蛭子
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第十章
第十章
だがそれからが問題であった。果たして無事産まれるか、そして。そこから先はもう言うまでもないことであった。
それからまた時間が経った。頭から顔が出た。そして。
「腕は」
「腕は・・・・・・どうじゃ」
主は不安を必死に押し殺しながら婆やに問うた。
「どうなのじゃ」
「あります」
婆やは一言で答えた。
「ちゃんと。それも両方」
「まことじゃな」
「はい」
頷いたその顔に嘘はなかった。
「本当のことです」
「そうか」
主はそれを聞いて大きく安堵の息を吐き出した。
「それはよいことじゃ」
「けれどまだ」
しかし奥方はまだ安心してはいなかった。
「安心はできませんよ」
「そうじゃな」
主はそれを聞いて沈痛な声に戻った。
「まだ足が」
「うむ」
それはこれからわかることであった。しかし両手があったということはそれだけでかなり安心できるものであったのは事実であった。主と奥方はそれに内心大いに喜んでいた。
彼はその間もじっとキヨを見詰めていた。キヨは彼に顔を向けたままお産を続ける。辛く、苦しそうな顔であったがそれでも嬉しそうな顔であった。
「手が・・・・・・あったのですね」
「はい」
彼は頷いた。
「それも両方」
「ええ。ちゃんとあります」
「手のない私が手のある子供を産めた」
それがどれだけ嬉しいことか。キヨ自身が最もよく知っていることであった。
「もうそれだけで」
「いえ、まだです」
しかし彼はこう言って彼女を落ち着かせると共に励ました。
「あとは足が」
「足ですか」
「大丈夫です。きっとありますから」
「そうでしょうか」
「そうです」
彼は優しげな笑みを浮かべてこう言葉を送った。
「ですから。御安心下さい」
「わかりました」
こうしてお産は続けられた。胴が完全に出た。そして遂に問題の部分にかかってきた。
「そろそろじゃが」
主は息を飲んだ後でこう呟いた。
「どうじゃ」
「お待ち下さい」
婆やはそう返した。
「もうすぐわかりますから」
「じゃが」
「旦那様」
焦ろうとするところで奥方が声をかけた。
「ここは」
「そうじゃったな。済まん」
「はい」
主はその一言で落ち着きを取り戻した。そして再び黙って腕を組んだまま娘が子を産むのを見守り続けた。
それは彼も同じである。じっとキヨを見詰めたままであった。そして遂に婆やが言った。
「お喜び下さい」
「無事じゃったのか」
それを聞いた主の最初の言葉であった。
「あったのじゃな」
「はい」
婆やは明るい声でこう返した。
「ちゃんと。両方ございます」
「指はどうなのじゃ」
「十本あります。腕と同じです」
「そうか。まことじゃな」
「はい。宜しければ御覧になって下さいませ」
そう言って赤子を産湯で洗った後で抱えて主に見せた。
「この通りでございます」
「おお」
それを見た主の顔が喜びに包まれた。今まで厳しい顔を崩さなかった主が見せるはじめての笑顔であった。
「まことじゃ。まことに手も足もあるわ」
彼は我がことのように喜んでいた。
「本当のことじゃな」
「はい」
「手も足もあるのじゃ。キヨよ、でかした」
「有り難うございます」
キヨは疲れきったものでこそあるが微笑みを浮かべて父に応えた。
「私が・・・・・・ちゃんと赤子を産むことができたのですね」
「その通りじゃ」
主はまた言った。
「無事な。おなごじゃったぞ」
「おなごですか」
「御前にそっくりの顔の娘じゃ。ようやった」
「はい」
「無事産まれた。後はわし等に任せるがいい」
「はい。お願いします」
この身体では子を育てることはできない。それはわかっていた。だから彼女は両親に自分の子供を任せることにしたのである。そして彼にも。
「お願いしますね」
「お任せ下さい」
彼は優しげな笑みのまま応えた。
「無事。育てますから」
「お願いします。そして」
彼女はまた問うた。
「名は。何にしましょうか」
「あかねというのはどうでしょうか」
「あかね」
「はい。日の光を見て育つ娘ですから」
彼は言った。
「そして明るく育つように。どうでしょうか」
「いい名ですね」
キヨはその名を聞いて微笑みを浮かべた。
「とても。それを聞いていると私まで明るくなってきました」
「左様ですか」
「ではあかねのこと。宜しく頼みましたよ」
「はい」
「私達の娘を」
「私達の娘を」
こうして今一人の娘が産まれたのであった。手足のない日の光を知らぬ蛭子が産んだ娘は日の下に育つ娘であった。これは本当にあった話であった。
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