足は軽くなる。食べ物の記憶で機嫌がよくなるのは、きっと食べることが生物に必要不可欠だからだろう。だから美味しいものは何度も食べようとするし、逆に美味しくないものは忌避する。
あるいは、昔の人類はそうして食べられるものと食べられない物を区分していたのかもしれない。
店は直ぐに見つかった。近くには一足先にクレープを買った親子連れらしき二人が甘味を堪能していた。社会人らしくスーツを着た大人と、金髪の可愛らしい少女だ。不思議な組み合わせに思ったが、それよりクレープの魅力が勝った。
前から買いたいものは決めていたので、メニューも見ずに店員に注文する。
「すいません!ベリーベリークレープひとつ!」
「ベリーベリークレープひとつですね?お会計、『N:/厭e#v'猷堊{』円になります」
「―――――」
それは、耳元を羽虫が飛び回るような、キチキチと鳴くような、卵を破って何かが這い出るような、草むらを無数の足が這いまわるような――虫の立てるあらゆる音を想起させる、理解の出来ない音だった。
遅れて、それが店員の口から発せられたことに気付いた美咲は愕然とした。
「……お客様?お会計、『N:/厭e#v'猷堊{』円になりますが……?」
「あ、え………は、はい!」
その言葉に思考が停止していたが、ただ一つだけはっきりしていることがあった。
これからあと一回でも、その音声を聞きたくないということ。
だから、その言葉がクレープの代金を示していたことは答えた後になって思い至った。
慌てるように財布の口を開き――財布の中には大量の芋虫がひしめき合っていた。
「あ……ああっ……!?」
指先で得体の知れない芋虫がうねっている。その事実が、財布から虫が湧くという異常事態に対する恐怖に変貌する。腕が震え、指先がぶれる。
これは、もしかして、財布の中のお金なのか。紙幣や貨幣なのか。
思わず店員の方を見る。店員は、酷く狼狽した私の姿を困ったように見ている。
この財布から溢れ出んばかりに蠢く虫たちを、まるで存在しない物のような態度で。
私にしか見えていないのか。誰にも、これが見えていないのか。
こんな異常を通常と認識しているなんて――そして私だけがこんな世界を見ているなんて、信じがたくて耐えられなかった。今すぐ悲鳴を上げてその場を逃げ出したかったが、もうクレープは頼んでしまった。代金を払わなければいけない。この虫蔵に、指を突っ込んで。
震える指先で、虫が這いまわる紙幣を摘まみ上げる。メニューの数字など見たくない。値段を聞き直してあの悍ましい音をもう一度聞きたくもない。だから、絶対に足りるように紙幣を押し付けた。喉の奥が酸っぱくなるのを必死でこらえ震える指先に這う芋虫に恐怖しながら店員へ渡した。
店員はよほど私がお金に困っているように見えたのか苦笑しながらお釣りを差し出した。
お釣りはもはや芋虫を丸めたもの、としか形容できないものだった。小刻みに蠢き、脈動し、口を震わせる芋虫の塊たちを、引き攣る顔と溢れそうに案る涙を必死にこらえて受け取る。
掌に広がるぶにゅりとした触感。震える手で財布に流し込むが、虫の内一つを取りこぼす。
ちゃりん、と確かに貨幣の音がした。
――これは、やはりお金なのか。決して信じたくはなかったが、音は確かにそれをお金だと認識していた。
ここで拾わなければ、不信がられる。そう思って咄嗟に手を伸ばすが、掴むのが芋虫だと気付くとその手が止まった。
心臓がばくばくと煩く鳴り響く。これを――触ればそのまま潰れてしまいそうなこの得体の知れない芋虫を――自分から、素手で。触りたくない、嫌だ。心底そう思いながら、手を伸ばす。
その時、前から延びた小さな手が、芋虫を掴みとった。
目の前を見ると、そこには先ほどまでクレープを食べていた金髪の女の子がいた。
近くで見ると、人形のように可愛らしい少女だった。一瞬だけ、その姿によって芋虫の事を忘れた。
「わたしメリーさん。落とした小銭、拾ってあげる」
「あ……わ、わたしは美咲。メリーちゃん、ありがとうね?」
「構わない。私がやりたいからやっただけなの」
メリーという少女は、無表情で芋虫を財布に放り込み、その綺麗で細い指を使って財布の口をそっと閉じた。財布の口を自分で触りたくなかったのをあらかじめ知っていたような、スムーズな動きだった。
どうして――と聞こうとした私の耳元に、メリーが小さく囁く。
「耐えられなくなったら、お財布のなかのメモを見るといいよ」
「えっ――?」
何の事か分からずに聞き返そうと手を伸ばすが、メリーは既に一緒にいたスーツの男と手を繋いで帰っていた。
「お客さん。お客さん?ベリーベリークレープ、出来ましたよ?」
「あ……はい」
「いい子だねぇ、あの子。でもこの辺ではあんまり見たことがないなぁ」
店員の言葉は耳に入らなかった。メリーの言葉の意味や意図が分からないまま、私はクレープを受け取って齧った。美味しい筈なのに、なんとなくこの中にも芋虫が入っているような錯覚を覚えて、純粋に味を楽しむことは出来なかった。
後書き
「Room Out Merry」、略してR.O.M。
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