蛭子
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第九章
第九章
「産婆は」
「心配することはない」
主は慌てかけていた彼に対して言った。
「家に一人おるからな」
「そうだったのですか」
「使用人も兼ねて雇っておる。それの心配はするな」
「わかりました」
こうした時大きな家は非常に助かると思った。若しかすると主の家では家の者が子を産むことを考えて常に雇っているのではないかと思った。しかし今はそんなことを考えている時ではなかった。
産婆が来た。見れば彼もよく会うこの家の婆やであった。屋敷では最も古い使用人であるという。
「そうですか、いよいよ」
婆やは話を聞いて小さな声でこう言った。
「あのお嬢様が」
「よいか」
主はそんな彼女に問うた。
「今回も。頼むぞ」
「お任せ下さい」
彼女はそれに応えて頷いた。
「それでは早速」
「うむ」
彼の他には主と奥方、そしてこの婆やが蔵に向かった。四人は一言も話さず蔵へと向かう。外は真夜中で星一つない漆黒の夜であった。
雲も少なかった。その黒い夜には月だけが浮かんでいた。やけに大きな月であった。その日は三日月であった。
ただ大きいだけではなかった。その月は何時にも増して異様な月であった。
「あの時と同じか」
主はその月を見上げてこう呟いた。
「嫌なものじゃ」
「あの時といいますと」
彼はその言葉がふと気になって主に尋ねた。
「知りたいか」
主はそんな彼にこう声を返してきた。
「言わずともわかると思うが」
この言葉だけで充分であった。その日に何が起こったのか彼もよくわかった。それ以上は聞こうともしなかった。全てがよくわかった。
赤い月であった。不気味なまでに赤い月だった。それはまるで月に血が滲み込んだ様な色であった。彼はその月をもう一度見上げて何が起こったのかあらためてわかった。
(そうだったのか)
彼は月を見上げながら心の中で呟いた。
(こんな時だったのか)
何も言わずとも全てを物語る月であった。彼はそれを見ながら蔵の中へと進んだ。そしてキヨのもとへと向かった。
「来て下さいましたのね」
「はい」
キヨはまず彼に声をかけた。布団に寝かされている。だが何故かいつもとは違っていた。
「これは」
「どうかしたのか」
主は声をあげた婆やに顔を向けて問うた。
「いえ、お嬢様ですが」
彼女はその問いに戸惑いながらも答えた。
「御身体が。かなりお疲れのようですが」
「むう」
見ればその通りであった。キヨの身体はやつれていた。赤子に吸い取られてしまったようであった。
「大丈夫か」
「正直に申し上げまして危ないです」
婆やは言った。
「赤子様も。どうなるか」
「むう」
「いえ、構いません」
だがそのキヨが言った。
「産めるのなら。構わないです」
「いいのね。キヨ」
奥方も彼女に尋ねた。
「貴女がどうなっても」
「はい」
「そして。これは言いにくいのだけれど」
「それはないです」
何が言いたいのかはよくわかっていた。だがキヨはそんな母親に対してにこりと笑ってこう返した。
「それは。絶対に」
「そう言えるのね」
「はい。命を大事にする明るい名前が相応しい子が生まれます」
「そうなの」
「それは私が考えることになっています」
ここで彼がこう言ってきた。
「貴方が」
「はい。男の子の時の名前も女の子の時の名前も。もう考えています」
「そうだったの」
「ですからそれは御心配なく。その名前に相応しい子が生まれますから」
「だったら安心していいわね」
「はい」
彼は頷いた。これは迷信と言えば迷信だが奥方はその言葉に賭ける気になった。名前がその者を作る、古い信仰が奥方の心の中にもあったからだ。
「では宜しいのですね」
婆やはまた尋ねた。
「お嬢様はこう仰っています。後は旦那様と奥様ですが」
「わしはいい」
主はよしと言った。
「これが産みたいというのならな。後のことは全て任せよ」
「御父様」
キヨはその言葉を聞いて目をうるまさせた。
「よいな」
「はい」
「わかりました。では奥様は」
婆やはそれを聞いた後で今度は奥方に顔を向けてきた。
「如何でしょうか」
「私もいいです」
奥方も納得してくれた。
「名前が赤子を守ってくれますから。そうですね」
「はい」
彼は奥方の問いに対して頷いてみせた。
「必ずや」
「わかりました。それでは」
それで全てであった。婆やは頷いて産婆に取り掛かった。桶と湯まで持って来られそれから全てははじまった。長い時間が経った。だがそれは若しかすると一瞬のことであるかも知れなかった。
彼は待った。キヨが産む間待つしかできなかった。できることと言えば彼女の顔をみてじっと見守ることだけであった。
「お嬢様」
「大丈夫です」
キヨはにこりと笑って彼にこう応えた。
「きっと。産みますから」
「はい」
この時彼女は産むことだけを考えていた。自分のことはどうでもよかった。命を捨ててでも赤子を産むつもりだったのだ。それは彼にもよくわかった。だがもう何も言うことはできなかった。しかし彼女を見守ることだけでもしようとそこにいた。それが彼女の為だとわかっていたからであった。
また時間が流れた。長い長い時間であった。暗い蔵の中で時間だけが過ぎていく。動いているのは婆やだけであった。
「もうすぐです」
彼女は言った。
「今頭が出てきました」
ようやくであった。婆や以外の三人は思わず息を飲んだ。
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