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闇物語

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コヨミフェイル
  007

 最後の夏季講習が終わり、戦場ヶ原と共に途中まで下校する。
 既に時計の針は二時半過ぎを指し示している。
 太陽はいまだ膨大な熱を放出していて、まるで気温が下がる様子はなかった。
 にも拘わらず、横を歩く戦場ヶ原は至って普段通りで涼しそうにしている。
 「何をじろじろ見ているのかしら」
 平坦な口調も変わらない。
 「いや、全然汗かかねえんだなって」
 「ふーん。……要するに阿良々木くんは汗に濡れた私を視姦したかったのね」
 「僕はそんな変態じゃねえよ!」
 「なら、汗に濡れた私を嗅ぎたい変態なのかしら?」
 「僕はそんな変態でもどんな変態でもねえよ!それともお前は彼氏が変態であってほしいのか?」
 その方がよっぽど変態だと思うけどな!
 「変な言い掛かりはよしてよ。誰が阿良々木くんは私の彼氏だと言ったのかしら」
 「何故そっちを否定する!」
 自分が変態ではないと否定すればいいじゃないか!
 変態という汚名よりも僕と恋人関係である方が嫌って、僕はどれだけ嫌われてんだよ!僕が戦場ヶ原に捧げてきた時間はどうなるんだ!
 「冗談よ。阿良々木くんが私の彼氏じゃなかったときなんてないわ」
 「それも冗談なんだろうけど、まあ、そうであってほしいなとは思うな」
 戦場ヶ原と出会ったのは五月八日。
 あの日のことが昨日のことのように思い出せる。
 確かあの日も今日みたいに遅刻気味で階段を駆け上っていたときに戦場ヶ原が真上から降ってきたのだったな。
 今日は災難が降ってきたけど。
 「だけど、無理のありすぎる願いね」
 「……どうだろうな」
 小学生のときならば、戦場ヶ原はただの病弱の女子で、僕はただの、本当にただの他校の男子。中学生のときならば戦場ヶ原は後輩や同級生から慕われながらも母親が悪徳宗教にのめり込んでしまった女子で、僕はやはりただの他校の男子だった。
 二人には接点なんてなかった。
 しかし、あったとしたら。
 僕が戦場ヶ原の通っていた小学校か、中学校に通っていたら。そして、戦場ヶ原の境遇を耳にして入れていたして、僕は戦場ヶ原を助けただろうか?
 戦場ヶ原の病弱の体を治したり、彼女の母親を改心させたりできたのだろうか?
 できなかっただろう。医者でもカウンセラーでもなかったただの一介の男子の僕ができたことは何一つなかっただろう。
 「まあ、そんなことを話したところでしようがない。それより、差し当たりはデートのことだな」
 「……待ちきれないのね」
 「まあな。まだ、二度目だし」
 出会ってから三ヶ月経って一度しかデートに行っていないことは時期が時期だから仕方がないのかもしれないけれど。
 「そうね。用意ができたら、連絡してあげるから、せいぜい首を洗って待っていることね。じゃあ、勉強頑張ってね」
 羽川がいいそうな台詞を残して戦場ヶ原はこちらに背を向けて歩き出した。
 僕も「じゃあな」と、だけ言って、自転車にまたがって、ペダルを漕いだ。
 このまま家に帰ってシャワーを浴びてゆっくりしたい欲にかられるが、それに従うことはできない。
 なぜなら、大事な用事があるからだ。
 奇数日なら、このまま戦場ヶ原の家で勉強を教えてもらうのだけど、偶数日なのでいったん家に帰り、用意をして図書館へ行く。そして、そこで羽川に勉強の面倒を見てもらうのだ。戦場ヶ原が推薦で入学するであろう地元の国立大学の入学試験に合格するため、夏休み前から毎日羽川と戦場ヶ原に日替わりで勉強の面倒を見てもらっている。これで成績が上がらないわけがない。
 これで上がらなければ、冗談抜きで戦場ヶ原に見捨てられても可笑しくない。定期試験当日は席次がほとんど変わらなかったり、下がっていたりしたら僕は首を吊ろうと決心を固めたくらいだった。戦場ヶ原に見捨てられるくらいなら死んだ方が増しだ、と本気でそう思っていた。
 分岐点で戦場ヶ原と別れて家に向かって自転車を漕ぎながら、そんなことをつらつらと考えていると、ブレーキを掛けざるを得ない光景が目に入った。
 ツインテールの小学生がいた――わけではない。
 勿論先程別れた戦場ヶ原がいたわけでも、先に図書館に行っているであろう羽川がいたわけでもなかった。
 車道を隔てた向こう側の歩道のガードレールの上を疾風迅雷の勢いで駆けてくる者が目に入ったのだ。ガードレールが凹むのではないか思うほどの荒々しい音がガードレールを踏み付ける度に聞こえてきた。
 刹那に可愛くはにかむ神原の顔が脳裏を過ぎったが、それは幸か不幸か外れた。
 それは黄色に黒の縦線が入ったジャージを着用していた。
 身長は僕よりすこし大きいぐらいだろうか。
 申し訳程度の短いポニテは風に煽られて振り回されていた。
 ……紛れも無く僕のでっかい方の妹、阿良々木火憐だった。
 走っていなければ、影縫余弦を彷彿とさせたかもしれなかったが、脳神経組織までもが筋肉組織である巨大な妹はガードレールの上を超絶的なバランス感覚を遺憾無く発揮しで疾走していた。
 逆立ち歩きの次はガードレールの上を疾走かよ。
 どこの中国雑技団だ。
 僕の羞恥心は鍛え抜かれて、もはや鋼鉄の堅さだよ。本当、兄思いの妹達には感謝しねえとな。これは是非とも、お返し、もといお礼をしないとな。
 静かに笑顔を湛えて自転車から降り、足元に落ちていた手頃な石を手に取った。マウンドのピッチャーのように何度か小石を小さく投げ上げて感触を確認し、投躑体勢に移行した。そして、鬼の形相で有らん限りの力で投げた。
 驚くことに野球なんて(友達がいなかったから)中学以来したことのない僕の手から放たれた石つぶては寸分の狂いも無く火憐の顔面に向かっていた。
 どれほど鍛えているとは言っても、変な道場に通っていると言っても石つぶてを顔面に受けて無事でいられはずがない。もし一生消えない傷が出来たらどうしよう。それで、一生消えない心の傷まで負ってしまったらどうしよう。
 と、妹思いの僕は石つぶてが火憐に到達するまでの一瞬でそんな事を考え、叫んで危機を知らせようとしたが、その行動は失敗だった。
 この行動に出たのは勿論火憐の事を思ってということもあるが、きっと仲間に危険を知らせようとする人間の本能、いや動物の本能なのだろう。しかし、僕はその時、いや最初から火憐の身体能力を考慮に入れていれば、もっと適切な行動ができただろう。
 いや、どうだろう。
 確信は持てない。
 なぜなら火憐は飛んでくる小石に一瞥も与えずに、まるで艦隊防空システムでも搭載しているかの如く、正確に裏拳でそれを捉え、弾いたその石の弾丸は正確に、さらに速さも倍になって僕に打ち返されたからだ。
 それに関しては艦隊防空システムより性能は高いというべきかもしれない。あくまで攻撃を防ぐだけのためのシステムに対して火憐は攻防一体のシステムである。攻撃は最大の防御という言葉は火憐のためにあるように思える。
 とっさにマトリックスの如く膝を折り、地面に平行になるように体を倒してかわした。
 たった一つの小石をよけるにはあまりに大袈裟であると思うかもしれないが、火憐の攻撃の威力を身に染みて知っている僕にとっては自然な反応なのだ。
 幸いにもかわすことはできたが、そのままの体勢でいられるわけがない。
 マトリックスでは足を銃弾が掠めたために体勢を崩して倒れたのだが、僕の背中は地面につくことはなかった。
 無意識のうちに両手をついていたのだ。
 つまり、ブリッジの恰好になっていた。
 我ながらびっくりである。
 自分にこんなことができたことによりかは火憐と同じことをしていたことに驚いていた。歩道の真ん中でブリッジをしている高校生の画というのはきっと僕が想像しているよりずっとシュールだろう。
 火憐の持ちネタをやってみるかと一瞬思ってしまったが、それこそ警察官に職質され兼ねない愚行だと気づき、ブリッジの状態から体勢を戻そうと悪戦苦闘していると、(一度ブリッジをするとなかなかどうして元に戻ることができない。いつかの火憐のようにはいかないのである)
 「……阿良々木さん……何をやっているのですか?」
 いつの間にか目の前に八九寺がいた。
 膝を少し折って、僕の顔を覗き込んでいた。
 今日二度目の登場だ。
 しかも、八九寺のほうから声をかけてくるとは吉兆の現れか?
 ブリッジをしているため僕の目には八九寺のスカートの中が見え――なかった。見えそうで見えない絶妙な感じだった。見えそうで見せないというのが本当のエロスという意見があるようだが、僕はそれに大いに反対する。いいことなんてない。
 くそっ。こんなことならブリッジをしない方がよかったぜ。
 こうなったら八九寺と戯れるしかない。
 だが、まだだ。この体勢からではラグが大きすぎる。
 機を見極めるんだ。
 「おっ、八九寺じゃねえか」
 焦りを押し殺してできるだけ平静を装った。
 「はい。全くもってその通りなんですけど、もう一度聞きますよ、阿良々木さん。何をしているのですか?」
 八九寺は再び怪訝そうに訊いてきた。
 「これはだな――」
 「ああ!もしかして究極の土下座の探求中でしたか?これはこれは失礼しました」
 完全に合点がいったと言ってるかのような晴れやかな顔で言った。
 それはもう清々しいぐらいの晴れやかな顔で。
 「いや、違うんだ!これは、あの人間兵器の妹の繰り出した頭ぐらい吹き飛ばしそうなほどの攻撃を驚異の瞬発力と柔軟さでよけた結果なのであって、僕は歩道の真ん中でブリッジして土下座の探求をしている高校生では決してないんだ!信じてくれ!」
 必死に弁明。
 挙動不振の高校生という汚名だけは払拭しなければならない。
 「その原因はあなたにあったと思いますが……」
 一部始終を見ていたのかよ。
 だったら何で訊くんだよ。
 「それより、葛城さん」
 「人を国連直属の非公開組織特務機関ネルフ本部の戦術作戦部作戦局第一課所属の独身のおねーさんみたいな名前で呼ぶな。僕の名前は阿良々木暦だ」
 「失礼、噛みました」
 「違う、わざとだ……」
 「噛みまみた」
 「わざとじゃないっ!」
 「噛み裂いた」
 「何をっ!」
 「神裂いた」
 「お前はエヴァ初号機だったのか!!」
 いや、エヴァが屠ってきたのは神じゃなくてその使徒だったけか。
 「とにかく、阿良々木さん」
 と、言って八九寺は話を戻した。
 「その恰好は阿良々木さんが思っているほどかっこよくはありませんから、御控えした方が宜しいかと存じ上げます」
 「この恰好がかっこいいと思うのは僕の妹しかいねえよっ!」
 「ああ、そうでした」
 思い出したように八九寺は言った。
 「阿良々木さん。妹さんが韋駄天の如く駆けて行きましたが、どうするおつもりなんですか?」
 「どうするもこうするも、止めるしかねえだろ」
 背中から土を落しながら、言った。
 結局一度地面に背を付けてから立ち上がったのだ。矢張りいつぞやの火憐のようにはいかないのである。
 何か悔しい。
 「それは訊かなくともわかっています。そんなことを訊いているのではありませんよ、阿良々木さん。私が訊いているのはどうやって止めるのかですよ」
 「ああ……そうだな……。それは考えていなかった。まあ、それは八九寺と恒例の挨拶のハグを交わしてからゆっくり考えればいい」
 「はい……?」
 八九寺の顔が一瞬で恐怖の色に染まったが、そんなことは僕の与り知るところではない。いや、恐怖の色に染まった顔にまた何とも言えず、甘美な感覚を覚えることぐらいしか与り知らない。
 二度も会えたんだ。
 この吉事を有効活用しないわけにはいかない。
 じりじりと摺り足で一歩ずつ八九寺に迫った。
 八九寺は恐怖で身じろぎ一つさえ叶わない状態にあるというのに、健気にも一歩後退さろうとして脚が縺れ、尻餅をついた。
 その大きな隙を僕が見逃すはずも無く、八九寺が尻餅をついた瞬間八九寺に襲い掛か――もとい、ハグをしようと一歩踏み出そうとした。
 しかし、八九寺にハグはしなかった。
 虫の知らせか、僕はその一歩を躊躇った。
 それが幸いした。
 目の前に黒光りする幅四センチほどの反りがついている何かがどこからともなく顕現した。
 数本の髪が少しの間をおいてハラハラと落ちる。
 恐る恐る目線を落とすと、それは僕の足元の影から伸びているのが目に入った。
 紛れも無く妖刀『心渡』だった。その透き通った刀身に僕の顔が映し出されていた。
 少しの間、僕と八九寺はまるで時間が止まってしまったかのように微動だにしなかった。
 やがて『心渡』はゆっくりと影の中に沈んでいって、完全に見えなくなったところで今度は『心渡』の現所有者が飛び出してきた。しかも片手を突き上げていたために、綺麗にアッパーを喰らう形になってしまった。
 「お前様は感情を起伏させるでないと、儂に何度言わせれば気が済むのじゃっ!お前様のおかげでおちおち昼も眠れはせんわ!」
 忍が怒り心頭に発しながら言った。
 忍は華奢で小さな体躯を純白のワンピースで包み、金色に鋭くぎらつく瞳を隠すように鍔広のワンピースに見劣りしないほどの純白の帽子を被っている。その帽子から目が眩むほどの煌めく艶やかな金髪が踝まで垂れ下がっている。
 今では愛くるしい幼女の姿であるが、今年の春休みまでは僕の身長を遥かに上回る身長とはちきれんばかりの胸を備えた絶世の美女、もとい吸血鬼と言っても過言ではない姿だった。
 容姿もさることながら怪異としての力も位も天下無比だった。
 エナジードレインと不死身性。
 それが、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードを鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼、最凶最悪の怪異の王たらしめるものだった。
 しかし、今では容姿、スキルとともにその名も僕に奪われている。
 あの僕と忍の傷物となる物語はあまり口にしたくないのだが、大まかなあらずじだけ触れよう。
 今年の春休みに僕は瀕死のキスショットに遭遇して浅はかな善意で救い吸血鬼に成り果てた。忍野の力を借りて人間に戻るべくキスショットを退治しにきた三人と渡り合った末に辛くもキスショットを完全体にすることに成功した。
 が、悲劇はそれからだった。いや、正しく言うと、最初から最後まで悲劇なのだが、それからが本当の悲劇だった。それからがクライマックスだった。それからが僕たちが傷付け合う物語だった。
 ――完全体のキスショットは僕に自分を殺すように仕向けたのだった。
 キスショットから詳しい方法を聞かされていなかった僕は、吸血鬼を助けてしまうような愚か者の僕は唯一の方法が主従関係を破綻させること、つまり主を従僕が殺すことなどと到底知る由もなかった。
 そうとも知らず僕はキスショットを殺そうとした。首に噛み付き血を半分まで吸い上げたところで羽川がキスショットの真意を暴いた。真意を知った僕は忍野の提案に従い全員で不幸を分かち合った。僕は人間に戻れず、キスショットは死ぬことを許されず、人類は最強の怪異を殺し損ねる不幸を分かち合った。
 それからは紆余曲折を経て今ではキスショット、もとい忍とは和解している。
 閑話休題。
 「ごめん。それは僕が悪かった」
 「お前様は幼女に手を出しておるときではなかろうがっ!」
 「いや、だからそれは八九寺とのスキンシップをしてから―」
 「…………我が主様はよっぽど己の不死力の高さを身をもって知りたいようじゃな」
 と、言いながら、忍は凄惨な笑みを浮かべた。
 「ごめんなさい」
 すぐさま土下座をした。逆立ちやブリッジとかではなく、普通に土下座をした。その速さは忍の完全体のときの速さを凌ぐのではないかと思うぐらいだった。
 「とにかく、お前様はどうやって妹御を止めるつもりなのじゃ?」
 忍が僕の後頭部を踏み付けながら呆れた風に訊いてきた。
 「手伝ってくれるのか?」
 「別に好きで手伝ってやるわけではない。儂はただ安眠のためにお前様の悩みの種を解消しようと思っただけじゃよ」
 今朝も起こされたしのうと忍。
 「そうなのか……」
 と、肩を落として言うと、忍は大きくため息をついて
 「阿呆、気付け。お前様が年中無休、四六時中数々の女の尻を追っかけて興奮しておるというのに、今回に限って出てきたということは協力するつもりでおるとは思わんのか」
 後頭部を足の裏でぐりぐりしながら大仰そうに言う忍。
 年中無休も四六時中も興奮はしてないけどな。
 まるで盛りのついた動物じゃねえか。
 「いや、正真正銘の盛りのついた動物じゃろうが」
 「………………本当にお前ってツンデレだよな。前々から実は僕は気付いてたんだけどな。いや~、ここまでになるとはな。もしかしたら戦場ヶ原といい勝負なんじゃねえの?」
 「何別の話をしているかのように装っとるんじゃ」
 「はははっ、照れるなって」
 あくまで白を切り通す。
 「……まあ、よい。その部分を除けば、ゴミしか残らん我が主様だからのう。とにかく、そんな事よりお前様の妹御じゃ」
 「…………」
 ゴミって……。
 ツンデレでもそこまで辛辣な言葉は言わねえぞ。ある特定人物を除いてはだけど。
 ていうか、そのゴミで一部が構成されているものにおまえは足をのせているんだぞ。いいのか?
 まあ、いいのだろう。ここでそれを問いただすこともすまい。優先することがある。
 「それなんだよなあ。まず、今のあいつに僕の言葉は届かない。だからって体を張って止めるなんてことも以っての外。というか、死ぬ」
 「そうじゃろうな。さしもの儂でもお前様の妹御の前には飛び出したくないのう。なら直接的でない解決を見るしかないのう」
 忍のぐりぐりから解放されてやっとのことで土下座を解いて立ち上がった。
 「どういうことだ?」
 膝やすねの辺りについた埃や砂を叩きながら訊いた。
 「じゃからお前様の妹御が爆走している原因を突き止めるということじゃよ。儂がお前様と巡り会った以前に何か似たことはなかったのかのう?」
 忍に言われて火憐のあの奇行を思い出す。あの目は過去に一度だけ見たことがある。それは不良グループに月火が連れ去られたときである。それを聞いて火憐は危機迫るものを感じさせる目で家を飛び出していった(その件は結局火憐も僕も手出しせぬまま月火が一人で危機を脱した)。火憐の携帯電話にかけても出ないのは火を見るより明らかだったので、月火の携帯に電話をかけた。月火の携帯に電話をかけるなんて何時以来だろうかとふと思いながらコールを聞いていた。
 二回目のコールで月火は携帯に出た。
 「もしもし」
 と、月火が心底めんどくさそうに言った。まず、月火がさらわれたという僕が馬鹿な妹共を警察署まで迎いに行く可能性が潰れて一先ず胸を撫で下ろす。
 しかし、月火がさらわれていないのならば火憐は何のために走っているのかという疑問をすぐに抱いた。火憐にとって月火がさらわれたと同等かそれ以上の有事を僕は思い付かなかった。その疑問を投げ掛けようと、一言目を発した瞬間月火に
 「皆まで言わなくてよい。どうせ、火憐ちゃんのことでしょ」
 と、横柄な口調で言った。
 やはり、ファイアーシスターズ、互いのことは大概把握している。
 「瑞鳥君が家族ごと失踪したの。今朝友達の家に出掛けるところの瑞鳥くんと瑞鳥くんのお母さんがゴミを出しているのを見たって言う目撃情報があるんだけど、それから誰も瑞鳥くんの家族の誰一人も見ていないの。お父さんも職場に来ていないみたいなの。でね、玄関の鍵もかかっていなくって、車も残っているし、誰も口を付けていないコーヒーがあったり、荒らされた痕跡がないの。怪しくない?!で、そのことを耳にした火憐ちゃんがせんちゃんの家を飛び出して瑞鳥くんの家族を捜索しているの」
 ということだった。
 ていうか、犯人しか知り得ない情報知りすぎだろ。お前が犯人じゃねえのかと思ったが、第一発見者の瑞鳥くんの母親の友達が触れ回っているとのことだった。多分情報提供を呼び掛けるという建前で非日常的な体験をしたことを自慢しているのだろう。友達が危険に曝されているというのに。
 人間の醜さを見せ付けられているようで気分が悪かった。
 それはそれとして、火憐が飛び出していったのが正午前の出来事らしい。
 長時間走り続けていることもなかなかどうしてすごいことだが、火憐の恋人、思い人が家族ごと蒸発したことの方が一大事である。
 火憐があの目をするのも頷ける。
 だからといって馬鹿の一つ覚えみたいに走り回るという方法はいかがなものかと思うが、まあ、それが火憐の精一杯なのだろう。あの脳細胞から骨細胞に至るまで筋細胞の火憐にすれば、最善手なのだろう。否定はできない。考えるより足を使って探す方が無難かもしれないが、それで見つかるなら既に見つかっているはずなのだ。当たり前だが、警察はに出動していて捜索している。月火いわくニュースにもなっているらしい。確かに軽犯罪すらすぐに伝播するような辺鄙な田舎町である。こんな町をきっと一家蒸発のニュースは矢の如く駆け巡るだろう。
 月火と千石の二人はというと火憐が飛び出して行ったのを追い掛けたらしいのだが、すぐに見失ってしまって捜索をしているそうだ。あの人間兵器に追いつくことなんて死ぬ気で走っても無理だから、しようがないことなんだが。
 それはさておき、一家蒸発はただ事じゃない。だからと言って、僕に出る幕はないだろう。
 しかし、これが怪異の仕業ならば、どうだろう。
 警察は用を成さない。
 しかもそうならば、一刻の猶予もない。
 怪異のすることなど分からない。
 もしかしたら、もう既に取り替えしの付かないことになっているのかもしれない…………。
 いや、しかしまだ怪異の仕業だと決まったわけではない。
 いや、だけど……
 と、頭の中が無数のしかしやだけどで埋め尽くされる手前でずっと僕の影に隠れていた八九寺が僕の顔を覗き込んできた。隠れていたといっても忍宜しく影の中に入るというわけではなくただそのままの意味である。忍が腰に手を当てて威張ったふうに立って八九寺を威圧していたからなんだが……。なんでこいつは僕以外とは仲良く出来ないんだと思う。
 「どうしたのですか?浮かない顔をしていますよ、如月さん」
 「何度も言うが、言わせてもらうが、人を陰暦二月の別称で呼ぶな。僕の名前は阿良々木暦だ」
 「失礼、噛みました」
 「違う、わざとだ……」
 「噛みまみた」
 「わざとじゃないっ!」
 「喧みた」
 「語義未詳の古語じゃねえかっ!」
 と、まあ、恒例の掛け合いをしていると、再び僕の顎に忍のアッパーが炸裂した。心なしか一度目のより痛みが鋭く感じる。
 「阿良々木さんを虐めないでくださいっ!阿良々木さんはただ純粋に私たちのような幼女や少女との戯れに興奮を覚える嗜好なんですから!」
 謂われない罵詈雑言を身に浴びながらも、何故か僕は八九寺に庇われていた。痛め付けるのか、それとも庇うのかどっちかはっきりさせてほしい。
 だけど、まあ、思考の無限回廊に陥いりそうになったところを助けてもらったようなものだしな。たくさんの可能性を考えてみたって意味がない。ただ今できることをするだけだ。
 それを思い知らされて感謝こそすれ、怒ることはできない。
 忍は割り込むように立ちはだかる八九寺が怨敵であるかのように睨み据えていた。
 少女と幼女の睨み合いである。二人とももう少し成長すれば画になるのだろうが、八九寺に関してはそれは望めない。浮遊霊だし。
 「低級の怪異がこの儂に意見するとは、よほど世の中の道理をその身に刻み込まれたいようじゃな」
 いつものように凄惨な笑みを浮かべず、なおも睨みつけている。
 余程機嫌が悪いらしい。
 だが、悪くなるのもしょうがない。睡眠を二度も邪魔された揚句にさんさんと照り付ける太陽の下で見たくもない僕と八九寺の掛け合いを見せつられているのだから。
 「元々は最凶最悪の吸血鬼だったのでしょうが、今ではほぼすべてのスキルを失い、ただの愛嬌溢れる金髪ロリ幼女です。今の貴方にはかつての面影すら残ってないですよ。恐るるに足りません!!」
 ない胸を張って八九寺は言った。
 「うぬは儂の何を知ってるというのじゃっ!」
 少女と幼女の熾烈ないがみ合いに発展してしまった。
 なんかすごく近寄りがたい雰囲気なんだが。これでつかみ合いの乱闘になったときは手がつけられなくなる。八九寺は意外と喧嘩慣れしてるし、忍は単純に怖い。
 そうなる前に手を打つことが急務だ。
 「言い合いをしている場合ではないと思うのですが」
 二人の気迫に押されてなぜか口調が丁寧語になっていた。
 「阿良々木さんは口を挟まないでくださいっ!」
 「そうじゃ。ここはお前様の出る幕ではないわ」
 遜ったのにすごい剣幕で二人に言われた。
 なんで意気投合してんだよ。
 「忍、ミスタードーナッツに連れてってやるからそこは押さえてくれ。それと八九寺、お前は好きなときに好きなだけ遊んでやるから押さえてくれ」
 ため息を一つついて言った。
 これ以上馬鹿をやっている隙はない。
 「ぱないのっ!」
 忍の了承は得られた。既に今朝ミスタードーナツに連れていく約束をしたばかりなのだが、連れていってくれることが嬉しく失念してしまったらしい。
 単純過ぎる。
 「分かりました。阿良々木さんに好きなときに好きなだけ遊んでもらえるのでしたらよしとしましょう――って言うわけがないじゃないですかっ!阿良々木さんしか得してないじゃないですかっ!」
 くっ、八九寺は無理だったか。
 まあ、つかみ合いの乱闘に発展することを回避できたのだから当初の目的は達せられた。
 八九寺がいまだに何かが不満があるようだが、それは無視して、駿河に電話をかけた。その目的は他でもない、火憐の愚行をやめさせるためである。
 「神原駿河だ」
 と、男勝りな名乗りで直江津高校の後輩が電話に出た。
 「神原駿河。前世はターミネーターだ」
 「お前、サイボーグだったなのか!」
 超納得!
 その超男勝りなハードボイルドと運動神経はそこから来てたんだ!
 「ん?その声と突っ込みは阿良々木先輩だな」
 「いい加減アドレス帳機能を使ってはどうなんだっ!」
 これで何度目だ?というか、今日で何度目だ。
 僕の記憶が間違っているのか?
 「阿良々木先輩の要望に応えたいのは山々なのだが、いまだ着信に応じることはできても、電話をかけられないこの不肖なる私には土台無理な命令だ」
 「文明の利器がほぼ用を成していないっ!」
 「ふふっ、敬愛する阿良々木先輩でさえ私がどれほど機械に疎いか推し量ることが出来ないとは。私はこの現代をどう生き抜けばよいと言うのだ」
 「いや、携帯を使いこなせないだけでそこまで失望することはないと思うが……」
 少し持て余している節がある僕はどうすればいいんだ。
 「ああ、有り難過ぎるお言葉だ。こんな携帯さえも満足に扱えない前時代の人間のような私をお許しになるとは。私がどれほど阿良々木先輩の寛大な心に救われるたか分からない」
 ……多分たいして救われていないだろうな。
 「それよりも、神原。頼みたいことがあるんだ」
 このままずっと神原と話していたいという気持ちを押さえて言った。これ以上話すと目的を忘れてしまいそうだ。
 許せ、神原。
 「頼みたいなどと、これはおかしなことを言う。私は生まれたときから、いや前世から阿良々木先輩のエロ奴隷だ。阿良々木先輩はただ、私がどこで脱げばいいのか、指示を出してくれればそれでよい」
 「お前からしたら非常に残念だろうが、一生そんな指示を出すことはねえよっ!」
 しかも前世って、僕の初代エロ奴隷はサイボーグだったのかっ!
 初耳だっ!
 僕にエロ奴隷が前世からいたところから初耳だっ!
 というか、どこにサイボーグをエロ奴隷にする奴がいるんだ!
 本題に移らせろっ!
 「功を急いたか……」
 「急かなくとも結果は同じだっ!」
 「それはさておき、阿良々木先輩。電話の用件は概ね阿良々木先輩の妹に関することではないかと思っているのだが。それと、阿良々木先輩。言って気が付いたが、概ねって大きな胸のことのようで興奮するな」
 「そんなことで興奮できるのは日本中でお前だけだろうな!」
 それはそれとして、僕の周りは聡い人が多くて助かる。朱に交われば赤くなると言うが、僕はその限りでないようだ。
 半ば吸血鬼だしな。
 「ああ、その通りだ。みんな察しが良くて助かる」
 ……困ることもしばしばだが。
 「やはりそうだったか。私の勘も捨てたものではないようだ。ふふっ、ついに阿良々木先輩の妹の処女をもらう日が来たのだな」
 「だからやらねえよっ!」
 てめえの勘も倫理観も捨てたものだよ!!
 「何っ!?違うのかっ!!」
 なんで本気で驚いてんだ!!
 「なんということだ。これほどまでに期待をさせておいて、梯を外すかの如く裏切られるなんて……。どうせ胸を期待で膨らませて喜んでいる私を嘲笑の笑みとともに想像していたのだろう。その姿が目に浮かぶようだ。……だがしかし、そんな境遇に置かれながらもぞくぞくしている自分がいることを否定できない………………はっ!もしや、私は真正なる変態かっ!?」
 「初期設定を忘れるな!!」
 さっきまで先輩の妹の処女をもらうとかどうとか言ってた奴がどうして真正なる変態の称号を回避できるんだ!!
 それといつ僕がお前をそこまで期待させることを言ったんだ!それとも、あの一、二回のやり取りでそこまで期待を膨らませたのなら早合点にもほどがあるだろ!!
 「初期設定などただ人を束縛する目に見えない鎖だ、阿良々木先輩」
 「こういうことを言っていればただの変なことを言う男勝りな女子なんだけどなあ!」
 「私の場合、縄だがな。ふふっ」
 「…………」
 やはり神原はただの変なことを言う男勝りな女子という薄っぺらな器に収まるお方ではないようだ。
 「それはさておき、阿良々木先輩、実はというと火憐ちゃんの愛人が家族揃って行方不明であるというニュースを小股に挟んで、すぐに火憐ちゃんは闇雲な捜索をしているのではないかと薄々感じていたのだ」
 ……『小股に挟む』はスルー。
 この町の伝達速度早いなあ。流石だなあ、田舎力。
 というか、知っていたのかよ。
 何だった、この長い前置きは?
 まあ、楽しいからいいのだが……。
 「そこまで知っているのなら話は早い。というか、よくあいつに彼氏がいることまで知っているな」
 「火憐ちゃんとデートしているときに彼氏のことを聞かされたからな」
 ……『デート』もスルー。
 「そうか。なら、僕の頼み事はおおよそ予想付くと思うが、敢えて、もとい保険で言わせてもらうが、僕のでっかい方の妹を見付けたらどこにも、特に自分の家に寄り道せずに僕の家に連行してくれ」
 「わかった。阿良々木先輩の仰せの通りに」
 どこか声音に残り惜しい感が滲み出ていた。
 「すまないな、神原」
 「いまさら何を言う。阿良々木先輩にはどれほど報いても足りないほどの恩義があるのだ。せめてその一部でも報いさせてくれ」
 それほどたいしたことをやっていないと僕は思っているのだが、神原はどうも僕に恩義があると思う節がある。
 神原に限らず、他の皆にもあるように思える。
 皆はただ一人で助かっただけなのだ。
 それに僕は何一つ一人で解決できたことはないし、本当に解決できたのかも疑わしい。
 だが、その誤りを正すことは徒労に終わるのは知っているし、時間もないので、触れずに
 「わかったよ」
 と一言で答えた。
 「では」
 プツッという音を確認して、すぐに別の携帯電話にかけた。
 「お待たせしました、羽川です。阿良々木くん?どうしたの?」
 羽川の心配そうな声に高ぶる気持ちを押さえて用件だけを伝える。
 意外と僕が四六時中興奮しているというのは事実なのかも知れないな。
 ……それは横に置いて。
 「すまない、羽川。急用が出来たから、もしかしたら羽川のもとには行けない。行けなかったときの埋め合わせは必ず何らかの胸に関する形でする。だから、頼む。見逃してくれ」
 「胸に関する形でする埋め合わせならいらないし」
 少し羽川の語気に怒りを感じないでもなかったが、気のせいだろう。
 「それなら下着に関する形で……」
 「阿良々木くん」
 「はい」
 「怒るよ」
 「……ごめんなさい」
 自分で急いでいると言っておきながらまるで急ごうとしていないではないかとみんなは思っているようだが、大間違いだとだけ言っておく。
 これは、そう、挨拶なのだ。
 日常生活において挨拶は必要最低限の礼儀作法だ。それを欠いては水なんとかくんの家族を助ける助けない以前の問題になり兼ねない。
 だから、これは必要なのだ。
 「ただのサボタージュじゃないってことぐらいわかってるから別にそこまで気にしなくてもいいよ、阿良々木くん」
 羽川は小さくため息をついて言った。
 「ん?」
 「瑞鳥くんの家族が失踪したのをテレビのニュースでついさっき知って、火憐ちゃんのことだからきっと彼を捜して回っていると思ったの。それで、火憐ちゃんの携帯に電話をかけてもでないと思って、阿良々木くんにかけようとしていたところに阿良々木くんから電話がかかってきたって感じ。だけど阿良々木くんに電話をかけたところで私にできることはないよね。もう、神原さんには出動要請は出したのでしょう?」
 羽川とは友達でいるつもりだが、やはり羽川の聡明さにはいつでも感嘆させられる。
 しかし、同時に思い出すことがある。
 異形の羽を持つ少女。
 障り猫。
 その聡明さでことごとく怪異のオーソリティの策略を破り、苦しめた。
 半月前のことだが、今では昔のことのように思える。
 あの日を機に羽川は変わった。多分いい方に変わったのだと思う。
 そうであってほしいだけなのかもしれないけど、一つだけ確信を持って言えることがある。
 少しだけ羽川の身が軽くなったような見えた。
 髪型を変えて、メガネを外し、性格までもが変わった。
 何かから解放されたような感がある。
 「本当にお前は何でも知ってるな」
 どこか感慨を覚えながら言った。
 「何でもは知らないわよ。知っていることだけ」
 例によって例の如くさらっと羽川は昔、というほど昔ではないが、感慨を込めて昔とすることにして、昔と変わらず言った。
 「今日はいいよ、阿良々木くん。それに今回の事件に怪異が関わっていないとは限らないしね」
 「ああ……」
 「それと、阿良々木くんには受験勉強があるんだから今日中に済ませること。わかった?うん、そう。じゃあ、頑張ってね、私は私でできることをするよ。じゃあね」
 通話終了を示す画面を少しの間だけ眺めてから、携帯をポケットに閉まった。
 後は火憐の思い人くん一家をどうやって見つけるかだった。彼等とは面識はない。見つける当てもまるでない。だが、これが怪異絡みなのなら方法はある。
 彼等を探すのではなく、彼等を隠した怪異を探すことで逆から遡ることができるし、怪異を見つける手段もある。
 だが、人為でなくて怪異の仕業ならその目的は何だ。人為ならば、身代金や身柄の解放等等がそちらの知識に疎い僕でも思い付く。この場合警察の領分で僕たちの出る幕はない。
 しかし、怪異となるとそうはいかない。目的が見えない。
 神隠しというものがあるが、この場合打つ手がまるでない。探すにも神隠しは実体も目的もない怪異現象に過ぎない。ただ戻ってくることを祈るしかない。
 生存率もへったくれもない。
 他の場合も似たり寄ったりだろう。
 だからと言って願っているわけにもいかない。今はできることしなければならない。
 「八九寺、お前って他の怪異とか関知できたりするのか?」
 僕が携帯で電話している間、忍といがみ合っていた八九寺に訊いた。
 「できませんよ。私はただ迷っているだけの怪異ですからそのようなスキルは持っていませんよ。精精鬼神化ぐらいですかね」
 「それを言うなら鬼神じゃなくて、鬼人だろ。というか、お前は奇人だな」
 「阿良々木さんにだけは言われたくないですっ!」
 ……僕は奇人キャラなのか?
 僕もいつの間にか斧乃木に負けず劣らず不安定なキャラ付けをされているらしい。
 「なら、忍に頼るしか手はなさそうだな」
 「なんじゃその仕方無しみたいな言い方は。まさか儂がどれほどお前様の役に立ってきたか忘れたわけでないじゃろうな」
 忍は腕を組んでふんと鼻を鳴らした。
 「忘れてなんかいねえよ。だが、できるだけ忍の手を借りずに解決したいんだ。いつまでもお前に頼りっきりだと、もし忍の力を借りられない状況に陥ったときに僕は取り乱して何もできないどころか足を引っ張るという事態が生じ兼ねないだろ?」
 「はっ。それは跡付けの理由じゃろう、どーせの」
 ちっ、さすがに見抜きやがるか。
 「差し詰め儂が、極秘ルートからミスタードーナツが全品半額セールを行っているという情報を入手していることを既に今朝から感づいておるのじゃろう?じゃから儂がそれを条件としてお前様に力を貸すとでも思っておるのじゃろうが、それは大きなミステークじゃ」
 お前様も今度連れていってくれると言ってくれたしのう。
 と、ミスタードーナツに思いをはせているのか、口の端からよだれが垂れていた。鈴の音を聞かせてから餌を与えていると、鈴の音だけでよだれを出すようになるという条件反射の実験の実験体になった犬を彷彿とさせるな。バカっぽい。
 「その情報は今朝の新聞に挟んであったチラシからの情報だろうが」
 「そうかもしれんのう」
 「そうしかねえんだよ。……で、ミスタードーナツを要求しないのなら、何を要求するつまりなんだ」
 悪い予感しかしないが、一応聞いてやるか。主人としての当然の義務だしな。
 「……そう急かすな。ことが済んでから教えてやるわい」
 …………凄く怪しい。
 金欠の僕に何を要求するつもりなんだ?
 なんとかくんの一家が蒸発したことよりもよっぽど忍の要求の方が気になる。
 百倍気になる。
 だが、ここで忍の機嫌を損ねることは最も避けなければならないから、しょうがない。
 「わかった。怪異を探ってくれないか、忍」
 「かかっ。人間ごときに従うのは甚だ不本意じゃが我が主様の命令じゃからのう、仕方ないのう」
 さして機嫌を損ねた風もなく忍は鼻を突き上げるように顔を上げて目をつぶると、鼻をひくつかせた。
 「う………………ん……………………わからんのう」
 しばらくその姿勢のまま、首を回して四方を探るように鼻をひきつかせた末に悩ましそうに忍は呟いた。
 「……どういうことだ、忍?」
 「この姿になってから怪異を探したことも、しようとも思わなかったからのう。確かに怪異の残り香はあるにはあるのじゃが、この事件の犯人が怪異だったとしても、その残り香がこの件の犯人なのかは判断できんのう。なんせこの町が、というよりかは我が主様が沢山の怪異を引き寄せておるからのう。一つずつ追っていってもいいが、日が暮れてしまうぞ」
 つまり、比較対象がないために混ざり合っている様々な残り香の中に別の新たな臭いが混ざっていてもわからないということだろう。忍の要求は一先ずお預けということには少し胸を撫で下ろしたくなったが、しなかった。する気分にはなれなかった。
 「これで振り出しに戻りましたね」
 八九寺の言う通りだった。
 これで完全に八方塞がりだ。
 こういうことなら火憐みたいに走り回った方がよかったのかもしれない。
 「そう、捨て鉢になるな。思い付いたことがある」
 忍が得意げに言った。
 そうならそう言ってくれよ。
 「で、その思い付いたことは何ですか?」
 「儂のしたことが何故こんなことも思い付かなかったのじゃ!」
 「いや、そんな名探偵が助手の何気ない言葉に閃いたみたいに言ってんじゃねえよ。さっさと吐いて楽になれよ」
 「お前様こそ人権を無視したような取り調べをしている刑事みたいじゃぞ。まあ、よい。どの時代でも事件が起きたら真っ先に警察とか探偵がすることがあるじゃろうが」
 「…………捜査?」
 と、言った瞬間、八九寺に足払いされ、地面に倒れ伏す寸前で、忍に顔面を下段蹴りされた。流れるような連携技だった。気付いたときには顔面を蹴られてガードレールに後頭部を強打していたのだから。
 「そんなくだらんボケに付き合っていられるほど儂の気もは長くない」
 「ぐっ…………。これで偏差値が下がっていたらただでは済まさないからな」
 「何儂を偏差値が下がったときの言い訳にしとるんじゃ、たわけ。実況見分じゃろうが」
 「実況見分って……」
 言われれば気付くけれど、僕のような一介の高校生では正当率が半分いくかいかないかだろ。僕の家族に刑事ドラマ見る奴がいないから、自然と知識の入手ルートは忍野メメになるのだが、これも違うように思う。
 忍野がテレビの前で刑事ドラマみている画なんて想像できないし、何かしたくない。
 「ん?こんなことくらいニュースを見ていたら耳にするじゃろう?」
 吸血鬼に『ニュースを見ていたら耳するだろう』って言われた。
 本当に俗に溶け込みすぎだろこの吸血鬼。
 しかし、言われてみれば、実況見分も一理あるかもしれない。それで何か手掛かりを掴めれば、突破口を開くことできるやもしれない。
 例えば怪異の臭いとかだ。
 「そうと決まれば、行くぞ、我が主様よ」
 忍はそう言って自転車のカゴにすっぽりと体を収めた。
 「了解と言いたいところだが、水飲み鳥くんの家の住所なんて知らないしな。…………小妹に聞くしかねえな」
 一日二度も月火に電話を掛けなければならない日が来るとは思いも寄らなんだ。
 ていうか、全然気が進まない。妹のことに関して二度も妹に電話を掛けるとか、妹を心配する過保護な兄と思われそうだ。そんな根も葉も無い言い掛かりを付けられるのは我慢ならない。
 「実際にシスコンじゃろうが、お前様は。妹の初チューを続けざまに奪いよってからに。しかも、頑なに彼氏を紹介させない辺り完全にシスコンじゃろう」
 それと彼氏の名前をわざと間違えて言っておる辺りなんて特にのう。
 と、忍。
 「ぐっ…………」
 僕がシスコンなはずがない。
 なぜなら、僕にはれっきとした血の繋がっていない彼女がいるのだ!
 「だったら僕に彼女がいることをどう説明するつもりだ!」
 「それは追い込まれた犯人の口にする台詞じゃろうが。お前様がシスコンであると言っているようなもんじゃぞ」
 「ま、まさか……そんな!なら、僕は一体なんなんだ!」
 戦場ヶ原と付き合っていて、羽川を尊敬していて、忍はパートナーで、神原が大好きで、八九寺が本命で、シスコンなんだよな。
 「変態じゃな」
 「そんなことわかっていたことですよ、忍さん」
 「じゃな」
 仲の悪かった忍と八九寺が頷き合う。
 「………………」
 確かに今日は散々変態呼ばわりされたもんな、僕。本人の知らぬ間に既成事実になってたんだな。
 これじゃあ神原のことは言えない。今まで散々変態と言ってきたことを謝らなければならないだろう。
 「私は阿良々木さんがどんな人間だろうと、嫌いになりませんから」
 「付き合っている人から驚くべき事実を告白された人の口にする台詞を言われてもな…………」
 フォローになっていない。
 「自分が変態だと自覚していない変態ほど質が悪いものはないですよね」
 「だからと言って罵倒してほしいわけではねえよ!」
 「圧してもダメ。轢いてもダメならどうすればいいんですか!」
 「どうもしなくていいよ!」
 何してんだよ!怖えよ!
 「おい、変態様よ。幼女と戯れとらんで、愛しの妹にさっさと電話を掛けんか」
 「色々と語句や修飾語が酷くなっている!」
 パートナーと思っていないだろ!
 今回は僕がどこまで罵倒に堪えられかを検証する回なのか?
 「わかったよ。さっさと掛ければいいんだろう、掛ければ」
 デートに行く約束をしたこと以外に今朝から何一ついいことがないなあと思いながら月火に電話を掛けた。
 「お兄ちゃん、見つけたの!?」
 一度目のコールが鳴り終わる前に月火の上擦った声が聞こえてきた。
 火憐の彼氏が見つかったのかと訊いているのだろう。
 「いや、まだだけど」
 「だよね。お兄ちゃんはお兄ちゃんだもんね」
 僕の言葉で落ち着きを取り戻した月火が冷めた声で言った。
 急転直下の落ち着き方である。
 「何だよそれ」
 僕が変態だからと言いたいのか?
 お前もそうなのか?そうやって僕を蔑むのか?
 「だけど、見つけてくれようとはしてるんだね、ありがとう」
 「お、おう。というか、そうしていると思っているから第一声がああだったんだろ」
 「いや、お兄ちゃんのことだから火憐ちゃんが失踪したら必死に探すのだろうけど、彼氏となるとほっとくのかなあと思ってたら電話がかかってきたから、もしやと思ったの」
 「馬鹿が。火憐ちゃんが失踪しようが疾走してようが知ったこっちゃねえよ。今回僕が動いているのは気まぐれだ」
 「嘘付き。神原さんからお兄ちゃんの命で火憐ちゃんを探しているから居そうな場所を教えてっていう電話掛かってきたし」
 携帯普通に使えてんじゃん、神原。
 それよか、何してくれてんだよ。無駄に恥をかかされたじゃねえか。
 ちなみに神原と妹共の交友は僕が神原に火憐を紹介したときからで、そのときに馬があったのだろう。よく会って遊んでいる。
 「まあ、それはそれとしてだ。ミミズ鳥くんの家の住所を教えてくれないか?」
 「ミミズ鳥って――」
 と言ったところで無駄だと思ったのか、月火は続きを飲み込んで、
 「瑞鳥くんの家は――」
 住所を教えてくれた。
 意外と近いところにあった。
 「これでいつでもぼこぼにできる、ありがとう」
 と、言い残して返事を待たずに通話を切った。
 「行くぞ」
 振り返ると、シンクロするように八九寺と忍がやれやれといった風に肩を竦めて溜息をついた。 
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